goo blog サービス終了のお知らせ 

水の行方

2023-12-23 13:29:58 | 小説

 

 

その日、二ヶ月に渡る療養の挙句に会社に見捨てられた私は、まっすぐ家に帰る気にもならず、電車にも乗らずに当てもなくぶらぶらと歩いていた。田舎の高校を卒業して六年間、特別な野心も意欲も無いまま働き続けた仕事だったけれど、なんとなくそのままずっと続いていくんだろうなと考えていた。まさか、よくわからない不調のせいで仕事を失うことになるなんて考えもしなかった。内科は逆流性食道炎かもしれないと言い、精神科は自律神経かもしれないと言った。婦人科では気になるならどこか大きなところで診てもらった方がいいかもしれない、と曖昧な調子だった。本格的に調べてもらおうか、そう考えていた矢先の会社からの連絡だった。あなたは長く勤めてくれたしウチとしても胸の痛む結論なのだが、無理を強いることも出来ないし今以上仕事が溜まりがちになるならすぐに働いてくれる人が欲しいんだ、御尤もな理由だった。仕事のことは私も気になっていたし、退職金も少し多めに払ってもらえるし、あとひと月半残っている有休もすべて消化して退職してくれ、とのことなので、心置きなく身体を休められるならと私は何の文句も無くそれを受け入れた。残念だが仕方が無い、いままで本当に有難うと社長は嘘の無い調子でそう言ってくれた。私はもうそれで充分だった。私物は特に置いて居なかったので、机はそのまま他の人に渡してもらって構わないと私は言った。事務室には寄らずにそのまま会社を出た。きっとすごく忙しいだろうし、今までの調子から皆が私のことをあまりよく思っていないことはわかっていた―私は、意図的に付き合いの悪い田舎者のスタンスを貫いていたから。オフィス街を抜けて繁華街に入ったところで目を回し、小さな広場の(矛盾する言葉だ)ベンチに腰を下ろしてしばらく休んだ。そういえばこの街のことは仕事場の周辺以外何も知らないな、と思ったけれど動けそうになかった。薬を飲まなければいけなかった。ゆっくりと老人のように自動販売機へ歩き、お茶のペットボトルを買った。バッグから薬を出し、二錠口の中に放り込んでお茶を飲む。ごくん、と喉の奥でもの凄い音がした。凄く喉が渇いていたのだ、とその時初めて気づいた。それから一時間くらいじっとしていると眩暈はおさまった。元気なうちに家に帰らなければ。私は一番近い駅に飛び込んで帰宅した。

 

三日もすると自由な日々は退屈になった。そもそも私には趣味というものがまるでなかった。週末の休みは溜まっていた洗濯や掃除、休日でしか作れない手の込んだ料理に精を出してばかりいた。だから、何もしなくていい自由な時間に、何をすればいいのかということについてはまるで詳しくなかった。私は常に動いていたい人間だったのだな、とその時初めて気が付いた。どちらかというとのんびり屋だと考えていたから。のんびり屋はのんびり出来ることに疑問を感じたりしない―多分。散歩に出ようと思った。仕事と買物以外あまり出歩いたことがないこの街を、歩き尽くすくらいの勢いで毎日歩こうと考えた。健康にも良さそうだし。自分の歩いた道を記録出来るアプリを導入して、私は毎日自宅の周辺を歩き倒した。それはとても楽しかった。初日はすぐに疲れて止めてしまったけれど、三日もするとすたすたと果てしなく歩けるようになっていた。三週間目には自分の住む街のほとんどを歩き尽くし、私は新たな知らない景色を求めて隣町まで脚を伸ばすことにした。

 

隣町はあまり大きなところではなかった。都会と都会の中継地点という感じで、小さなビジネスホテルと一軒の本屋、それから喫茶店が三件、あとは潰れてしまった商店が幾つか並んでいるだけだった。そんな街で見るコンビニエンスストアはなにか突然変異で生まれた異物のように見えた。小さな中心地はすぐに歩き終えてしまい、中毒のように新しい景色を求めていた私は街の北にある小さな山を登ってみることにしたのだが―登山道だと思っていた道は実は道ではなく、枯れた水路のようなものだと気付いたときには随分遡ってしまっていた。水路。隣町にある枯れた水路。何かが私の記憶をくすぐった。十年くらい前だろうか、この水路で身元不明の女の死体が見つかったというニュースがあった。当時喫茶店でたまたま手に取ったローカルの新聞に載っていたのを思い出したのだ。そんな些細なニュースを覚えていたわけは、その女性が私と同い年だったせい。そんなところで一人ぼっちで死ぬのはどんな気持ちだろう、と私は記事を読みながら妙に入れ込んでしまったものだった。誰もがのんびりと歳を取って幸せに生きて行けるわけじゃない、そんなことはもちろんわかっているけれど、その女性の死に方は私の心に強い印象を与えたのだ。とり憑かれたのではないかと思えるほど、しばらくの間私は彼女のことを考えていた。もしも時間の余裕があったなら、私は真っ先にここを訪れていたに違いない。そんなひとときの執着をすべて忘れてしまった今になって偶然その場所に辿り着くなんて奇妙な話だった。そうだ、この水路の終わるところ、行き止まりになっているその場所で彼女は死んでいた。私はそこまで歩いていくことにした。

 

四十分ほど歩いただろうか、ようやくたどり着いたその場所は、あまりにも寂しく、荒れていて、汚れていた。悪趣味な連中がそこを訪れたりしたのかもしれない。スナック菓子の袋やペットボトル、ビールの空缶などが散らばっていた。にもかかわらず、不法投棄といった類のものはまるで見当たらなかった。車が入って来れない上にかなり歩かなければいけないことが原因なのだろう。私は空を見上げた、山の麓にまっすぐ掘り抜かれたその場所の頭上は、木々の枝に遮られながらも見事に同じ形に切り取られていた。何のために作られた水路なのだろう、私には見当もつかなかった。近くに田んぼや畑のようなものは見当たらなかったし、あったとしても山を半周する形で流れている川があるのだからそこから水を引けばいい。こんなところに水路を引く必要はないはずだ。なにかしらの施設を作ろうとして、計画が頓挫したとか、そんな事情があったのかもしれない。なんにせよ、いまそれを確かめる術はなかった。水路の終わりに溜まった落葉が、ちょうどうつ伏せに倒れた人のような形をしていた。それを見ていると不思議なくらいひとりの人間がそこで死んだのだということが納得出来た。私はそこにしゃがみ込み、彼女の最期を写し止めるように降り積もった落葉を眺めた。そして、どうして彼女はこんなところにやって来たのだろうと改めて考えた。自分が死ぬことを知っていたに違いなかった。治らない病気か何かで、死期を悟って、誰にも会わないで死ぬためにここへ来たのだ。まるで野良猫のように―どんな人生だったのだろう。ただ平凡に生きてきた自分と、使われていない水路の終わりで死んだ彼女。私と同い年の。私はなにか、とても心許ない、寂しさとか切なさとか言えるような気持ちでいっぱいになった。幸せな人間が選ぶ死に方ではない。きっと彼女はそれを選択するしかなかったのだ。人生のあらゆる場面で、諦めるしかない選択肢を切り捨てて生きてきたに違いない。それはきっと間違いではないだろうという気がした。私はきっと彼女と同じように、そして彼女とは全く逆の、生きるという選択肢を仕方なく選んできただけなのかもしれない。でもそう思うのはのほほんと生きてきた自分の傲慢なのだという気もした。私はいたたまれなくなってそこを逃げ出した。背中でずっと誰かが私を見つめているように感じていた。水路は長く、荒れ果てていて、ただただ寂しかった。私はいつの間にか走り出していた。幼い頃、人混みの中で両親とはぐれた時のことを思い出していた。私はずっと迷子だったのだ。子供のように声を上げて泣き出したくなるのを堪えて走り続けた。生を選ぶ人間は傲慢なのだ。そんな人間がこの場所で涙を流したりしてはいけないと思った。街は遠かった。誰か人の声が聞こえる場所に行きたかった。頭の中でたくさんの機械音がした。不調がまた私をとらえようとしているのがわかった。それでも私は走り続けた。ようやく水路を抜けて、街の端っこに差し掛かった時、プツンと頭の中で何かが切れて、その場に倒れ込んだ。

