かわたれどきの頁繰り

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【書評】小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』(求龍堂、2008年)

2012年09月16日 | 読書

 今年の7月に岩手県立美術館で「アール・ブリュット・ジャポネ展」を観たことで、この「アール・ブリュット」というカテゴリーの美術作品が積極的に評価され、コレクションされていることを知った。
 3日前、図書館をぶらぶらしているとこの本のタイトルが目に入った。以前、何度も面白そうな本を探して眺めていた書架なのに、まったく初めて目にしたような感じである。7月以前は、「アール・ブリュット」は意味を持った言葉としては目に入らなかったのである。
 世界には意味あること、価値あること、楽しいことがたくさんあって、知らぬがゆえにほとんど気づくことなく生きているのではないか。「無知であることの恐怖って、ない?」と妻に聞いたら、「なにそれ、しちめんどくさいことは考えちゃだめよ」と声にはならないが、そんな表情で一瞥されただけだった。

 マルティーヌ・リュザルディが、「アール・ブリュットを最も洗練された文化領域、美術の領域に紹介したのは、"普通の人"ではありえず、自分たちが織り込まれてきた文化の価値に異議を申し立てていた発見者たちであった。実際、クレ一やブルトン、デュビユッフェ以上に、誰が、この未発表の、予測不能の、最高に想像力豊かなフォル厶の無名の発明者たちを認めることができただろうか」 [1] と述べているように、アール・ブリュットの評価とコレクションは、ジャン・デュビユッフェがその功の大半を負っている。

 この本 [2] は、近年設立された団体(abcd)によるアール・ブリュット作品のいわゆるabcdコレクションの紹介である。

Art Brut Connaissance & Diffusion (abed)は,アール•ブリュッ卜の収集、研究、普及を目的として,1999年パリに設立された非営利団体である。創設者ブルノ・デシャルムを中心に、美術史、美学、哲学.社会学、精神分析学などの専門家が集まり、アール・ブリュットの歴史、定義や思想を精査しつつ、理解を深め,展覧会や出版、映像制作を通して普及活動を行っている。 [3]

 アール・ブリュットにカテゴライズされる画家として、日本でもっとも高名なのは山下清であろう。著者によれば、戦前、山下清の評価については「日本の美術史の一大事件」と呼ぶべき論争があった、という。
 その論争のありようを知らないが、たとえば、松本竣介は山下清の絵画に否定的な次のような見解を述べている。

常の意識を持たぬ狂人や痴愚の、或種の感覚だけが異状に鋭くなった場合と、現実を強度に意識した上に研ぎ澄された感覚の場合とは、表現形式が類似してゐても、極端な等差のあることは言ふまでもない。例へばゴッホの作品にはヒューマンな愛情が満ちてゐるのに反し、清少年の作品は、怖ろしい程人間的に空虚だ。自然のやうに虚無だ。神のやうに虚無だ。現実と連繋する尻尾なしに生れたからだ。只一人で暗黒の空に無限に飛昇するこのやうな精神は僕達のものではない。 [4]

 少なくとも、文章活動においては精神主義的な言説を重ねたきた松本竣介らしい言葉だが、とても同意できない。ゴッホはヒューマンで、山下清は虚無だという物言いのなかに、評価が定まったものに依拠する権威主義、文化主義の匂いがする。それこそが、「クレ一やブルトン、デュビユッフェ」がアール・ブリュットを通じて批判しようとした当のものである。

 その山下清については、「戦後「裸の大将」ブームが起こり、山下清の知名度は全国的に高まったが、この魅力的なキャラクターに対する大衆人気が逆に美術関係者を敬遠させ、山下の絵に関する研究は長い間手付かずのままだった」 [5] ということだったらしい。つまりは、アール・ブリュットにカテゴライズされる種類の芸術に関しては、日本では近年まで社会化されていなかった、ということであろう。この本は、フランスの活動の紹介であるが、そういう意味で「アール・ブリュット・ジャポネ展」を企画した活動は、おそらく、きわめて貴重なものだったのはなかろうか。

 本書ではabcdコレクションのアール・ブリュット作品が、次のような項目に分類されて紹介されている。「ひとりぼっちの王国」、「ブリコラージュ・ブリュット」、「ちょっととした逸脱」、「聖霊に導かれて」、「内的風景」、「女たちの有機形態」、「欲望の迷路」、「人生の謎をとく手がかり」、「人間のイメージ」という区分で、もともと創作活動の出発点そのものから分類、整理が困難なアール・ブリュット作品の広がりをよく示唆している。

 初めに、日本で3度も個展が開催されたというヘンリー・ダーガーの作品を観ておこう。著者は次のように評する。

戦争、虐待、孤独、思春期、性倒錯、死体性愛、英雄願望など、ダ一ガー作品が内包するテーマは先鋭的で、鑑賞側と制作側の両方を震撼させた。熱狂的ファンを得ると同時に、ダーガーに触発されたより若い世代の美術作家が日本にも登場し始めている。 [6]

