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放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

成長期

2009年12月21日 15時27分28秒 | Weblog
 長男はただいま12歳。小学校の最年長生。
 このころの成長期ってこんなものなのか。

 一言で言うと「ナメてる」。

 一生懸命取り組まない。
 すぐイヤな顔をする。
 学業の成績も良くない。習い事もルーチンワークと化した。
 目上の人にもぞんざいな口のききかたをする。

 横で頭を下げている親を見てなんとも思っていないんだろな。

 先週、長男と衝突してみた。

 実績の伸びない通信教育を一方的にやめさせて、送られてきていたものを全部ふんじばって資源回収に出した。
 通信教育の会社は何も悪くない。
 「続けてみたい」といったヤツがこの機会を大切にしなかった。

 しばらく放菴はぎすぎすしていた。夫婦でも衝突した。
 
 いちおう家族は和解したが、長男の「ナメてる」態度はかわらない。
 自分が驕っていることに気がついていないんだろう。

 どうやったら気がついてくれるのだろう。
 また、気がついた瞬間、どうやって支援してやればいいんだろう。

 つぎに衝突するときには、本気でツブしてしまうかもしれない。

 

小三治師匠の「文七元結」3

2009年12月09日 12時16分46秒 | Weblog
お話再会ね。

 さて ―
 長兵衛が吉原の「佐野槌」の門をくぐると、あわててお店の人が追い出しにかかる。それもそのはず。バクチで身包み剥がされた長兵衛、このまんまじゃあ吉原へは行きにくい、そこで女房の一張羅をむりやり脱がせて着て、このまんまじゃ裾が長くて歩きにくいから尻っぱしょりして、頬っかむりしてのご来店。こんなのが首すぼめてぬっとお入ってきたのだからお店のほうでもびっくりするのも無理はない。

 「こんなところに入ってきちゃいけないよ!お行きよ!お行きったら!」
 「いえ・・・、あっしですよ。左官の長兵衛でございます。」
 「・・・! ま、まあ、親方ですかぁ。あたしゃナニが入ってきたのかとおもった。いやですよぉ、こんな格好で。ご趣向ですか。」
 
 コスプレと間違えられた長兵衛。とにかくお座敷へと通された。そこには佐野槌の女将さんとうつむきながら小さく縮こまっている娘のお久。
 長兵衛は無断で家を出た娘を睨みつけ、くどくどと小言を並べ立てる。
 しかし、それを制止して女将さんがお久の決意を語る。
 「親方、この子がねぇ、ここへ手をついて泣いて頼むんだよ。『親父がバクチののめりこんでしまい、仕事をしません。家は荒れて、借金だけが増えています。そのくせバクチに負けて帰ってきては、おっ母さんを殴るの蹴るの、やれ夫婦別れをするの所帯を仕舞うのと。私も黙って聞いているわけにはまいりません。私ももう17です。どうか、私のようなオカメでよければ幾らかで買ってくださいまし。そのお金を家にやって、どうか女将さん、親父に意見をしてくださいまし。借金を返して仕事に精を出しますように。夫婦仲良く暮らしますようにと。』・・・あたしぁ貰い泣きをしたよ。え?親方、なんだってこんな親孝行のいい娘を泣かすようなことをするんだい。なんとかお言いよ!」
 
 長兵衛はすべて見暴かれて、出入りの職人だろうが人様の親父だろうが面目もへったくれもあったもんじゃない。
 ただただ平伏し、身の上の不始末を詫びるばかり。
 「親方、いくらあったらいい? いくらあったらお前、借金を返して、『左官の長兵衛』に戻ってくれるんだい?」 って、いい女将さんだねぇ。
 女将さんは結局、五十両もの大金を長兵衛に貸し与え、来年の大晦日まで返済を待つという。そのあいだ、お久は預かり、「なに、この子に客を取らすようなマネはしないよ。ただ、女一通りの習い事はさせてあげる。」って、ホントいい女将さんだねぇ!
 ただし、来年の大晦日を一日だって過ぎたら、女将さんは鬼になるという。お久を店に出し、女郎にするという。締めるところはきちっと締めて、甘えっぱなしにさせない。これも人の上に立つの心得ですかねぇ。

 長兵衛は半泣きで女将さんに礼を言い、お久に「来年の大晦日なんていわねぇぞ。一日でも早くおめぇを迎えに来て、家に連れてけぇるからな!」と約束をして吉原を後にするのだった。   (つづく)

NewType-Influenza発動!

