ダイナーに置き去りにした昨日の心は椅子の上で干乾びていた、埃を掃うように手で落として腰を掛けると今がいつなのか分からなくなった、せめて注文は違うものにしようと思ったが結局同じものに落ち着いた、なにかした自分でも理解していない理由があってそれが選ばれているのだろう、人間なんて自分のことすらろくに知りもしていない生きものなのだ、マスターは俺の注文を聞くと、そうだと思ってたという調子で黙って頷いた、彼もまた逃れられない魂としてそこにいるのだという気がした、料理を作り始めたころには、きっとこんなうらぶれた店に落ち着くことなんて考えても居なかったはずだ、ソニー・ロリンズが小さな音で流れていたけれど、彼のゴージャスな振る舞いはおよそこの店には合っていなかった、チェット・ベイカーは無いのかい、と俺は尋ねようとしたけれど口にする寸前で飲み込んだ、あえてそれを選ばないでいる可能性だってなくはないのだ、余計な口は聞かないほうがいい、下手を打つとホテルの窓から落ちてしまうかもしれない、最後にホテルに泊まったのがどれぐらい前のことなのか思い出せなかった、いつ、どこで何のために泊ったのか思い出そうとした、夜は更けていたけれどまだ頭は働く時間だった、朗読会に呼ばれたのが最後だったかもしれない、でもはっきりそうだと言い切れるほどのものはまるで出て来なかった、水を飲めば思い出すかと思ったけれど、より曖昧になって煙のように消えただけだった、ああ、アンジー、と俺は小さく口ずさんだ、誰かが背後のピンボール・マシンで新記録を出したようだった、近頃は煙草を吹かす人間が減った、まあ、俺はもともと吸わない人間だけれど、この店で誰かが吸っている煙草は不思議なことにまるで気にならなかった、窓の外を見た、いっときは雨が降りそうな感じになっていたけれど、どうやらそんな気配はどこかへ去って行ったようだった、俺は何度か頷いた、そうさ、すべてのものは去っていくんだ、それは決まっていることなんだ、こうしてダイナーのカウンターでやり過ごすくらいしか、人間に出来ることは無い、夜は勝手に更けていく、そして夜であることが分らなくなった頃に、朝は人間の瞼を剥ぎ取りに来る、もの凄く静かな音と主に俺の注文した料理が来た、簡単なグリルだ、鉄板の上でソーセージや野菜が血気盛んな若者みたいにジュージューと油を跳ねている、何度目かの時からマスターは「熱いから気を付けて」と言わなくなった、俺は別に気にしてはいなかったけれど、もしかしたらそういうルールが彼の中であるのかもしれない、マスターとはこういう店で交わす定番の言葉以外を交わしたことが無い、デッサンの練習に使う木製の人形が、白いシャツにベストを着て、黒いズボンを履いて小さな低い声でお決まりの台詞を口にしながら同じペースで動き続けている、この店に来るようになってもう十年以上経つけれど、彼が慌てたり腹を立てたり悲しんだりしているところを見たことがない、もっとも、俺はこの時間にしか来たことが無いからそんな彼を知らないだけなのかもしれない、とはいえ、習慣を壊してまでいつもと違う彼をみたいと思うような意欲も無い、そもそも、俺は彼の名前すら知らないのだ、ある日突然誰かと入れ替わったとしても、この席で同じものを頼んで、コーヒーでも飲んで帰るだけだ、この店に通うようになってから家の台所はただ水が出たり止まったりするだけの設備に成り果てた、別に良いことでも悪いことでも無い、ただ俺の生活がそういう風に変化したというだけのことだ、俺は日中食事をすることが無い、夜遅く、仕事が終わってからここで摂る食事だけでエネルギーを生成している、薄汚い端仕事で、特別モリモリ食う必要が生じるわけでもない、すべてがただそういうこととして、誰も見向きもしない絵画のように現在の後ろに流れて行く、だからなんだ、それがなんだって言うんだ?俺はソーセージを食う、ニンジンを食う、パセリも食う、ジャガイモも食う、要するにステーキの付け合わせだけを食うようなメニューだ、ステーキの代わりに大きめのソーセージが入っている、鉄板で中途半端に温もったポテトサラダが密かな愉しみだ、気のせいなのかどうかよく分からないが、最近少しポテトサラダが多くなった気がする、自分で思っているより俺はそれが好きなのかもしれない、食後のコーヒーはもう頼まずとも終わる頃を見計らって出て来る、俺は時間をかけてそれを飲む、自分の人生がすべて、その苦みと共に飲み込まれて消えて行く気がする、きっと少し眠いだけなのだ、まともな人間ならベッドに潜り込もうとする時間だ、そんな時間に食事をするような人間はきっとどこかおかしいのだ、ピンボールに熱中していた老人が帰ってしまうと店は一気に静まり返った、ソニー・ロリンズは相変わらず余裕綽々で吹いていた、俺は珈琲を飲んで金を払った、いつもならありがとう、と小さな声で言うマスターが、その夜には違うことを呟いた、実は今日で閉めるんです、と、いつもと何も変わらない調子で彼はそう言った、そうなんだ、と俺はぼんやり答えた、突然過ぎてまるで本当の話に聞こえなかった、明日から俺はどこで食えばいいんだい、と俺は冗談めかして言った、あんたは信じないかもしれないけれど、と、マスターは前置きしてこう言った、「十年もウチに毎日通って食べてくれた客なんてあんただけなんだよ」それ本当?と俺は訊いた、マスターは真剣に頷いた、それからいつもより小さな声で、いままでありがとな、と付け足した、寂しくなるな、と俺は答えた、最後に俺たちは握手をして別れた、雨の気配はまったく無くなっていて、冷たく、強い風がうらぶれた通りを狼のように駆け抜けるばかりだった、ひとつげっぷをして、家までのんびり歩いて帰った、もう二度とその道を辿ることは無いのだと気付いたのは、ベッドに横になってからだった。
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