《2014年7月18日》
2014年7月16日、原子力規制委員会は九州電力川内原子力発電所1、2号機が新規制基準に適合する審査書案を提示した。しかし、田中俊一委員長は、記者会見で「安全だということは、私は申し上げません」だとか、「ゼロリスクだとは申し上げられない」と発言した。
このニュースを聞いて、思わず「それはないよ!」と叫んでしまった。政府のアリバイ機関でしかない規制委員会に期待してはいなかったのが、こんな身も蓋もない自己矛盾の(というより自己否定的な)発言があろうか。
原子力規制委員会設置法第3条(任務)はこう定めている。「原子力規制委員会は、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資するため、原子力利用における安全の確保を図ること(…中略…)を任務とする。」
新規制基準に適合する審査結果が原発の安全を担保しない、という田中委員長の発言は、規制委員会の「任務」を果たしていないことを意味する。「原子力利用における安全の確保を図る」ことのできない審査書案は、原子力規制委員会設置法に則っていない。法的に無効である。
田中委員長は「新規制基準に適合しているかどうかを審査するだけ」だというが、安全を確保できない「新規制基準」なるものを作ったのはいったい誰だというのか。規制委員会そのものではないか。
地震時の最大の揺れを540ガルから620ガルに引き上げたので良しとするなどという些末なことをどうのこうの言うつもりは毛頭ない。関電大飯原発についての福井地裁判決がどの程度の規模の揺れを判断基準にしていたかを考えれば、笑うべきごまかしだ。
規制委員会は正しい目的に適した規制基準を作ることに失敗していたということではないか。だとすれば、早急にやるべきことは、原発の安全を担保する新「新規制基準」を早急に作ることしかないはずだ。
さらに田中委員長は、「再稼働は事業者、地元住民、政府の合意でなされる」と述べたという。これは一見もっともらしく聞こえるが、安倍首相が日頃から、安全が確認された原発から再稼働すると言明していることを知らないはずがない。
ましてや、安倍政権はエネルギー基本計画の閣議決定に「規制委が基準に適合すると認めた原発は再稼働を進める」と明文化している。案の定、管官房長官は「原発の安全性は規制委に委ねている」と発言している。
設置法第1条(目的)に、「その委員長及び委員が専門的知見に基づき中立公正な立場で独立して行使する原子力規制委員会を設置し、もって国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的とする」とある。
法的にも常識的にも、規制委は国内唯一の「専門的知見」によって原発の安全を確保すべく期待された組織である。にもかかわらず、再稼働の判断の基となる安全についての判断を放棄しながら、新基準をクリアしたとする審査書案を提出するのは、いかなる《知》の崩壊なのか。
ソーカル-ブリクモン流に言えば、「《知》の欺瞞」、「《知》のペテン」がここにはある。ソーカルとブリクモンは、ポストモダンの思想家たちの自然科学的知識の濫用、誤用を厳しく批判したものだが、規制委に見られるのは自然科学者の自己崩壊的な「《知》のペテン」だけである。
専門的知見を有するとされる規制委の決定には、人類が歴史的に求め続けてきた「知」の力というものがない。日本の国民が一定の敬意を払ってきた「学者」の矜恃というものがない。権力機構に組み込まれた知識人、学識経験者と呼ばれる者の卑怯、未練しかない。
田中委員長や1年後輩の私が学んだ東北大学工学部原子核工学科は、「知」と「学」の府ではなかったのか。そこで学んだ者のあらゆる思考が、原発の存在を前提とすることから逃れられないなら、それは大学で学んだ者の「知」とは呼べない。たかだか原子力技術についての職業訓練校で獲得した知識程度のことに過ぎない。
東北大学は、そんなにも「知」から遠かった大学だったのだろうか。私は大学院修士課程修了をもって原子力工学から離れ、固体物理学に転じ、同じ東北大学の理学部物理学科教授として職を終えた。いま、大学をこのような形で振り返るというのは、じつに不快なことだ。
大学の「知」が脆弱化していることはつとに指摘されていて、私もそれを認めてはいる。だが、日本国民の未来の生命の明白な危険を前に、法的な立場にもかかわらず、「知」の判断から逃亡するほどに劣化しているとまでは思いもしなかった。
いや、すべての前提を無視すれば、「安全だということは、私は申し上げません」という田中委員長の言葉を是とすることができないわけではない。いかなる厳しい審査基準、世界で一番厳しい審査基準(嘘だが)を満たそうとも原発は安全ではない、安全な原発は存在し得ないという田中委員長の学者としての認識が、「安全だということは、私は申し上げません」という言葉の背後にあるのではないか。
そうであれば、それは間違いなく科学的に正しい認識である。まだ遅くはない。そのような正しい「専門的知見・認識」によって規制委を運営する機会は厳然と残されている。2014年7月16日を日本の原子力工学の汚辱の記念日にしないためにも、将来の国民の「安全の確保を図る」ためにも、規制委にできることはたくさんある。
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