かわたれどきの頁繰り

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『バルテュス展』 東京都美術館

2014年06月01日 | 展覧会

【2014年5月31日】

 会場入口で、朝日新聞の「バルテュス展記念号外」を貰う。1面の見出しに、「称賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」とある。2面には「少女に見た永遠の美」、「ピカソが認めた孤高の画家」とあって1面の見出し文を補完している。
 バルテュスが「称賛」されていることは当然だとしても、はじめは、「絵画を誤解する」とはどういうことだろうと考えた。神話や聖書を主題としたり、アレゴリーのような文脈を絵画に持ち込んでいる場合は、その文脈を誤解することはあるだろう。しかし、バルテュスはそのような画家ではない、などと考え込んだのだ。新聞記事には言及はないが、そんな意味の「誤解」ではないようだ。

 バルテュスは、少女(時には童女と呼ぶべき少女)の絵を描き続けたし、描かれた少女たちは挑発的なポーズを取り、時には全裸であったりする。展示作品ではないが、図録 [1] に参照されている《猫と少女》 (図録、p. 64) は、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の表紙になっていた。こうしたことが「誤解」を生み出した理由だろう。つまり,絵を誤解するのではなく、それを描いた画家の人となりに誤解があったということらしい。

 同じ見出しの中の「20世紀最後の巨匠」というのはピカソのバルテュス評だという。「美術において20世紀は、「ピカソの時代」(ピエール・カバンヌ)と呼ばれることがある」 [2] と言われるピカソが、27歳も若いバルテュスを「20世紀最後の巨匠」と呼ぶことには、たとえそれが単なる讃辞であったとしても、バルテュスの絵画の本質を射抜く重要な意味があると思える。残念ながら、号外記事にはそれ以上の言及はない。
 バルテュスが「20世紀最後の巨匠」であるのは「これこれ」だからである、というべき「これこれ」が私には見当が付かない。高階秀爾が「フォーヴィズム、キュビズム、表現主義、抽象絵画等、新しい美学や大胆な試みが目まぐるしく登場してくる二〇世紀絵画の歴史において,バルテュスをどのように位置づけるかという問題は、つねに批評家たちを悩ませてきた」 [3] と書いているくらいだから、単なる観者である私が、バルテュスの絵を「これこれ」と括れないは当然なのだが、当てずっぽうであれ、どんな評言も不思議なほど思い浮かばないし、直感的に辿って行けそうな感覚もないのである。バルテュスの絵は私の文脈的理解を拒否している、と強弁したくなるのだが、もともと現代絵画に文脈的理解など無意味だという思いも働いて、混乱するばかりだ。

【左】《ピエール・マティスの肖像》1938年、油彩、カンヴァス、130.28×88.9cm、
ニューヨーク、メトロポリタン美術館(『図録』、p. 67)。

【右】《ジャクリーヌ・マティスの肖像》1947年、油彩、厚紙、100×80.6cm、
個人蔵 (『図録』、p. 75)。

 《ピエール・マティスの肖像》や《ジャクリーヌ・マティスの肖像》をバルテュスの代表作とは呼ばないだろうが、私にとっては、展示作品の中では最も素直にまっすぐ受容できる絵である。背景の深みのある色彩に惹かれる。大げさに言えば、西洋絵画の長い歴史が累々と積み重ねた画家たちの技術が、このような深みになって表現されているように感じられるのだ。
 《ピエール・マティスの肖像》は、実在の個人のイメージが鮮明すぎるが、《ジャクリーヌ・マティスの肖像》は、若い女性像の美しさの一般化(普遍化あるいは抽象化といってもよい)が見られて、格段によい。

【左】《キャシーの化粧》(部分)1933年、油彩、カンヴァス、165×150cm、
パリ、ポンピドゥー・センター、国立近代美術館 (『図録』、p. 57)。

【右】《猫たちの王》1835年、油彩、カンヴァス、78×49.5cm、スイス、
バルテュス財団(ヴヴェ、イエニッシュ美術館寄託) (『図録』、p. 59)。

 《ピエール・マティスの肖像》や《ジャクリーヌ・マティスの肖像》と比べれば、《キャシーの化粧》も《猫たちの王》も、私にとっては、ある違和を伴って受容するしかない。
 《キャシーの化粧》は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の一場面だが、そのような文脈は関係なさそうだ。無表情でどこか無機的な感じのする老婆と、あたかもギリシャ彫刻のように不自然な裸体でポーズを取るキャシー(図では省略したが、まったく別世界に沈潜するように考え込んでいるヒースクリフも含めて)は、小説のストーリーから開放された単なる芸術的画題に過ぎないように見える。

