今日は東京の街歩きの予定で、都心から離れて調布のあたりを歩きまわろうと思って仙台から出て来たのである。日曜だったので、娘も付き合って歩くはずが、雨模様の天気予報で急遽予定を変更して、乃木坂の国立新美術館にやってきた。
世界的な美術館の「美術館展」ともなると、展示作品は多彩多様で、その全体を括る言葉なんてないのが当たり前である。、私などには、せいぜい、「たいしたもんだ」と感心するしかない。
2時間くらいかけてゆっくりと館内を回った。そこで心に残ったことがらを三つほど。
《寓意》
《ヴァニタス(はかなさの寓意)》の絵を見終わって、次の絵に移ろうと動き出したとき、「寓意ってなに?」と娘が呟くように尋ねてきて、戸惑ってしまった。私もそのとき、「シャボン玉を描いて「はかなさの寓意」ってチャチ過ぎないか、寓意っていったい何なんだ?」と思っていたのである。美術にしろ、文学にしろ、歴史的に重要な表象のありようとして重要に扱われてきた「アレゴリー」とはどういうことなのだ、といういつもの疑問である。
ニコラス・ファン・フェーレンダール、カスパー・ヤコプ・ファン・オプスタル(1世)
《ヴァニタス(はかなさの寓意)》[1]
フランソワ・プーシェ《クピド(詩の寓意)》[2]
さらに歩を進めると、フランソワ・プーシェの《クピド(詩の寓意)》、《クピド(絵画の寓意)》が出てくる。これらも、単にクピドが羽根ペンを手に詩篇を書きつけているだけだったり、筆を手に絵を描いているだけに過ぎない。
「寓意」というのは、ギリシャ哲学以来の西欧的な思想文化の歴史を持たない現代の日本を生きる私のようなものには困難な概念なのかもしれない。「儚さ」といい、「詩」といい、「絵画」といったとき、そこにはそれぞれプラトン的な確固とした実在のイデーが対応しているのだと信じ、たとえどんなにチャチな寓意であってもそれを表象できたとき、手にも触れず眼にも見えない偉大なイデーに近づけたという喜びがあるのではなかろうか。
神の実在を信じるものが「神」と口にしたときの恐れと喜び、そして神を信じない者が「神」と聞いたときの無反応、その違いが「寓意」の画家と私の間にはあるのだろう。同じシニフィアンに、一方は偉大な実在(と信ずる)を意味するシニフィエが対応し、他方は空虚な観念に過ぎないシニフィエが対応する。この間には歴史と文化の断絶がある。
タイトルに「寓意」を含む絵がもう一幅展示されていた。アレッサンドロ・アローリの《キリスト教会の寓意》 [3] である。図録解説 [4] によれば、「岩山を背景として座る女性はキリスト教会の擬人像であり、幼子イエスはその膝の上に立ち、生花で編まれた冠をその頭上に載せようとしている」ことは、キリストが古いユダヤ教会と訣別し、新しい教会と婚約したという物語の寓意だという。
キリストとそれを信じる一人以上の信者が現れたとき、つまり、キリスト教が社会化するとき教会は立ち現れる。教会は、キリスト教がキリスト1人を越えたときの象徴的イデーであるだろう。それを寓意として表象する強い宗教的感情が基底として存在しているはずだ。
《農民、庶民の風俗》
ヤン・ステーンの《結婚の契約》という絵があって、それを見たとき、何かしら懐かしい感じを受けた。どこで何を観たか忘れてしまったが、ヤン・ステーンの絵は農民や庶民の風俗画としていつも好もしい感じを受けていたようにおもう。
しかし、この絵に込められている物語にはさほど関心がない。男も女も子供も老人も不自然なほど一堂に集めて構成され、風俗画として描かれた絵に惹かれるのである。王侯貴族の家族などではけっしてない、農民、市民の姿である。ブリューゲルが代表格であろうか。
ヤン・ステーン《結婚の契約》[5]
ウイーンで観たFeridinand Georg Waldmüllerもそのような画家であった。農家の庭に集まる人々を描いていて、なぜかひどく気に入って、ウイーンの2,3の書店で画集を探したが果たせなかった。そのとき、ヴァルトミューラーではなくワルトミューラーの方が通じやすいことも分かった(べつにどうということもないけれども)。
《謎》
次に引っ掛かったのは、ダニエル・セーヘルスとトマス・ウィレボルツ・ボスハールトによる《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》 [6] という絵である。解説はこうである [7]。
外側の花飾りを構成する花々や植物の象徴的意味は、この絵の中央の図――幼子イエスの頭に洗礼者ヨハネが花の冠を載せている――に関係している。花飾りは、模様がついたカルトゥーシュ[枠飾り]に囲まれた中央場面の額縁となっていて、刺や針のある植物――アザミ、ヒイラギとブラックベリ一の枝、バラ、ブラックソーン――、つまり、将来のキリストを待ち受ける苦難を象徴的に予告する植物が含まれている。
ダニエル・セーヘルス、トマス・ウィレボルツ・ボスハールト
《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》[6]
しかし、展示室でこの絵を見たときの印象は違うのである。イエスとヨハネは鋼鉄(かどうかは厳密には分からないが少なくとも金属)製の大きな器の中にいて、その金属の器を棘と針に満ちた植物が取り囲んでいる。花飾りという装飾性の印象よりも、あからさまな敵意を持つなにものかに対する文字通りの鉄壁の防御だと思ったのである。
「将来のキリストを待ち受ける苦難を象徴的に予告」していることを否定はしないが、むしろその苦難、迫害、敵意から幼い二人を守ろうとする強い意志、または願いがモティーフではないのか。構図としては図録解説の通りかも知れないが、少なくともこの植物群が単なるカルトゥーシュなどという生やさしいものだとは思えないのである。
問題は、この金属製の容器そのものが何であるのか、私にはまったく見当がつかないということである。現実に(たとえ過去のものであっても)このような器があり、用途が明らかであれば私の空想に決着がつけられるかもしれないのだが。
[1] ニコラス・ファン・フェーレンダール、カスパー・ヤコプ・ファン・オプスタル(1世)《ヴァニタス(はかなさの寓意)》(1660年代初め、油彩/カンバス、93×102cm)、千足伸行監修『大エルミタージュ美術館展』(以下、図録)(日本テレビ放送網、2012年)p. 87。
[2] フランソワ・プーシェ《クピド(詩の寓意)》(1750年代末-1760年代初め、油彩/カンバス、82×87cm)、図録 p. 102。
[3] アレッサンドロ・アローリ《キリスト教会の寓意》(1600年代初め、油彩/カンバス、131×115.5cm)、図録 p. 55。
[4]《キリスト教会の寓意》の解説、図録 p. 193。
[5] ヤン・ステーン《結婚の契約》(1668年頃、油彩/カンバス、65×83cm)、図録 p. 95。
[6] ダニエル・セーヘルス、トマス・ウィレボルツ・ボスハールト《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》(1650年代前半、油彩/カンバス、129×97.4cm、パリ、マルモッタン・モネ美術館)図録 p. 70。
[7] 《花飾りに囲まれた幼子イエスと洗礼者ヨハネ》の図録解説 p. 196。