かわたれどきの頁繰り

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【書評】はたよしこ『アウトサイダー・アートの世界』 (紀伊國屋書店、2008年)

2014年03月31日 | 鑑賞

はたよしこ
『アウトサイダー・アートの世界 ――東と西のアール・ブリュット』 
(紀伊國屋書店、2008年)

 

 2012年7月に岩手県立美術館で『アール・ブリュット・ジャポネ展』 [1] を見る機会があって、「アール・ブリュット」という言葉でカテゴライズされる美術の分野があることを初めて知った。その後、図書館の美術関連の書架で小出由紀子編著の 『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』 [2] という画集を見つけることができた。
 2013年9月、『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』展 [3] を見に世田谷美術館まで出かけて、「アウトサイダーズ」として括られる美術家たちがいることを知った。それで、同じ図書館の同じ書架で「アウトサイダー・アート」を標題とする本書を見つけ出すことができた。
 編著者のはたよしこという名前にも記憶があった。『アール・ブリュット・ジャポネ展』の図録解説をされていて、私としては初めてのアール・ブリュット経験を助けてもらったのである。

 本書では「アール・ブリュット」と「アウトサイダー・アート」の両方の言葉が用いられている。フランス語である「アール・ブリュット」を英訳したのが「アウトサイダー・アート」だとすれば、二つはまったく同じ意味なのだが、本来の言葉の意味で言えば「アウトサイダー・アート」の方が広い概念だろう。いずれにせよ、マージナルな領域や除外される領域を必然的に伴うカテゴライゼーションという作業は、いわば無間地獄の様相を呈することがある。多様な作品に出会いたいと願っている私のような単なる観者から言えば、なるべく広い領域をカバーするようなカテゴライズが望ましい。その点では、著者がアートディレクターを務める近江八幡市の美術館が「ボーダレス・アートミュージアム NO-MA」であって、その「ボーダレス・アート」という括りは、「ボーダー」の存在を想起させるものの、志向性を明示していて当を得ていると(私には)思われる

 ジャン・デュビユッフェが「アール・ブリュット」なる言葉を生み出し、その評価と作品のコレクションを始めたのだが、リュシエンヌ・ペリーは、その時代の美術史的意味を「対極間の電気ショート」と題した本書の中の一文で次のように述べている。

アール・ブリュットの概念が現れるのは、ちょうど20世紀初めの芸術改革のころにあたる。1900年ごろ、ヨーロッパ全体にプリミティヴィズムへの関心が広がり、知的および美的思想に深い影響を与えた。芸術家たちは伝統からの解放の必要性を感じ、新しい手がかりや価値を模索する。ドラクロワは、未開性と洗練さを求めてオリエントへ発ち、ゴ一ギャンは、南洋の燦然たる輝きに魅了される。ピカソは、部族の奇怪な産物に熱中し、カンディンスキーは、大衆版画を前に驚嘆する。同様に心を動かされて他の画家たちも非正統と言える芸術表現に活路を求める。古風な表現、原始性、異国趣味、民族伝承、幼さ、狂気などが他性としての対象の中心となる。西洋文明は、異なる民族や個人、また野蛮と呼ばれる創作物を受け入れるようになった。
 しかし、真の他性はすぐ近くにいた。いや、ほぼ自分の家にいた。そして遠い外国の文化によって作られたものに比べて、それらは、疑いなくもっと強い破壊性を帯びていた。望むにしろ望まないにしろ、社会に同化するのを拒んだ者たちは、極端で攻擊的な他性の作品を生み出していた。 そこらに描かれた奇妙な人物像たち、拾った木を粗く削った妄想の動物、粗末な紙に書かれた仮想の音楽作品など、いずれも分類することはできない。それら「観念と感性の過激派たち」は、最も反逆的な逃避、すなわち「内への逃避」へと進んでいき、その異常な奇怪さに「他者」と「他所」を示している。 (p. 26)

 身近にいた「観念と感性の過激派たち」こそ、精神病院や養護施設でひそかに制作を続けていた「アール・ブリュット」の芸術家たちだった。また、本書が上程された2008年の時点における日本の状況を、「浮上しはじめた日本のアール・ブリュット」と題して、著者は次のようにまとめている。