 

道端に倒れていた私は通りがかりの誰かによって介抱され、救急車を呼ばれ、意識が無かったため担ぎ込まれた総合病院でそのまま精密検査を受け、数百人に一人という珍しい病気にかかっていることがわかった。病院にはたまたまその病気に詳しい医師が一人居て、原因を特定するのにさほど時間はかからなかった。ひと目見ただけで見当がついたそうだ。翌日私は意識が戻り、非常に危ない状態だったと告げられた。でももう大丈夫です、と笑うその医師を見ていると、きっと本当に大丈夫なのだろうなという気がした。二週間ほど入院して、あとは月に一度、何度か通院するだけで問題ないだろうということだった。

 

すべてが終わり、私はもう一度日常を手に入れた。しばらくの間私は、ギリギリ生活出来る程度の短時間の仕事を選び、自分の生活というものを真剣に考えた。ぼんやりと生きていた私は、死んでしまうしかなかった同い年の女性の最期の場所にたまたま辿り着き、そのまま彼女に続いて死んでしまうところだったけれど、生き残った。ただ生きてきただけの人生だった。あなたはなぜ生きているの、と、脳裏に焼き付いた彼女の影は時々私に静かに問いかけた。私はいろいろな本を読み、いろいろなテレビ、色々な映画を観てそれぞれに過剰とも言えるほどの感想を考え、ノートに書きつけた。そうしているうちに私は書くことに喜びを見出し、詩とも散文とも言えない文章をたくさん書くようになった。インターネットでそれを発表してみると、幾人か感想をくれる人も出てきた。それ以外はなんの変化も無い。生活は継続される。でも短いながらも忙しい仕事をこなし、部屋の鍵を開け、テーブルに置かれている一冊のノートを見ると私の心は昂る。私は彼女に話しかける。いつかあなたのことを書くからねと。彼女はなにも言わない。呆れられたりしてなければいいけれど。顔と手を洗い、メイクを落とし、髪を纏め、コーヒーを入れて、テーブルの前に座り、ノートを開く。そこにどんな意味があってもなくても構わない。私はいま初めて、自分が必要と思えるものを手に入れたのだ。

 

 

                          【了】


どうか咲いていて

2022-12-12 18:02:34 | 小説

 

その日、ボロアパートの一室に帰って来ると、玄関のドアを開けてすぐに、花が一輪投げ捨ててあるのを見つけた。俺は一人暮らしで、花などには興味がない。従ってこれがなんという花なのかもわからない。花を持って訪ねて来るような親しい相手も居ない。というか、俺を訪ねて来る人間などひとりも居ないと言った方が話は早い。凄く派手な花びらを持った花で、花束にするよりは一輪挿しで飾る方が映えそうな花だ。さて、と、俺は少しの間花を見下ろしながら考えた。これをどうしたものだろう?このままここで枯れさせるのもどうにも気分が悪い。枯れるまでの間、ほんの少し世話をしてみてもいいかもしれない。だが、俺の部屋には花瓶がない…ちょっと前そんな歌が流行ったなと思いながら、玄関のすぐそばにある台所スペースで花瓶の代わりになるようなものを探し、昨日飲み干したミニボトルタイプ―捻って明けるキャップがついているやつ―のコーヒー缶を見つけ、出来るだけきれいに洗って、玄関の花を拾い上げて、挿した。滅多に使わないコンロの正面にある窓の前に飾ると、なかなか悪くなかった。俺は安物アーティストのような態度でそいつをしばらく眺め、満足してシャワーを浴びた。汚れ仕事をしているため、どんなに疲れていてもまずはそうしなければ座る気にもなれない。濡れた身体を拭きながら台所に出る。特別脱衣スペースというようなものは無い部屋なので、必ずそこに出て来なければいけないのだ。身体を拭きながら無意識に花を眺めていると、こういうのもなかなかいいものだな、と思った。特別面白みのないサイクルの中に、こうした異物が混入してくるというのは意外に悪くない…そう、これがちゃんとした贈り物であるなら、ね。まったく本当に、なにがどうなって俺ん家の玄関なんかに花が置かれるのだろう?そこで切り取ったみたいに、あるいはドアの隙間から投げ込んだみたいに―鍵が掛かっているから実質それは無理だけど―無造作に置かれていた、花。よくよく考えると気持ちの悪い話ではあったが、それについて考えてみるよりも大事なことがあった。夕食を取ることだ。コンビニ飯のコンビネーション。一人で食うだけならそれが一番手っ取り早い。近頃のコンビニ弁当は馬鹿に出来ない。どれを食べてもそこそこ満足出来る。そこそこ満足出来る、そんなラインは意外と重要なものなのかもしれない。ゴールデンタイムのチャンネルを適当に決めて、勝手に話してるやつみたいに扱いながら食事を終えると、明日の為に早く眠らなければならなかった。歯を磨いているときに、無意識に花を見ていることに気付いた。そして、こういうのってちょっと凄いよな、と思った。知らない間に見ている。ここに住み始めてもう三年になるが、そんなのは初めてのことだった。そしてそんな事実は、自分が如何につまらない人間であるかという証明のように思えて、首を振りながら寝床に潜り込んだ。

 

朝、目覚めて顔を洗いに台所へ行く。洗面台なんていう洒落た設備はついていないのだ。顔を拭きながら花の方を見ると、少し元気がなくなっているように思えた。特に自分に出来ることもないような気がしたので、水だけ取り替えて仕事に出かけた。

 

帰宅してみると花は枯れ落ちていた。あーあ、やっぱり無理だったか、とかなんとかひとりごちながら花を捨て、空缶を専用の小さなダンボール箱へ投げ込んだ。そうしてしまうと俺の部屋はもとの漠然とした景色に戻った。少し寂しいようなそんな気もしたが、数日経てば忘れてしまうだろう、そう思いながらシャワー、食事とお決まりの工程を繰り返した。時折だけど、そんな毎日を過ごしていると、自分がそのためだけの機械のようなものなのではないかという気がする瞬間がある。だからなんだというんだ、俺はいつでもそんなヴィジョンにそんな言葉を返す。そんな瞬間は軽くあしらっておかないとこじらせると面倒なことになる。明日は休みだった。どこかへ出かけようか…。