2009年12月09日 12時03分09秒 | Weblog
ガンダムじゃないんだ、ガンダムじゃぁ・・・・。

昨晩、次男坊が発熱。38.3℃
そのまま熱はぐんぐん上昇。
夜中の2時頃には40.2℃までいった。
明け方6時に家を出て急患センターを受診。
 
明け方まで待ったのは、もし仮に病状がインフルエンザだった場合、発熱から10時間以上経過していないと検査で確認できないと聞いていたから。それに明け方なら急患も減っているだろうという判断。

急患センターに着くと、案の定。待合室はがらんとしていた。
すぐに受診してもらい、結果はやっぱり「新型インフルエンザ」
はぁ。

今日は親も仕事を休まなくちゃいけない。
もしかしたら職場から「自宅待機」を命ぜられるかも・・・。
やばいなぁ。ボーナス期だってのに・・・。

ぐったりしている息子を抱き上げながら、あれこれ考えてしまう朝でした。

がっかり自立支援法

2009年12月07日 10時43分50秒 | Weblog
 すくなからず、がっかり・・・。新政権でも何も変化しないみたい・・・。

 「障害者自立支援法」が、お国の台所事情が逼迫していることを露呈してから5年。
 それは、福祉サービスを定額から日雇いシステムにしてしまい、もう国が「福祉授業従事者の身分保障は不可能である」と公言したようなものである。利益を追求しないはずの福祉(そもそも誰から利潤を搾取するの?)が日雇いになると、その収入はすざまじい減少となる。
 福祉サービスを利用する人々にとってもありがたくない話ばかり。

 たしかに、「措置制度」は利用者の丸抱えに近いものだった。三食昼寝つき。一部「費用徴収」がなされたが、収入に応じた徴収だったから、年金も貯め放題。財を成して親族へ車を買ってやることさえできた。
 しかし「措置制度」は福祉サービスは「収容」に近い形で行われたから、それ自体は「自立支援」へと結びつきにく、発展性がとぼしかった。
 施設への助成費も丸投げに近く、事業費の消化さえしていればそれでよいという考え方だった。補助金特有の金縛り事業。事業所でも利用者への支援(当時は「措置」とよんだ)は「自立」という目標を、あまり意識していなかったように思う。

 きょうびの「自立支援」はたしかに「措置制度」への批判と反省が込められている。というよりは「批判と反省」を逆手にとって国庫資金の流出を抑制している。
 
 「自立支援」は「障害者措置」には代えられない発展性があるんだ!
 支援費(現在は給付費)は報酬だから補助金のように厳密ではない!

 聞こえはいいが、国家補償の責務を棚上げているように聞こえる。
 第一、障害者が施設を利用することは本来は権利であった。これは特に更生支援施設で言えることだ。なぜって、憲法でも「基本的人権」を保障しているではないか。
 それなのに、今度は施設利用は顧客と従業員の関係であるという。顧客は金を払い、従業員は多様なサービスを提供するのだ、と。
 何度もいうが福祉は「営利目的」ではない。基本的人権をはじめさまざまに人間らしい充実した生涯を誰でも送れるように保障したいだけなのである。

 利用者が施設に利用料を支払うシステムについては、さらに一つの矛盾がある。
 「就労支援」などのいわゆる作業所である。
 ここでは作業報酬(工賃または賃金に該当する)を利用者に支払っているのに、同時に施設利用料を利用者から徴収しなければならないのである。なかには利用料のほうが作業報酬よりも高い場合がある。このわけが分からないシステムを、厚生労働省は現場の反対を無視して一方的に押し付けてきたのである。
 あの時、「現場の意見を徴収する」といいながら、Q&A冊子には「決まったことに従え」としか書かれていなかった。話にならない。

 今度政権交代が成って、新しい政府は障害者自立支援法を廃止する、という。
 また制度が変わるのにもうんざりだが、それよりも心配なのは、自立支援法廃止後のシステムをどのように作ってくれるかだ。

 残念ながら、今度も「乏しい国庫」というのが前面に出た。
 「障害者福祉の理念とは何ぞや」と策定するのかと思いきや、始めっから利用者からどうやって費用を徴収するか、という論点から始まっている。これでは自立支援法が制定された経緯とそう変わらないではないか。

 僕らは厚生労働省には深い不信感を持っている。大臣が代わっても、元事務次官が逮捕されても、同省に対して期待の念が少しも沸かない。

 介護・福祉従事者処遇改善事業費の創設だって?
 笑っちゃうね。補助対象外の間接処遇者だって同じ給与体制であえいでいるってのに。
 
 どんどん書類書きの仕事が増えるばっかり。アンケートだって、似たような内容の書類を何度も書かせられて、それでさえどれだけ官僚の目に触れているのか疑問。金がないと言うなら、こういう業務を無駄だとなぜ気がつかない?

