かわたれどきの頁繰り

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【書評】ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (阿部崇訳) (筑摩書房、2006年)

2012年06月30日 | 読書

 「フーコーがマネの絵について書いている」とそのことに少し驚いて、急いで借りだした。マリィヴオンヌ・セゾンが、この本ができた経緯を本の「序」に書いている。

 フーコーは確かにマネについての著作を準備していて、おびただしい量のメモをとり、トマ・クチュールのアトリエに興味を寄せていた。しかし、結局はひとつの講演を実現したのみにとどまり、それはいくつかの変更を加えつつミラノで一九六七年に、東京とフィレンツェで一九七〇年に、そしてチュニスで一九七一年に行われた。 [1]

 こうして、このテクストに呼び出される格好で、二〇〇一年十一月、「ミシェル•フーコー、ひとつのまなざし」と題されたシンポジウムが開催された。その迫力あるやりとりが刊行されてほしいという発表者と聴衆の希望から、「書かれた痕跡」叢書での刊行計画が持ち上がり、フーコーの講演とともに、それに喚起された口頭による反応の記録を収めてはどうか、ということになったのである。そしてこの時、思いがけないことが起こる。ドミニック・セグラールが、ディディエ・エリボンから託されていた、講演のオリジナル録音の完全なコピーを自宅の資料から発見したのである。ここに公刊するテクストは、よって、一九七一年の録音の「学問的に厳密な」完全版の書き起こしである。 [2]

 つまり、これはミシェル・フーコーの短い講演録に9人の論者が応答した形の本である。

 フーコーは、エドワール・マネを印象派を準備することができたものを越えて、クヮトロチェント以来の西洋絵画において基礎をなしていたもののすべてをひっくり返したのだということができるのです」 [3] と述べていて、20世紀の絵画の始まりの一人だと考えるのである。
 これは、ちょうど少し前に展覧会を観ることができた「最後の印象派」と呼ばれるアンリ・ル・シダネルが次のように述べていることと符合していて面白い。

 もし間違っていなければ、それはマネが《ライオンハンター》(サンパウロ美術館)の肖像画と《ロシュフォールからの脱出》(オルセー美術館)を出品した年だった。前者は本当に気に入った。しかし、後者の小さな筆触には驚いた。それはその時まで、私が見てきた物とはまるで違っていたからだ。 [4]

 フーコーは、いくつかの絵を示しながら、具体的にマネの絵画がもたらす意味を語っている。例えば、《給仕する女》については、「不可視性」に触れてこう述べている。

        
           
《給仕する女》、1879年、キャンヴァスに油彩、77.5×65センチ、
                   
パリ、オルセー美術館。 [5]

 キャンヴァスの両方の側には、二人の人物によって見られている二つの光景があるのですが、しかし絵は、結局そこで見られているものを示すかわりに、隠し、奪っているのです。表と裏という二つの面を持つこの表面は、絵の可視性が明らかになる場所ではなく、それとは逆に、絵の画面の中にいる人物が見ているものの不可視性をもたらす場所なのです。[6]

 そして、《バルコニー》については「不可視性」に加えて、タブローの二次元性に触れる。

              
              
《バルコニー》、1868-1869年、キャンヴァスに油彩、
                  
169×125センチ、パリ、オルセー美術館。

 ……タブローは、明暗法を用いたタブロー、すなわち影と光が混ざり合うタブローとなるのではなく、ひとつの奇妙なタブローとなります。そこでは、すべての光が片方に、すべての影がもう一方に、つまり、すべての光はタブローの前面に、すべての影はもう片方に位置しており、あたかもキャンヴァスの垂直性そのものが、背後の影の世界と前面の光の世界とを分け隔てているかのようです。
 そして、この背後の影と前面の光との境界にこの三人の人物がいて、彼らはいわば宙吊りになっていて、ほとんど何もないところに浮いているようです。 [7]

 そしてここでも、三人の人物がそれぞれ別の方向を見ており、もちろん我々には分からない強烈な光景に心を奪われることによって、不可視性が示されているようです。それぞれ別の光景、というのも、ひとつはキャンヴァスの前に、もうひとつはキャンヴァスの右、三つ目は左にあるからです。いずれにせよわれわれには何も見えておらず、ただそのまなざしが見えます。あるいはひとつの場所ではなく、ひとつの動作を見ているわけですが、それはまたしても手の動きであって、閉じた手、半ば開いた手、完全に開いた手。そして、手袋をした手、手袋をしていない手、そしてこの経巡っている同じ動作こそが、つまるところ三人の人物が行っている動作なのです。手の形づくるこの円環だけが、先ほど《温室にて》や《草上の昼食》で見たように、タブローのちぐはぐな諸要素を繋ぎとめています。そしてこのちぐはぐさとは、不可視性そのものの炸裂にほかならないのです。 [8]

 そして最後に、「それはおそらくマネの全作品を要約してみせてくれるようなもので、マネの最後の絵の一枚でもあり、もっとも観るものを混乱させる作品のひとつ」 [9] として、《フオリー・ベルジェールのバー》をあげる。
 この絵の奇妙さは、画家と鑑賞者の位置にある。画家は女性の前に向きあっているはずだが、背後の鏡には女性と向きあってシルクハットの男性が立っていて女性の後ろ姿も移っている。光学的には奇妙で配置になっていて、これもフーコーを刺激する(この光学的な矛盾をティエリー ・ド・デューヴが詳細に議論している [10] )。

     
           
