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ケモノの夜

2019-06-30 22:48:00 | 















断首されたばかりの蛇のようにのたうちながら俺を封じ込めようとそいつは現れた、俺は逃れる隙があるかどうか見極めるためにそいつから目を逸らさないままで立ち尽くしていた、そんな風に対峙してからどれくらいの時が経ったのだろうか、忙しなく動いているくせに近寄ってくる速度はずいぶんと遅かった、無駄な動きが多過ぎるのだ、と俺は思った、意図が多過ぎると動作は空回りが多くなる、そいつにはあまりにも俺を取り込んでやろうという意図があり過ぎた、おかげで俺は早くからそいつに気付くことが出来ていた―だがどういうわけか俺の身体には退くということが許されておらず、脚を動かそうとしてもほんの少し肩が揺れる程度だった、あらかじめプログラムされたことであるようにそんなことしか出来なかった、なので俺は逃げる事はとうに諦めてこの訳の判らないものがじりじりと近付いて来るのをただただ眺めているのみなのだった―これは夢なのだろうか、と俺は思った、あるいは静かに静かに俺の身体を蝕んできた狂気かとうとう俺の意識ととってかわるときが来たのかと、それともそんなことの一切を飛び越えて人生の終わりが俺の首根っこを掴みに来たのかと―もちろんそこに突っ立ってあれこれと考えてみたところでこの状況がなんなのかなどと理解出来るはずもなかった、情報が少な過ぎる、と俺は考えた、視覚的に、聴覚的に、感覚的にこの身に飛び込んでくるものが、ここにはあまりにも少な過ぎた、天国なのか地獄なのか、地球なのか宇宙なのかさえ判断がつかなかった、オーケー、場所は重要ではない、と俺は結論づけた、重要ではない―もちろん差し当たっての最重要事項は、相変わらず忙しなくのたうちながら俺の方へとやってくるそいつのことだった、俺は今度は前に向かって踏み出してみようとしてみたが、やはり同じように脚はぴくりとも動かなかった、ここに突っ立ってそいつと相対する、それは逃れられないことのようだった、それは逃れられないことのようだ、と俺は脳味噌にメモを取った、それにしてもあれはいったいなんなのだろう?前にも言ったようにそれは断首された蛇のようにも見えたし、出鱈目に操作される縄跳びの縄のようにのたうつさまからはウツボのような凶暴さも感じられた、俺を食らうつもりなのだろうか?頭らしきものがまるで見当たらないのに―?軟体動物みたいに、あるいはヤツメウナギみたいに、ここからでは判別出来ない位置に頭部を隠しているのだろうか?でもあの動きは筋肉によるものに見える、地球上の生物とはまるで構成が違うものだと考えることも出来る、だが、やつの在り方にはどこか、よく見慣れたもののような気がしてならなかった、そのとき、もうひとつの考えが脳裏によぎった、もしかしたらあれは生きものでもなんでもなくて、そんなふうに作られたおもちゃのようなものなのかもしれないという可能性だ、そして俺はなにもわからなくなった…選択肢をたくさん用意する考え方は心を育てるには申し分ないけれどもこんな時にはまるで役に立たないな―あれがなんなのかすらわからないのに、ここでこんなことをあれこれと考えているなんてまったく無意味なことだ、俺はそれ以上考えることを止めることにした、目を閉じて両手を広げ、そいつが俺の身体に到着するまで待ってみようと考えた、そのうえでなにかしらの考えが頭に浮かぶのなら、それを実行してみればいい、もしもこれが原因で死んでしまうのなら、それはそれまでということだ…俺はすべてを投げ出して状況に身を任せた、目を閉じたときに気付いたのだが、この世界にはまったく音がなかった、ただただこちらに近付いて来る強烈な意図だけがあった、これはぞっとしないな、と俺は考えた、でもそれ以上感想を持つことはしなかった、やがて強い衝撃がやって来て、俺は一瞬天地がわからなくなった、よろめきながら目を開けるとそこは駅のホームで、時刻は深夜らしかった、俺をそこまで運んできたのだろう最終電車が、警笛を短く鳴らしてどこかへ走って行こうとしていた、俺は両手で顔を拭って、その手を擦り合わせた、自動販売機で水を買って、駅員が驚いて振り返るくらいに喉を鳴らしてそいつを一気に飲み干した、梅雨の合間の短い晴間の中に立ち込めた湿気が身体にまとわりついて、その感触はまるで盛りのついた雌の蛇のように冷たくて重たかった。