 いっそのこと流行の事業仕分けの俎上に乗せて貰うといい。
 障害者福祉事業そのものが発展性がない、とか言われたりして・・・。  
 もしもそうなら憲法に違反しているぜ。国連憲章にもね。
 
 
 

小三治師匠の「文七元結」2

2009年11月10日 00時18分31秒 | Weblog
 「文七元結(ぶんしちもっとい)」は、明治期の江戸落語の大名人・三遊亭圓朝師匠が創作した「人情噺」というやつです。
 
 人情話は三遊亭派にとってもお家芸の一つ。
 このお話はスジがいい。哀れを誘う展開からさらに悲劇がせまり、そこから一気にスジが急上昇。八方がハッピーエンドで幕となる。
 これは異例の人気を博したようで、明治のころからは歌舞伎としても上演されていたそうです。

 結構長い話です。
 噺のスジはというと・・・、

 ある夜、ばくちに負けて身包みはがされた左官の長兵衛が長屋に帰り着くと、妻が明かりもつけずに部屋の隅でうつむいていた。
 明かりをつけろ、とどなると、娘のお久が夕べから帰ってこないと、妻の答え。
 「探したのか」「方々探したよ」「探し方が悪い」「お前さんに愛想を尽かして出て行ったんだ」とお決まりのやりとり。バクチに負けた腹いせ、一方で家族を省みなくなってしまったことへの後ろめたさ。だから長兵衛の口調はついつい乱暴になってゆく。
 そこへ吉原の「佐野槌」というお店から番頭が尋ねてくる。
 訊けば娘のお久が昨日から「佐野槌」で厄介になっているという。
 おどろく長兵衛夫婦。 
 「だれでぇ、娘を吉原へ担ぎ込んだやつは?」
 「いえ、お久さんは、お一人でお越しになりました。」
 番頭さんは「佐野槌」の女将さんから「長兵衛親方をお連れ申し上げるように」と託ってきたのだという。
 さあさあ、とにもかくにも吉原へいかなきゃ、ところが長兵衛はバクチで身包み剥がされてバクチ屋から半被一枚よこされて叩き出された身。着てゆく服なぞとうの昔に借金のカタななっちまった。
 仕方がないから無理やり妻の着物を脱がせて、スソが長いから尻っぱしょりして、きたない手ぬぐいで頬かむりして遊郭へ・・・。
                         つづく。
 

小三治師匠の「文七元結」

2009年11月08日 14時21分01秒 | Weblog
 さて、東北電力ビルの7階、「電力ホール」にて独演会のあった柳家小三治師匠。

 後半に「青菜」という噺を一席やってくれました。
 
 とある庭師が、お得意様のお屋敷で旦那のお話し相手のついでにお酒をご馳走になります。その席上で、旦那が「青菜はお好きですか」と訊く。「ええ好きです」と応えると。「では」と手をパンパンと叩き、「奥や、青菜を持ってきなさい」と指示を出す。これに対し、奥様は「旦那様に申し上げます。ただいま、鞍馬のお山から牛若が出てまいりまして、その名を九郎判官。」と応える。すると旦那さんはすぐに、「そうか、では義経にしなさい。」というのです。
 「なんです? いまの。」
 「ああ、あれか。」
 旦那さんがいうには、あれは「青菜はみな家族で食べて(食ろうた=九郎)しまったので残っていない」という意味を奥様が伝えようとして、とっさの「隠し言葉」で答えたものだというのです。しかもそれに対して旦那様もとっさに「義経=止しておこう」と答えたというのです。

 これに感動した庭師は、鰯焼くにおいがただよう長屋に帰ってきて同じことをカミさんとやってみようと思い立ち、それがなんとも滑稽な騒動になります。

 状況がかわれば、どんな噺もこっけいになってしまうという、典型的「落とし噺」です。

 齢70を迎え、少しも芸が崩れていない小三治師匠は、やはりすごい人です。
 
 帰りがけに小三治師匠のCDが並んでいたので、その中から「文七元結(ぶんしちもっとい)」を買いました。
 これについては、また話が長くなるので次のブログで。 

病院にて・・・

2009年10月27日 10時31分21秒 | Weblog
日常生活とは切り離せない医療機関。

そもそも病気こそ人生につきもの。まるでパンドーラの壺(筥)。

年齢のせいか、入院、または病を得て命を落とす話がより身近になってきている。
心を病んで命を絶ったひともいる。
が、一方で命に係わる病ではないと聞かされ、ほっとすることもしばしば。