 しかし、このことは、ダーガーの絵が「現実と連携する尻尾」を持つこと、アール・ブリュット作品としては特異的に社会性を帯びていることを意味しているのではないか。

     
        ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892-1973, USA) 《無題》、
        コラージュ・グワッシュ・鉛筆・インク、紙、55.7×75.3cm、1950-60年頃。 [7]

 この絵のように、ダーガーの作品には複数の人物が描かれ、その役割、関係性など、いわば物語がわかりやすく描かれている(たとえ、それが異常で刺激的であっても)。
 バーガー作品は日本に紹介されるアール・ブリュットとしては、導入的な意味合いで最適であったのだろう。山下清の描写力、ヘンリー・ダーガーの物語性、ともに絵画が大衆的に受け入れられる重要な要素であろう。

 さて、ヘンリー・ダーガーに敬意を表したので、次は、「お気に入り」というか、気になる作品を観ていこうと思う。 

   
    左:レオン・プティジャン(Léon Petitjean, ?-?, France) 《無題》、鉛筆・インク・水彩、
      厚紙、32×17.4cm、1922年。 [8]
    右:オーギュスタン・ルサージュ(Augustin Lesage, 1876-1954, France) 《無題》、
      油彩、カンヴァス、140×110cm、1928年。 [9]

 アール・ブリュットで気になっている特徴のひとつは、細密性である。そこには、空間を埋め尽くす執念のようなものがある。しかし、私たちの呼吸しているこの時空が「在るもの」によって構成されている、というのはきわめて初元的な感覚ではないか。「無いもの」は存在しない、というのは認識の初めとして不自然ではない。

 レオン・プティシャンの構図は、まるでクリムトのようだし、オーギュスタン・ルサージュの絵は、「祭壇画を含む」祭壇の緻密な描写に見える。どちらも、華麗な厳粛さに満ちている、と私には感じられる。


左:アルビノ・ブラス(Albino Braz, 1893-1950, Brazil) 《無題》、鉛筆、紙、31.2×21cm。
右:フルリ=ジョセフ・クレパン(Fleury-Joseph Crépin, 1875-1948, France) 《無題》、
  油彩、カンヴァス、62.5×50.5cm、1941年。

 人間の原初的な感覚から始まる宗教感情というものがあるだろう、神話を生みだす感情と精神が。アルビノ・ブラスの絵も、フルリ=ジョセフ・クレパンの絵も、原初的な感覚をはるかに越えて、世界を包みこむ神話空間を構成しているようにさえ感じる。
 象徴化された世界と、花も蝶も鳥も生みだす女神としての女性、あるいは、人間たちの生活空間を高みから見下ろしている視線たち。世界はそんなふうに構成されているのだ、と言わんばかりである。


左:エヴァ・ドゥロポヴァ(Eva Droppova, 1893-1950, Brazil) 《無題》、フェルトペン、色鉛筆、紙、
  45×17cm、1992年。 [10]

右:ジャンヌ・トリピエ(Jeanne Tripier, 1869-1944, France) 《無題》、絹刺繍、布、 
    40.5×9.5cm。 [11]

 上の絵は、著者によって「女たちの有機形態」と名付けられた作品である。女性作家であることと、部分が有機的な柔らかさと広がりで連続している特徴がある。造形、色彩によって「驚き」と「感動」を与える。しかし、人によっては「不安」のような感じ方もあるかもしれない。
 「アール・ブリュット・ジャポネ展」に出品された(すずき)万里絵の《全人類をペテンにかける》、《泥の中のメメントモリ》などの作品はもう少し具象的だが、もっと激しく不安に落とし入れるような激しさがある。

 「感動」と「不安」のあわいをじわりと歩むように描画作業を行っているのだろうか、などと想像する。 

   
    上:ヘレン・バトラー・ウェルス(Helen Butler Wells, 1854-1940, Brazil)《無題》、
      色鉛筆、紙、20.2×26.5cm、1923年。 [12]

    下:F. セドラック(F. Sedlák, ?-?, Czech)《釣》、色鉛筆、紙、22×32cm、1924年。 [13]

 人間がどのような環境に置かれているのか、人と人はどう繋がっているのか、人間の関係性を具象化するとどうなるのか。その答えのあり方が、これらの絵ではないかと思う。
 複数の人間が、ある具体的な連結、接触あるいは抱擁によって寄り添っている。いや、もしくはせめぎあうように関係性の中に押し込められている。どちらかは、私には分からない。ただ、たくさんの人々が身近に立ちこめていることは間違いない。

 次は、ただ単純に「お気に入り」の作品である。

 
  エヴァ・ドゥロポヴァ(Eva Droppova, 1893-1950, Brazil) 《無題》、フェルトペン・色鉛筆、
                 紙、45×62.5cm、1992年。 [14]