ばらばらに固まり、渦巻いて飛び散っていく

2019-06-28 23:33:00 | 
















濡れた髑髏が歯の奥で嗤うような声が頭の片隅にいつも聞こえている、それは湿度を伴うものであり、受信後に生じる感情には生憎と名前が付け難い…蛇の這いずる音を集音装置で拾ったものをある程度の音量で聞いているようなものだと言えば少しは想像がつくだろうか?とはいえ、そんなイメージを促してみたところで、そしてそれが上手くいったところで、あるいはしくじったところで、どんな成果も得られるものではない、他者の内面に潜むものをこうだと誰かに定義してみせることにどんな意味がある?どんな意味もない―けれど、こういうものだと働きかけてみることには、もしかしたらある程度の意味はあるかもしれない、思えばそんな曖昧なものととことんつきあうために、俺はこんなものに手を付けたのではなかったか…いや、そこらの青二才がよく口にするような、コミュケーションツールとしての意図はまったくない、重箱の隅をつつくように探してみればもしかしたら欠片ぐらいは見つかるかもしれないが…俺は結局のところ、自分自身と話がしたいだけなのだ、様々な理由のために表出することがままならぬ俺自身と、心ゆくまで語り合いたいだけなのだ、俺は初め、書いている連中はみなそういうものだと思っていた、でもそこそこ沢山の似たものたちと話すうちに、意外とそういうものでもないのだということを知った、ただの虚栄心がために、やたらと奇抜な形態を次々と用いるだけのものもいたし、塵芥のようなものを他者に噛みつくことでまるで偉いもののように見せようとしているものもいた、もっとも、噛みついたところで生温い歯茎の感触が感じられるだけに過ぎなかったが―あるいは勉学としてそうしたものの心得があり、その技術を磨きたいというものもいた…そんなやつは泥団子でも磨いていればいいのにと個人的には思うのだが…あるいは純粋に、己の愛するものに近付きたい、あの人のように書きたいという純粋な憧れで書いているものもいた、ただたいていの場合、そうしたものは純粋であるだけに始末が悪かった、ともかく―理由はそれぞれ様々だということだ、俺はいくつか批判めいたことも口にしたが、こんなものはただの軽口に過ぎない、余計なことではあるが聞いてほしい、己の主張のために他者を利用するものは、やればやるほど自分を疎かにしてしまうものだ、ブランド物を全身に纏っている人間が、おおむね大した人間ではないのと同じことだ、表面的な目的は表面的な結果にしかならない、それはもちろん実力とは関係のない話だ―時折、ひとりの人間の中に数人の人格が潜んでいる、なんていう人間が話題に上るけれど、よく考えてみればあれはそんなに珍しいことではない、少なくとも俺にとっては、ただ、やつらにとってはそれは自分と別人の集合だけれど、俺にとってはいくつもの俺の集合なのだということだ、俺の場合は、基本的には三人の俺で動いている、動く俺と、見つめる俺と、考える俺だ、そいつらのそれぞれの筋道がきちんとまとめられたものになるために、こうした作業が必要になるわけだ、そいつらは日常の中ではまったく交わることがないからだ、それぞれが勝手にやっている、そのままではなにもかもがとっちらかってしまう、もしかしたら、とっちらかった結果が別人として存在してしまうということなのかもしれないな…特に考える俺はタチが悪い、終始何事かを考えている、時間軸すら飛び越えている、そんな無軌道なものの中から常に何かが生まれようともがいている、もしかしたらやつが一番忙しい俺なのかもしれないな、だけど、そうだぜ、考えることをきちんとやらないなら人間として生まれてくる必要すらないじゃないか?仕込まれた芸をこなして餌をもらうだけのサーカスの犬にはなりたくはない―もっともそういうやつらはやたらと褒めそやされたりするものだけど…まあどんな形であれ満足が得られているのなら、俺がとやかく言うことでもないけれどね―そう、これを読んでいるもの好きな連中は、決まってある種の速度を感じていることだろう、それは、俺の思考の速度だと捉えてもらって構わない、こうした連なりを描くとき、俺は考えることをしない、窓を開けて空気を入れ替えるだけだ、俺の中に日ごろ溜まっている思考の数々が、こうした機会を得て溢れ出してくる、それにある程度の筋道をつけてやっているだけなのさ―つまり俺がやっているのは思考の記録なんだ、もちろん全部は拾えない、現実世界である程度の集中でもって拾える限りのものだけ拾っているわけだ、地震の揺れを計測するアナログな機械のことを知っているか?揺れを感知すると針が動いて、針先についたペンが曲線を描くやつさ、ああしたものだと思ってくれればいい、つまりそう―俺自身の、揺れを、記録する―わりかし上手いこと言ってるな、俺、ちょっとした冗談みたいにも見えるし、リズムもいい、さあ、そろそろ通信を切るときだ、いつだって日常は鉄砲水のように慌ただしいからね―。













