2日目は分科会です。
当初第一希望をしていた分科会には外れてしまいましたが、結果としてはいい分科会に出席できたと思っています。
分科会開始までまだ時間があったので、平和記念公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に行ってきました。
追悼空間
天井を支える12本の柱は過去と未来の時間をつなぐ象徴で、中央にある水盤は原爆投下時刻の8時15分を表し、水を求めて亡くなられた方への追悼するために捧げられています。
そんな空間の中で、爆心地から被爆後の景色360度のパノラマを見ていると、自分自身が不思議にその時間と空間にいるような錯覚がおき、呆然としばし立ちすくんでしまいました。
追悼空間の部屋から出た後、遺影コーナーや特設展示コーナーを見て回りました。
被ばく体験したひとたちの話がビデオで流れていましたが、まだ戦争は終わってないのだということを感じながら、その場をあとにして分科会会場に移動しました。
出席した分科会は“語り継ぐボランティアたち~未来の子どもたちのために~”。
最初に、被爆体験記朗読ボランティアの方による朗読。
朗読資料もあったのですが、ジッと耳を傾けて聞かせてもらいました。
自分がその場に居合わせているような思いに駆られてしまい、涙がついでてしまいました。
そのあとは、パネルディスカッション。
コーディネーターは広島大学の先生。
パネリストは、ヒロシマピースボランティアの方、被爆体験記朗読ボランティアの方、NPO法人水俣フォーラム事務局長さん、阪神・淡路大震災記念人と防災未来センターユース震災語り部の方でした。
◆ヒロシマピースボランティアの方の話を聞いて、知らなかった事実を知ることができました。
当時、広島から疎開していた小学校3年生以上の多くの子どもたちは、原爆投下されたことで帰る家や家族を失い孤児となってしまい、親戚に引き取られたり、施設(定員がごくわずか)に入所したりする者がいた一方で、余儀なく路上生活をしなければならない子どもたちがたくさんいたのだそうです。
炊き出しをしてなんとか子どもたちを助けたいと思って活動されていた方たちがいましたが、子どもたちに用意できるのも全体の4分の1程度の人数分。そんな中、夏から冬になり、餓死や凍死していく子どもたちも多数でたのだそうです。
そんなときに荒れ果てた土地に目をつけたやくざが九州や大阪から入りこみ、孤児の面倒をみて、というといい救済話のように思いますが、決してそうではなく孤児を働かせて儲けを奪うといった、そんな厳しく辛い中で望まなくても生きていくために仕方のない環境があったということです。
やがてやくざの抗争が起こり、それに巻き込まれてやはり多くの孤児たちが亡くなったのですが、この事実を知らない人が多いとのことでした。
朝に立ち寄った祈念館の遺影コーナーに写真や名前が残っているひとたちがいる一方で、誰の記憶にも留められず亡くなっていった子どもたちもいたということをきちんと受け止めていかなければと思いました。
◆被爆体験記朗読ボランティアの方からは、立ち上がった経緯(市長による「記憶」の継承展開)や活動内容などを聞くことができました。
中でも事前に平和学習をしているひとに朗読するときと、そうでないときのギャップがあるので、目線を合わせていく工夫や配慮が必要だという話をされていたのが印象的でした。
◆水俣フォーラムの方からは、当事者・話し手に対する「場」のセッティング配慮に関して勉強になりました。
当事者が一生懸命話していても、聞き手側が居眠りをしている、そんな場面がときどきありますが、本当は心にしまっておきたい…そう思っている中で話しをしてくれる当事者に聞き手側がそんな態度でいいのか?そんな問いかけに、いかに事前に聞く環境、聞きたくなる(関心を持つ)環境を整えていくのか、ということをもっと考えていくことが大切だと思いました。
◆ユース震災語り部の方からの話でしたが、とても若いのにしっかりしてみえるなというのが第一印象でした。
3歳のときに震災でお父様を亡くされ、大変なこともあったのでしょうが、多くの人に支えられてきたという感謝の気持ちを忘れずに話される姿にとても好感を持ちました。
そして、同じ境遇のひとたちと出会って想いを共有することで、辛い思いを吐き出せたりすること、またさまざまな海外の被災地を訪れて、震災を経験した自分だからこそ他のひとのためにできることがあるのだということを話す若い語り部さんが頼もしく思えました。
わたしも自分だからこそできることがあるのかもしれません。
それと、常に支えられているという感謝の気持ちも忘れないようにしないといけないですね。
最後にコーディネーターの先生から、
今後当事者が少なくなっていく中、語り部に依存しつつも、それだけでないあらゆる方法で“語る人 語らない人 語れない人”の声を「伝える」そして「聞く環境の整備」をしていく必要がある、、、そんなことを言っていたような気がします。
実は…3時間という長さの中、集中力のないわたしは最後のまとめの聞きとりがどうも曖昧で
多くの外国の人も。一体何を感じるのでしょう?
世界から届く平和を願う想い
時の流れ
以前8月6日にヒロシマに出かけた時、他県との平和への想いの強さの温度差があまりにもあることと、それに最近の平和を維持するための考え方になんとなく怪しい部分があって、現実と理想の間でどこか自分の中にも迷いが出てきていました。
そこで、今回このフェスティバルに出かければ何か見出すことができるかも、とちょっとした期待を持って出かけたわけです。
そして、この分科会に出席して、まだ整理ができていませんが、何かがぼんやり、本当にぼや~としてみえてきた気がしています。
11月にあるふれあい祭りで、今回のことをちょっと活かすことができるようにしたいものです。
原爆に関しては、被爆という形で亡くなられた方、けがをされたなどのことは語られていても、原爆によってそんな不幸な子どもたちがいたという事実は語られない。
“語り継ぐボランティアたち~未来の子どもたちのために~”
ぜひとも、語り継いでいってほしいものです。
今回、こちらの分科会に出かけなければ知ることもなかった事実でした。
当事者がいなくなっていくなか、そして地域の温度差がある中で、どうやって語り継いでいくか、今後の大きな課題でもある気がします。
まったく、その通りですね。
どちらもいりません!!