かわたれどきの頁繰り

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『オランダ・ハーグ派展』 損保ジャパン東郷青児美術館

2014年06月27日 | 展覧会

2014年6月27日

 風景画(展示は風景画ばかりではなかったが)をたっぷりと堪能した美術展だった。風景画は、たいていの場合、時代を問わず心地よく受け入れることができる私の好みのジャンルである。ましてや、オランダ・ハーグ派の画家たちは、フランス・バルビゾン派の影響を強く受けているので、どのような風景が描かれているか、という点においても私にとってはとても好もしいのだった。

 展示は3部構成で、はじめにバルビゾン派、つぎに本命のハーグ派、最後がハーグ派と関連の深いゴッホとモンドリアンの絵が展示されていた。

【左】ジュール・デュプレ(1811-1889)《森の中―夏の朝》1840年頃、油彩/カンヴァス、
95.5×76.0cm、山梨県立美術館 (図録、p. 38)。

【右】シャルル=エミール・ジャック(1813-1894)《森はずれの羊飼いの女》1870-80年頃、
油彩/カンヴァス、81.2×66.3cm、山梨県立美術館 (図録、p. 41)。

 こんなことは常識なのかもしれないが、バルビゾン派の風景画を眺めていて、陽の光の扱いが共通していることに気が付いた。陽光は全面にあたることはなく、ごく1部にだけハイライトとしてあたっているのだ。極端に言えば、陽が燦々と降りそそぐ明るい野の風景というものは見られない。

 例えば、ジュール・デュプレの《森の中―夏の朝》では、前面の木々や草には陽は射さず、明るい遠景と強いコントラストを見せている。もちろん、林の中ではこのような陽光の分断はよくあることで、決して不自然だというわけではない。しかし、画家はそのような時間帯をあえて選ぶか、またはそのように風景を再構成しているのだ。
 それは、シャルル=エミール・ジャックの《森はずれの羊飼いの女》ではさらに顕著で、光はあたかも広めのスポットライトのように羊たちと羊飼いだけを照らしていて、陽光が作る印影の効果を最大限に活かしているように思える。

レオン=ヴィクトル・デュプレ(1816-79)《風景》1879年、油彩/板、
45.2×61.1cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 49)。

 レオン=ヴィクトル・デュプレの《風景》でも、遠景は広く光が当たっているのだが、前景の主題部分では、たった一本の木の幹の部分と2頭の牛にだけ光が当たっている。そのため、わずかに描かれている水に映る牛と空の感じがとても効果的だ。

ヴィレム・ルーフロス(1822-1897)《虹》1875年、油彩/カンヴァス、
57.7×110.8cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 65)。

 ハーグ派の風景画では、上のバルビゾン派に見たような強調された陽光の陰影の使い方は顕著ではない。ヴィレム・ルーフロスの《虹》は、その少ない例だが、似ているようで明らかに違う。陽光そのものが主題である。雨上がり、広大な農地に陽が差し始めた瞬間を描いている。

 「川や沼、運河、またはオランダの干拓地に典型的な堰といった「水辺」は、ハーグ派の風景画の際立った特徴である」と図録 [1] の解説 (p. 62) にある。その中から、水辺というよりも水面そのものが美しく描かれた数点を挙げておく。

ヴィレム・ルーフロス(1822-1897)《アプカウデ近く、風車のある干拓地の風景》1870年頃、
油彩/カンヴァス、47.1×74.6cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 63)。

 《アプカウデ近く、風車のある干拓地の風景》は、《虹》と同じくヴィレム・ルーフロスの作で、手前の水路の向こうにオランダの典型的な風車を含む風景が描かれている。水面に映る雲の陰影と風車の影が印象的な作品である。

【上】ヘラルト・ビルデルス(1838-1865)《山のある風景(フランス、サヴォワ)》
1858年頃、油彩/板、70.0×100.6cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 66)。
【下】ヴィレム・マリス(1844-1910)《水飲み場の仔牛たち》1863年頃、
油彩/カンヴァス、91.4×67.9cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 89)。

 ヘラルト・ビルデルスの《山のある風景》もヴィレム・マリスの《水飲み場の仔牛たち》も、牧場の水飲み場としての小川や池を前景にして、夕焼けの空や陽光とともに牛の姿を映し出している水面がとても美しい。
 私は、展示会場を行きつ戻りつしながら、上の3点の水面ばかりを眺めていた。「水辺」の風景画ではなく、風景画の中の「水面」を楽しんだのである。

【左】ヨーゼフ・イスラエルス(1824-1911)《日曜の朝》1880年頃、油彩/板、
74.9×81.3cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 93)。

【右】ヨーゼフ・イスラエルス(1824-1911)《縫い物をする若い女》1880年頃、
油彩/カンヴァス、83.5×58.0cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 94)。

 ハーグ派は、風景画ばかりではなく、農村の暮らしぶりもたくさん描いている。上の2点は、そのような暮らしの中の一コマをヨーゼフ・イスラエルスが切り取ったものだ。
 図録のコラム (p. 92) が参照しているように、窓から差し込む光の中で女性がなにか仕事をしているという構図は、フェルメールの絵そのものである。ただ、フェルメールの絵は風俗画としての要素が強いこともあって、ヨーゼフ・イスラエルスの絵とはだいぶ印象が異なる。
 フェルメールの絵は、いつも隠された物語を強く印象づけることが多い。それに比べれば、ヨーゼフ・イスラエルスの絵は、農家の女性がいつものようにそこにいる、そのままを素直に描いているように見えてとても好感が持てる。ありていに言えば、フェルメールの窓辺の光の描写は天才的だと思うものの、絵全体が持つ物語には時としてかなり俗っぽい印象を持ってしまうことがあるのだ。ヨーゼフ・イスラエルスの上の2点には、それがない。

ベルナルデュス・ヨハネス・ブロンメルス(1845-1914)《室内》1872年、
油彩/カンヴァス、47.3×40.8cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 96)。

 《室内》もまた、特別な家庭の風景ではない。親子3人の農家の家族の平凡で静かな日々の暮らしの中の朝(たぶん)の室内の一コマを描いている。暮らしとしてその場所にそうあることを、静かで穏やかにそのまま受容する。そうするしかないとても良い絵だとおもう。

 展示の最後は、ゴッホとモンドリアンである。そこには、幾何学的な表象、シンプルなコンポジションのピート・モンドリアンとは異なる、私の知らないモンドリアンがいた。

ピート・モンドリアン(1872-1944)《アムステルダムの東、オーストザイゼの風車》
1907年頃、油彩/カンヴァス、75.0×63.0cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 124)

 空の描き方はいくぶん微妙だけれども、《アムステルダムの東、オーストザイゼの風車》は、〈ハーグ派〉のモンドリアンが描いた、そう言っていいのではないか。図録解説 (p. 111) では「ハーグ派の自然主義に加えて、印象派の鮮やかな色彩を用いている」とある。さしずめ、空の描き方は印象派らしいということだろう。

【上】ピート・モンドリアン(1872-1944)《ダイフェンドレヒトの農場》1916年頃、
油彩/カンヴァス、85.5×108.5cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 125)。
【下】ピート・モンドリアン(1872-1944)《夕暮れの風車》1917年頃、
油彩/カンヴァス、103.0×86.0cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 127)。

 しかし、モンドリアンは変容を始める。《ダイフェンドレヒトの農場》に描かれた冬木の枝は幾何学的に規則正しく交差している。まさしく「不自然」であって、ハーグ派自然主義から遠く離れたことを意味していよう。
 《夕暮れの風車》もまた、後のモンドリアンを窺わせる配列で雲が描かれている。逆光の風車はリアルな形状で描かれながら、その下部は茫洋として黒い台地に連続する。すでに風車は、風景からコンポジションの一要素へと変化し始めているのではないか、そう思わせるものがある。

 風景画を堪能できたばかりではなく、ゴッホはさておき、私の知らない風景画のモンドリアンを見ることができたのは幸運だった。仙台から新宿まで出かけてあまりある展覧会だった。

 

[1]『近代自然主義絵画の成立 オランダ・ハーグ派展』(以下、図録)(「近代自然主義絵画の成立 オランダ・ハーグ派展」カタログ委員会、2013年)。