ケロイドのような思春期を纏って

2019-06-24 23:14:00 | 





















思考が樹氷になるのではないかと危ぶまれてしまうほどの凍てついた夜の記憶が、どっちつかずの六月の夜に蘇るパラドクス、同じころに叩き潰したしたり顔の羽虫の死体は気付かぬうちにカラカラに渇いていた、艶加工された安価のテーブルの上でもう土にも還れない、大量生産の極みのような薄っぺらい紙に包まれてダストボックスに投げ込まれ、同じような運命を背負わされた仲間がたくさん居るだろう処理場への便をただ待っている、それを人生の縮図だなんて例えてみるのは簡単だけれど…今夜は不思議なほどに往来を行き来するものが少ない、先の週末の夜が奇妙なほど賑やかだったせいでそんな風に感じるのかもしれない、スケールは簡単に伸びたり曲がったりしてしまう、比較対象がないので変形に気づけない、そんな誤差を抱え続けたまま生きたものの真実は肥大し過ぎた宗教団体が唱えるお題目のようなものになってしまう、祈りに指針を設けてはならない、真っ直ぐ進もうと意識すれば、足取りは乱れてしまうものだ―思考は行動を補佐するものだ、思考から先に動いてしまっては本末転倒というものだ、頭でっかちというのはそういうことだ、歩き続けた先でたまに居所を確認するための地図のようなものだ、もっとも、それにはマーカーなど記されてはいないし、新しく記すことも出来ないけれども…白紙のページが静かに降り積もり続けるような時間だ、新雪に埋もれるように俺はそこに横たわっている、生者の中でもっともカタコンベに近付けるのはこの俺だ、それには多重的な意味があり、誇りのようでもあれば自嘲的でもあり、あるいはその両極の間に含まれるすべての感覚が含まれている、本当の詩を言葉で表そうとしてはいけない、それが心理なら音楽は楽譜を見るだけでいいということになってしまう、俺の言ってること判るかい、言葉は楽譜だ、詩はボーカリゼイションなんだ、あるいは様々な楽器のプレイだ…それは技能で語られてはいけないが、感情だけが特出していてもいけない、高い温度か低い温度かどちらかだけではいけない、おそらくそれは一番変動し続けているものになるだろう、それは定まらないままに定義されなくてはならない、旋律の云々や、歌唱の云々、演奏の云々だけで語られるものであってはいけない、どこか一部にフォーカスを定めてしまうのは真剣なだけの愚か者がすることだ、それはトータルで語られなくてはならない、トータルで受け止められなければならない、見知った誰かを新しく知ろうとするみたいに検分されなくてはならない、自分以外の個体を自分が決定することにはまるで意味がない、それは解答を得るための行為であってはならない、すべては当たり前に起こる現象に過ぎない、ほら、先に言った通り―動いてはいけないものから動いてしまうとすべては有耶無耶のうちに終わってしまう、結論は賢者の手段ではない…そんな解答欄には必ず斜線が引かれてしまうだろう―梅雨時の湿気は容赦なくまとわりついて来る、縦長の俺の家ではエアコンの恩恵はかろうじて感じることが出来るくらいだ、だけどそれぐらいの環境でないと、体温は正常ではいられない、判るだろう?アンテナを意識することだ、受信している情報がひとつだけだなんて考えないことだよ、一局しか受信しないラジオなんて見たことあるかい?俺が言ってるのはそういうことさ…ヘリのローターのようなアイドリングをしているバイク、あれはそこそこ大きいやつだろう、アクセルを吹かせば走り出せる、でも、それはやつがそういうシステムを構築されているせいだ、俺たちはアクセルを持つべきではない、あるいはアクセルがあることを過信してはならない、スピードスターのつもりで暴走車に成り下がってるやつなんてごまんといる、俺はアクセルを緩める…愚かしいものを身をもって知るために思春期が用意されている、でも俺はその機会を存分に生かすことは出来なかった、俺は愚かになれなかった、そういえばこれまでずっとそうだった、俺には自分以外に崇めるものがいなかった、これは自惚れではない、それがつまり指針というものだ、俺の指針は俺の邪魔など決してしなかった、俺にはどんな信心もないが、神を知っているし、祈ることも出来る、それは俺が俺自身から始まっているからだ、俺自身は他のものであったことがないからだ、そこには様々な理由があるだろう、意識的なものもあるし、無意識的なものもあるだろう、けれどそれが俺自身というものに集約されたわけは、俺がなにも見失わなかったせいなのだ、テーブルが天井灯を跳ね返している、その跳弾は銃口へ返る、俺はその間抜けな銃口を見上げる―白色電灯しか選べない理由がこんな夜の中には落ちているはずなのだ。















