かわたれどきの頁繰り

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【書評】『齋藤史全歌集1928-1993』(大和書房、1997年)

2012年05月29日 | 読書

暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた [1]

 昭和11年、27才の作である。この年、2・26事件があり、連座した青年将校に二名の友人が含まれ、父・齋藤瀏も叛乱幇助の罪に問われた。翌年には日支事変が勃発するなど、国は戦争に突き進んでいた。この「暴力」が青年将校の叛乱の暴力か、それを弾圧する政治権力の暴力か、あるいは国家侵略の戦争暴力か、はたまた「革命の混乱の美しさ」とレーニンが語った(らしい)という革命の暴力かを問わず、「暴力のかくうつくしき世」と断言し、「子守歌」で受ける際立つ感性には驚くばかりである。
 この歌を評して、小池光は次のように述べている(彼は私より1才若く、全共闘闘争が吹き荒れる同じ大学で同じ空気を吸っていたはずである)。

とりわけ「暴力のかくうつくしき世に住みて」のフレ—ズは、当時のじぶんにいかにも身に染みるものだった。全共闘運動の渦中である。量も質も戦前のとは比べものにならないそれであったにせよ、「暴力」はまぎれもなく現実にあり、その暴力を「かくうつくしき」と言ってしまいたい衝迫はかりそめのものではなかった。遙か戦前の、しかも軍国主義を象徴する悪名高い事件が、たった一首の短歌によってごく身近な、共感の対象のようにさえ見えてくる奇妙さに、実に新鮮な咸動を覚えたことを思い出す。バリケードの壁に、この一首が落書きされていても、ちっともおかしくなかったとおもう。 [2]

 ここには、政治思想、イデオロギーを超えた歌の美しさがある、ということだ。

 この全歌集を初めから読みすすめていくと、奇妙なことに気づく。父、夫、子の歌も確かに含まれていながら、家族の情愛を歌っているという印象が稀薄なのである。とくに若いときの歌には母はほとんど登場しない(晩年、母の介護、死の看取りの時期に急激に増えるのだが)。
  この家族の情愛の歌の少なさは、いわば齋藤史の歌の特質であろう。家族の情愛という審級は、史の想世界の構造として確かに含まれるであろうが、それは世界の主要な要素ではない。世界は、想世界自体の方から構成されているように見える。それが、私にとって魅力ある世界表象として顕れている、と考える。

 このような魅力を持つ齋藤史を、塚本邦雄は次のように評している(この全歌集は、戦後短歌の二つの巨星、塚本邦雄と岡井隆の解題を併録しているほか、別冊では主要な現代歌人の多くが齋藤史評を寄せていて、読み応えがある)。

歌は象徴の他何ものもなし、この當然の言擧が、不變の眞理が、戰前戦中を通じていかに無視され續けて來たことか、「オレンヂ」は、「杳かなる湖」は、この主張を、作品そのものによつて示す、有力な證であった。[3]

萬葉のみを佳しと決め、古今を口を極めて貶め、新古今に胡散臭げに睨んで近寄らぬ、この愚劣な古典享受態度が、當然のことのやうに横行してゐた時代に、象徴派歌人がいかに理不盡な待遇に甘んじねばならなかったか。私はそれを想像するだけでも腸の煮える思ひであった。[4]

 つまり、日常を主情的に歌う歌人ではないのである。じつのところ、若いときの私は「短歌は主情に過ぎて煩わしい」と思っていたし、「俳句は叙景に過ぎてつまらない」 と思いなしていたのである。そして、短歌は塚本邦雄や福島泰樹などによって、俳句は尾崎放哉や秋本不死男、金子兜太などによって目を覚まされたのであった。 

 全歌集を読み通していくと、齋藤史の齋藤史的世界は、昭和三十年過ぎに急激に先鋭化するように思える。塚本邦雄も、昭和三十三年以降のいくつかの歌を挙げて次のように評している。

 新風再體驗の痕跡の有無は、よほどの讀み巧者か、渦中にゐた者か、そのよき目撃者以外、判別はむつかしからう。少くとも三十年代後半から四十年代初めの作としてここに掲げた歌には、新風も古風も彼方に置いた、獨特の史的世界が見られる。臈たけた魔性、混沌を祕めた輕みとしか言ひやうのない調べが、否應なく讀者を魅する。 [5]

