そんなに新しい本ではないが『現代思想の源流』(講談社、2003年)というマルクス、ニーチェ、フロイト、フッサールの4人の思想を解説している本を見つけて読んだ。『現代思想の源流』は、30巻に及ぶ「現代思想の冒険者たち」というシリーズを導く第0巻となっていて、結局、シリーズ30巻のうち12巻を読むことになった。
そのうちの一冊が第15巻の『アドルノ』だった。読み終えた12巻のなかには読み進むのがむずかしかったり、なかなか理解しにくかったりする本もあったが、細見和幸著のこの本は、圧倒的に読みやすく、快適に読み終えることができた。文章のリズムが、私にはとても受け入れやすかったのである。論理の展開の間合い、喚起される情感の時間発展が心地いいのである。
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉が様々な人、場所で引用されていて、アドルノという名前はずっと見知っていたが、アドルノの本を読んだ記憶がない(フランクフルト学派の本はあまり読んでいない)。当然ながら、私の興味は「アドルノとアウシュヴィッツ」ということになる。
そういう私の興味に応えるように「プロローグ」で語られるのは、半世紀以上も前のフォークソング全盛時に流行り、小学校での音楽でも取り上げられてきた「ドナドナ」という歌に関する著者自身の若いときのエピソードである。
あの陰鬱(いんうつ)な印象深い旋律がユダヤ人の歌で、惹(ひ)かれてゆく「仔牛」がユダヤのひとびとの宿命の暗喩であると知ったときの衝撃――。だからいまアドルノをはじめユダヤ系の思想に興味をもっているのだと言えばできすぎた話になるが、あのときの衝搫がぼくのなかにいまなおくっきりと刻みつけられているのはたしかである。(p. 13)
ぼくらが意味不明の囃しことばのように口ずさんでいた「ドナドナ、ドーナ、ドーナ……」の部分は、ドイツ語訳によれば「わたしの神よ、わたしの神よ」という神への呼びかけだったのである。そしてこの歌に付されている短い解説によると、作者はイツハク・カツェネルソン。かれは一八八六年に生まれ、ポーランドのウッジのユダヤ人学校の教師を務めるとともに、多くの歌や戯曲を書き、ユダヤ人の闘争団体とも密接な関係にあった。一九四二年に妻とふたりの息子がアゥシュヴィッツへ「強制移住」させられ、かれはその印象をこの歌に託した。その後カツェネルソン自身も「強制移住」させられ、妻子と同様に四四年にアゥシュヴィッツで死亡した、とある。(p. 16)
だが、決定的に重要なのは、あの「ドナドナ」というわれわれにとってとても馴染み深い歌が、まぎれもなくユダヤ人にたいするポグロム(民族虐待)を歌ったユダヤ人の歌にほかならない、という点である。そして、アドルノもまたユダヤ系の哲学者であるといった問題を遥かに越えて、この歌とわれわれの関係のうちには、きわめてアドルノ的なテーマがぐっと凝縮された姿で存在していると、ぼくにはおもえるのだ。(pp. 16-17)
そして、プロローグで「ドナドナ」のエピソードで始まったこの本の最終章は、次のような文章で終わるのである。見事である、としか言いようがない。
最後に「ドナドナ」の旋律をもう一度思い起こそう。あのとき幼いぼくたちは、ぼくたちの耳と身体にあの旋律のもつ痛みの「分有」をすでに刻印されていたのではないだろうか。おそらくアドルノが考える「経験」も、本来そのような場面でこそ生じるのだ。
ぼくらは他者の痛みから単純に切り離されているのではない。ぼくらの五感は常にすでに、むしろ否応なく他者の痛みの「分有」へと開かれている、と言うべきなのだ。ぼくらの身体とその記憶には、すでに多くの他者がすまわっている。その意味で、ぼくら自身がすでに無数の「他者」なのだ。ぼくが「非同一的な主体」と呼んだものも、最終的にはそのようなイメージに帰着するようだ。この「他者」の記憶を、ぼくらの五感と思考のすべてをあげて解き放ってゆくこと、それこそが、ぼくらがぼくら自身の新たな思考と経験にむけて踏み出してゆくための、第1歩であるにちがいない。 (pp. 286-287)
アドルノには『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマーとの共著)と『否定弁証法』という大部の著作もあって、これから読むべき本と思いなして、その古本を見つけて積み上げてある(つまり未読である)だけなので、このメモは「アドルノとアウシュヴィッツ」という関心だけにとどめておきたい。
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は当然のように詩人の反撃を受ける。
人間の外部から人間に襲いかかってくる自然の猛威なら何とか対策をたて、できるかぎりの防御を試みることができる。だが、そういう人間の知それ自体が、その内部から「現実の地獄」を作り出してしまったあとでは、文字どおりわれわれはなすすべもなく立ち尽くしてしまうほかないのだ。