 このような人物像の扱いは、シャヴァンヌ [4]デルヴォー [5] のようにギリシャ的形象美を人物像に求めた画家に顕著に見られる。そこでは、人物たちは互いに干渉し合うことなく、それぞれ独立した美しい塑像のように配されるのである。

 《猫たちの王》は、若いバルテュスが求めていたダンディズムの表象としての自画像である。異様な長身として描かれているが、マニエリスムともエル・グレコの聖者像とも異なって、胸・腹部が異様に短い。「器官なき身体」を目指すかのように、足と手と頭部を強調した人物像はいくつかの少女像にも共通する特徴である。だが、これをもってバルテュスの特徴とすることが出来ないのは、《ピエール・マティスの肖像》や《ジャクリーヌ・マティスの肖像》で明らかだ。さらに言えば、展示作品には含まれていないが、《スカーフを持つ裸婦》 [6] や《鏡を持つ裸婦》 [7] もまた異様に細長い肢体の人物像であるが、裸婦の胸、腹、足は常識的なバランスで引き延ばされて描かれている。

《夢見るテレーズ》1938年、油彩、カンヴァス、150×130cm、ニューヨーク、
メトロポリタン美術館 (『図録』、p. 65)。


《美しい日々》1944-46年、油彩、カンヴァス、148×199cm、ワシントン、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭 (『図録』、p. 77)。

 数ある少女像の中でも代表作に数えられるであろう《夢見るテレーズ》と《美しい日々》は、かなり異なった印象を与える。椅子やソファに寝そべった少女がポーズを取るという構図が多い中で、《夢見るテレーズ》はとても自然で、圧倒的なリアリティを持っている。解説に「無垢から性の目覚めへの過渡期を表わした」 (図録、p. 64) とあるが、まだ「無垢」のままの心であるがゆえにこのようなポーズをごく自然な振る舞いのように見せていると、私には思えるのだ。画家は、テレーズの無邪気なポーズをきわめて写実的に表現したとしか思えないのである。
 一方、《美しい日々》は、明らかに幼い少女の持つ美しさを強く意識してポーズを構成している。そして、おそらくこのようなポーズを取って、なお少女らしい美しさに留まるには、描かれた少女の年齢がぎりぎりの上限ではなかろうか。私は、この幼さゆえに性的な風合いをあまり感じないのだが、それでも、このよう絵によってバルテュスという画家が「誤解」されたのではないかと想像はできる。
 好みの問題として言えば、私としては圧倒的に《夢見るテレーズ》である。

《窓、クール・ド・ロアン》1951年、油彩、カンヴァス、150×82cm、
フランス、トロワ近代美術館 (『図録』、p. 93)。

 バルテュスには、窓から外を眺めている少女の後ろ姿を描いた絵が数点あるが、《窓、クール・ド・ロアン》は極めてシンプルな窓の絵である。室内のテーブルの上には水差しとガラス瓶とナイフが乗っているが、それ以外に部屋の装飾はまったくない。
 この絵は、ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵を強く想起させる。ハンマースホイは、まったく何もない室内や窓を描いた魅力的な作品をたくさん残している。ハンマースホイのそのような静謐な絵に惹かれたように、《窓、クール・ド・ロアン》にも私は強く惹きつけられたのである。
 とても興味深いことだが、バルテュスとリルケの関係には及ばないにしても、ハンマースホイもまた詩人ライナー・マリア・リルケによってその画才が注目された一人なのである。

【左】《街路》1933年、油彩、カンヴァス、195.0×240.0cm、ニューヨーク、
ポンピドゥー・センター、The Museum of Modern Arts(画集、p. 1)。

【右】《コメルス・サン・タンドレ小路》1852-54年、油彩、画布、294.0×330.0cm、
個人蔵 (画集、p. 29)。

 バルテュスの画業の中で、《窓、クール・ド・ロアン》は特異な感じを受けるが、建物の描き方は街並みを描いた《街路》や《コメルス・サン・タンドレ小路》と共通している。この二つの絵は、この展覧会の展示作品には含まれてはいないが、バルテュスの絵の特異性の一つを見事に顕わしている。河本真理が次のように書いている。