 私がそう感じたのは31年くらいの歌からで、塚本が挙げた歌とは重ならないが、次のような歌である。ただし、これはその特徴を表しているとして選んだわけではない。その年代の歌のなかで、私の好みのものを書き抜いただけのものである。

雪の中に二人死にたる人の骨あらひ出されて融雪期終る [6]
透明のものうつくしむ癖持ちてイメエヂ脆し グラス 花瓣 愛情 [7]
鋪石剥ぎてうがてるは壕ならねども戰後をながく閉ぢぬ傷口 [8]
かくしつつひそかにたたみ終らむかなまなまとぬめるわが不義の指 [9]
先廻りしてつねに來てゐる終末よさそひゆくべき一人も持たぬ [10]

 塚本が「よほどの讀み巧者」でなければ分からないといっているくらいだから、私がどのように表現すればよいのかは難しい。たとえば、死者の骨が「融雪期」を表象する乾いた具象であること、「結氷期」と同様に「融雪期」は季節の変化を数億年の地球時間への展開を暗示するような時空の拡大、拡張がある、と思える。「グラス 花瓣 愛情」の並列は空間次元の多重化、あるいは時間の空間への統合のような効果を与えている。つまり、時空の質的拡大は、史のメタ的立ち位置をさらに高みに差し上げているのである、と思えるのだ。だからこそ、どのような感傷もなく「なまなまとぬめるわが不義の指」を見つめることができるのである。

 さて、なぜ昭和30年以降なのだろうか。敗戦後およそ10年を経て、なぜ齋藤史的世界は完成形に急接近したのだろうか。そのように問いかけたとき、私の想像力を刺激するのは次の歌である。

五十年生きて汚れしてのひらのくぼみの底ことに暗き十年 [11]

 この「暗き10年」は、50年の生のなかのどこに位置する生なのか、ということである。私は、それを敗戦後の10年と考えたいのである。軍人の娘として生を受けた齋藤史は、絵画における藤田嗣治が戦争絵画を積極的に描いたように、戦争短歌を積極的に詠んでいる。従軍記者(歌人)になりたいと希望さえしていた。敗戦後、そのことは彼女の心の重い負債としてあったのではないか。そのことは、全歌集の後書で次のように述べていることからも推測される。

 渡り上手に生きるならば削ったであろう戰爭時の歌も、あえてそのまま入れたのは、それが日本の消しがたい歴史であり、足取り危うく生きた一人の女の時代の姿を、恥多くともそのまま曝しておこうと心決めたからである。
 變動激しい時代に生き得たことに感慨が無いではない。平穩單一な生活でなかったのも今となっては、人生の襞にいささか多く觸れ得た思いである。そう言えるのも長壽のたまものであろうか。 [12]

  「戰爭時の歌も、あえてそのまま」己れの精神、己れの身体、己れの歴史として受け入れるのに10年を要したのではないか、と想像する。そうして受け入れることを契機として、いわば自由を獲得した想像力は、象徴的な深み(想世界時空の高み)へと飛翔しえたのではないか。戦争責任だとか、転向だとか、非転向だとか、イデオロギッシュな人間くささを超克しえたのではないか。

 そんなふうに考えたのである。すぐれた読み手なら問題にならないようなことも、凡庸な読み手にとっては全歌集を通読して初めて気がつくようなことがまだまだありそうではある。

 

   

[1] 「歌集 魚歌」『全歌集』 p. 39。
[2] 小池光「うたの栄光」『全歌集 別冊』 p. 36。
[3] 塚本邦雄「解題 殘紅默示?」」『全歌集』 p. 891。
[4] 同上、p. 893。
[5] 同上、p. 909。
[6] 「歌集 密閉」『全歌集』 p. 403。
[7] 同上、p. 404。
[8] 同上、p. 412。
[9] 同上、p. 415。
[10] 同上、p. 420。
[11] 同上、p. 446。
[12] 「著者後記」『全歌集』 p. 889。



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