 

数少ない馴染みの小さな店で数杯ウィスキーを飲み、ふらふらと帰り始めるころには真夜中近くだった。ビルとビルの間、路地の中に無数の酒と女の店が立ち並ぶ、下町によくある昔ながらの通りだった。そこを歩いていた。いくつかの店はもう暖簾を閉まっていて、入口をぼんやりと小さな灯りだけがともしていた。その通りを抜け、大通りへ出た途端、俺の背後で地鳴りのようなもの凄い音と振動が起こった。思わず数歩前へつんのめり、振り返ると高校生と思しきブレザーを着た少女が頭をぺしゃんこにした状態でうつ伏せに倒れていた。俺は上を見上げた。数年前に空になったオフィスビルがそこにはあった。飛び降りか―周りには誰も居なかった。もの凄い音がしたのに様子を見に出て来る人間も一人も居なかった。そもそも居住地区ではないし、開いている店でも中で騒がしくしていたら気が付かないかもしれない。俺はたまたますぐ近くに居て、その衝撃をダイレクトに感じた、それだけのことなのだろう。あるいはもう、この街は飛び降り自殺なんてそんなに珍しい見世物でもないのかもしれない。俺はため息をついて救急車を呼んだ。十五分ほどで車はやって来た。少し遅れてパトカーもやって来た。一通り事情を説明するとすぐに解放してもらえた。救急車が少女を乗せたかどうかについてはよくわからなかった。酷い気分だった。酔いはすっかり醒めていた。飲み物などなにも欲しくなかったが、気分を変えたかった。自動販売機で温かいミルクティーを買って、ゆっくり飲んだ。それでいくらかマシになった。もう歩きたくなかったので、タクシーを拾って家まで走ってもらった。運転手が喜ぶ距離かどうかは微妙だったので、釣りは要らない、と言って降りた。運転手は奇妙に思えるほど喜んでくれた。アパートの階段を上り、ドアを開けた。足元にはこの前と同じ花が落ちていた。

 

酔っていたせいかもしれない。あまり深くは考えなかった。またかよ、と、思っただけだった。数時間前に捨てた空缶を拾い直して、もう一度前と同じように挿した。種類だけでなく、大きさや色味、重さに至るまでさっきまでここに挿してあったものと同じ花に見えた。この時もしも酔っていなかったなら俺は花をどうしていただろう、いまはそんなことをよく考える。もっとも、考えたところでどうにもならないのだろうけど。手を洗い、歯を磨き、うがいをして室内着に着替え、寝床に入るとあっという間に眠っていた。

 

翌日、午前遅くに目が覚め、顔を洗う時に花を見つけ、昨夜のことを思い出した。一度ならなにかの間違いだったかもしれない。でも二度目になるとそうはいかない。誰かがなにかしらの意図を持って、ここに花を置いていると考えるのが妥当だった。警察に相談する?いや、特に実害があったわけでもない。花にしたって、誰かが進入したという決定的な証拠にはならないかもしれない。他にどんな理由でこの部屋の玄関に花が出現するのか俺にはわからないけれど。とにかく警察は動いてくれそうもないだろう、と俺は結論づけた。近くに住んでる大家にでも相談してみるのが妥当な線だろう。朝食を取ってからそうすることに決めた。これで大家が青くなって尻もちでもつこうもんなら安っぽいホラー映画の始まりだな、そんな下らないことを考えながら簡単な朝食を済ませた。

 

「花。」と言って大家は訝しむような顔をした。

「あなたの家の鍵を誰かが持っていて、ドアを開けて、花を置いていくってこと?」

現実味のない話だとは思うけど、と俺は前置きして

「といって他に納得のいくような状況を思いつかないんですよ。」

だけど変ねえ、と大家は首をひねった。

「私の家、アパートの向かいでしょう?私の家の窓から玄関まる見えなんだけど、あなたの家のドアを開ける人なんてあなた以外見たことないわよ。」

ですよねえ、と俺も相槌を打った。そもそもがまるで理解出来ない話なのだ。そして、大家がそれとなくアパートに注意を払っていることもわかった。小さなお婆さんだけど、生真面目な人なのだ。アパート周辺をいつも掃除しているし、外廊下の電球なんかもほったらかしにはしない。アパートの問題は一度は彼女に相談してみればなんとかなるものだ。普通の問題なら。俺は、変な話してすいません、と、頭を下げた。一応こちらも気を付けてみるわ、と大家は笑った。

「だけど、誰かの仕業だとしてなにが目的なんでしょうね、それ?」

「まったく。」

 

今度の花は数日もった。数日の間生活を共にすると、花といえども少しは親密さも生まれる。枯れていくのは寂しくもあったが、ようやく奇妙な現象から解放されるかもしれないという思いもあった。どういうわけか俺は、その花が枯れたら終わりだと信じていたのだ。花を捨て、空缶を捨てると、やれやれという気持ちになって仕事に出かけた。その途中のことだ―割と大きな交差点で信号が青になるのを待っていた。俺と同じ通勤途中の人間が歩道のぎりぎりまで押し寄せていて、人混みが嫌いな俺は少し距離を開けて建物の側に居た。もう少しで信号が変わるというとき、焦って渡ろうとした乗用車がハンドル操作を誤って信号待ちの列に突っ込んだ。自分が見ている光景が現実なのかどうか信じられなかった。悲鳴、怒号、警察と救急車。蒼褪めた顔で立ち竦んでいる運転手らしき若いサラリーマン。俺は会社に連絡を入れて、事故の目撃者になってしまったので少し遅れる、と告げた。のっぺりとした声の事務員が、わかりました、と言って電話を切った。

「あれ、あなた…。」

近くで事故の目撃者に話を聞いていた警官が、俺のところに来てそう言った。あ、と俺も声を上げた。先週だったか、飛び降り自殺に出くわしたときにやって来た警官だったのだ。ついてないですね、と彼は言った。

「まったく。」気を付けてください、と警官は割と真面目な顔をして言った。

「こういうことって続きますから。」

そう言われても、と俺は肩をすくめた。警官は苦笑した。あとはこの前と同じだった。一通り見たことを話して、俺は解放された。警官の話によると、いまのところ死亡者は一人だけだ、ということだった。

 

仕事を終え、帰宅すると、また花が落ちていた。途端、背骨に響くようなショックを感じた。俺の頭の中にひどいイメージが浮かんだ。飛び降り自殺。今日の事故…。

 

この花が枯れると人が死ぬ。

 

俺の妄想かもしれない。ほんの一瞬、脳内に滑り込んだイメージに翻弄されているだけかもしれない。だけどもうその時点で俺は、この花は枯らしてはならないのだという思いにとり憑かれていた。花をそのままに、鉤もかけずにもう一度外へ飛び出し、一番近い花屋で花を枯らさないようにするにはどうすればいいか聞いた。俺の様子が余程異常だったのだろう、若い女の店員は引きつった顔をしながらも花を育てるための一式を用意してくれた。長く咲かせるコツなんかも教えてくれた。その頃には俺の混乱も少し落ち着いていた。店を出る時に突然飛び込んできたことを詫びた。

