俺がキッチンで魚の鱗を飛ばしているころ、君は花壇の雑草取りに夢中になっていた、キッチンの窓は花壇の正面にあるので、俺は君のそんな実直なまでの姿勢を存分に眺めることが出来た、草花への愛情、美しく咲くものだけが生きることを許されるテリトリー、俺は花壇という存在を恐ろしいとさえ思った、とはいえこの俺だって魚を捌いている途中なのだ、誰のせいでもない、そんな歌があったな、だけど時々、本当にそうかななんて考えたりもする、すでに定められてることについて考えを放棄するのは愚か者がすることだ、もちろん、そんな疑問符に得心のいく答えが得られたところで世界が変わるわけでもない、あらゆるものを形骸化させながら荒地を走る観光列車、みんなもう新生児の存在すら信用してはいないだろう、この窓がそんな窓じゃなくてよかった、花壇の世話を続ける君が見える窓でよかった、俺はひとつ息をついて魚に集中する、実際のところ捌くのはそんなに上手くない、昔料理の仕事をしていたから何度かやったことがあるという程度だ、料理の仕事といっても出来合いを合わせて温めて味付けをするくらいのことだ、もちろん、それくらいのことでも人によって出来の良し悪しというものはもちろんあるのだけれど、俺はたまたまそういうことを上手にすることが出来た、でもそれ以上のことを覚える気が無かったからあまり特別偉くなったりすることはなかった、当然だ、金の為に時間をドブに捨てているんだ、仕事なんて幾つになってもそれ以上の価値を感じることはなかった、つまりそれは俺が正常だってことさ、いや、こんな言い方はやめようか、既存の価値観をカサに来て偉そうなツラをする風潮には何の興味もなかったってこと、プライドは自分自身の闘いの中で掴まなければ意味が無い、自分が欲望や思考の具現化によって視認してきたものだけが真実であり、俺のプライドなのだ、なんていうとそんなものには何の意味も無いとか、ひとりよがりなだけだとか、いろいろなことを言うやつが居る、そう、あいつらはそうした価値をコミュニティの中でしか見つけることが出来ないのさ、なんてことを考えているうちに俺は魚をなんとか捌くことが出来た、修学旅行で買ったペナントくらいには綺麗に出来ている、ああいう土産物ってひととき飾ったあとでしまい込んだら絶対二度と出て来ないんだよな、興味が尽きたところがお終いってことか、幸い俺は人生に興味を感じ続けている、自分のことを語るのに他人を必要としない、そしてそれはまだまだ深化し続けている、十年前に書いたものなんか恥ずかしくて読めないことがある、昔書いてたフレーズは今では必要無い、もっと洒落てるものを手に入れたからね、ここにあるものはいつだって新しい俺さ、気付けば君は花壇から姿を消していた、手入れは一段落したのかもしれない、今日は少し暖かいからきっと、シャワーを浴びてからこちらに来るだろう、そして俺が捌いた魚をどんな風に仕上げようかと考えながらこちらにやって来るだろう、俺は小さな皿に魚を並べて、ラップをかけて冷蔵庫に入れておいた、彼女は俺が勤めていたレストランよりも数ランクは上の店でウェイトレスをしていた、どういうわけか俺の造る料理を気に入って通っているうちに、というわけだ、店の前で偶然会って、あなたの作るお料理とても好きです、と言われた、俺はいやあ、出来合いの具だのソースだのに少し味付けして出してるだけですよ、と謙遜した、彼女は首を横に振って、そういうことじゃないんです、と、政治家の演説みたいに背筋を伸ばした、私のお店のコックさんたちはきちんと料理の学校で勉強してきた人たちばかりで、それはそれは良く出来たものを作ります、もちろんお客さんも満足して帰って行きます、でもそれだけなんです、毎日毎日品のいい人たちに品のいい料理を出しているだけです、私も何度か頂いたことがあるけれど、美味しさっていうのはグラム数やボイルの時間や火加減だけで決まるものではないと思うんです、あなたはお料理の勉強とかされましたか?されてないんですね、でもあなたのお料理にはなんていうか、気迫のようなものがあるわ、その上味も安定してるし、固過ぎるとか柔らか過ぎるとかいうことも全然ない、それは知識とかじゃないんです、人柄みたいなものなんです、と、彼女はまくしたてた、もの凄い情熱だな、と俺は返した、きっと凄く食べるのが好きな人なんですね、彼女は大きく頷き、はいそうです、だから、技術論で作る人は嫌いなんです、なるほど、自分では作るの?のめり込むのが怖くてあまり作りません、そりゃあ、いつか結婚とかするようなことがあれば、自分で作ることになるだろうなとは思いますけど…キッチンのテーブルで水を飲んでいるといつの間にか彼女が後ろに居た、案の定、シャワーを浴びて来たようだ、「どうしたの?考え事してたの?」ああ、と俺は答えた、「昔のこと思い出してた」
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