BELAちゃんが何気に買ってきたオムニバス短編の読み物のなかに、壺井栄の「大根の葉」という、ちんまりとした短編が入っていた。
壺井栄独特の文体には瀬戸内の美しい情景がたっぷりと織り込まれており、それが読む人をたちまち夢のようなノスタルジーへいざなう。
物語は、5歳の男の子「健」とお母さんとの、やんわりとした会話から始まる。
ゆっくりと健ちゃんをさとすお母さん、それを聞きたがらない健ちゃん。
お母さんは妹の克子を負ぶってどこかへ出かけようとしていた。
克ちゃんはもう2歳になるのに、自分で歩こうとしない。お母さんの胸にしがみつき、ほかのものを見ようとしない。
お母さんと克ちゃんが行こうとしているのは、どうやら遠く神戸にある大きな病院であるらしい。
そして健ちゃんは、一緒には連れて行ってもらえない。あこがれの汽車に乗れるのは克ちゃんとお母さんだけ。健ちゃんは隣村のお婆ちゃん家へ預けられる・・・。
健ちゃんは必死だった。お母さんと離れたくない。このままお家で一緒にいたい。
だけど、お母さんはよそ行きの行李(こうり)に克ちゃんの着替えしか詰めていない。それを見て健ちゃんはがっかりした。
克ちゃんは先天性の白内障であった。
当時「そこひ」「白そこひ」と呼ばれ、治らないものとされていた。
もちろん、西洋では「モリヌークスの質問」で知られているように、開眼手術というものが積極的に試みられていたが、これはなかなか失敗も多かったらしい。
いまでも失敗の尽きない手術である。
― もう誕生日がこようというのに、克子はおもちゃを見せても素知らぬ顔だし、指をちらちらさせながら目のそばへ近づけていっても目ばたきもしない。そのくせ目玉はひっきりなしにくるくると動かしている。よく見ると瞳孔が魚の目のように、ぎらりと白く光る。それでいて明るいところではいつでも眉をひそめ、目をつぶったままうなだれこんで顔も上げなかった。同じころに生まれあわせたよその赤ん坊たちがみな愛嬌よく育ち、だんだん知恵づいてくるのに、克子は、いつまでたっても笑わない、きまじめな顔をしていた。赤いガラガラを見せても手は出さず、握らせてふって見せると、その音を聞いて、はじめて笑う。視点の定まらぬ瞳をくるくる動かしながら、力まかせにガラガラをふりまくっては、にこにこした。だが、何かのはずみでそれをとり落としても、ふたたび握らされるまで手を出そうとはしない。とり落したガラガラがまた手に帰ることなどは念頭にないのだ。泣きもせず、しずかな表情でただ、眼球を動かしてだけいた。物を見て喜ぶことも、騒ぐことも、何か欲しくて泣いて訴える事も知らない。まるまるとふとって風邪ひとつ引かない体でありながら、克子の感情の世界はただ食欲にともなうものよりほか、その成長をはばまれているようであった。それさえもお乳のほかはすべて受け身であった。あてがわれて唇にふれてきてはじめて口を開いた。おとなしい子だと村の人たちにほめられるたびに、お母さんはひとり、つらい思いをした。克子は母親の顔を覚えず、声を聞いて喜んだり、泣いたりするようになった。(壺井栄「大根の葉」より)
ここまで読んで、思わず本を閉じた。
いろんなことがいっぺんに思い出されてきた。
僕の長男は常に瞳がゆらゆらしていた。
オレンジ色の光を好み、そのほかの光には反応しない。
じきに見えるようになるのだろうとタカをくくっていたが、生後1ヶ月健診で眼振(がんしん)を指摘され、大学病院で先天性白内障の宣告を受けた。
ショックだった。けど思い当たるフシがなかったわけではない。
ゆらゆらする瞳。凝視しない目。
ときどき瞳のフチで何かを見ようとする。いわゆる「藪睨み」の形相だ。
その不気味な動作を見ていると、うっすらとした不安が心の隅に巣食ってゆく。
病院で宣告を受けたときに思った。あの不安をなぜもっと積極的に解消しようとしなかったのか。
病棟の混み具合に影響され、開眼手術まではずいぶん待たされた。
一般に、赤ちゃんはだいたい生後3ヶ月までに充分な視覚経験を積まないと、その後の成長に影響がでるとされている。手術までの日々は、(祖父母はむしろ遅くなることを望んだが)僕らにとっては身を炙られるような時間であった。
結局、開眼手術が実現したのは、生後5ヶ月のときだった。手術が遅れたことは、もしかして自分が積極的に目のことを訴えなかったからではないか、と思うこともある。
でも、僕らは、「一切後悔しないこと」にした。後悔のため次の判断が乱れるくらいなら、次の治療を妨げない配慮こそ優先すべきことだから。(けど、「生後5ヶ月」という言葉は慙愧とともにある)
瞳孔にきらりとひかるものにも見覚えがある。あれは次男坊の眼だった。
焦点は合っていたものの、やはり眼の奥には障壁があった。
長男の時よりは早く医者に見せることができた。次男は生後2ヶ月で手術となった。
しかし次男の濁った水晶体は完全には除去できず、切除痕から再び増殖した。