《フォリー・ベルジェールのバー》、 1881-1882年、キャンヴァスに油彩、
                 
96×130センチ、ロンドン、コートールドギャラリー。

 フーコーが《フォリー・ベルジェールのバー》に与えた解釈は次のようなものである。

 結局、次のような三つの両立不可能性のシステムがあることになります。〔一〕画家はここにいると同時にあちらにいなければならない。〔二〕ここに誰かがおり、また誰もいないのでなければならない。〔三〕見下ろす視線と見上げる視線がある。われわれが今見ているような光景を見るためにはどこにいればよいのか知ることができない、というわれわれが直面している三重の不可能性、そして言うなれば、鑑賞者が占めるべき安定した確乎たる場所が排除されていること。勿論それが、この絵の根本的な特徴のひとつなのです。そしてそれは、この絵を見る人が感じる、魅惑と不安とが混じり合った気持ちを説明してくれるでしよう。 [11]

 確かにマネは、非表象絵画を発明したわけではありません。マネの作品はすべて表象的なのですから。しかし彼は、キャンヴァスの基本的な物質的諸要素を表象の内部において用いたのであり、こう言ってよければ、〈オブジェとしてのタブロー〉、〈オブジェとしての絵画〉を発明しつつあつたのです。それはおそらく、人がいつか表象そのものを捨て去り、空間がみずからの純粋で単純な諸特性、その物質的諸特性そのものと戯れるがままにするための根本的な条件だったのです。 [12]

 これでフーコーの講演録は終わるが、多くの論者がそれに続く。とくに、キャロル・タロン=ユゴンがミシェル・フーコー、ジョルジュ・バタイユそしてマイケル・フリードの三者のマネの絵画論を比較検討しているのが興味深かった [13] 。そして、その論を『序』でセゾンが要約してみせる。

 ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・フーコーとマイケル・フリードは、一九五五年から一九九六年にかけて、同じフォーマリズム批評の視点から、マネの作品のうちに「自分自身をあるがままのものとして提示する絵画」を見ることで一致していた。バタイユによれば、マネの絵画は、その主題にもかかわらず雄弁さを取り除かれていることで、剝き出しかつ崇高であり、その媒体にまで縮減されていることで、事物の謎めいた力を提示している。フーコーによれば、空間の物質的特性を表に出すことで表象の条件を明るみに出したからこそ、マネは「オブジェとしての絵画」を創始した。またフリードによれば、マネの絵画は、見られるために差し出されている、ということについて受け手の注意を喚起する点で、伝統と断絶している。こうした三つの見方が、鑑賞者の混乱について理解するよすがになるだろう、とキヤロル・タロン=ユゴンは結んでいる。 [14]

 そして、ダヴイッド・マリーは次のようにまとめる。

 ミシェル・フーコーによれば、マネは現代絵画の歴史を開いた。「マネが印象派をも越えて可能にしたのは、〔……〕二十世紀絵画のすベて〔……〕だったと思われます」。マイケル・フリードによれば、逆に、マネはひとつの歴史的な時期を完成させた。つまり、マネは過去の諸作品との関連に基づいて自分の作品を構成するが、印象派の画家たち、そして近代の画家の多くは、絵画の伝統との関係を絶っているように思われる、というのだ。フーコーにとつては、マネはその「エピステーメー」の最初に位置している。フリードにとつては、マネはその最後に位置しているのだ。 [15]

 残りの論者の中では、カトリーヌ・ペレの論文 [16] がフーコーの講演録の解説として参考になるし、ブランディーヌ・クリージェル [17] はフーコーの現象学を論じていて、面白く読むことができた。  

 印象派の一人としてだけ受容していたエドワール・マネが、印象派の枠組みを超え、20世紀絵画の始祖、あるいは逆にそれ以前を終息させた画家という立ち位置で評論の対象になっているなどと、正直なところ、ついぞ思ってはいなかった。
 セザンヌとモネとルノアール、ゴッホとゴーギャン、そして最近はフェルメールの名を口にしていれば、たぶん、日本では絵画に教養ある人物として通りそうな雰囲気の中で、私のようなものは、なかなかその辺の事情には明るくなるのは難しそうだ。

 絵は観なければ、本は読まなければ、というのが結論(平凡だが)。


[1] マリィヴオンヌ・セゾン「序」『マネの絵画』阿部崇訳(筑摩書房、2006年)(以下、本書)、p. i。
[2] 同上、本書、p. iii。
[3] ミシェル・フーコー「マネの絵画」、本書、p. 7。
[4] ヤン・ファリノー=ル・シダネルによる引用「アンリ・ル・シダネル(1862―1939)、ヤン・ファリーノ=ル・シダネル、古谷可由監修・執筆(古谷可由、小林晶子訳)『アンリ・ル・シダネル展』(図録)(アンリ・ル・シダネル展カタログ委員会、2011年)p. 10。
[5] 本書口絵。以下、図版は同じ。
[6] ミシェル・フーコー「マネの絵画」、本書、p. 22。
[7] 同上、本書、p. 35。
[8] 同上、本書、p. 36-37。
[9] 同上、本書、p. 7。
[10] ティエリー ・ド・デューヴ「「ああ、マネね……」――マネはどのように《フオリー・ベルジェールのバー》を組み立てたか」、本書、p. 109。
[11] ミシェル・フーコー「マネの絵画」、本書、p. 43-44。
[12] 同上、本書、p. 44-45。
[13] キャロル・タロン=ユゴン「マネ、あるいは鑑賞者の戸惑い」、本書、p. 67。
[14] マリィヴオンヌ・セゾン「序」、本書、p. vi。
[15] ダヴイッド・マリー「表/裏、あるいは運動状態の鑑賞者」、本書、p. 92。
[16] カトリーヌ・ペレ「フーコーのモダニズム」、本書、p. 138。
[17] ブランディーヌ・クリージェル「美術とおしゃベりな視線」、本書、p. 176。