リアリズムは単純バカの詩的表現みたいになっちまった、誰もが一番わかりやすい手駒だけを持ってカタがつくまで乱発してる、それを真面目さだなんて果たして、気付いていないのか開き直っているのかいったいどっちだろうね?剛速球はコントロールを失いがちさ、隣のレーンでストライクを取ってるような奴らが多過ぎる、真実は足元に落ちていたりしない、徹底的に吟味したってそうそう理解出来たりしない、何年も経って初めて朧げに掴めることだってある、感覚で理解していても脳味噌はそうじゃないことだって頻繁にある、まあ、そういう時はなんとなく次に行こうっていう気になれるものだけどね、常にそういうアンテナを張っていればね…まるで早押しクイズみたいだなと思うことがある、先にボタンを押して正解を出した奴の勝ちってなもんさ、ビーチフラッグと言ってもいい、先に取ったからなんだって言うんだい?もの凄く幼稚で在り得ないほど薄い、そんな人生をどれだけ生きたってどんなものにもなれないさ、手押し相撲が強いとかキャベツを千切りにするのが早いとか、特技以上のものにはなりはしないぜ、俺は基本的にすべての事柄は熟考されるべきだと考えているよ、考えれば考えるほど答えへのルートは増えていく、枝分かれしていくんだ、そしてそれには上限なんか無い、果てしなく増えていくんだ、だけどそう、これは頭でっかちなやつとか、見た感じだけで決めちまう連中には絶対理解出来ない感覚なんだけど、身体が感じている状況、空気とか質感、そんなもので判断していけるものなんだな、でもそれは金庫破りみたいなもんで、きちんと集中していないと些細な違いを見逃してしまう、僅かに音が高いとか低いとか、あるところだけ重く感じるとか軽く感じるとかね、それは日常の感覚では絶対に気付けないようなものだ、意識してあらゆる感覚がそこにあるなにかを知ろうとしていない限りはね―しかも、そいつはのめり込んでしまうと気付けはしない、肩の力を抜いて、出来るだけ小さな尺度で見つめ続けないといけない、これにはコツなんてない、そういう状況が存在することを知り、何度も繰り返して掴み方を覚えていくのさ、俺の言ってることわかるよね?刀鍛冶に関する論文を読んだからって、刀を打てるようにはならないってことさ、五感のすべてが、あるいは第六感も含めてなのかもしれないけれど、とにかくすべてがそれがどういうものなのか理解していないと、場の真実というものを掴むことは出来ないということなんだ、テキストについていくら語ることが出来たとしても、言うだけのものはあるというテキストを差し出せないのなら黙っていた方が賢明ってもんだろう…つまりこういうことなんだ、まるまると肥えた男が筋トレの知識を延々喋り続けていたとして、君はそれを信用出来るか?―これはどんなジャンルについても言えることなんだけど、第三者の語る権利なんて俺は重要視しない、他の視点という意味以上のものはそこには存在しない、階段で上ってきたやつに、エスカレーターで上ってきたやつが「遅いね」と言う、批評なんてどこの国でもそんなようなものだろう、履きもしない靴を買い込み続けるコレクターに歩くことの意味なんてわかるわけもない、わかるかい、俺は本質の話をしているんだ、筋トレを語るなら鍛えてみるべきだし、靴の価値を語りたいなら履いて歩いてみるべきだ、こんなの当り前のことだぜ、口先だけでどうこう出来るような話じゃない、意見は証明されなければならない、自分が言っているのはこういうことだというものを差し出せないのなら無意味だ、言葉を並べるだけならコンピューターにだって出来る、個が個である理由―アイデンティティなんて陳腐なことは言いたくはないけれど、誰かが誰かである理由、それが行動や選択であるべきだ、本能と理性のバランスが取れていればどんな道でもきちんと歩くことが出来る、格好をつけようとするから道を踏み誤るのさ、解答をいくつ持っているかじゃない、いくつの地点を通過して、どれだけのものをそこから拾ってきたのか、そしてそのうちのどれだけが自分の血肉となったのか、拾わなかったものは本当に要らないものだったのか、それを拾ったと仮定して、それは自分のどんな部分に影響を与えていたのか、精神と肉体は得たものを常に分解しながら全身に循環させる、それによって