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放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

お中元どうしよう?

2011年07月14日 15時06分31秒 | Weblog
 目下の悩み。お中元。

 特に東北地方の外へ送っていいものかどうか、考えれば考えるほど悩ましい。

 「支援してもらったお礼を送ろうとしたら拒否された」
 「そのうち遊びに行きます、といったら、来ないで、と言われた」
 など、身近に聞こえてくる話がよけいに悩みを深くする。
 よーするに原発問題で東北人が他の地方から忌避されている。


 被災したからお中元を贈るのは差し控えよう、と言う考え方もあるだろうし、
 被災したときにヒトにモノを贈っているバヤイかっ、という考えもあるだろう。
 さらに、放射能物質が付着しているかもしれないから贈れない
 (または発送経路上に放射能ホットスポットがあるから贈れない)なんて考えもあるだろう。

 逆にそんなことを勘繰ると、先方が「そんなに了見が狭いヤツだと思われていたのか」とヘソを曲げてしまいかねない。

 んーどうしよう。
 と、そこへ「南相馬の牛肉問題」が発覚。
 (・・・風評被害をこっちから裏付けてどーすんの。)
 放射能ってのはホントにタチが悪い。どうしてこんなものに依存してしまうのだろう。

 
 今年はホントに多くの人に助けてもらった。万分の一もお返し出来ないんだけれど、せめて感謝の気持ちを伝えたい。
 だけど、この「気持ち」が裏目に出てしまうのはコワイ。

 風評被害には負けたくない。けれど余計に傷口を広げるようなマネになるのも不本意。結局、お中元の届いたところにだけお返しをするという形を取らざるを得ない。
 なんか来るのを待っているのってナニサマ的で好きじゃないけど、それは僕たちを忌避しているかいないかの判断するってことになるわけで、その辺を詫びつつ贈ることになるだろう。

 とりあえず、あの人とあの人とあの人にだけは、喜んでくれそうなものを贈りたい・・・。

17th Anniv

2011年07月07日 12時34分09秒 | Weblog
 今日は僕とBELAちゃんの結婚記念日です。
 17年になります。

 あっという間でした。
 
 昨日、車中で「BELA抜き人生」というタイトルでシュミレートしていました。

 おそらく僕は何もしない男になっていただろう。
 ろくに部屋の掃除もしない。皿もコップも干からびて・・・。
 病気になっても部屋でごろごろしているような・・・。
 
 あこがれの「放菴」もなく、子供たちもいない。
 数少ない友人はますます離れ、お日さまもまぶしくて顔も上げられない・・・。
 いま、生きていたかなぁ・・・。

 BELAちゃん、出会ってくれてありがとう。
 僕に関心を向けてくれてありがとう。
 
 人生を大きく広げてくれたのはあなたです。
 ありがとう、ありがとう。

 世界で一番大切な人です。

 大きな災害があったけど、僕たちは奇跡的に無事だった。
 きっと僕らはなにかをする使命があるのかもしれない。
 でも今は、今に感謝です。 
 

コンティキの家2

2011年07月07日 10時05分01秒 | Weblog
 7月3日(日)、角田市に設計士さん(ちろりん村の村長さん=耐震診断もできる人)が到着した。
 「いやぁ、蓮がきれいだったねぇ」と設計士さん。
 そーなんです。ホントきれいなんですー。

 設計士さん、まず外観をぐるり。
 「はぁ、基礎はツカ石なんだねぇ。」
 すごい、一発で見抜いた!
 それから建物に入って、内壁の割れたところから中の部材を覗いている。
 「いいねぇ。惚れ惚れするねぇ。」
 そーですか?
 「あ、ちょっと床が傾いているんだねぇ。」
 ああ、これヤバいですか?
 「ううん。住んでいる人が頭痛とかめまいするとかならジャッキであげねくてねぇけど、もう慣れたすぺ?」
 思わず義父と義母が顔を見合わせて笑う。
 ― おや、一瞬で空気が和んだぞ ―