饒舌なハレーションの朝

2019-06-20 23:46:00 | 













昨夜の酷い雨が連れてきたボロボロの木の枝が、川の分岐に設えられた水門の脇でおざなりな寝床のように積み上げられている、そこで眠っているのは生まれたばかりの数匹の子猫の死体だった、明けたばかりの木曜はすでに薄気味悪いほどに晴れ上がっていて、梅雨時の執拗な湿度とともに不快指数の針を極限までに振り切ろうと目論んでいた、急いで飲み干したインスタントコーヒーのせいで喉は焼け付いている、正直言ってそんなにいい気分じゃなかった、腰までの低い堤防の側を山裾の広い道路の方へと歩いている俺は控えめな殺人者みたいな感情を人知れず尖らせていた、年代物の錆びついたスーパーカブが放置されている更地を通り過ぎて閉じたシャッターの前に自販機を並べている商店だった平屋の前に置いてあるコカ・コーラのベンチに腰を下ろし、数分前に振動したスマートフォンの通知をチェックする、わざわざ知らせてもらうようなことでもない、でもsiriは俺の希望にはたいして興味がないようだ、スケジューリングに特化した秘書のようにそんなものを押し付けてくる、まあでも、特に不快ってほどでもない、設定をいじればなんとでもなることなのかもしれない、でもそんなことに時間を使いたくない、俺はもう一度歩く、まだ時間が早いせいで大通りを通過する車はそんなに多くない、通勤ラッシュと帰宅ラッシュ時以外の時間のこのあたりは、少し賑やかなゴースト・タウンとでもいうようなムードを漂わせている、そして歩道を歩いている連中の幾人かはゴーストよりも死んでいるみたいに見える、彼らが背負っている人生はまるで、排水口に捨てられたまだ目も開かない子猫のそれを何倍にも引き延ばしたフィルムみたいに見える、俺は十字を切る、信仰などないがくせのようにそうしてしまう、誰かのためというよりは自分のためだろう、魔よけみたいなものだと勘違いしているのだ、なにかの映画で観た仕草だった、真似しているうちに自然にそういうタイミングで出るようになった、ただそれだけのことだ、と言ってもいいし、もっともらしい意味を考えて付け足してみてもいい、真実の楽しみ方には実際、こうするべきなんて決まりごとはとくにないのだ、スピードを出し過ぎた一台の軽乗用車が自転車のみすぼらしい中年の男を撥ねる、白髪交じりの長髪の痩せた男は路上に投げ出され、寝返りのような動作をしたのちぴくりとも動かなくなった、血は一滴も出なかった、あれは死んでしまったかもしれない、運転席から降りてきた若い女は左手に煙草を持って呆然と男を見下ろしていた、激しいブレーキ音を聞きつけた近くの住民が集まってなにかと世話を焼いている、集まってきた連中の誰もが、それが初めてではないように見えた、若い女もまたぴくりとも動きはしなかった、俺はそこを離れ、閑散としたコンビニでしばらく漫画雑誌を読んだ、それが読みたいわけではなかった、ほんの少し立ち止まる理由づけのようなものだった、バックヤードで女の泣声が聞こえた、初老の太った女がそこから出て来て商品の陳列を始めた、バイトが激しく叱られでもしたのだろうか、俺はバックヤードに入って行って泣いている女を慰めてやりたかった、気にすることはないよ、彼女にはこれが世界のすべてなんだ、そんなことを言って、まあ、ことが分からない以上、すべては俺の妄想でしかないけれど、泣声がとまらない限り居心地は良さそうではなかった、早々に本を閉じて店を出た、悲鳴を聞いた気がしたが気のせいだと思った、もう少し歩くと無人駅があるはずだった、そこから予定のない旅に出るつもりだったのだ、が、時刻表を見