「頑張って、枯らさないでくださいね。」

沢山の買物を抱え、今度は俺が引きつった顔で礼を言った。

 

帰り道、曲がり角で自転車の少年が飛び出して来た。少年は俺の姿を見て慌ててハンドルを切り、車道へと飛び出した。軽トラックが急ブレーキを踏んだが間に合わず、少年は自転車ごと車の下敷きになった。自転車はそれがそうだとは信じられないほどに歪み、少年の身体はその部品であるかのように絡み合っていた。どう見たって助かりそうではなかった。軽トラックの運転手はがっちりとした身体をした初老の男で、車の下を覗き込んでああ、と重く低い声を上げ、携帯を出して電話をし始めた。野次馬が集まって来て車に群がり、どうやら車を持ち上げようという話になっているみたいだった。俺はもうそこに留まる気は無かった。慌てて家に帰ると、玄関でやはり花が枯れていた。そして、その隣に新しい花が置かれていた。

 

それから一週間が経った。一週間くらいが経ったのだと思う。俺はほとんど眠ることも出来ず、台所に張り付いて過ごした。花は時折枯れ、そして新しいものが置かれた。不思議なことに、俺はそれがいつ置かれたのか気付くことが出来なかった。ずっと玄関のすぐそばに居るというのにだ。ラジオをつければどこかで誰かが死んでいることを知ることが出来たかもしれない。でも、それをする気にはならなかった。ラジオのスイッチを入れている間に、花を枯らしてしまっては元も子もない。でもどんなに注意してもそれは枯れた。どうしてなんだ、あの花屋の娘は俺に嘘を教えたのか。俺はその娘を殺してやりたいくらい憎んだ。でもそれをするわけにはいかなかった。俺が部屋を出た瞬間に花が枯れてしまうかもしれない。俺は泣き、叫びながら花の世話を続けた。ドアのベルが鳴らされたような気がした。でも俺にはそれを開けることが出来なかった。二人の人間がドアの外からこちらへ呼びかけた。職場の社長と、大家らしかった。大丈夫です、と俺は必死で叫んだ。

「俺は大丈夫です、いまちょっと部屋を離れるわけにはいかないんです、出直していただけないですか。」

でも二人は帰ってくれなかった。大家が合鍵でドアを開けて、二人が飛び込んできた。俺の様子を見て、酷く驚いた顔をした。そういえば、このところ食事もしていないような気がする。邪魔をしないでくれ、と俺は怒鳴った。

「この花を枯らすわけにはいかないんだっ!」

花、と、二人は口々に言い、俺の部屋を見渡した。

「事情は説明出来ない。俺にもどういうことかわからないんだ。とにかくこの花を枯らしちゃいけないんだ、お願いですから帰ってください。俺の邪魔をしないでください。」

俺はそう懇願したが、二人はおろおろするばかりだった。やがて大家が小さな声で、しかしはっきりとこう言った。

 

「花なんて…花なんてどこにあるの?」

 

 

 

 

                         【了】


秋のホーム

2022-12-05 22:54:25 | 小説

 

 

秋の三連休が明けた月曜日、その日の仕事を片付けて帰りの電車に乗ろうとしたら駅は酷い人込み。ああ、またかと思った。人身事故のため遅れております、とやっぱりの表示。駄目もとでホームに降りてみると撤去作業の真っ最中。物好きな人たちがスマートフォンで楽し気に撮影している。この街の人たちはなにもかもに慣れっこになってしまう。そうでなければここで生きる資格はないとでも言わんばかりに。かくいう私も、もうそんな雰囲気に抗おうという気持ちもすでになくなった。クタクタで、早く帰りたいのに。どんな事情があるにせよこんな日に電車に飛び込まなくたっていいじゃない。野次馬たちと、必要以上に距離を取っている人たちのおかげで椅子は空いていた。腰を掛けて、人身事故で遅くなる、と夫にメール。わかった、と短い返事。私たちはお互いにアプリやメールで話をするのが嫌い。顔を合わせて話すことがいくらでも出来るのだから、それが一番いいじゃない。だから友達も自然にそんな人たちばかり。ラインをしないとおかしい、とか考えている人たちは早々に私と距離をとるようになった。特に意地になってるわけではない。私にとってはそうすることが自然なのだ。それに、スマホを活用していないわけではない。動画サイトばかり覗いているし、近頃は音楽だってずっとスマホで流している。MDつきのミニコンポはもうアンティーク飾り家具のように、本棚の上で押し黙っている。メールをしてしまうとすることが無くなった。三連休は特別どこかへ出掛けたりということはなく、部屋で映画を観たり家事をしたりしていた。リラックスの極意は当り前に自分の時間を過ごすことだ。このぶんじゃ発射まで時間があるだろうし、少し仮眠を取ることにしよう、と決めて目を閉じた。そんなところで眠って大丈夫なのか、と思われるかもしれない。私はどこでも熟睡してしまうタイプだ。そして、公の場でぐっすり眠っている人間って、意外とそのまま放置されるものだ。何かを盗まれたとか、変なことをされたとか、そんなことは一度もなかった。まあ、もちろん、人気の無い非常階段とかで熟睡していたらそんなわけにもいかないだろうけど。今日は人目もたくさんあるし、騒がしい。少し眠るくらいきっと大丈夫だろう。経験から来るその確信は当たっていた。私は何も取られなかったし、何もされなかった。でも、もしかしたら、ほんの少しの干渉が夢の中であったかもしれない。もちろんそれは、私が偶然同じ椅子に腰を下ろしたせいなのだろうけど。

 

夢の中で私は同じ場所に居て、一人の若いスラっとした男の子が電車に飛び込むところをずっと見ていた。下に巻き込まれたのか、映画によくある血飛沫みたいなものは一切見えなかった。電車が止まり、辺りが静まり返ると景色は巻き戻され、彼は何度も電車に飛び込んでいった。散歩の途中で死んでみようと思ったみたいな、淡々とした歩き方だった。それが十回近く繰り返され、運転を再開します、のアナウンスで慌てて目を覚まし、電車に乗り込んだ。

 

家に帰って、夕食を夫と食べ、おやすみの挨拶をして自室にこもり―私たちはそれぞれの部屋で別々に寝ている。プライベートは大事、と、お互いに共通する意見を持っている。寝室が別だと長続きしないというけれど、なかなかどうして私たちは大きな喧嘩もなくもう六年は一緒に住んでいる。―バッグの整理をしていると、外ポケットに見慣れないスマートフォンがあるのを見つけた。大変、と思ったけれど、ロックが掛かっていてどうしようもなかった。電車が混んでいたから、誰かのものが紛れ込んだのかもしれない。

(あれ?だけど…)

それなら今までの間に一度ぐらい、持ち主から着信なりなんなりあるのではないだろうか?「探す」という機能もあるわけだし…家のベルが一度鳴らされるくらい、起こっているのではないだろうか…?携帯を失くした経験がないのでわからないのだけど、慌てて探すのが当たり前ではないだろうか。携帯である以上、持ち主は必ず居るだろうし…