 「お、二階には小屋組みが見えているんですね。ちょっと、拝見しても?」
 「は、はいどうぞどうぞ。」
 義母があわてて梯子のような階段を先導する。
 「あの、牛梁、すごいなぁ・・・。」
 まるで遺跡を発見した考古学者のようだ。

 「いやぁ、すばらしい出来ですねぇ。これ、地元の大工さんが造ったのすか?」
 「んだ。この地区に住んでいた大工さん。」
 「屋根は、もしかして・・・。」
 「うん、実は合掌造りなの。」
 「あ、やっぱり。」
 えっ、合掌造りなの!?
 「これはヒジョーに丁寧に造ってありますよ。たいへんなお仕事ですね。職人のはしくれとして、尊敬しますね。」
 それを聞いて義父は思わずニコニコしていた。

 で、肝心の耐震補強については・・・?
 「必要ないでしょう。まだまだもちますよ。」
 ええっ!
 「まずツカ石ってのがいいね。
 みんな誤解しているけど、基礎をツカ石にするってのは今で言う『免震構造』でね。揺れたら基礎から建物が外れるように最初から出来ているの。厳島神社なんかと一緒の構造。外れたらまたあとで戻せばいいの。
 それから『ヌキ』っていう横板が壁にはいっているけど、これにクサビが入っている。これで建物の揺れを吸収しているの。壊れるときはまずクサビがつぶれるから。そのときはクサビを取り替えればいい、ヌキまで壊れたらヌキを取り替える。そうやって小さな部材から交換できて、なるべく柱まで取り替えなくても大概なおせるように出来ているの。
 いわば地震が来ても破壊力を受け流すっつうか、『柳に風』っつう建物なんですわ。
 これを下手に現代の火打ち金物で固定なんかしたら、地震の時そこだけ材が裂けてかえってひどいことになるから、これはこれで現代と設計思想がまるで違うということを知っておいてほしいのっさ。」
 へえええ。
 「まあ建付けはどんどんゆがんでいくから、どうしてもなおしてほしいというのであればジャッキアップすっけど、建物としてはこのままで90%倒れないと思いますね。」
 
 義父も義母も少し驚いたような、それでもこの家の強さを分ってもらえてうれしいような、複雑な顔をしていた。
 
 こんな話しをどこかで聞いたような気がする。
 そうだ・・・。ヘイエルダールだ。コンティキ号だ。

 南米インディオが海を渡ってポリネシア人になったという説を支持するために、人類学者ヘイエルダール氏は当時でも手に入った材料(バルサ)を使ってイカダを制作。そのまま実際に太平洋を漂流した。
 当初「すぐに沈んでしまうぞ」と揶揄されたが、結局沈むことなく(ナマ木だったのが幸いしたとか・・・)、南サモア諸島に漂着するに至る。

 漂流中、どんな大波が来てもイカダのすきまから水が逃げていくので現代の船よりもよっぽど波をあしらうのに適していたという。それこそ「柳に風」。現代人が思うようにいかないことでも、先達の知恵というものがちゃんと用意されているのだ。

 「おそらく、その大工さんも、クサビを打つ理由まではわかんなかったと思うよ。けれど先輩たちからそんなふうに教わっていたんだべね。」

 義母が義父の顔を覗き込むようにして
 「いがったねぇ?」
 義父はこまったような、ほっとしたような笑顔を義母に返した。
 僕らもなんだか肩の荷がおりた。
 設計士さん(ちろりん村の村長さん)、かっこいいなぁ。

 「いまは建築法がやかましいから、基礎や柱にはかならず火打ち金物ってので固定してやんなきゃ建築確認通らない。オレらも仕事だから法律は守んなきゃなんねえべし・・・、けれど一番長持ちする建物ってのは、こういう柔軟な家なんですよ。これからも大事にしてください。」
 
