まだ神と人との境界が明確でない遠い遠い昔。
物語は破滅へと疾走していた。
憎しみは煮えたぎって、醜く爛(ただ)れて、膨れ上がり、連鎖する。
そして発する者、堪える者に熱き喘ぎをもたらす。
人は、こんなにも誰かを憎むことができるのか。
この感情を理解できるならば、私たちもいつか同じことを誰かにしてしまうのだろうか。
平成30年9月16日(日曜日)、仙台市青年文化センターにて「幻祭前夜―マハーバーラタより」を観てきました。
世界三大叙事詩のひとつにしてヒンドゥーの聖典「マハーバーラタ」より、一族が二つに割れて憎しみ合い、激しく争う過程を切り取って今回は上演しています。ある意味この叙事詩の主題と言ってもいい部分だろうと思います。
「だろう」とは、「マハーバーラタ」自体をはじめて観るから。
聞けば内容は聖書の四倍。登場人物も多くて、しかも複雑。その一部だけ切り取ったといっても、かなりの人数です(しかもヒンドゥーの名前なので覚えにくい)。
それをたった9人の演者と2人の演奏だけで表現しているのです。時には仮面を被ることで人物を演じ分けたり。驚異的かつ緻密な構成と言ってよいのではないでしょうか。
さらに驚異的なのは演者の身体能力。
バリ舞踊、京劇、琉球舞踊、バレエ、フォンジューン、柔術(やわら)、そして超人的な舞踏。
圧巻でした。そしてその動き中に、確かに「アジアの野趣」のようなものを見かけた気がします。
体軸を立て、深く腰を落とし込む。跳んでも跳ねても最後は地に踏み込む舞踏。
それは舞踊と武術が表裏一体であることも示唆しています。労働も然り。
西洋のバレエやダンスも入りますが、やはり漂うのは「アジアの野趣」。
これに沖縄の舞踊と謡いがよく合います。同じ野趣を受け継いでいるのでしょう。
激しい動き(カラミ)、激しいパーカッション。飛ぶかう異なる言語。
どこまでもどこまでも太古の叙事詩に引きずり込まれてゆきます。
まだ神と人との境界が明確でない遠い遠い昔。
物語は破滅へと疾走していた。
疾走は続き、今も続いている。
願わくば、幻祭たることを。
そのことなら、ユディシュティラがすでに死王にお答えしております。
豊かさ、幸せ、
みんな正しい方法で求めていないのです。
願わくば、幻祭たることを。
どうか。どうか。
物語は破滅へと疾走していた。
憎しみは煮えたぎって、醜く爛(ただ)れて、膨れ上がり、連鎖する。
そして発する者、堪える者に熱き喘ぎをもたらす。
人は、こんなにも誰かを憎むことができるのか。
この感情を理解できるならば、私たちもいつか同じことを誰かにしてしまうのだろうか。
平成30年9月16日(日曜日)、仙台市青年文化センターにて「幻祭前夜―マハーバーラタより」を観てきました。
世界三大叙事詩のひとつにしてヒンドゥーの聖典「マハーバーラタ」より、一族が二つに割れて憎しみ合い、激しく争う過程を切り取って今回は上演しています。ある意味この叙事詩の主題と言ってもいい部分だろうと思います。
「だろう」とは、「マハーバーラタ」自体をはじめて観るから。
聞けば内容は聖書の四倍。登場人物も多くて、しかも複雑。その一部だけ切り取ったといっても、かなりの人数です(しかもヒンドゥーの名前なので覚えにくい)。
それをたった9人の演者と2人の演奏だけで表現しているのです。時には仮面を被ることで人物を演じ分けたり。驚異的かつ緻密な構成と言ってよいのではないでしょうか。
さらに驚異的なのは演者の身体能力。
バリ舞踊、京劇、琉球舞踊、バレエ、フォンジューン、柔術(やわら)、そして超人的な舞踏。
圧巻でした。そしてその動き中に、確かに「アジアの野趣」のようなものを見かけた気がします。
体軸を立て、深く腰を落とし込む。跳んでも跳ねても最後は地に踏み込む舞踏。
それは舞踊と武術が表裏一体であることも示唆しています。労働も然り。
西洋のバレエやダンスも入りますが、やはり漂うのは「アジアの野趣」。
これに沖縄の舞踊と謡いがよく合います。同じ野趣を受け継いでいるのでしょう。
激しい動き(カラミ)、激しいパーカッション。飛ぶかう異なる言語。
どこまでもどこまでも太古の叙事詩に引きずり込まれてゆきます。
まだ神と人との境界が明確でない遠い遠い昔。
物語は破滅へと疾走していた。
疾走は続き、今も続いている。
願わくば、幻祭たることを。
そのことなら、ユディシュティラがすでに死王にお答えしております。
豊かさ、幸せ、
みんな正しい方法で求めていないのです。
願わくば、幻祭たることを。
どうか。どうか。
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