春ころ、某番組で、アルベール・カミュの「ペスト」を解説していました。
そこで疫病をテーマにした本をよんでみようか? という話になり、本をいくつか購入して読むことにしました。
といっても、本はBELAちゃんセレクションですが。
長引くコロナ禍にあって、とにかく疫病の収束というものをイメージして見たかったのです。
まず、カミュの「ペスト」
一言、難解です。
どうして外国の作品ってこんなに言い回しが難しいんでしょうか?
翻訳するとそうなっちゃうのか、いやいや、元々難しいことを言おうとしているんでしょうね。
でもそんなに難しくしなくても伝えることってできるんじゃあ・・・。
この作品の場合、ペスト感染症は不条理な災禍の代表として書かれていますが、その裏には別の不条理-たとえば戦争、または特定の連帯のために他者を一方的に否定、排斥すること-などメッセージが山盛りで詰め込まれています。医師である主人公は努めて誠実であろうとし、キリスト神学で説かれる試練も恩恵もこの不条理な世界を解き明かしていないと激しく抗議します。犠牲者を出し続ける病魔「ペスト」に対し、「果てしなく続く敗北」(と告白している)に身も心も疲弊してゆきます。それでも誠実(医療従事者としての職務に誠実)であり続けようとする彼の勇気は、多くの不条理に悩む同士を集め、かれらも一緒に闘ってくれる同志となります。
疫病の収束を見届けるまで。
壮絶な、はてしない戦いを。
次にスティーヴン・ジョンソンの「感染地図」。こっちはロンドンで突然発生したコレラの話し(実話)。
実はこの本を一番初めに読んだ。これも結構難解。
1854年、ロンドンのブロード・ストリートで発生したコレラについて医師と牧師がそれぞれのフィールドワークを通じて一つの水源に禍が潜んでいることを突き止めた「疫学の黎明」と言ってもよい出来事。二人はまったく違う方向からコレラを地域から取り除こうとしてあるき回り、たった一つの答えに辿り着いた。それが管に破損のある井戸ポンプだった。破損した部位からは雨水や汚水が流れ込んでいる。そこへある母親が子供の吐瀉物を捨てた。それが井戸へと流れ込むとは知らずに・・・。このようにしてコレラは発生した。
二人は行政に掛け合い、井戸のポンプ柄を取り外させることに成功した(ポンプの柄は当時はりっぱなインフラ設備)。ポンプ柄を外せば、だれもそこから水を飲まなくなる。はたしてコレラ患者の発生は急速に減っていった。
コレラ菌が確認される30年も前の話である。つまりコレラが細菌であることすら判っていない時代に、手探りで水に異変が起きていることを推理し、その場所まで特定したという話だ。その手法は地図に詳細な被害データを書き込んでゆくこと。移転した家族まで調べたという。その結果、ブロード・ストリートのある井戸を利用する世帯だけがコレラの伝播が著しいことを浮き彫りにした。積極的疫学の基本と言っていい。
三冊目は吉村 昭の「破船」。
これは貧しい魚村で起きた悲劇。
港をこしらえるには浅瀬の岩礁が邪魔、なので細々とした営漁しかできない。
かといって背後の山は肥沃とは程遠く、十分な作物もできない。
不思議なことに、海が荒れる夜には必ず浜辺で塩炊きを当番で行う。なぜか。
浜辺で塩炊きする火が沖の船をおびき寄せる。灯りを頼りに磯に迷い込む船があれば、それは岩礁に噛み砕かれてたちまち座礁する。
座礁した船は「お船様」と呼ばれ、村に幸をもたらすのだ。
ある夜、大きな廻運船(弁才船か)が座礁した。
村人たちは異様な興奮に包まれて、沖へと小舟を繰り出す。
廻運船に乗っていた水夫を殴り殺し、積荷を手早く降ろし、最後に船材を残らず解体し浜に運んでしまう。岩礁には端材一つ残らない。
まるで死骸を解体する蟻のよう。
村人たちは「お船様」に感謝を捧げるが、罪の意識は殆どない。。
恵みを頂く、奪うという自覚すらない。
それでも代官やお役人に知れるとて手が後ろにまわるということだけはよく知っている。
あくる年、また船が沖で座礁した。
再び興奮に包まれる村人。だが今度は様子がおかしい。
新内には赤い布を着せられた遺体がたくさん横たわっているだけ。食料もない。水夫もいない。
村人たち「お船様」ではないと判断。死人を乗せた船を沖へ返すことにした。しかし赤い布は上等だったので、貰うことにした。
これが災禍のはじまりだった。
村人たちに高熱で倒れる人が続出した。
どこの家でもばたばた倒れる。
やがて死人が累々と出るようになった。一命をとりとめた人も体中にひどい腫れものができた。
疱瘡である。
はたして村はどうなってゆくのか、という話し。
いやぁ重かった。
そこで疫病をテーマにした本をよんでみようか? という話になり、本をいくつか購入して読むことにしました。
といっても、本はBELAちゃんセレクションですが。
長引くコロナ禍にあって、とにかく疫病の収束というものをイメージして見たかったのです。
まず、カミュの「ペスト」
一言、難解です。
どうして外国の作品ってこんなに言い回しが難しいんでしょうか?