ると電車は出たばかりで、次が来るまでには一時間近くあった、だから俺は駅を出て、どうするべきかとしばらく考えていた、俺がさっき歩いてきた方向から、こちらへ向かって歩いて来る若い女がいた、高校生か、あるいは卒業したばかりか、ともかくそれぐらいの年齢の女だった、少し茶色がかった髪をショートボブにしていた、背は高くなかったが、痩せているせいでやたらすらっとして見えた、俺と目が合うとぺこりと頭を下げて、小走りに駆け寄ってきた、電車、もう出ちゃいましたか、と彼女は聞くのだった、ああ、と俺は答えた、さっき出たばかりみたいだ、ああ、と女は落胆の声を上げた、「この時間、一時間に一回しかこないんですよね」「みたいだね」それから俺たちは少しの間沈黙した、俺たちに出来る会話といえばそれだけしかなかったのだ、「次の電車、乗ります?」「それを考えているところだね」「もし、よかったら、廃屋に行ってみません?」女はそう言っていたずらっぽい笑みを浮かべた、「廃屋があるの?」ええ、と女は頷いた、「その林の奥に」女は単線の線路の向こう側の林を指差した、「興味あるんだけど、ひとりじゃ怖くて」なるほど、と俺は頷いた、行く理由もないが、断る理由もなかった、そして、時間はたっぷりとあった、いいよ、と俺が言うと女は嬉しそうな顔をした、そうして俺たちは駅を抜け、林の奥へと分け入った、十分ほど緩い斜面を上ったところに、それはあった、それは古い日本家屋で、縁側に面した窓がすべて腐って落ちていた、けれどまだ柱はしっかりしていて、お邪魔するのに問題はなさそうだった、俺たちはのんびりとその家を見て回った、「この家で」女は話し始めた、「昔殺人があったって話です」よくある話だ、と俺は答えた「廃墟の数だけ人死にと幽霊の話がある」俺がそういうと女は笑った、それから、ですね、と頷いた、この台所らしいですよ、と女は、俺たちが立っている床を指差した、いまはないんですけど、と女の説明は続いた、「流しに血のついた包丁が置かれていたっていう話です―こんな感じで」女はパーカーのポケットから血塗れのナイフを取り出してそこに置いた、リアルな小道具だ、と俺は称賛した、うふふ、と女はいままでとは違う感じで笑った、「苦労したんですよ、これ」ここに置いていくのかい、と俺は聞いた、うん、と女は頷いた「ちょっとしたいたずらです、こういうの喜ぶ友達がいるんで」なるほど、と俺は言った、それから俺は彼女のスマホで記念写真を撮ってやった、彼女は子供みたいにはしゃいでいた、そうこうしているうちに列車の時間が近付いていたので、俺は彼女にそう告げた、電車に乗るかどうか、決めました?と彼女は聞いた、今日はもういいな、と俺は答えた、「この廃屋で今日は十分だよ」そうですか、と彼女は少しがっかりしたように俯いた、「一緒にどこかに行くのもいいかなって思ったんですけど」一人旅派なんだ、と俺は、いままで何人もに言ったことのある台詞を返した、あぁ、と女は納得の声を上げた、それから俺たちは駅で別れた、今度会ったらどこか行きましょうよ、と彼女は言った、そうだな、と俺も答えた、二人とも三分の二くらいは冗談だった、駅を出て、しばらく歩いていると電車の音が近付き、離れて行った、大通りからは見ることは出来なかった、そのまま歩いているとパトカーがサイレンを轟かせながら数台、通り過ぎて行った、俺は突然、コンビニで聞いた悲鳴みたいなものを思い出した、バックヤードで泣いていた女の声、血塗れのナイフ…確信はなにもなかった、けれど、コンビニの前まで戻ってみる気にもなれなかった、陽射しはだんだんと強くなっていて、いつの間にか俺は汗だくだった。