 まるでどこかの鑑定団みたい・・・。
 置き忘れられた職人の「想い」というか「矜持」というか、そういったものが、震災の傍らで甦った瞬間だった。

コンティキの家

2011年07月07日 00時32分57秒 | Weblog
 BELAちゃんの実家は角田市にある。
 築60年以上の古い家。
 3.11東日本大震災でも柱が傾くなどの被害が出た。

 同時にご先祖の墓石(棹石)が倒れるなどの被害もあって、少なからず出費がかさむことになった。
 これは困ったなぁ。

 お義父さんも心労のせいか食が振るわず、お通じもあまりよくないらしい。
 困った困った・・・。

 あんまり困って、僕たちは放菴の設計・管理をしてくれた設計士さんに相談してみた。
 誰よりも木造建築と大工を愛し、その研究と工夫に日々を奉げる熱い人。
 いまは被災地のあちこちで耐震診断に引っ張りだされている。多忙ですね。

 やっと電話がつながり内容を聞いてもらう。
 「柱がみな垂直でないの? んー、それじゃあね、角田市で罹災証明書取れるかどうかやってみてくれない?
 建物診断で罹災証明とれればなんぼか修理代出ると思うから。」
 「はあ、わかりました。やってみます。」

 義父を説得して、渋々ながら市の調査員に来てもらうことになった。
 
 それでも不機嫌な義父。
 調査員に対する言葉でも「おメェらにこの家がわかるはずねぇベ?」という態度が見え隠れする。
 おとーさん、ケンカ腰になるのだけはやめて・・・。

 義父はだれよりもこの家のことを知っていた。
 近所の大工さんが建ててくれた家。
 基礎のない置石(ツカ石)に柱を立てて木組みをした家。
 ヌキ(貫)と呼ばれる横板を利かせた家。
 今の建築しかしらない若いやつにわかる筈が無い・・・。

 そうかもしれないが、市の調査員だってこれがお仕事なんだからしょうがない。
 柱の傾斜を測り、写真を撮って帰っていった。
 一週間後、「罹災証明書(一部損壊)」が届いた。

 「一部損壊かぁ。」
 設計士さんはちょっと不満のよう。
 「まあ、近いうちに拝見させてもらいますね。」
 そうして2週間が過ぎた。
 そのあいだ、お墓の修復、法事やらお義父さんは忙しくすごした。そしてまた少しずつ体調を悪くしていった。
 
 2週間後、やっと設計士さんをお招きできた。
 義父がまたケンカ腰になったらどうしよう・・・。

結局、何しに来たの?

2011年07月05日 01時08分28秒 | Weblog
 拝啓、松本龍復興相

 いったい被災地で何をしたいのか判りません。
 知事のアタマ踏んづけて威張るとなにかいいことがあるのでしょうか。

 「知恵を出さないやつは助けない」
 上等です。助けてもらわなくて結構です。
 このまま死にます。
 だから二度と東北には来ないでください。
 すくなくとも自分が東北で役に立てるとは思わないでください。

 まるで戊辰の役で乗り込んできた「官軍」です。
 かつて東北は何度か植民地のように攻め獲られ、そのたびに征服者は大威張りで乗り込んできました。
 

 「自分は九州生まれのB型だから語気荒く・・・。」
 そういうこと言えばますます官軍っぽく聞こえるとは考えないんですね。
 松本氏は東北に対する理解がないようです。
  
 枝野官房長官が松本氏のことをとりなして「復興にかける思い」といっていました。
 「理解なき思い」ってなんですか。傍から聞けばそれ「独りよがり」っていいます。

 もう一度言います。
 このまま死にますから助けてもらわなくて結構です。

 
 

TEO TORIATTE

2011年07月01日 11時16分11秒 | Weblog
 「QUEEN」の名曲「TEO TORIATTE」(手をとりあって)を久しぶりに聴いた。
 3.11震災から聴かれることが多いという。
 (僕は昨日初めて知ったけど・・・)