自分自身が得も言われぬ昂ぶりを得ることが出来たなら間違って無いってことさ、神父な結論だからって、シンプルに遂行出来るとは限らない、むしろそんなことはほとんど無い、身体を作るのはたったひとつの食物だけではないだろう、この世にごまんとあるいくつもの食いものがたったひとつの身体を作っている、目に見えるものから目に見えないものを叩き出すんだ、そいつを捕獲して細かく検分していけば次のポイントはぼんやりと輝いて見えるだろう、適度な真実に惑わされるな、届かない真実だけが本命だ、すぐに出る答えはドブに捨てておけ、獣のようにあらゆるものに食らいついて飲み込んいけば、いつかそれまで知っていたはずの言葉が違う意味を持っていることに気付けるだろうさ。
タマムシの羽みたいな色の朝焼けが始まって、一晩中歩き続けた俺は高速の高架の下で眠ろうとしている、寒さがどうだとか暑さがどうだとか、虫に食われるかもしれないとかもうそんなことどうでもいいくらい眠くて、人気の無いここなら数時間くらい一切の邪魔も入らずに眠ることが出来るだろう、バイパスが出来るまではこのあたりの唯一の道だったが、今となってはもの好きぐらいしか通らないようなところだ、それ以前にこのあたりの人口は減り続けていて、タフなバイクに乗ってオフロード手前の旧道を通ろうなんて考えるような血気盛んな年代の人間は数えるほどしか居ない、俺はあっという間に眠りに落ちた、夢を見るのが容易い時代ではないけれど、カウント3を待つことも無く俺はそれを手に入れたのだ、とはいえ、そこに至るまでに一晩の不眠を潜り抜けているわけだから、もしかしたらそれは早過ぎるのではなくて遅過ぎるのかもしれない、でも一日の眠りの定義など誰に決めることも出来ない、近頃はいろいろなことが多様性という言葉で片付けられるみたいだし―二時間は眠っただろうか、夢の中で何か大事なことを思い出した気がして反射的に目を覚ました、折角思い出した出来事は捕まえる前にまた手を擦り抜けてどこかへ行ってしまった、遥か昔のことなのは間違いなかった、次に思い出すのはいつになるんだろう、あまり記憶の水面に浮上してこない事柄であることは間違いなかった、それだけは確かだった、でももうもしかしたら死の直前まで思い出すことはないかもしれない、そう思うと残念な気がした、もう眠る気にはならなかった、思い出せないならそれでいい、それは脳味噌の中にないだけだ、身体のどこかでその記憶はビタミン剤のように全身にその感触を循環させているだろう、血管を引っ張り出してどこかで切断すれば血液と一緒に細かいディティールも吹き出すかもしれない、って、それじゃ結局死の直前じゃないか、俺は一晩かけて歩いてきた道を逆に辿り始める、時々まるで違うルートを選んで家に帰りつくときもあるけれど、今日はそのまま逆に辿ろうと思った、特別口にするような理由も無い、しいて言うなら気分に従うのが一番いいと思ったってことくらい、生命力を色濃くした植物の匂いがした、車の通りはまだ少なく、空気は澄んでいた、街中にだってそういう時間はあるのだ、一晩中とは言わないが、あまり自分が経験したことの無い時間の中を歩いてみるべきだ、そういう経験をすると、自然に目を凝らしたり耳を澄ましたりすることが出来るようになる、眠れなかった記憶を帳消しにするみたいに俺はこれまでの道を逆に歩き始める、そこに意味はあるのかって?そんなことどうでもいい、大事なのは家に帰ることさ、家か、と俺は歩きながら考える、短い時間とはいえ、熟睡したせいか頭は冴えている、後でとんでもないダメージが来るかもしれないが、とりあえず今は冴えている、家、不思議なものだ、どこかに住んでいたみたいでもあるし、どこにも住んだことが無いようにも思える、いままでいくつか住処を変えた、ほとんどの部屋のことはもう忘れかけている、映像としては残っているけれど、まるでテレビか映画で見た映像のように現実感を欠いている、そんなところに自分が住んでいたなんて嘘みたいだ、だけど誰しも帰る家は必要だ、今はウクレレを弾いているパンク・シンガーだってそう歌っていたことがある、ホーム・ボーイ、エブリバディ・ニーズ・ザ・ホーム、アタックの強い曲だ、単純に胸が躍る、そんな簡単な曲で良いこともあるし、複雑に絡み合ったプログレッシブなものが欲しい時もある、嗜好はひとつじゃない、本来型にはめられないものを型にはめることでそれを現実だと言う人間が居る、そんなことは馬鹿げている、自分の欲しいところにだけフォーカスを定めて騒いでいる、くだらないよ、相手にする価値はない、家に帰る、果たしてそれは俺の帰るべき場所なのだろうか、俺は本当は家など求めていないのではないだろうか、いや、浮浪者になりたいわけじゃない、ただ、その時々の住処を家と呼ぶにはあまりにも情報が足りな過ぎる、賃貸物件というのはビジネスホテルの部屋よりは自由だが、生まれ育った場所ほどには安心させてはくれない、それが安普請だろうが高設備なマンションの一室だろうが同じことだ、それは生活の為に便宜的に与えられたスペースに過ぎない、初めから定住が約束されていない、もちろん、条件次第で同じ場所に住み続けることは可能かもしれない、それでもきっと、この印象は揺らぐことはないだろう、といって実家に住めるなら住んでみれば、その思いは消えるのかと言えばきっとそうではないだろう、それはあまりにも受動的に過ぎるのだ、自分の意思が無くても成り立つもの、とでも言えばいいのか、家か、と俺は口に出して呟いてみる、夜通し歩きとおした頭で考えて納得のいく答えを導き出せるような問題ではなかった、そう、もしかしたら、こんなくだらないことを考えながら歩いているこの道の上が、まかり間違えば俺の家として成り立ってしまうかもしれないのだ。
俺がキッチンで魚の鱗を飛ばしているころ、君は花壇の雑草取りに夢中になっていた、キッチンの窓は花壇の正面にあるので、俺は君のそんな実直なまでの姿勢を存分に眺めることが出来た、草花への愛情、美しく咲くものだけが生きることを許されるテリトリー、俺は花壇という存在を恐ろしいとさえ思った、とはいえこの俺だって魚を捌いている途中なのだ、誰のせいでもない、そんな歌があったな、だけど時々、本当にそうかななんて考えたりもする、すでに定められてることについて考えを放棄するのは愚か者がすることだ、もちろん、そんな疑問符に得心のいく答えが得られたところで世界が変わるわけでもない、あらゆるものを形骸化させながら荒地を走る観光列車、みんなもう新生児の存在すら信用してはいないだろう、この窓がそんな窓じゃなくてよかった、花壇の世話を続ける君が見える窓でよかった、俺はひとつ息をついて魚に集中する、実際のところ捌くのはそんなに上手くない、昔料理の仕事をしていたから何度かやったことがあるという程度だ、料理の仕事といっても出来合いを合わせて温めて味付けをするくらいのことだ、もちろん、それくらいのことでも人によって出来の良し悪しというものはもちろんあるのだけれど、俺はたまたまそういうことを上手にすることが出来た、でもそれ以上のことを覚える気が無かったからあまり特別偉くなったりすることはなかった、当然だ、金の為に時間をドブに捨てているんだ、仕事なんて幾つになってもそれ以上の価値を感じることはなかった、つまりそれは俺が正常だってことさ、いや、こんな言い方はやめようか、既存の価値観をカサに来て偉そうなツラをする風潮には何の興味もなかったってこと、プライドは自分自身の闘いの中で掴まなければ意味が無い、自分が欲望や思考の具現化によって視認してきたものだけが真実であり、俺のプライドなのだ、なんていうとそんなものには何の意味も無いとか、ひとりよがりなだけだとか、いろいろなことを言うやつが居る、そう、あいつらはそうした価値をコミュニティの中でしか見つけることが出来ないのさ、なんてことを考えているうちに俺は魚をなんとか捌くことが出来た、修学旅行で買ったペナントくらいには綺麗に出来ている、ああいう土産物ってひととき飾ったあとでしまい込んだら絶対二度と出て来ないんだよな、興味が尽きたところがお終いってことか、幸い俺は人生に興味を感じ続けている、自分のことを語るのに他人を必要としない、そしてそれはまだまだ深化し続けている、十年前に書いたものなんか恥ずかしくて読めないことがある、昔書いてたフレーズは今では必要無い、もっと洒落てるものを手に入れたからね、ここにあるものはいつだって新しい俺さ、気付けば君は花壇から姿を消していた、手入れは一段落したのかもしれない、今日は少し暖かいからきっと、シャワーを浴びてからこちらに来るだろう、そして俺が捌いた魚をどんな風に仕上げようかと考えながらこちらにやって来るだろう、俺は小さな皿に魚を並べて、ラップをかけて冷蔵庫に入れておいた、彼女は俺が勤めていたレストランよりも数ランクは上の店でウェイトレスをしていた、どういうわけか俺の造る料理を気に入って通っているうちに、というわけだ、店の前で偶然会って、あなたの作るお料理とても好きです、と言われた、俺はいやあ、出来合いの具だのソースだのに少し味付けして出してるだけですよ、と謙遜した、彼女は首を横に振って、そういうことじゃないんです、と、政治家の演説みたいに背筋を伸ばした、私のお店のコックさんたちはきちんと料理の学校で勉強してきた人たちばかりで、それはそれは良く出来たものを作ります、もちろんお客さんも満足して帰って行きます、でもそれだけなんです、毎日毎日品のいい人たちに品のいい料理を出しているだけです、私も何度か頂いたことがあるけれど、美味しさっていうのはグラム数やボイルの時間や火加減だけで決まるものではないと思うんです、あなたはお料理の勉強とかされましたか?されてないんですね、でもあなたのお料理にはなんていうか、気迫のようなものがあるわ、その上味も安定してるし、固過ぎるとか柔らか過ぎるとかいうことも全然ない、それは知識とかじゃないんです、人柄みたいなものなんです、と、彼女はまくしたてた、もの凄い情熱だな、と俺は返した、きっと凄く食べるのが好きな人なんですね、彼女は大きく頷き、はいそうです、だから、技術論で作る人は嫌いなんです、なるほど、自分では作るの?のめり込むのが怖くてあまり作りません、そりゃあ、いつか結婚とかするようなことがあれば、自分で作ることになるだろうなとは思いますけど…キッチンのテーブルで水を飲んでいるといつの間にか彼女が後ろに居た、案の定、シャワーを浴びて来たようだ、「どうしたの?考え事してたの?」ああ、と俺は答えた、「昔のこと思い出してた」
長ったらしい名前の紅茶の缶が窓のそばで錆びてた、それがいつからそこに在ったものなのかなんてまるで思い出せなかった、ほとんど何も知らないままで過ごしていたのだ、自分が欲しい明日のことばかり考えて―今夜、地球は冷たかった、ずっと昔からそうしてぼくの身体を冷やし続けているような気がした、いつだって気がするだけだ、ほとんど何も知らないままで過ごしていた、彼女が幸せを演出しながら胸の中に何をしまっていたのか、とか、紅茶の缶は時の経過を赤子のように抱いて僕を断罪していた、気付くことが無意味だと思えるくらいそれは過去の中だった、そして僕はそのほとんどを何もしないまま忘れようとしていたのだ、デジタル時計が示す時計には何かしらの意味があった、確か僕はその日誰かと約束をしていたのだ、僕は短いメールでその約束を断った、ごめんよ、体調が芳しくなくて、約束は持ち越しにしてくれないかな、返事は、わかった、お大事に、だった、そりゃそうだ、僕だってそう言う、さて、僕は紅茶の缶を手に取って食卓の椅子に座った、缶を目の前に置いて、黙って見つめた、今日だけはそういう、後悔の真似事みたいなことをしてみてもいいだろう、どうせ人生は自己満足の連続だ、大事なのはその制度を上げていけるのかどうか、口先だけでなんとかしようなんてしないこと、確かな意味をそこに見つけること、それから、どれだけ時間がかかってもある程度納得出来る結論を見つけること、結論が出たからとてそこでお終いにしないこと、結論はいつでも変えられると認識しておくこと―そういう工程を理解しておけばどんなことだって少しはマシになる、僕は自分の人生の中でならそれをある程度上手く実行することが出来た、でもどうしてだろう、彼女とのことに関してはそれはまるで上手くいかなかった、単純に答えを出すとすれば、彼女が僕ではなく、僕は彼女ではないということなのだろう、だけどそんなところで終わらせるのは、近頃のヒットチャートに並ぶラブソングくらい下らない、時間は作った、おそらくは心のどこかで避け続けていたこの問題を、今日きちんと終わらせるべきだと思った、原因の一つは簡単に思い浮かべることが出来る、僕は人づきあいが恐ろしく下手なのだ、でも彼女となら少しマシに出来ると思った、だから彼女をこの家に招き入れた、それは思ったよりも上手くいかなかった、それはきっと僕のせいなのだろうけれど、僕らは常にバランスボールに腰かけているみたいにグラグラしていた、でもそのうち落ち着くところが見つかるだろう、時間が沢山過ぎて行けば、二人で過ごすやりかたというものが自然に出来上がって来るだろう、僕はそう思っていた、自分でもどうしてなのかよくわからないのだけれど、僕の中でその問題はそのまま片付いてしまった、いまこうして思い返せば、彼女は僕のそうした無関心―あえてそう表現するけれど―のような態度を何度も潜り抜けてこようとしていた、僕はにっこりと笑いながら心のどこかで、そんなに頑張らなくてもいいのにな、なんて考えていた、そういう気持ちって多分伝わるのだ、彼女は磨り減っていきながら、それを見せまいという努力を怠らなかった、だから愚かな僕はこれでいいのだとずっと考えていたのだ、それは何か月も続いた、おそらく僕がもっとやり方を考えていれば、そんなに続くことはなかったのだろう、けれど、もしもう一度同じ流れがあったとしても、結局のところ僕はそんな風にしか動くことが出来ないだろう、持って生まれた性分というのはどうしようもないものだ、ある冬の夜、彼女は夕食のあとで静かに破裂した、お茶を飲んでふうとひとつ息をついて、突然で申し訳ないけれどもう出て行くわ、と言って、すでにまとめてあった荷物を持ってそれ以上何を言うことも無く静かに出て行った、僕はあまりに突然過ぎて何を言うことも出来ず、事の顛末をただただ眺めていた、そして時間が経つにつれてあまりにもあっさりとそれを受け入れてしまった、怒りも悲しみも苦しみもなかった、僕はどこか壊れているのかもしれない、その時初めてそう思った、でもすぐに忘れてしまった、その故障を直したところで、もう何の役に立つこともないのだ―不意にドアベルが鳴った、その鳴らし方には懐かしい癖があった、でもそれをどこで聞いたのか思い出すことが出来なかった、でもドアを開けなければいけない気がして、僕はドアを開けた、ドアの外に立っていたのは彼女だった、「上がってもいいかしら」と、君は作法的な微笑を浮かべながらそう言った、「もちろん」と僕は答えて彼女が通れるように少し身体を寄せた、彼女は手ぶらで、寒くないのだろうかと思うほど薄着だった、食卓へ真直ぐ歩いて、僕がさっき座っていた椅子の向かい側に座った、僕もさっきまで座っていた椅子に戻った、「賭けをしたの」彼女は紅茶の缶を手に取って、懐かしく、愛おしそうに見つめながらそう言った、「あなたがこれに気付くことが出来たら一度訪ねてみようって」僕はなんと言っていいかわからず、ただ頷いた、「一日目よ」「―何が?」「私がこれをあそこに置いたのは」僕はきっと驚いた顔をしていたのだろう、彼女は吹き出した、「ねえ、とりあえず私、今日から戻って来てもいいかしら?」もちろん、と僕は言った、彼女はにっこりと笑って、じゃあ荷物まとめて来るわね、と言って出て行った、僕は紅茶の缶を手に取り、初めて見るもののように見つめた、おそらくはこれまでの続きになるだろう、でもそれはきっと、どこかこれまでとは違ったものになるのだろう、という気がした、確かなことなんて何もないけれど、どうせ人生は自己満足なのだ、持って生まれた性分というのはどうしようもないけれど、でも、少し注意深く誰かを見つめることくらいなら僕にだって出来る筈だ。
夜が狂うから眠りはぶつ切りにされる、幾つもの夢が混ざり合って、筋書が存在しない奇妙な色で塗り潰される、なぜこんなに身体が強張っているのか、眠ってはいけない理由がどこにあるのか、俺は理解することが出来ない、端切りされた肉みたいに夜の中に置き去りになって、薄暗い部屋の中で目を見開いているだけだ、すべてを言葉に変えられないことは知っている、だからこそ書き続けている、胸の中で渦巻くものは歳を取るほどに勢いを増す、それは俺が自分を疎かにしないからさ、研ぎ続けていれば刃物は折れるまで使える、すでに錆びてしまったやつにはこんな話をしても伝わりはしないけどね、寝返りを打っても無駄なことはわかっている、それでも寝返りを打ってしまうのは、時間があまりにも手持無沙汰に過ぎるからだ、時計が一