鳥たちはレクイエムを知らない

2019-06-09 22:18:00 | 























白木の、長く伸びた廊下、そこに初夏の日差しを四等分して落としている窓は古い木枠作りで、ねじ込み式の真鍮の鍵でしっかりと止められていた、その光景は、ノスタルジーとはまるで違う種類の、記憶の生き方とでも呼べそうな現実だった、教室への扉はすべて施錠されていて、中へ入ることは出来なかった、もしも、入ることが出来たとしても、後方に積み上げられた木製の机と椅子のモニュメントがあるだけだけれど…わたしの、ソールが少し厚めのスニーカーは、そんな光景の中を静かに踏み荒らしていた、役目を終えてからもう三十年は経つ建物なのに、歩くことによる軋みはまったくなかった、ごく最近まで、管理されていたのかもしれない、いまは放置されているということだったが、まだそんなに知られていないのか、破損などはひとつもなかった、落書きもだ―わたしは、ひとつひとつの扉を確かめ、開けられるものは開けて中を覗き込み、足を踏み入れた、残留物はほとんどなかった、鉛筆が床に転がっていたりとか、そんなものだった、HB、と金文字で記された緑色のそれは、なぜかそこで見たものの中で一番、わたしの心の奥をキリキリと刺した、大きな建物ではなかった、あと半時間もあれば、二階も見終えてしまうだろう、そう思いながら、二階への階段を上った、踊り場の窓から、校庭に止めたわたしの軽四が見えた。仕事の途中なのだ、一瞬だけそんなことを考えたけれど、すぐに忘れた、どうせ、もうずぐ辞める仕事なのだ、少しくらいサボったところで、誰になにを言われることもないだろう、いままで糞真面目にやってきたのだ、どんな努力も返ってこないそんなところなのに…二階に上がると、少し空気が冷えた気がした、山の中だからだろうか?それにしてもこの温度差は不自然だった、なにか、そういった効果を得るための特殊な構造の建物なのだろうか?でもなんのために?一瞬、引き返そうかと思った、実際、そうするところだった、でも、わたしをそこに留まらせたのは、そして先へと進ませたのは、廊下の奥から聞こえてくる静かな歌声だった、メロディには聞き覚えがあったが、日本語の歌詞ではなかった、英語でもなかった、どこの言葉だろう?「夢路より」という歌だった、廊下のいちばん奥、第二音楽室と書かれた部屋からそれは聞こえていた、わたしは急いではいけない気がして、一階でしていたのと同じように、ひとつひとつの部屋を確認しながらその部屋に向かって行った、きっとあの部屋の扉は開くだろう、そんな気がした、その、おそらくは女の子であろう歌声の主は、いったいどこからここに来たのか、どうやって来たのか、どうやって帰るのだろうかと、気にすれば気にするべき点はいくつもあったが、そのときわたしはそんなことをまったく気にしたくなかった、ただ不思議と、吸い寄せられるようにその場所へと向かっていただけだった、その歌声から、わたしは凄く綺麗なものを想像していた気がする、でもその部屋でわたしが目にしたのは、床中に散らばった鳩の死骸の羽を、ひとつずつ丁寧に毟っている少女の姿だった、わたしが驚いて立ちすくむと、少女は歌をやめてこちらを見た、西洋の絵本から出て来たみたいな少女だった、栗色の、肩よりも長いソバージュの髪、幼さをあまり感じさせない、鋭角な線の輪郭、大きな瞳は髪と同じ色だった、バイク事故で死んだ人形作家の作品のような少女だった、白く、フリルのついたふわふわのワンピースを着ていたことも、そんなイメージの原因には違いなかっただろう、少女は少しの間わたしを眺めて、それからにっこりと笑った、下唇が厚めの、小さな口だった、口紅をつけているかのような薄いピンク色だった、それだけに、その周辺にあるものがさらにおぞましく思えた、「こんにちは」と少女は言った、わたしも同じことを言った、上手く声が出なかった、ここでなにをしているのか、とやっとの思いで口にした、「きっと、空を飛ぶことが嫌いなの」と、少女は言った、わたしはその意味を上手くつかむことが出来なかった、いいのよ、しかたのないことなのよ、という風に少女は笑って見せた、それはやはり子供のする表情ではなかった、しいて言うなら、二百年は生きてきた魔女がするような微笑みだった、この鳥は、と少女は話を続けた、「わたしが殺したものではないの」こちらの窓を開けておくと、と、少女は外に面した窓を指さした「そこから突っ込んできて、廊下側の窓に激突するの」少女の指に従って廊下側の窓を見ると、廊下側のひとつの窓だけがひどく汚れていた、「そうしてここに転がるの、だからわたしは羽を取ってあげるのよ」やっぱりわからない、とわたしは首を振った「死んだ鳩の羽を毟ることがなんになるの?」少女は不意に真顔になった、本気で言っているのかしら、そう訝ってでもいるかのようにわたしの顔をまじまじと眺めた、「この子たちは後悔するのよ、どうして自分たちは空を飛ぶことが出来たのだろう、って」「だからわたしは羽を毟ってこの子たちに見せてあげるの、ほらね、もう飛ぶことは出来ないわ、って」それは筋が通っているようにも思えたし、通っていないようにも思えた、わたしはなにか絶望的な気分になって、話を変えることにした、「あなたはどこの子なの?このへんの子?」ちがうわ、と少女は言った、「ぜんぶ、ちがうの」そう言って少女は、スカートに溜めていた羽をすべて中空へと放り投げた、つむじ風に舞うように羽はうろうろとして、ゆっくりと床に落ちた―わたしは顔を上げた、そこに少女の姿はもう無かった、早い午後だったはずの窓の外には、インクで塗り潰したかのような闇で覆い尽くされていた。