 そういえば、今年はフレディ・マーキュリー没後20年。
 彼の霊が哭いているのかもしれない。

 「手をとりあって このまま行こう
  愛する人よ
  静かな宵に光を点し 愛しき教えを抱(いだ)き」
 (このフレーズ(サビです)、なんと日本語でそのまま歌っています)

 なるほど、この言葉は沁みる。
 手をとりあうのはなにも生き残った人だけでなくていいと思う。
 もう会えない人、どこにいるかわからない人、そういう人とも「愛しき教え」は共有できる。

 「愛しき教え」がなんなのか、そこは別に何だっていいんだ。
 その人との共通理解で、いちばん思い出にのこっていること・・・、それが「教え」でいいじゃない。

 20年の時を超えて、フレディがメッセージを送っているような気がする。
 
 「強くあれ。決して想いを曲げるな。
  あなたが全て、僕のすべて、いつまでもいつまでも」(私訳byCOZY)

 このあたりは福島の人たちと一緒に歌いたい。
 すべての被災した人、犠牲になった人たちと歌いたい。

 一緒に推移を見守ることしか出来ない。
 みんな人心地つける日がくることを、放射能が一刻も早く消えることを、海と里の恵みが戻ってくることを、祈ることしかできない。
 だけど伝えたい、差別や排除にだけは負けるな。

 なにも手立てが尽きたその瞬間から、さらにもう一日、もう一日と、生きていてほしい。砂を噛むような、けれどがむしゃらに生きてほしい。
 そして声を出してゆこう。書ける人は書こう。描けるひとも描こう。歌う人は歌おう。怒れる人は怒ろう。笑える時はみんなと分かち合おう。泣きたい時はみんなも巻き込もう。疲れた時は目を閉じよう。動けるときは力を出そう。
 そして明日のために力をほんの少し残しておこう。

  
 
   
 

毛細血管ブチブチっと・・・(痛)

2010年09月01日 13時24分53秒 | Weblog
 齢41にして肉体の衰えをしってしまいました・・・。

 あの瞬間、ゴムひもがちぎれるような衝撃が右のふくらはぎにあって、思わず悲鳴をあげてしまいました。 

 特に無理をしたわけではないのです。
 土曜日の午後、ただ息子(7歳)と「タッチ鬼」のような遊びをしていただけ。
  子供がタッチをしにくる。
   それをひらりひらりとよけていただけ(本人は「ひらりひらり」のつもり)

 そうしたら突然「ブチっ」と。すごい激痛でした。

 よたよたと椅子にすわりこむ、あわてて駆け寄ってくる子供。
 「大丈夫?」
 「ん・・・。」
 右ふくらがぎの痛みで返事がまともにできないほどでした。
 正確には、痛みのほかに、「腱が切れたのではないか」という不安でパニックにもなっていたのです。

 その瞬間、思い出していたのは、ン十年前、僕の目の前でふくらはぎの腱を切ってしまった母親の姿でした。

 あの日、遠くから豆腐屋さんの笛が聞こえていました。それを聞いて母親は急いで椅子に乗って天袋からボウルを取りました。そのまま椅子から降りて表に駆け出してゆこうとした瞬間、とつぜん悲鳴を上げてひっくりかえったのです。
 「ど、どうしたの?」
 あわてて駆け寄る僕に、ボウルを突き出し「豆腐、豆腐!」と叫ぶ母親。豆腐どころじゃないだろうとツッコむ所なんだけど母親のあまりの剣幕にオロオロと僕は表へ出ました。
 豆腐屋さんの世間話にオロオロと答えて台所へ戻ると、母親は相変わらず顔をしかめてうずくまっています。