 

持ち主。

 

それがもう居ないとしたらどうだろう?私は駅のホームの景色を思い出した。もしかしたらこれは…この中には、私が夢で見た光景と同じものが記録されているのではないだろうか?もしそうだとしたら、あの男の子が、私が寝ている間にこれを私のバッグに滑り込ませたのだ。そんな思いつきは不思議なくらいしっくりきた。私はスマートフォンを手に取り、認証画面を出して、自分の肩越しに背後を映してみた。お戯れのつもりだったけど、ロックは外れた。

(まいったな…。)

これ以上は駄目だ、このまま明日警察に届けるべきだ。心の声とは裏腹に私の指先は持ち主の情報をあれこれと探っていた。でも、何も知ることは出来なかった。情報がほとんど空になったスマホに、動画がひとつ入っているだけだった。誰も映っていないあの駅のホームのサムネイル。気になったのは動画の時間だった。十分近くあった。私はイヤフォンを挿して、それを再生した。まだ幼さの残る声が、どうして自分がそこで死のうと思ったのかということを、姿を見せないまま話していた。私はそれを見ながら不思議な思いにとらわれた。ひとりの人間が駅のホームで、こんなにはっきりとした声でこれから死ぬと話しているのに、時折通り過ぎる人たちはまったく関心を示さなかったのだろうか。なにかを撮影しているようだ、最近こういうの多いな―そんな感じだったのだろうか。私は最後まで動画を見て、それから、パソコンを開いてもう一度再生し、場面ごとに止めたり繰り返したりして彼の言葉を一字一句間違えずに書き写した。

 

『こんにちは。ええと…いいお天気ですね。よかったです。僕は今日、ここで、電車に飛び込んで死のうと思います。たぶん失敗しないで出来ると思います。僕は普段はぼーっとしてるんだけど、こうするって決めた時にはちゃんと出来るんです。まあ、それはともかく…自己紹介はしません。だって、もうこの世から居なくなっちゃうんですからね。なんだろう、ええと、これは遺書とか、そういうわけでもないんだけど、いろんな人に迷惑をかけちゃうわけだし、どうしてこんなところでこんなことをしようと思ったのか、理由をね、話しておこうかなと…ちょっと思ったわけです。僕が死んだあとこのスマホがどうなるかわかんないけど、まあ、誰かが僕の話を聞いて、ちょっと僕のことを考えてくれたら嬉しいかな、とか思って(照れたような笑い声)。何も決めていないのでわかり難いと思います。ついさっき思いついて、その、ノープランって感じで喋っているので。ええと、僕はいま高校生です。二年生です。別にいじめられたりとか、親と上手く行かないとか、失恋したとか、そういうわけではありません。じゃあ何かって言うと…なんだろう…実のところ自分でもよくわからないんですよね。ただ、中学の終わりくらいからかなぁ、ずっと、なんかこう…頭に霧がかかってるっていうのかな、もやもやしてるっていうのか…。病気かなんかかなぁと思って、ネットで調べたりとかしたんだけど、そういうのとはちょっと違う感じかなぁとか思って。精神的なものなのかなぁとか思って、けど特別気持ちがしんどいとか、そういうこともないし…これどうしたらいいんだろうって…でも結局わからないから放っておいたんですよね。でも、高校に入ってちょっとしたくらいかなぁ、なんか、それがすごくウザい感じになってきちゃって…親とか先生にも相談したんだけど、若いうちはよくそういう感じになるもんだ、とか言って笑っちゃうみたいな感じで、あんまり真面目に聞いてくれなくて。そのうちになんかこう…いつかはそこに閉じ込められるんじゃないかなぁ、なんて、そんな風に思ったんですよね。なんて言うか、ずっとそれ、あるんですよ、頭の中に。いや、実害とか、そういうのは別になくって…それで困るっていうことはひとつも無いんだけど、なんだろうな、上手く言えないんだけど凄くそれが嫌になってきちゃって。うん、う~ん…説明するのって難しいですよね。これ聞いた人にしてみたら、どうしてそんなことで電車に飛び込んじゃうの?って感じだと思うんです。でもまあ、一応…一応ね、話しておきたくなったというか。何にも理由がないのにいきなり死んだら、親とか…友達とかが、自分が何かしたんじゃないかなんていう風に悩んだりしたら嫌だなって、思って。そう、これ、でも、話してもなんのことか全然わからないと思います。僕もなんか変だなって思いながら、今日、ここに来ました。でも、多分、死ぬしかないんです。僕は死ぬしか―もうすぐ電車がやってきます。なんだろう、いまね、ちょっといい気分なんですよ、僕。もうくだらないこと考えなくていいんだって、なんかこんな風に言うと馬鹿みたいに思われちゃうかもだけど…うん、とにかく、そんなことです。それじゃあさようなら。こんな風に人生を終わりにするなんて思っても居なかったけど、キャラじゃないかもしれないけど、とにかくお終いです。ありがとうございました。そんなわけだから、誰も僕のしたことで悩まないで居てくれると嬉しいです。』

 

そうして彼はあっさりとホームから落下する。動画は私が現れて腰を下ろしたところで真っ黒になって終わる。

 

翌日私は発熱を理由に仕事を休んだ。このご時世だから会社もあまり煩いことは言わなかった。それに、なにしろ勤めて三年目で初めての欠勤なのだ。私は午前遅く、いつもの通勤ルートに則ってあの駅に赴いた。駅員に事情を話し、自殺した人のものかどうかわからないけれど、荷物に誰のものかわからないスマートフォンが紛れ込んでいたと告げた。駅員は私がどこに座っていたか聞いた。私の答えを聞いて、少し真剣な調子でわざわざありがとうございました、と軽く頭を下げた。私も同じようにして、そのまま帰りの線に乗るためにホームを移動した。

 

次の電車が来るまでに十五分ほどあった。昨日と同じ椅子に座り、プリントアウトした彼の最期の言葉を読んだ。声の調子と同じあどけない理由だった。でもそんなあどけなさはもうこの地球上に存在してはいないのだ。私は顔を上げて、ホームから見える小さな外の景色を眺めた。昨日と同じ穏やかな天気。昨日よりは少し寒い風。私はまだ生きていて、昨日私よりちょっと早くここに居た彼はもう居ない。反対側のホームを急行が通過する。きっと、生まれることにも、生きることにも、死ぬことにも理由なんてない。私たちはみんな、自分をこじつけて生きている。投げ出すことは幸せだろうか。それは一度しか出来ない。だったらそんなものに思いを馳せるべきではないかもしれない。不思議な縁でこのホームですれ違った彼の言葉だって、私はいつか忘れてしまうだろう。なのに私はなにかが悲しくて仕方がなかった。もっと若いころなら声を上げて泣いてしまっていたかもしれなかった。それは説明出来るようなことではなかった。彼の死と同じ、まったく説明出来ない類の感情だった。そして私の乗る電車がやって来た。私はすっくと立って、見知らぬ、まだ生きてる誰かの後ろに並び、そして乗り込んだ。電車が動き出した瞬間、誰かがクスっと笑ったみたいな、少しこそばゆい感じがした。