二度目の手術は4ヶ月後だった。
壺井栄独特の文体には瀬戸内の美しい情景がたっぷりと織り込まれており、それが読む人をたちまち夢のようなノスタルジーへいざなう。
物語は、5歳の男の子「健」とお母さんとの、やんわりとした会話から始まる。
ゆっくりと健ちゃんをさとすお母さん、それを聞きたがらない健ちゃん。
お母さんは妹の克子を負ぶってどこかへ出かけようとしていた。
克ちゃんはもう2歳になるのに、自分で歩こうとしない。お母さんの胸にしがみつき、ほかのものを見ようとしない。
お母さんと克ちゃんが行こうとしているのは、どうやら遠く神戸にある大きな病院であるらしい。
そして健ちゃんは、一緒には連れて行ってもらえない。あこがれの汽車に乗れるのは克ちゃんとお母さんだけ。健ちゃんは隣村のお婆ちゃん家へ預けられる・・・。
健ちゃんは必死だった。お母さんと離れたくない。このままお家で一緒にいたい。
だけど、お母さんはよそ行きの行李(こうり)に克ちゃんの着替えしか詰めていない。それを見て健ちゃんはがっかりした。
克ちゃんは先天性の白内障であった。
当時「そこひ」「白そこひ」と呼ばれ、治らないものとされていた。
もちろん、西洋では「モリヌークスの質問」で知られているように、開眼手術というものが積極的に試みられていたが、これはなかなか失敗も多かったらしい。
いまでも失敗の尽きない手術である。
― もう誕生日がこようというのに、克子はおもちゃを見せても素知らぬ顔だし、指をちらちらさせながら目のそばへ近づけていっても目ばたきもしない。そのくせ目玉はひっきりなしにくるくると動かしている。よく見ると瞳孔が魚の目のように、ぎらりと白く光る。それでいて明るいところではいつでも眉をひそめ、目をつぶったままうなだれこんで顔も上げなかった。同じころに生まれあわせたよその赤ん坊たちがみな愛嬌よく育ち、だんだん知恵づいてくるのに、克子は、いつまでたっても笑わない、きまじめな顔をしていた。赤いガラガラを見せても手は出さず、握らせてふって見せると、その音を聞いて、はじめて笑う。視点の定まらぬ瞳をくるくる動かしながら、力まかせにガラガラをふりまくっては、にこにこした。だが、何かのはずみでそれをとり落としても、ふたたび握らされるまで手を出そうとはしない。とり落したガラガラがまた手に帰ることなどは念頭にないのだ。泣きもせず、しずかな表情でただ、眼球を動かしてだけいた。物を見て喜ぶことも、騒ぐことも、何か欲しくて泣いて訴える事も知らない。まるまるとふとって風邪ひとつ引かない体でありながら、克子の感情の世界はただ食欲にともなうものよりほか、その成長をはばまれているようであった。それさえもお乳のほかはすべて受け身であった。あてがわれて唇にふれてきてはじめて口を開いた。おとなしい子だと村の人たちにほめられるたびに、お母さんはひとり、つらい思いをした。克子は母親の顔を覚えず、声を聞いて喜んだり、泣いたりするようになった。(壺井栄「大根の葉」より)
ここまで読んで、思わず本を閉じた。
いろんなことがいっぺんに思い出されてきた。
僕の長男は常に瞳がゆらゆらしていた。
オレンジ色の光を好み、そのほかの光には反応しない。
じきに見えるようになるのだろうとタカをくくっていたが、生後1ヶ月健診で眼振(がんしん)を指摘され、大学病院で先天性白内障の宣告を受けた。
ショックだった。けど思い当たるフシがなかったわけではない。
ゆらゆらする瞳。凝視しない目。
ときどき瞳のフチで何かを見ようとする。いわゆる「藪睨み」の形相だ。
その不気味な動作を見ていると、うっすらとした不安が心の隅に巣食ってゆく。
病院で宣告を受けたときに思った。あの不安をなぜもっと積極的に解消しようとしなかったのか。
病棟の混み具合に影響され、開眼手術まではずいぶん待たされた。
一般に、赤ちゃんはだいたい生後3ヶ月までに充分な視覚経験を積まないと、その後の成長に影響がでるとされている。手術までの日々は、(祖父母はむしろ遅くなることを望んだが)僕らにとっては身を炙られるような時間であった。
結局、開眼手術が実現したのは、生後5ヶ月のときだった。手術が遅れたことは、もしかして自分が積極的に目のことを訴えなかったからではないか、と思うこともある。
でも、僕らは、「一切後悔しないこと」にした。後悔のため次の判断が乱れるくらいなら、次の治療を妨げない配慮こそ優先すべきことだから。(けど、「生後5ヶ月」という言葉は慙愧とともにある)
瞳孔にきらりとひかるものにも見覚えがある。あれは次男坊の眼だった。
焦点は合っていたものの、やはり眼の奥には障壁があった。
長男の時よりは早く医者に見せることができた。次男は生後2ヶ月で手術となった。
しかし次男の濁った水晶体は完全には除去できず、切除痕から再び増殖した。
二度目の手術は4ヶ月後だった。
大学病院へ行ったのは指摘を受けてすぐの11月でした。
入院の連絡がきたのは12月6日でした。