 その後、どうやってお医者さんまでたどり着いたか覚えていませんが、とにかく診断結果は「下腿部腱断裂」。ふくらはぎのところを指でなぞるとそこだけ腱がきれいに切れているのがわかるくらいでした。
 いわゆる「肉離れ」というやつです。母親はその後しばらくは大変に不便な思いをしたようです。僕はそのころ子供だったので、手伝うといってもろくに役には立たなかったでしょう。たぶん。

 昔話を思い出しながら椅子に座っていたら、だんだん痛みが抑えられてくるのがわかりました。これって脳内に感覚を麻痺させる物質がでてきてパニックを抑えようとしているのでしょうね。
 BELAちゃんも来て「どしたの?」と。
 
 痛みはまるで「こむらがえり」のうんと強いやつのようになりました。どうにか立てる痛みです。肉離れは想像していたよりもひどくないようです。
 出先で怪我したので、これから車を運転して帰らなければなりません。
 (正直、急ブレーキとか対応できる状態ではありませんでした)

 放菴についてから、シップで応急処置しました。
 ・・・あれから4日たちました。さいわい痛みはずいぶんと軽くなりました。
 どうにか両足に体重をかけられるようになりました。けれど右のふくらはぎにはまるで赤インクを吹き付けたような点々が。

 これって、きっとあの瞬間に毛細血管も広範囲でちぎれたんでしょうね。
 
 ある人が言っていました。
 「よく陸上の選手も夏に肉離れを起こすんだよな。」
 そっかぁ・・・。暑かったもんなぁ。

 大事にしなきゃね。せっかく肉体改造はじめたばかりだし。
 心配してくれる家族にも感謝だね。

ケータイ壊れて・・・

2010年05月07日 15時23分34秒 | Weblog
 チャチなもんですな、ケータイなんて。

 買ってから1年。で、あっさり壊れました。
 メモリ、バッテリーは大丈夫だけど、筐体がイカれたみたい。大丈夫なのかブラ○ア?

 お店へ持っていったら「修理に3週間いただきます」だって。
 まあ自分は3週間ケータイ無しでも割り切って生活できるけど、周囲が迷惑するみたい。

 自分、糸が切れた凧みたいな存在だもんね・・・。

 で、代替ケータイにデータを移してもらいました。
 (こっちの方が薄くて使いやすい・・・。)
 代替ケータイ貸してもらう前にお店から「破損・故障・盗難などは自己責任」とさんざん脅かされました。(うわぁ手が震える)


 ポケットに入れて持ち歩くタイプのユーザーさんは、もしかしてこういうトラブル多いのとちゃいます? それとも自分だけ?

 今年のG.Wはそんなわけで代替ケータイで生活してました。
 
 G.Wはどこへお出かけ?
 東京で「LionKing」観てました。またまた前より2列目。
 次男坊Mも大興奮。やっと明るい話題に出会えました。

 (ちなみにBELAちゃんと長男Yは隣の劇場で「The Sound of Music」を堪能していました。

王サン’s

2010年02月01日 00時11分20秒 | Weblog
映画「Ωceans」(オーシャンズ)観てきました。

長かった・・・。
そんでもって難しかった。
製作者の意図するところはいたって簡単なんだけどね。

要するに今日に至るまでの海洋生物の繁栄は、「生命の多様性」にあるという。
その多様性を破壊しているのは他ならぬ人間である、ということ。

人間は海を汚し、また生命を大量に殺している。
網にかかったまま死んでゆくイルカやウミガメの映像。
ヒレを切り落とされて海底に捨てられるサメ。
(これは衝撃的。おそらく日本の漁船。)

最後に、ナレーションが「嵐の時には人間は力を合わせて切り抜けようとする。同じように海を守るために力を合わせられないのだろうか。」と呼びかける。

ここがわからない。

「海を守るとは何のことなのか。」

世界中でここの定義づけがうまくいかないために険悪な国際会議がえんえんと続いている。
かんたんに「海を守る」といっていいものか。