 

 

 

 

【了】


終戦記念日

2022-12-04 15:24:03 | 小説

 

わたしは古めかしい歩兵銃を抱えて焼け野原に立っていた。敵と味方の死骸がアザラシのようにそこらに転がって膨らんでおり、鼻腔の奥や喉に針金を突っ込まれて掻き回されているかのような猛烈な臭いが漂っていた。夜のようだった。けれどもしかしたらなんらかの理由で太陽が隠されてそんな様相を作り出しているのかもしれない―たとえば爆炎なんかで。どちらにしてもそこに居るわたしには正確な判断は出来なかった。この上なく疲弊して、怒りと哀しみが混濁した奇妙なカタルシスのある感情が胸中で暴れるのを感じながらただ立ち尽くしているだけだった。どれだけそうしていたのだろうか。ふとなにかしら、小さな音を聞いたような気がして数度、辺りを見回すと、視界の端に微かに動くものが映った。わたしは恐怖に囚われ、そのせいで慌ててそこに向かって銃を撃った。おそらくは人間であろうそれは、着弾の瞬間高圧電流に触れたみたいにビクンと震え、突っ伏して動かなくなった。わたしはそれでもしばらく銃を構え、狙いをつけたままで居た。死んだふりをしているだけかもしれない。こちらが隙を見せたら撃ち返されてお終いかもしれない。過度な緊張が異様な集中を生み出していた。狙いをつけながら、耳では周辺の音を聞いていた。今の銃声でこここに生存者が居ると気付かれただろう。他に、誰かがここで生きていると仮定したら、ということだが。生き残ったのが自分だけとは考えられなかった。そんな虫のいい話があるわけがない。でもわたしの思うことが、戦場の常識と噛み合うかどうかは例によってわからなかった。わたしは戦争になど行ったことがないのだ。やがてわたしは銃を下ろした。標的はどれだけ待ってもピクリとも動かず、わたしが背中を撃たれることもなかった。わたしは長く息を吐いた。もう一度生きるための呼吸だった。どうやら本当にわたしだけが生き残ったらしい。あるいは他にも生きているものは居るのかもしれない。弾を撃ち尽くしているものや、生きてはいるけどまったく動くことが出来ないものなど…どんな理由があるにせよ、アクションを起こせないのならそれはもう死んだと同じことだった。命一つ分軽くなった銃の感触が、わたしをどうしようもない気持ちにさせた。けれど、そんな気分に浸るのはきちんと生き残ってからのことだった。わたしはゆっくりと、さっき撃ち殺したもののところへと歩いた。死体と瓦礫を踏みつけ、そんなものの中へ転ばないように気をつけながら、自分の罪を確認するために歩いた。どうやらここはもともと街だったようだった。いったいどこに居るのだろう。初めてそんな疑問が頭をもたげた。けれどきっと、それを知ることは出来ないだろう。こうなってしまっては、街の名前などもうどうでもいいことなのだ。歩いている間も、周囲には気を配っていた。戦場においての決まりごとはひとつだった。必ず生き残ること。全員がそんな思いを持って銃を構えるのだ。純粋な狂気だった。純粋で莫大な狂気だった。そしてわたしは自分がたった今撃ち殺したもののもとへとたどり着いた。それは少女だった。一二か三か―そのくらいの。人を殺すことなど考えたこともないような、美しい肌をした少女が、後頭部から撃ち抜かれて、廃墟の天井灯のごとく右目をだらりと垂らして死んでいた。

 

大量の汗をかいてわたしは跳ね起きた。ここ数日ばかり、ずっとその夢を見る。始まった瞬間にそれだとわかる。何度かは逃げ出そうと試みた。すべて無駄だった。その夢からは決して逃げることが出来なかった。ベッドから降り、カーテンを少し寄せて外を見た。まだ明け方のようだ。キッチンに行って水を飲み、深呼吸を何度かした。水をもう一杯汲み、キッチンの椅子に腰を下ろして、緊張した肩を少し揉んだ。なぜこんな夢を見る?実体験ではない。わたしは戦争など知らない。先祖の記憶?あるいはどこかで、兵士の霊でも拾ってきたとでもいうのか?原因を探ろうとすれば、オカルティックな話ばかりが浮かんでくる。わたしはオカルトに興味は無かった。あれは、なにも終わらせまいとする連中が好んで取り扱うトピックだ。水を飲み干してシャワーを浴びた。寝直す気にはなれなかった。万が一、あの続きを見せられるようなことになったらイラつきはさらに増すだろう。

 

始発の電車で職場に赴き、終電の直前まで仕事をして帰りつく。コンビニエンスストアで買った食事を済ますと、もう眠気が襲ってくる。動画サイトで古い映画を探して、ベッドで眺めているうちにいつの間にか眠ってしまう。そんな生活がもう五年は続いていた。妻は愛想を尽かして二年目に去っていった。離婚届の処理すらわたしは仕事の一環のように行った。あやうく窓口で、またよろしく、なんて口走るところだった。それほど働く必要があるのか、妻を筆頭に、いろいろな人間がそう言ってわたしを休ませようとした。けれどわたしがいないと先に進まないことが多く、休んでしまうと結局自分が余計な苦労をするだけだった。最後に休日などを迎えたのはいつのことだったろう?まだ妻帯者だったころのことだったような気がする。口座にはもうしばらく遊んで暮らせるだけの金があった。ということは金が目的で働いているのではないのだ。わたしはケージの中で回し車を回し続けるハムスターのようなものだった。本能のようなものに従ってそれを続けているのだった。だから休まないことは苦ではなかった。わたしは会社に評価され、次第にランクアップしていった。ランクアップすると余計に、わたしが居なければ進まない話が増えた。これは死ぬまで続くだろう。わたしにはもうそれがわかっていた。けれどそれもやはり苦ではなかった。目的の無い人生など考えたくも無かった。自分はそこでそれをし続けるのだ。それがわたしの生きる目的だった。それでなんの問題も無かった―その夢を見始めるまでは。

 

夢がわたしに与える影響など無いと思っていた。というか、そんなものを気にしている暇など無かった。仕事量は眠っている間にもどんどん増えているのだ。どうしてこんなにわたしがやるべきことがあるのかわからなかった。おそらくは水の流れのようなものなのだろう。たくさん流れ出ていく場所には、たくさん流れ込んでくるものなのだ。しかし、わたしは確実にその夢に蝕まれていた。それに気づいたのは夢を見始めて半月ほど経ったころだった。気が付くと書類をタイプする途中で手を止めてぼーっとしていることが増えた。始めのうちは自分で気づくだけだった。おそらく、それほど長い時間ではなかったのだろう。はたから見れば、なにか考えているのかな、というくらいの。しかし、日が経つごとにその寸断は度を越えて行った。何度か同僚や上司に注意された。少し疲れているんじゃないのか、と、上司は気を使ってくれた。わたしが常日頃仕事に入れ込んでいることを知っていたからだ。休みを取ったらどうだ、と、彼は言ってくれたが、わたしは突っぱねた。わたしが休んだらなにも動かないじゃないか、とつい言い返してしまった。少しイライラしていたのかもしれない。こんなになにもかもスムーズに動かないのは、初めてのことだった。上司も少しむっと来たらしい。わかった、しかし、次なにかあったら強制的に休ませるからな、仏頂面でそう言って立ち去っていった。それから数日後、わたしは職場で気を失い、救急搬送された。