アール・ブリュット・コレクションにとって日本は「未開の地」であり、さらにいうなら日本国内においても「少しだけ知られはじめた僻地」であるのだから、当然といえば当然だ。
 しかし、実際にはここ10年ほどの間に、日本の逸材がかなり発見されてきている。つまり、「障害者の作るものは純粋だからすべてよい」というような間違った差別的偏見など軽々と凌駕するような作品。完全に独自の発想法により生み出され、かつ人に伝わる何かの力を有する作品。そういう作品が浮上してきているということである。これは日本のアウトサイダー・アートの歴史的流れを考えても、かなり画期的なことだ。 (p. 16)

 こうして、私のようなものもこの分野の美術作品を見る機会が得られるようになったのである。著者は、知的障害者授産施設で絵画教師を主催するなど、この分野の表現者たちに寄りそって活動をしてきた絵本作家で、その経験から彼らの想像力の源泉の一つとして次のように述べていることが、強く印象に残った。「喪失」はそれに見合う「想像力」を生み出す。いわば、人間の(肉体と精神を合せた)全人的な再生力の豊かさを意味するような説である。

アメリカの脳神経科医、オリバ一・サックスもその著書『火星の人類学者』の中で、同様のことを書いている。つまり、人はなんらかの障害、欠損、不足を持つことで、他の機能を開発させる能力、「創造力」を持つことのできる生き物だということだ。
 知的障害を持つ彼らの大半は言語表現が苦手か不可能であり、それに代わる手段として、自分の内的世界、内的衝動を表す方法を獲得した。それが、絵を描くこと、モノを作ること、すなわちアート的表現行動なのだ。 (p. 18)

 本書には始めて出会った作品、作家が多かったが、なかにはいぜんに見た作品や作家も収載されていた。ここでは、以前に紹介した作家、作品と重ならないように、かつ印象が強かった作品(作家)を挙げておく。

【上】ヴィレム・ファン・ヘンク(1927-2005)《マドリード》制作年不詳、絵の具、ハードボード、
86.5×105.6cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 63)。

【下】ヴィレム・ファン・ヘンク(1927-2005)《東京》1970年頃、ガッシュ、ボールペン、マーカーペン、
インク、コラージュ、紙、90×169cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 64)。

 ヴィレム・ファン・ヘンクは、「ノー トのぺ—ジをちぎり,大きな包装紙に貼り付ける。そこに色鉛筆で描き、さらに万年筆かボールペンでいくつかの線を描きなおす。そして、ガッシュで塗る」 (p. 62) という複雑なプロセスで、自らが訪れた都市をきわめて細密に描き挙げる。

 アール・ブリュットの絵画には「細密性」を特徴とする作家が必ず含まれるようだ。だから、いまやその細密性の差異(個別性)を論ずべきだろうとは思うのだが、私は細密性に向かうその情熱に圧倒されるばかりなのだ。その情熱を、私はかつて「空間を埋め尽くす執念のようなもの」と呼び、「この時空が「在るもの」によって構成されている、というのはきわめて初元的な感覚ではないか。「無いもの」は存在しない、というのは認識の初めとして不自然ではない」 [3] と記したことがある。古代ギリシャの哲学者、パルメニダスの「あるものはある、ないものはない」 という論理的命題が生き生きと実現されている、そう考えるのである。


【上】富塚純光(1958-)《青い山脈物語最終章:1万円札と花を貰ったの巻》2001年、墨、
パステル、新聞紙、54.3×79.8cm、(社福)一羊会・武庫川すずかけ作業所蔵 (p. 88)。

【下】富塚純光(1958-)《青い山脈物語8:おっかけられたの巻》2001年、墨、パステル、
新聞紙、54.5×81.1cm、(社福)一羊会・武庫川すずかけ作業所蔵 (p. 89)。

 富塚純光の《青い山脈物語8:おっかけられたの巻》は、『アール・ブリュット・ジャポネ展』 [4] でも展示されていた。一見、細密性という点でヴィレム・ファン・ヘンクと共通性があるように見えるが、空間を埋めているのは言葉である。それを文字という記号と見なしてしまえばいい、というほど単純ではない。記号は現実空間の実在物ではない。象徴空間の抽象化された形象である。
 そればかりではない。ここに書かれた文字は、言葉として十全な形で物語を刻んでいるのである。「それはいつしか創作物語になり、1作目の「青い山脈物語」は半分がフィクシヨン。2作目の「オランダ結婚物語」は約7割がフィクション。そして6作目にいたっては、完全なフィクションになってしまった」という解説があって、「人間にとっての「物語作り」の原型」 (p. 86) のようだと評されている。
 言葉と絵、これに歌が加われば「物語」語りとしては完全形ではないかと思う。つまり、「インサイダーズ」は人間の総合的な表象能力を細分化することで、つまり、絵は「絵画」として、言葉は「文学」として、歌は「音楽」として切り売りすることでプロフェッショナルを自認してきた、そんな逆ベクトルの眼差しがあってもいいのではないか、そんなことを思わせる作品なのである。