 ひとつは、ふたたび「女たちの有機形態」のエヴァ・ドゥロポヴァの作品である。構図、色彩、その展開に驚くばかりである。構図、構成ばかりではない。ある一点に目をやり、静かに視点を移動させていくと、色彩が意味ありげに時間発展するような感じを受ける。不思議で、驚くべきイメージである。 

 
   ギョーム・ピュジョル(Guillaume Pujolle, 1893-1951, France) 《無題》、
         グワッシュ・医薬品、紙、23.5×31.5cm、1940年頃。 [15]

 もう一点は、ギョーム・ピュジョルの作品で、著者が「内的風景」に入れているものである。空、雲、太陽、月、建物、デザイン化された文字、そして変容する自己、それぞれの具象を描きながら、優れた抽象画を思わせる。つまり、具体物の高度な抽象化(人物はそう見えないこともない)ではなく、構図と色彩によって高い抽象化をはかる。優れた抽象化とは、優れた一般化である。そのように思わせる作品である。

 最後に、本書の巻末に納められているabcdコレクションの創始者、ブルノ・デシャルムのインタビュー記事について触れて起きたい。
 アール・ブリュットとの出会い、コレクションの意味について語っている中で次のように述べている。

アール・ブリュッ卜が見る者に引き起こす精神状態を表すのにぴったりな言葉は、当惑です。当惑の感情が湧き出し、目の前にあるものに対する答えが欲しくなります。けれど、その答えは永久に与えられない。はっきりした答えが出るような性格のものではないのです。 [16]

 「当惑」というのは的を得ている。私たちの常識的な(社会的に訓練を受けた、あるいは社会的な抑圧を受けた)精神や感受性にとっては、やはり「当惑」から感受が始まる。その「当惑」と「驚き」に惹かれると言ってもよい。
 インタビューの最後の頃に、次のように発言している。

最近abcdで注目しているのは、アール・ブリュットの創造者たちが極めて特異な形で文化を活用しているという事実です。この点、アール・ブリュットの社会学的側面より、心理学的側面が語るものを重視しています。アール・ブリュットの作品は、思考を介在させずに無意識から直接生み出されるものです。自分の内面に秘められた魔術的な力に身をゆだねた人々を媒介者として産出されます。そしてアール・ブリュットの作品は「正気でない」人たちが創造する作品でもあります。 [17]

 しかし、この発言にはいくぶん異和を感じる。社会学的、文化的側面に力を注いだデュビユッフェに対して、後発者として心理学的側面を重視することは、もちろん問題はない。どちらも重要だが、歴史的偏りを修正するということだろう。
 異和は、「アール・ブリュットの作品は、思考を介在させずに無意識から直接生み出される」と断言する点にある。逆にして考えてみよう。健常者である芸術家は、有意識(精神)のみによって作品を創作しているというのか。アンリ・ミショーなどシュール・レアリズムの作家、作品群を全否定しないかぎり、その主張には無理がある。有意識も無意識も、ともに作用しあって作品は生まれるのが普通ではないか。芸術家が全身全霊を傾ける、という表現は人間の持つ意識の一部分を使うという意味ではけっしてないだろう。
 そして、「正気でない」人たちには無意識しかないのか。そんなことはあるまい。彼/彼女らもまた、無意識も有意識も動員して全身全霊で創作している、と考えるのが自然だし、正しいだろう。
 デシャルムの発言は、先に紹介した松本竣介の発言の裏返しである。松本は精神性(社会性)がないから価値がないと言い、デシャルムは無意識だけだから価値があると、どちらもアール・ブリュットの作家たちの精神性を認めないのである。
 私は、「正気でない」人たちに対するそのような人間観を信じないし、否定する。

 

[1] マルティーヌ・リュザルディ「「裂け目」としてのアール・ブリュット」(前田礼訳)『アール・ブリュット・ジャポネ』(現代企画室、2011年)p. 136。
[2] 小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』 (以下、『R. B.』)(求龍堂、2008年)。
[3] 小出由紀子「謝辞」『R. B.』p. 16。
[4] 松本竣介「アバンギヤルドの尻尾」『人間風景』(中央公論美術出版、昭和57年) p. 217。(初出は九室会機関誌「九室」第二号 昭和十五年二月七日)。
[5] 小出由紀子「アール・ブリュットの誕生とひろがりをめぐって」『R. B.』 p. 8。
[6] 同上、p. 13。
[7] 『R. B.』 p. 29。
[8] 『R. B.』 p. 10。
[9] 『R. B.』 p. 62。
[10] 『R. B.』 p. 83。
[11] 『R. B.』 p. 85。
[12] 『R. B.』 p. 66。
[13] 『R. B.』 p. 69。
[14] 『R. B.』 p. 82。
[15] 『R. B.』 p. 74。
[16] 「ブルノ・ デシャルム」(abcd創設者)へのインタビュー」『R. B.』 p. 151。
[17] 同上、p. 152。



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