 

極度の過労、医師はそう告げた。極度の過労。「極度」の「過」労…なんて馬鹿げた言葉だろう?わたしは反駁した。疲れてなどいない。医師は静かにわたしを制止した。疲れているんです。あなたの意思がそれを認識することを拒んでいるだけなんです。いいですか、これは紛れもない過労死の前兆です。無期限で休みを取ってください。いろいろなことが当たり前に感じられるようになるまでです。ご自身でそれがわからないなら時々ここにいらして下さい。付き添ってくれた上司は、ほらみろ、という顔をしてわたしを見た。わたしは初めて混乱していたのだと思う。ただぼんやりと彼を見つめ返すばかりだった。

 

家に戻り、貰った薬を飲むと異様なほどの睡魔に襲われた。首根っこを太い腕でベッドに押さえつけられているかのようだった。わたしは一度寝返りを打っただけで深い眠りの中に陥った。その眠りは十時間近く続いた。夢の中でわたしは、ひとりの兵士の一生を生きた。生まれてから成長し、反抗期を迎え、短い恋をし、戦場で少女を撃ち殺したあと小銃で自分のこめかみを撃ち抜いて死んだ。死ぬときには気が狂っていた。ゲラゲラともの凄い声で笑いながら一瞬で死んだ。死んで、地面に倒れてからも笑い声は続いていた。わたし自身が夢を見ながら笑っていたのだった。わたしは悲鳴を上げて枕を放り投げた。枕はサイドテーブルの置時計をなぎ倒してフロアーに落ちた。薬を飲んでは眠り、夢を見て、笑いながら目覚め、酷く荒れた。数日後には叫びながら自室の壁に頭を打ち付けていた。額が破れ、だらだらと血が流れた。なぜだ?なぜこんな目に遭わなければならないのだ?この夢がなんであるかなんてどうでもいい。夢は夢に過ぎない。そんなただの夢が、どうしてこんなにわたしを蝕むのだ?どうしてわたしにこれまでずっと続けてきた暮らしを続けさせてくれないのだ?わたしは壁を殴りつけた。壊れたのはわたしの拳だった。

 

わたしはそれ以来荒れることはなくなった。ただ茫然とすべてを受け入れるだけだった。最小限の食事をして薬を飲み、夢の中で何度も殺して、死んだ。そのうち目の中に血が混じり始めた。どこを見ていても目の端に赤い血が流れるようになった。わたしはそれすらも静かに受け入れた。骨折の痛み止めと睡眠薬の相性は抜群で、わたしは起きて眠って薬を飲むだけの限定された命と化していた。その他のことはなにもしたくなかったし、もしやろうと思ってもまともに身体を動かすことは出来なかったであろう。そんな毎日が続くうち、わたしの身体をゆっくりと巣食って行ったのは、憎悪だった。わたしは夢を憎み、自分を憎み、仕事を憎んだ。そのどれかに仕返しをしたいと思うようになった。仕返しが可能で、成果を自分で確認出来るのは仕事しかなかった。わたしは闇サイトを利用して銃を何丁か手に入れた。そうしたサイトの撲滅に動いている人間を個人的に知っていた。大きな秘密を抱えているものはいつだって、誰にも話しちゃいけないよと言いながらほんの少しそれをおすそ分けしてくれるものだ。わたしがそれを悪用することによって彼に迷惑をかけるかもしれないと思ったけれど、いまはほとんど会う機会もなくなっていたのであまり気にはならなかった。休職してひと月半が過ぎたころ、わたしは出社時と同じ格好をして、パスを使って職場のあるビルに入り、サイレンサー付きの銃で仕事場の人間を一人残らず撃ち殺した。数十人は居たけれど実にあっけない作業だった。通勤ルートを移動している時のほうがやたらしんどかった。思っていたよりもすっきりとはしなかった。よく考えてみればどうしてこんなことをしたのだろう、というような感じだった。同僚たちの死体を踏みつけながらオフィスを出て、誰にも止められることもなく自宅に戻った。

 

薬を飲んで眠っているうちに逮捕されたらしい。目が覚めると病室に居て、刑事らしき男がベッドの足元側の角を陣取るようにパイプ椅子に腰かけてこちらを睨みつけていた。

「わたしたちが君を逮捕してから四日経った。」

彼は先にわたしの疑問を晴らしてくれた。治療をしながら取り調べが始まったが、わたしにはよくわからないとしか言いようがなかった。刑事は―西脇というらしい―もう一人の若い刑事と交代でわたしを見張った。せめて部屋の中じゃなくて廊下に居てくれればいいのに、とわたしは思ったが、わたしがそんなことを希望するわけにもいかないことは理解していた。薬のおかげで眠れないということはなかったが、寝入りばなとかそういうものを他人にさらすことはもの凄く抵抗があった。わたしは次第にストレスを溜めて行った。ある朝目が覚めたらわたしは拳銃を持って西脇を撃ち殺していた。西脇は転寝でもしたのだろうか?なにも知らないという顔のままで死んでいた。すでに警官や刑事に囲まれており、銃口を向けられていた。わたしはとりあえずふらふらと後ろに倒れ込んでもう一度眠った。

 

目を覚ますとトイレとベッド以外何も無い真っ白い部屋に監禁されていた。精神病院だろう、とわたしは思った。このままここに死ぬまでいるのだろうか。おそらくは監視カメラで行動を把握されているに違いない。わたしはしばらくの間大人しく過ごした。驚くべきことに診察すら扉越しだった。食事を通すための小窓がドアの下部にあり、そこから処方された薬なども渡された。そういった場所から抜け出すにはどうすればいいのか?わたしは古い映画で見たことがあった。まさかそんな記憶が役に立つなんて考えもしなかったけれど。ある日わたしは悲鳴を上げながら自分の指を噛み切り、痛い痛いと泣いた。大勢の大人が慌てて飛び込んできた。私は両脇を二人の男に担がれ、処置室へと連れて行かれた。処置が始まった瞬間に医者を蹴り倒し、暴れたいだけ暴れた。机の上にあった鋏を使って、何人かを刺した。二人死んだ。

 

わたしは例外的に、裁判を待たずに死刑宣告を受けた。これは手に負えない、というわけである。わたしのような人間に対処することは、現代の法律では無理なのだろう。最後に食べたいものはあるかね、と聞かれ、にいっと笑いながら、「あんたの首」と答えてみた。牧師も看守も、目を閉じて首を横に振るばかりだった。

 

 

 