個も置かれていないこの部屋では猶更だ、リズム、どんな時間にだってリズムは必要だ、それがどんな時間であろうと、思考を望む限りそれはキープされなければならない、意味などあろうとなかろうと、いまどんなリズムが体内で刻まれているのか、それを正しく理解しておかないと思考はどこかで妨げられてしまう、リズムと噛み合わなくなると上手く言葉が生まれなくなる、会話だってそうだ、呼吸のリズムや相手のリズムに上手く絡むように喋らなければあっという間に途切れてしまうだろう、そもそも人間の体内には常にリズムが存在している、鼓動と呼吸、これだけはどこの誰だって完璧なオリジナリティーとして所持している、そしてそれを自覚するものたちが新しくページを埋めていくのだ、肉体と精神、どちらが欠けてもいけない、またその両極の間にあるなにが失われてもいけない、持って生まれたものをそのまま焼き付けなければいけない、もしも人生に理由や動機なんてものが必要であるとするならば、そうして生まれたものがまさしくそれを語るだろう、子供の頃、いつの間にかうつ伏せに寝ていて、顔が枕の中に埋もれてまったく息が出来なくなって、もう駄目だと思った瞬間に目が覚めて頭を起こしたことが何度もあった、それが誰にでもあることなのか、それとも俺だけに起こったことなのかなんて、確かめたことがないからわからないけれど、思い出すたびに眠るのが怖くなる、いつか寝床で死ぬのかもしれない、なんて考えたこともあった、まだ小学校に入ったばかりくらいのことだよ、そう、こんな夜には時々思い出す、寝返りを打った瞬間なんかに、人間なんていつまで生きていられるのかわからない、家族がばらばらになった今となっては本当にそう思う、兄弟の中で社会にとどまっているのは俺くらいなんだぜ、まあ、それにしたって底辺に滑り込んでいるだけだけどね、でもそれがなんだって言うんだ?社会的価値なんてものをカサに着るようなやつは、所詮決まった枠組みの中でしか生きられないのさ、人生なんて自分がやるべきことをやっていればそれでいいんだ、大切なのは手応えさ、外野の言うことに耳を貸しても得することなんてひとつも無いよ、自分の道を歩けるのは自分だけだ、外野に回るのはもう自分で歩けなくなった連中がすることさ、眠れない真夜中で概念的な心拍が誤作動を起こす、ほんの一瞬、運命は強制終了されるのかと狼狽えるも、それは長くは続くことはない、きっとはぐれた時間の中で本当にはないものを見たのだ、俺は眠るという行為を諦める、願望や感情を放棄して、人形のように仰向けになってじっとしている、天井の照明の傘の中で数匹の虫が乾涸びている、この前取り外して中を捨てたのはいつだったか、今からそれをしてやろうかと一瞬考えたが寝床を汚したくないので諦めた、どこかの日中に気が向いたら実行するだろう、今住んでいる部屋の明かりはリモコンで操作出来る、何段階かの明るさも調整出来る、でもそんな操作をすることは滅多にない、部屋の明かりなんか点いているか消えているかだけでいい、それだけでいいはずのものにいろいろと余計なものがくっついている、多くの人間が本質だけで物事を考えることを止めてしまった、いまや形骸化してしまったルールの中で、滅びた国を守る防衛機能のように愚直に任務を遂行するばかりだ、まるで社会はまだ真実を手にしているというようにしたり顔で旧態依然のシステムを転がしている、それはまるで廃墟に置き去りにされた人形が見ている夢に似ている、ああ、意識が朦朧としてきた、もう眠ってしまっているのだろうか、それともこれはさっきまでの思考の続きなのか、俺の意思ではない寝返りが打たれた、ああ、すでにもう身体は自由にはならない、まったくひねくれている、もう眠らなくてもいいと思った途端にこれだ、でもそれについていったいなにを憎めばいいのかわからなかった、俺はため息をつく、まあ、しゃあない、どうせもうなし崩しに引き摺り込まれるだけなのだ、次に目覚める時にはこんな夜があったことなどすっかり忘れてしまっているだろう、もちろんそれによってなにか支障があるなんてことはまるでなく、日常は昨日と同じように展開されるに違いない、そしていつかまたそんな夜はやって来るだろう、枕に顔を埋め、呼吸を奪われて苦しんでいたあの頃の夜のように。