放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

天国にぶっ放せ

2012年03月07日 12時07分02秒 | Weblog
 2012年3月11日、仙台では泉ヶ岳の山頂から、天国に向かってでっかい花火を打ち上げるらしい。
 
 こういうことを思いつく、そして実行できる人を素直にカッコイイと思う。

 そして、なんだか中途半端な我が身を思い、ため息が出る。

 震災は多くの家族の幸せを引き裂いた。
 そして、その事実に心を痛めた人々が支援にまわった。
 被災地にあって(幸い)財産や家族を失わずにすんだ人々もまた支援にまわった。
 「絆」という言葉があちこちで聞かれ、それが日本人の世界的な評価さえも変えた。

 その騒ぎの中にあって、僕はいったい何をしただろう、と考える。
 被災はしたけれど、放菴は基礎に数本ヒビが入っただけ。(自力で補修できてしまった)
 家族にも犠牲はない。
 被害といえば、圧倒的なモノ不足であえいだぐらい。それも友人の英雄的な行動力で何度も救われた。
 
 被害が少なかったのだから支援にまわったらよかったのに・・・。
 そんな囁きが耳裏で聞こえるような気がする。

 でも実際には、出来なかった。
 瓦礫の撤去とか、避難所のお手伝いとか、身を挺するような支援は、まるで出来なかった。

 震災後、子供たちも親との密着を求めてきたし(「お父さん、お母さん」と呼んでいた次男が「パパ、ママ」に退行した)
 毎日、ただひたすら食料や燃料確保のために行列に並んでばかりいた記憶がある。

 それがひと段落ついてからも、実家や知り合いのために支援物資を運んだりはしたが、やはり津波の爪あとナマナマしい地域へ足を踏み入れる勇気は、なかった。
 この目で津波の惨状を見ることができたのは、すっかり暑い季節になってからだった。

 自分を責めるのは正しくないことだとは、思う。
 なんの足しにもならないし、自分なりに出来ることは多分していたのだろう。

 それでも、ガレキ撤去や避難所で駆け回っている人々を(映像とかで)見ると、不思議と心がざわつく。ホントに自分にできることはないのか。どっかで怠けていないのか。
 
 ガレキ撤去のニーズはまだまだなくならないという。

 2012年の3月11日を、震災からの一区切りと表現する人がいる。
 ちょっとその表現は早くないスか?

 いまだに家族の見つからない人や自宅に戻れない人にとって、毎日は震災から続く悪夢の延長であり、1年たったからって悪夢は覚めてくれないのだ。

 どうか3月11日の意味を取り違えないでほしい。
 追憶の日ではあっても、あの日からの延長線上にあることに変わりはないのだ。
 この1年で何ができただろう。これから何をしなければならないのだろうか。

 中途半端な被災者なりに考えている。

 あと、どこで花火を見ようか、とも考えている。
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