というわけで今、わたしは、袖が後ろで繋がった服を着て、頭に厚地の袋をかぶせられ、絞首台の上に立っている。袋はおそらく使い捨てなのだろう。新品の素敵な臭いがする。空調の音だろうか、シーンという音がずっと鳴っている。馬鹿みたいな表現だが、本当にそういう音がしているのだ。その他にはどんな音も聞こえない。わたしの心は静かだった。おそらくは別室で、運命のボタンを押す誰かが緊張しているのが感じられる。ただそれだけの世界。明確な意図を持った、ほんの一瞬の、静かで、何も無い。わたしは清々しい気分だった。もう夢のことなんてどうでもよかった。わたしは戦って、この場所を手に入れたのだ。それはわたし自身の勝利だった。憧れの場所をわたしはついに手に入れたのだ。

 

 

 

 

足元が、いま―。

 

 

 

 

 

                      【了】


はじめから手遅れ

2022-11-21 14:37:46 | 小説

 

 

ぼくにしてみればそれはとても上手く行っているように思えたし、彼女にしてもそう考えていると感じていた。でも、こうして突然ぼくの前から消えたということはきっと、ぼくの方になにか問題があったのだ。そこに疑うべき部分はなかった。他人との関係性に関して、ぼくには非常に希薄というか、まるで興味を持たないといってもいいくらいの感覚があり、そのせいであまり誰かと深く関係を持つということがなかった。それでも何人の人間かはぼくという存在にどういうわけかひどく興味を持ってくれて、友達になったり恋人になったりした。彼女は特に果てしない藪を丁寧に擦り抜けるみたいにぼくの深い部分にまで接近してきたので、お互いに深い信頼関係の下、夫婦になったはずだった。ぼくらの生活は、ぼくの叔父が持っている古い日本家屋で始まった。叔父は少し障害があって、ホームの方で世話になっていた。とにかくどんなことでも溜めずに話し合おう、生活を始めるにあたってそれだけがぼくたちの数少ないルールのひとつだった。どんな小さなことでも解決するまできちんと言葉を交わしたし、そのたびにぼくらの中は穏やかなものになっていった、はずだった。それがまさか、四年目にしてこんなことが起こるなんて、それはとても馬鹿げていることだった。居なくなった、と気付いてまず最初にぼくがしたことは家探しだった、彼女の寝室(ぼくたちは寝室をそれぞれ別に持っていた)にも、リビングにも、彼女は何も残していかなかった。それでぼくはこれはマジなやつだと思って、何人かの共通の知り合いに連絡を取ってみた。誰一人彼女の居場所を知らなかった。あるいは、知っていてもぼくに教えようなんて考える人間は居なかった。自分が知っている限りの彼女の友達にも連絡を取ってみた。その結果分かったことは、ぼくはあまり彼らに好かれていなかったのだということだった。彼女たちの言葉の端々に、ぼくを嘲笑するような響きが隠れていた。おそらくはぼくの方に問題があるのだろう。思えば彼女たちが家に遊びに来たのは初めのうちの数回程度だった。ぼくの両親はすでに他界していたので、彼女の実家の方に連絡をしてみようかと思ったけれど、とりあえず少し様子を見てみることにした。ひととおり電話を終えてしまうと、それでもうすることを思いつかなかった。探しに出る?どこに?私物を全部持って近場をうろついているなんて思えなかった。空港や駅に電話をして、彼女が利用した形跡があるかどうか調べてみようかとも思ったが、そんな安手のドラマみたいな話に彼らが協力してくれるとも思えなかった。ぼくはとりあえず昼飯を食べながら今後のことを考えることにした。冷蔵庫にあるものを適当に刻んで、冷飯を使ってピラフを作って食べた。食べると眠くなったのでソファーで転寝をした。

 

夕方、玄関のベルの音で目が覚めた。ぼんやりした頭で出てみると、彼女が買ったものらしかった。ぼくは礼を言ってリビングに戻った。化粧水かなにかのようだった。一瞬、開けてみようかと考えたが、そんなことをしても彼女の居場所が書いてあるわけでもない。ひとまずそれは彼女が使っている化粧台の上に置いておいた。家を出て行こうというときに、ネットで買物などするだろうか?要するにこれは、彼女にとっても予期せぬ出来事だったということなのだろうか。ぼくは違う可能性について考えてみた。なにかしらの事件が起こった。誘拐や殺人。考えてみるだけでゾッとした。だけどすぐに、それは現実感がないと思った。家の中に荒らされた形跡は無いし、なにしろ彼女の持ち物があらかた無くなっているわけだから。それは自発的に行われた行為だと結論づけるのが妥当だった。ぼくは掃除をすることにした。掃除機を出して、家じゅうの床にかけた。それから雑巾を出して、フローリングの部分を拭いた。それが済んでしまうともう夕食の時間だった。ぼくはパスタを茹でて簡単な具を炒めて合わせた。どうでもいいテレビ番組を見ながら食べた。タレントたちはみんな無理をして笑っているように見えた。

 

三日目にぼくは、彼女の実家に電話をかけ、実はこういうことが起こっている、と告げた。彼女の母親は心底驚いたようで、それはつまりそこにも彼女は居ないのだということを意味していた。「警察に行こうか迷っているんです。」彼女の母親は、自分も心あたりに連絡してみるからそれは少し待ってくれ、と言った。わかりました、とぼくは答えて電話を切ろうとした、ごめんなさいね、と彼女の母親は言った、いえ、とぼくは答えて電話を切った。謝らなければいけないのは多分ぼくのほうなのだ。

 

ひと月が過ぎた。彼女の行方は依然として知れなかった、どこかで見かけたとか、実はわたしの家にずっと居るの、なんて話もまるでなかった。彼女はまるで荷物と一緒に完全にこの世界から消え失せたかのように思えた。警察にも顔を出してみたが、事件性が感じられない限り積極的に探してくれることはなさそうだった。子供ではないのだ。ぼくは仕事から帰るたびに空っぽの部屋を見てため息をついた。そして代り映えのしない食事を作っては一人で食べた。テレビはもうつける気がしなくて、CDをひたすら流していた。テレビ番組というのはある意味で、標準的な幸せのエッセンスなのだ。

 

 

三か月目の日曜の朝、ぼくの孤独は突然に終わった。小さな庭に出て洗濯物を干していると、どこかで木の枝がたくさん転がるような音がした。ぼくは音の聞こえてきた方を見た。数十年前、この家がリフォームされる前に使われていた風呂と便所のある小さな小屋があった。鍵が壊れていて開けることすら出来ない小屋だった。そんなものが庭に在ること自体ぼくは忘れていた。ひどい胸騒ぎがした。洗濯物を放り出してぼくはその小屋へと走った。小屋の木戸はなにかでこじ開けられていた。引き開けると嫌な音を立てて外側へと倒れた。中には、天井から吊るされたロープに引っかかって揺れている頭蓋骨と、床に散らばった白骨があった。念入りに磨いたみたいに真っ白だった。散らばった骨の後ろに、大小ふたつのスーツケースと、一足のパンプスと、倒れた椅子があった。ぼくは、膝から崩れるように地面に落ちた。いつまでかかってるのよ、と言わんばかりに、真っ白な骨に空いた真っ黒な眼窩がそっぽを向いた。ぼくは茫然と、彼女が消えてからの数ヶ月を思い返していた。

 

 

 

 

―なんてこった。

 

 

 

 

                       【了】