【左】レイノルド・メッツ(1942-)《ドン・キホーテ》1977年、墨、水彩絵の具、漆、厚紙、
53.5×39cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 91)。

【中】レイノルド・メッツ(1942-)《ドン・キホーテ》1977年、墨、水彩絵の具、漆、厚紙、
53.5×39cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 92)。

【右】レイノルド・メッツ(1942-)《ドン・キホーテ》1977年、墨、水彩絵の具、漆、厚紙、
53.5×39cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 92)。

 レイノルド・メッツの作品も、富塚純光の作品と同様に「絵と物語」である。しかし、明らかに富塚と異なるのは「セルバンテス作『ドン・キホ一テ』の初版本の愛好家であるレイノルド・メッツは、この名著を自ら3部制作することにし、スペイン語、ドイツ語、フランス語版の書写と彩飾に取り組んだ」 (p. 90) とあるように、創作志向は物語ではなく、本の「装飾性」を向いている。そのためであろうか、富塚の作品と比べて文字の装飾化(変容)が著しい。
 富塚の絵もメッツの絵も、音声だけの言葉が文字を獲得していくプロセスまで想起させる。純粋な「表現」は音声によってのみ可能だとフッサールは言うが、文字や記号、身振り、手振りは表象内容に不純物を付加するだけと考えることもできるし、複雑で豊かな表象を可能にしたと考えることもできる。哲学者でも芸術家でもない私はどちらでもいっこうに困らないが、無責任な観者としては豊かであってくれればいいのである。

【上】坂上チユキ(1882-1961)《さがしもの》1995-99年、ミクストメディア
(顔料、水彩、粘土ほか)、20×31.5×26cm、個人蔵 (p. 103)。

【下】坂上チユキ(1882-1961)《無題》1980-2000年、油彩、キャンバス、5
2.5×45.5cm、個人蔵 (p. 104)。

 「アール・ブリュッ卜が見る者に引き起こす精神状態を表すのにぴったりな言葉は、当惑です」と語ったのはブルノ・デシャルム [5] だが、坂上チユキの《さがしもの》という造形作品には文字通り当惑したのである。青を基調とするものの多彩な細部が線上に連なって3次元網目状の立体を形作っている。それをどう受容していいのか戸惑うのである。正直、美しいと感動するわけではない。しかし、このイメージは何だろうと問わざるを得ないような感覚に陥るのは確かだ。
 3次元のイメージを2次元で表象すると《無題》になるのだ。それは理解できる。そして、この《無題》は美しいと思う。立体造形ではよく分らなかった細部の要素が、ここではペーズリーのようなさらなる細部模様を持つ要素であることが分かる。そして、そのペーズリー要素が不規則に無限に連なる。ここでも基調の色彩は青だが、ペーズリーの縁の光る陰のような黄色が画面にリズムを与えている。
 坂上チユキという作家は、創作表現を3次元と2次元でも(たぶん)自在に行なうことができる。だが、観者の私は、私の中での次元変換の不可能性、隔絶性に戸惑っているのである。

 坂上チユキの作品には解説ではなく、坂上チユキ自身の文章が添えられている。それは散文詩と言ってよいものだが、その中に次のような一節がある。

 ここでは、人々の言葉は過剰で心は寂しい。環境が汚染されて居ると言うが、この血なまぐさい穢土に住み、真に汚れてしまったのは、本当は人間ではないか?
 時の流れと共に、心の内から叩き落とされて行った言葉――純真で、単純で、人の心に流れ込む言葉を、本当に失ってしまったのか?
 一体誰がこんな沢山の言葉を造り上げたのか? (p. 102)

私は見透かされている、きっと。

 

[1] 『アール・ブリュット・ジャポネ展』 岩手県立美術館、図録:『アール・ブリュット・ジャポネ』(以下、『ジャポネ図録』)(現代企画室、2011年)。
[2] 小出由紀子(編著) 『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』(以下、『R. B.』)(求龍堂、2008年)
[3] 『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』展(世田谷美術館、図録: 遠藤望、加藤絢編著『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』(以下、図録)(世田谷美術館、2013年))。
[4] 『ジャポネ図録』、p. 88-9。
[5] 「ブルノ・デシャルム(abcd創設者)へのインタビュー」 『R. B.』 p. 151。