あの出来事を「理解」しょうと試みること自体、そこに何らかの「意味」を見いだす企てとして、「死者」にたいする冒濱の嫌疑をまぬがれない。収容所における「死」は生き残った者の生にも途方もない「罪科」を負わせるのである。先に触れたようにエンツエンスベルガーは、われわれが生き延びようと欲するならアドルノの命題は反駁されねばならない、と果敢に説いたのだが、アドルノはそれにたいしてここではこう応答している。
永遠につづく苦悩には、拷問にあっている者に泣き叫ぶ権利があるのと同じだけの表現への権利はある。そこからすれば、アウシュヴィッツのあとではもはや詩を書くことはできない、というのは誤りかもしれない。だがもっと非文化的な問い、すなわち、アウシュヴィッツのあとで生きてゆくことができるのか、ましてや偶然生き延びはしたが殺されていてもおかしくなかったにちがいない人間がアウシュヴィッツのあとで生きてゆくことが許されるのか、という問いは誤りではない。そういった人間が何とか生き延びてゆくためには、冷酷さが、すなわちそれなくしてはそもそもアウシュヴィッツがありえなかったかもしれない市民的主観性の根本原理が、必要とされるのだ。これは殺戮をまぬがれた者につきまとう激烈な罪科である。その報いとして彼はさまざまな悪夢に襲われる。自分はもう生きているのではなく一九四四年にガス室で殺されたのではないか、それ以降の自分の生活はすべて想像のなかで、つまり二十年前に殺戮された者の狂った願望から流れ出たもののなかで営まれたにすぎなかったのではないか、と。(「アウシュヴィッツのあとで」)
このくだりはさながら、自らアウシュヴィッツの「生き残り」として声なき死者たちの証言のみを自身の創作上の使命としてきた作家、エリ・ヴィーゼルの小説の一節を髣髴とさせる。ヴィーゼルの小説『昼』の主人公「ぼく」は語っている。「ぼくは自分が死者だと思い込んでいた。ぼくは食べ、飲み、涙を流すことができなかった。――自分を死者として見ていたからである。ぼくは自分が死者だと思いなしていた。――死んでから見る夢のなかで、自分が生者だと想像している死者だ、と」(村上光彦訳)。(pp. 181-182)
「アウシュヴィッツのあと」について、アドルノの思考はきわめて厳しいのだが、著者は、ある一文を見つけ出し、アドルノの別の一面を評価していて、読んでいる私にとっても少しならずほっとする箇所だった。
確かにアドルノのように、近代的な市民社会のある種必然的な帰結として「アウシュヴィッツ」を位置づけるかの発想には、極端なものがある。もしもいっさいが「アウシュヴィッツ」に収斂してしまうのなら、およそそれについて語ること、考えることすら無意味なこととおもえてくる。だがアドルノのことばには、「アウシュヴィッツ」にかかわってほとんど暗黒のテーゼを紡ぎながらも、それを絶えず反転させるイメージも差し挟まれている。たとえばアドルノは、同じ「形而上学についての省察」の「ニヒリズム」と題された節でこう語っている。
強制収容所におかれている人間にとっては生まれてこなかった方がよかったのではないか、うまく脱出することができた人間が何かの拍子にそう判断することがあるかもしれない。だがにもかかわらず、きらきら輝く瞳を前にすれば、あるいは犬がかすかにしつぼを振っているのを前にしただけでも――その犬はついさっきごちそうを与えられたのだが、もうそれを忘れているのだ――無の理想は消え失せる。
ぼくは何よりもこういう一節に示されている、アドルノの思想のもつ大きな振り幅に惹かれる。「アウシュヴィッツ」という徹底した非日常の時空によって、日常的な感覚のすべてを決して塗りこめてしまわないこと。かといって、日常性に居直ることによって「アウシュヴィッツ」という非日常を自分とは無縁なものとして視野の外へと消し去ってしまわないこと。むしろ、この日常と非日常の振幅のなかに、自分の思想を絶えずおこうと試みること。それはまた、深刻きわまりない思索に耽りながらも、そういう思索それ自体に冷や水を浴びせ相対化する契機を、つねに意識的に持ち込むことでもある。そういう態度こそは、たとえばフッサールやハイデガーの求心的で黙想的な思考スタイルにいちばん欠けているものではないだろうか。 (pp. 185-186)
ドイツ思想が専攻の研究者である著者の、研究対象であるアドルノに対する愛情のような感覚をそこかしこに感じられた、というのが読後感の一つである。
この本によって、『啓蒙の弁証法』と『否定弁証法』を読むことにしたが、著者が詩人であることが分かって(詩が好きなのに恥ずかしながら細見和之という詩人を知らなかったのである)、その詩集を三冊見つけてこれも積んである。それから著者の編著で出版されている『金時鍾コレクション』(藤原書店)全12巻のうち。これは第5巻まで読み終えた。
この本一冊を読むことで、読むべき本が一気に見つかり、当分は読書には困らない。
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