かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

辺見庸『しのびよる破局――生体の悲鳴が聞こえるか』(大月書店、2009年)

2012年06月13日 | 読書

 仕事のための本、論文ばかり読んでいた一時期があった。能力的に余裕がなかったと言えばそれまでだが、そういう道を選んだのだ、という意固地な感じがないでもなかった。それでも今になって思えば、「私は本を読まないなぁ」と慢性化した、めげた実感の中でもポツポツと読んでいた。
 そんな数少ない読書の中で、辺見庸はいくらかは読んだほうだろう。小説も読んだが、主体は評論の方である。辺見庸の本を読んでいると、何よりもまず、「この人は信頼できる」という感じが強くするのである。思想ばかりではなく、感受性という意味においても、いわば全人格的な意味合いにおいて、である。同じ頃、同じように感じたのは大塚英志である。たまに街に出て本屋によると、辺見庸と大塚英志の本を自然と探すようになっていた。最近は、森達也もその一人である。

 仙台市民図書館で読みたい本を探しあぐねていたとき、たまたま未読のこの本を見つけた。「二〇〇九年二月一日に約一時間半にわたり放送(同三月一日に再放送)されたNHK・ETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」を基として」 (p. 164) 書かれており、「9・11」、「金融危機」、「土浦無差別殺傷事件」、「秋葉原事件」、「年越し派遣村」など時事的な事象の底流への憤りを、カミュの『ペスト』との対称を引きながら語ったものである。

  マスコミュニケーションを通じて次々流れてくる事件に共通する底流に語り進むべく、次のように述べている。

  このことに関連し、資本主義とはなんであるかぼくは自問します。端的にいって、それは〈人びとを病むべく導きながら、健やかにと命じる〉システムです。それはまた、「器官のない身体」になぞらえられます。資本主義はさらに、この世のありとある異なった「質」を、お金という同質の「量」に自動転換していく装置でもあります。「器官のない身体」としての資本主義は、そこに棲む生体としての人間の欲望をどこまでもどこまでもたきつけ、開拓し、抽出し、それを養分にして増殖し、さらにまた新種の欲望の種をまき、育て、肥えていく。
 
人びとを病むように育て導きながら、健やかにあれと命じる資本主義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて"狂者"を(正気を装った狂者が)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるのか……ぼくはそのことがとても気になります。 (p. 17)

 この部分まで読み進んで、これはもうミシェル・フーコーではないか、と思ってしまう。「器官のない身体」というドゥルーズの言葉を引きながら、フーコーが明らかにした近代の表徴たる「生政治」への対決へと突き進むしかないのではないか。そうであれば、ジョルジョ・アガンベンが語るような「ビオス」(社会的な生)ではなく「ゾーエー」(生物学的な生)、つまり「剥き出しの生」がこの国の我々の日常の生として顕在化している現実へと、憤怒の姿で語り進むことは当然であろう。
 日本の日常を語りながら、フーコーやアガンベンの到達地点へ登って行った辺見庸は、次のようにも述べている。

 ドゥルーズがもう自殺していなくなった。サイードも亡くなった。デリタも死んで、まともな思想家、哲学者なんかあまりいなくなるし、フーコーもとっくの昔にいない。好きじゃないけど、スーザン・ソンタグだって死んでしまった。いってみれば、善かれ悪しかれ道しるべみたいな人間たちが次から次へと死んでいったり、あるいは死へのプロセスをたどりつつある。
 
ぼくも死への行列のなかに入りつつある。 (p. 139)

言葉がない。本の最後に書かれた文章を紹介して終わりとする。

 その昔、Dが独り言のようにボソボソとつぶやいたことを私は忘れない。とても喑い眼をしていた。「まちがいとわかっていても、味方しなければならないこともたまにはある……」。なんのことかはわからない。もう本人も忘れているだろう。けれど、さほどのアフォリズムにもならないこの一言もあり、私はDの"芯"を昔から信用することにしている。「まちがいとわかっていても、味方しなければならないこと」とは、「正しいとわかっていても、くみしえないこと」にどこか,似ており、おもいきり飛躍するならば、たとえば、〈テロと愛〉のあいだの喑がりに妖しく仄めく背理をも連想させる。それは私という永遠の失見当識者にとって、なぜか蠱惑的背理であり、かつ畢生の主題のひとつでありつづけるであろう。 (p. 166)