 馴染み深いはずの日常が突如、非日常に変貌する瞬間――は、街路》や《コメルス・サン・タンドレ小路(パサージュ)》に出現する。ピエロ・デッラ・フランチェスカを想起させる、幾何学的でややこわばった身体と、何よりも一瞬の間静止したような時間――しかし、それは「一種の魔法の力で、永久にではなく5分の1秒間、過ぎてしまえばまた動き出すようなほんの束の間だけ石と化した人物」(アルベール・カミュ)が、次の瞬間動き出す前の通過点(パサージュ)なのだ――が、この変貌を可能にしている。この点において、バルテュスによく比較されるのは、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》である。 [8]

 スーラの絵もまた、前述したシャヴァンヌやデルヴォーのように、ギリシャ的塑像のような人物たちが絵の中に配されている。人物たちは、ギリシャ彫刻、つまり「石と化した人物」として描かれているのだ。

 なぜバルテュスは時間を静止させたのだろうか。一つには、ギリシャ美術が描いたような姿形のなかに造形としての人間の美を見ているということだろう。そして、もうひとつ、私が想像するのは、人間が登場するあらゆる場面が避けがたく醸し出してしまう物語性を可能なかぎり排除しようとしたのではないか、ということである。物語の本質は「人びとの関係性」と「時間の流れ」である。時間の切断は、この時空が美として描かれる純粋な空間だけになることを意味している。《コメルス・サン・タンドレ小路》に見られるように、静止した時間の中にいる人びとは、それぞれがなんの関わりもなくそこに孤立して存在しているように描かれる。つまり、物語のもう一つの本質としての「人びとの関係性」も可能なかぎり希薄なものとして描かれる。

 このように、絵画から意味や文脈、物語性を可能な限り排除して、純粋な空間構成(2次元であれ3次元であれ)の美を追究するというのが、現代芸術の一つの大きな流れであろう。バルテュスの絵を眺めながら、ときどきシュールリアリズムの雰囲気のようなものを感じるのは、そのためではなかろうか。 


《白い部屋着の少女》1955年、油彩、カンヴァス、115×88cm、ニューヨーク、
ピエール・アンド・ターナ・マティス財団 (『図録』、p. 101)。

 上半身裸の少女が描かれる《白い部屋着の少女》も、とても気に入った作品だ。少女像といっても、明らかに《ジャクリーヌ・マティスの肖像》に連なる系譜の絵である。《夢見るテレーズ》と《美しい日々》の少女より年長で、より成熟した女体でなおかつ半裸であるにもかかわらず、エロティシズムのもつ際どさがない。逆光で、自然に膝の上で組まれた両手、静謐で落ち着いた色彩の背景、どれをとっても好もしい絵である。

【左】《冬の風景》(《ゴッテロン峡谷》のための習作)1943年、鉛筆、太い鉛筆、白いハイライト、濃色の紙、30.9×26.7cm、 スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ・コレクション (『図録』、p. 151)。
【右】《アルベルト・ジャコメッティの肖像》1950年頃、 鉛筆、方眼紙、21×16.5cm、
節子・クロソフスキー・ド・ローラ・コレクション (『図録』、p. 159)。

 展覧会にはたくさんの素描・習作も展示されていた。最後に、素描を二点挙げておこう。
 《冬の風景》は、水墨画を含む東洋絵画を見慣れている私たち日本人には、とても馴染みやすいのではないだろうか。奥行きというか立体感というか、描かれていない空間に、見るものの想像力を刺激する良さを感じる。

 もう一点、とても惹かれた素描があった。《アルベルト・ジャコメッティの肖像》である。全体を描ききらない絵に惹かれるのは、日本画的な空白の美というものに惹かれるためだろうか。もちろん、私がたぶんにジャコメッティ贔屓であることも、この絵に惹かれる理由の一つかもしれない。

[1]『バルテュス』(「バルテュス展」図録、以下、『図録』)(NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2014年)。
[2] 河本真理「バルテュス――もうひとつの20世紀、東西の親和力」『図録』 p. 17。
[3] 高階秀爾「バルテュス――眩惑の瞬間」『バルテュス(現代美術第2巻)』(以下、『画集』)(講談社、1994年) p. 89。 
[4] 『水辺のアルカディア ―ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』(「シャヴァンヌ展図録)(島根県立美術館、2014年)。
[5] 『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(デルヴォー展図録)(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年)。
[6] 『画集』 p. 59。
[7] 『画集』 p. 60。
[8] 河本真理「バルテュス――もうひとつの20世紀、東西の親和力」『図録』 p. 19。