義父もいま入院中。椎間板ヘルニアだ。
手術をしなければ、おそらく年内には寝たきりになったであろう、と、家族で話している。
しかしヘルニアも治療技術がぐんと向上したらしい。
13日に手術は成功。その後、むくみや便秘に悩まされたりしたが、それらが解消すると、義父はなんとも安らかな、すっきりした表情をしてくれるようになった。

よかったですねぇ。

なんだかこのところ医療機関にばかり足を運んでいる。
がんセンターにも行った。

昨日は雨の中、子供たちが総合病院の眼科で定期健診をした。

パンドーラの壺から飛び出した悪霊どもはなかなかの長生きで、人の命そのものから糧を得ているのではないかとさえ思えてくる。
願わくば、絶えられる程度の苦痛ある人生を。そして苦痛なき死を。
一人の凡庸なる人間として、常に願っている。

非常警報がジリリリリン!!

2009年10月26日 23時52分35秒 | Weblog
 旅行の翌日。
 あまりペースを上げないようにと考えて、ややスローペースで仕事をしていた午後。

 そこへ突然の呼び出し。
 聞けば何でも放菴で警報装置が作動し、現在けたたましくご近所に鳴り響いているという。

 はい・・・? なぜに?

 しばらくたっていてつぎに連絡が入り、近所の人が建物のブレーカーを切ったとのこと。 

 ブレーカー切られちゃあ、冷蔵庫の中身もドロドロだよ。。。、
 あわてて休暇をとり、車に飛び乗った。

 家に着き、子供たちにはゲンコツを二、三発。
 と、思ったけど、まるでバケモノにでも遭遇したような怯えた目をしている息子たちを見て、すこしカワイソウな気になりました。

 近所にひたすら謝り謝り、そのあと、息子たちから状況について説明をもらいました。

 案の定というか、そうきたかというか・・・。
 次男坊(6歳)がトイレから出るときに少しよろけてしまい、お尻でスイッチ押しちゃったみたい・・。

 ご近所のみなさん、お騒がせしました。
 
 つかれた、つかれた。

旅(のつづき・・・2)

2009年10月22日 00時58分11秒 | Weblog
 松江の観光スポット、特にお城を中心とするエリアはそれほど広いわけではないのです。
 脚力に自信のあるひとならば、徒歩で充分に見て廻れる。
 しかし、驚くべきはその保存状態の良さ。
 天守、石垣、内堀はおろか、外堀までほとんど当時のままに残っているのは感動モノです。
 
 そしてなにより松江は「菓子処」。
 そりゃーもうウットリするような和菓子がいっぱいあります。

 ちょうど訪れたのは「松江水燈路まつり」の日。
 夕方にはお堀ばたに竹と和紙でできた灯篭がならびます。
 紙面にはそれぞれ地元の人々が描いた絵が仄かな灯に浮かび上がり、幻想的に旅人たちの足元を照らすのです。

 翌日の午後には一畑高速バスで一路広島へ。
 
 三時間の旅を経て広島入り。
 翌日に原爆資料館などを見学して、広島空港から小さめのエアバスに乗って仙台空港へ帰ってきました。 

 疲れたけど、行ってよかった旅でした。・・・けどあの旅行会社はもう利用しない。失礼すぎる。

 追伸:松江については「放菴の特集」でじっくり書きます。やっぱり、いいところでした。

旅(のつづき)

2009年10月18日 15時15分16秒 | Weblog
 僕たちの結婚は、平成6年10月15日に筑波山神社の拝殿で行われた。
 筑波山は夫婦和合の山(という呼び込み)なのに、いままで挙式などを神域で行ったことはなかったという。
 これは母の突然の思いつきに端を発し、企画力のある母の知人が力添えしてくれて実現した、奇跡のようなイベントだったのだ。
 
 だが、その話が楽しくとんとんと進んでいる最中に、誰かが冷や水を浴びせるようなことを言った。
 「でもさ、10月って神無月じゃないの?」
 ―神無月―
 つまり日本中の神様が出雲へいっちゃってて、どこの神社で拝んだって「お留守です」状態で、水かぶって願懸けしたって、ワラ人形コンコン刺したって、てんでどうにもならない節をいう。

 COZYもBELAもうすうす感づいてはいたもののさりげなくスルーしてきたこの話題。よそから言われると、さすがに無視はできない。

 わかりました。わかりましたよっ!
 「じゃあ、新婚旅行は山陰地方へいくよ。」

 こうして、なんか変いきさつを折り込みつつ、僕たちは山陰地方を鳥取砂丘から萩市まで仲良く二人旅をした。なかでも松江は僕たちの第二のふるさとになった・・・。

 あれから15年・・・。

 僕たちは松江駅にいた。二人が四人にふえたけど・・・。

(まだつづく・・・)