かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(8)

2024年09月10日 | 脱原発

2014年12月12日

 100mSvという数値は、それ以下で晩発性の放射線障害が発生するかどうかという議論でしばしば引用される数値である。100mSv以上では被曝線量に比例して晩発性障害が増加することは確定的に知られている。当然ながら、データの少ない100mSv以下でも、100mSv以上の線形性があると推定して、放射線障害予防策が採られてきた。
 しかし、原発を推進する人びとは、「閾値」論を採用して、100mSv以下では障害が発生しないと主張しているが、もちろん科学的根拠はない。100mSv以下でのデータが少ないため意見が分かれているように見えるが、閾値論仮説は政治的恣意性の産物にしか思えない。影響があるかもしれない、ないかもしれないという科学的な段階で、危険があると考えて対処する保健物理学的意見の方が科学的良心(というよりも最低限の人間的良心)というものだろう。
 毒が入っているかもしれない食べ物があるとき、どっちか分からないのだから食べましょうという愚か者はいないのである。それを人に食べさせようとすれば、それは犯罪である。

 井戸謙一弁護士(志賀原発運転差し止め判決を下した元裁判官)は、河北新報に投稿した記事で、その100mSvの数値が「年間100mSv」として誤って流布されていると警告している。晩発性障害が発生するかどうかで議論される「100mSv」という数値は積算量であって、けっして1年間の被曝線量のことではない。少なくとも原発推進側の科学者であっても、生涯で100mSvを越えれば晩発性障害が増加する事実は否定できないのである。
 一般人の年間の最大許容被曝線量を1mSvとするのは、積算線量100mSv以下と考えれば当然の数値である。したがって、福島の汚染地区への住民の帰還に際しては、生涯の積算線量を考慮して進められなければならないことは当然であって、年間20mSvなどという数字はもってのほかなのである。

 

2015年4月10日

 脱原発デモの集会で、私にもスピーチの指名があって慌ててしまった。何も考えていなかったのだが、2、3日前に読んだフェイスブックの記事を思い出してその話をした。2013年5月24日の河北新報に次のような記事が載っていたという。

日本赤十字社は23日、原子力災害で被災地に派遣される医師や看護師らに関し、活動範囲を警戒区域外にするほか、累積被ばく線量の上限を1ミリシーベルト(千マイクロシーベルト)とする「救護活動基準」を発表した。東京電力福島第一原発事故では放射線の安全基準がなく、事故直後、救護活動を十分にできなかった教訓から策定した。

 1mSv/年という値は、一般人の累積の被ばく線量限度である。日本赤十字社の医師や看護師らが職業人として被災地で救護活動を行うのであれば、「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」が定める放射線作業従事者と考えられ、その被ばく線量限度は50mSvが適用されてもいいはずだ。
 にもかかわらず、自分たちの線量限度を1mSvと定めたことは、高く評価されていい。法で定める50mSvというのは、けっしてその線量までの被曝が安全だと主張しているのではない。職業的な利益を伴うことと引き換えた場合の受忍限度であるに過ぎないのだから、1mSvと定めて自らの健康、生命を守ることはきわめて正しい判断なのだ。
 法で定めた放射線取扱主任者(医師にはこの資格が与えられる)の資格を有する医師としての専門家集団が、累積の被ばく線量限度を1mSv/年と定めたことは広く知られるべきだ。福島ばかりではなく、かなりの医師が放射線被曝を問題視せずに多くの住民の被爆を看過している現状からも、このことはとても重要だ。
 急な指名でしどろもどろながら、おおむねそんな話をした。放射線作業従事者としての仕事もし、第一種の放射線取扱主任者として放射線の安全管理にも携わった身としては、私(たち)が職業人として被爆したよりも高い線量に曝されている福島の人々のことがとても心配になる。
 職業的な被爆だから50mSvまで浴びていい、などという安全管理などないのだ。どんな場合でも可能な限り被爆しないこと、ゼロ被爆こそ放射線安全管理がめざしていることだ。そういった意味では、福島は無法状態だとしか思えないのである。

 
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