翻訳するとそうなっちゃうのか、いやいや、元々難しいことを言おうとしているんでしょうね。
でもそんなに難しくしなくても伝えることってできるんじゃあ・・・。
この作品の場合、ペスト感染症は不条理な災禍の代表として書かれていますが、その裏には別の不条理-たとえば戦争、または特定の連帯のために他者を一方的に否定、排斥すること-などメッセージが山盛りで詰め込まれています。医師である主人公は努めて誠実であろうとし、キリスト神学で説かれる試練も恩恵もこの不条理な世界を解き明かしていないと激しく抗議します。犠牲者を出し続ける病魔「ペスト」に対し、「果てしなく続く敗北」(と告白している)に身も心も疲弊してゆきます。それでも誠実(医療従事者としての職務に誠実)であり続けようとする彼の勇気は、多くの不条理に悩む同士を集め、かれらも一緒に闘ってくれる同志となります。
疫病の収束を見届けるまで。
壮絶な、はてしない戦いを。
次にスティーヴン・ジョンソンの「感染地図」。こっちはロンドンで突然発生したコレラの話し(実話)。
実はこの本を一番初めに読んだ。これも結構難解。
1854年、ロンドンのブロード・ストリートで発生したコレラについて医師と牧師がそれぞれのフィールドワークを通じて一つの水源に禍が潜んでいることを突き止めた「疫学の黎明」と言ってもよい出来事。二人はまったく違う方向からコレラを地域から取り除こうとしてあるき回り、たった一つの答えに辿り着いた。それが管に破損のある井戸ポンプだった。破損した部位からは雨水や汚水が流れ込んでいる。そこへある母親が子供の吐瀉物を捨てた。それが井戸へと流れ込むとは知らずに・・・。このようにしてコレラは発生した。
二人は行政に掛け合い、井戸のポンプ柄を取り外させることに成功した(ポンプの柄は当時はりっぱなインフラ設備)。ポンプ柄を外せば、だれもそこから水を飲まなくなる。はたしてコレラ患者の発生は急速に減っていった。
コレラ菌が確認される30年も前の話である。つまりコレラが細菌であることすら判っていない時代に、手探りで水に異変が起きていることを推理し、その場所まで特定したという話だ。その手法は地図に詳細な被害データを書き込んでゆくこと。移転した家族まで調べたという。その結果、ブロード・ストリートのある井戸を利用する世帯だけがコレラの伝播が著しいことを浮き彫りにした。積極的疫学の基本と言っていい。
三冊目は吉村 昭の「破船」。
これは貧しい魚村で起きた悲劇。
港をこしらえるには浅瀬の岩礁が邪魔、なので細々とした営漁しかできない。
かといって背後の山は肥沃とは程遠く、十分な作物もできない。
不思議なことに、海が荒れる夜には必ず浜辺で塩炊きを当番で行う。なぜか。
浜辺で塩炊きする火が沖の船をおびき寄せる。灯りを頼りに磯に迷い込む船があれば、それは岩礁に噛み砕かれてたちまち座礁する。
座礁した船は「お船様」と呼ばれ、村に幸をもたらすのだ。
ある夜、大きな廻運船(弁才船か)が座礁した。
村人たちは異様な興奮に包まれて、沖へと小舟を繰り出す。
廻運船に乗っていた水夫を殴り殺し、積荷を手早く降ろし、最後に船材を残らず解体し浜に運んでしまう。岩礁には端材一つ残らない。
まるで死骸を解体する蟻のよう。
村人たちは「お船様」に感謝を捧げるが、罪の意識は殆どない。。
恵みを頂く、奪うという自覚すらない。
それでも代官やお役人に知れるとて手が後ろにまわるということだけはよく知っている。
あくる年、また船が沖で座礁した。
再び興奮に包まれる村人。だが今度は様子がおかしい。
新内には赤い布を着せられた遺体がたくさん横たわっているだけ。食料もない。水夫もいない。
村人たち「お船様」ではないと判断。死人を乗せた船を沖へ返すことにした。しかし赤い布は上等だったので、貰うことにした。
これが災禍のはじまりだった。
村人たちに高熱で倒れる人が続出した。
どこの家でもばたばた倒れる。
やがて死人が累々と出るようになった。一命をとりとめた人も体中にひどい腫れものができた。
疱瘡である。
はたして村はどうなってゆくのか、という話し。
いやぁ重かった。
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