かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (14)

2024年10月03日 | 脱原発

2015年8月14日

 先週の金デモは仙台七夕の中日(7日)に当たったのでお休みだったが、9日の日曜日にはSEALDs_TOHOKUが主催する集会とデモ「戦争法案反ヤバいっしょ! 学生デモパレード in 宮城」があった。花京院緑地公園に満杯の参加者(600人くらい)に入って、いつもの金デモより長いコースのデモを歩いた。
 若い人のコールはリズミカルでテンポが良く、すっかり乗せられてしまった。戦争法案反対の強い意志も手伝って、張り切って声を上げ、歩き抜いて、その勢いのまま徒歩で帰宅したのだったが、どっと疲れが出てしまった。
 11日には九州電力川内原発が制御棒を引き抜き始め、再稼働に取りかかった。正式には「再稼働」ではなく規制委員会の起動後検査が残されているので「再起動」と呼ぶべきだが、ベッセル内の一部分とはいえ核分裂連鎖反応の臨界に達しているので、物理的には再起動も再稼働も差がない。再起動と再稼働を区別するのは、行政手続き上の問題に過ぎない。
 原発の運転上の危険は、臨界に達する時点で飛躍的に増大し、その後フルパワーに達するまでは徐々に危険が増すことになる。危険度の観点から言えば、臨界に達することと出力を増減させることは本質的に異なる。
 それにしても、戦争法案で世論が沸騰しているときに川内原発の再稼働に踏み切ったことに憤りが増す。あまりにも感覚がジリジリするので、できるだけ神経を押さえ込もうと、『哲学の使命』 [1] だとか、2段組で500頁以上もあるミシェル・フーコーの哲学的生涯 [2] とか、あえて生々しい政治や社会から距離のある本を読んでいた。合間に古い短歌 [3] を読み、画集 [4] を引っ張り出して眺めては己の神経を宥めていたのである。
 しかし、安保闘争を闘った1960年の暮れに自死した岸上大作の短歌なども読み直すことになって、必ずしも心は穏やかになったというわけではない。それでも次のような短歌を見つけた。どちらも1960年頃の窪田章一郎の作 [5] である。

信ぜよと首相語れる眼前に腕組む若者が放つ哄笑

軍事同盟に組みせじと面(おも)あげ拍手する少女(おとめ)らのきよき命を生かせ

 55年前に、あたかもSEALDsの若者たちを支持し、応援する歌が詠まれているようではないか。

[1] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『現勢化――哲学という使命』(新評論、2007年)。
[2] ジェイムズ・ミラー(田村俶、雲和子、西山けい子、浅井千晶訳)『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』(筑摩書房、1998年)。
[3] 『現代短歌全集』(筑摩書房、1981年)、『現代短歌大系』(三一書房、1972年)など。
[4] 『生誕100年 靉光展』図録(毎日新聞社、2007年)、『生誕100年 松本俊介展』図録(NHKプラネット東北、NHKプロモーション、2012年)など。
[5] 窪田章一郎「歌集 雪解の土」『現代短歌全集 第14巻』(筑摩書房、 1981年)p. 271。

 

2015年8月30日

   「8・30国会10万人・全国100万人大行動」
 地下鉄霞ヶ関駅から地上に出たのがほぼ12:30だった。仙台を出るときは雨が降っていたのだが、低い雨雲が垂れ込めてはいてもまだ降り出してはいない。国会正門前に向かう人の列にしたがって外務省脇の坂を上がる。六本木通りに出て右折、「国会前」交差点へ出る。
 今回は警察の過剰警備が心配されて、どの駅からアプローチするのがいいなどという案内が多く流れてきたし、国会議員や弁護士による過剰警備にたいする監視団が結成されるというニュースもあった。多少は心配だったのだが、時間が早いせいかなにごともなく正門前に向かうことができた。
 国会エリア内のアプローチできるぎりぎりの範囲は歩いたし、それにそろそろ開始時間の14:00になるので、声を上げる定位置を決めなければと思いながら国会前庭を横切って行った。
 できるだけ正門に近い場所へ行こうと柵越しに眺めると車道にけっこうな数の人が出ているではないか。決壊したのだ。
 思わず急ぎ足になって公園出口付近でまわりの人と一緒に柵を越えようとしたら、近くにいた警官が制止に来た。もう少しというところで私服(公安?)がやってきて膠着状態になったが、「上が開いてるよ」と教えてくれる人がいて、7、8メートル上で車道に出た。
 社会学者の北田暁大さんが「「あの日あそこに居なかった」と後悔したくないから、いくね。」とツイートしていたのがとても印象的だったが、規制線が決壊して「国会前広場」ができあがった時が「あの日」の「あそこ」の象徴的な瞬間として思い出される日が来るのではないか、などと考えながら人混みの中に入っていった。

地下鉄の切符に鋏いれられてまた確かめているその決意
                        (III ・5月13日・国会前) [1]

装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている [2] 

 時代は変わり、今日は踏みつける装甲車はないのだが、この二首は55年前の60年安保闘争を闘い、その年の暮れに自死した学生歌人、岸上大作の歌である。今日のこの日を詠む歌人や詩人もきっといるに違いない。群衆の中で声を上げながらそんなことも考えていた(「群衆」という言い方も古いな。ボードレールか朔太郎の時代みたいだが)。
 しばらくは近くであがるコールに応えて声を上げていたが、スルスルと前方や後方に移動している人がいる。びっしりと人が詰まっているように見えるが、人が移動できる見えない筋があるようだ。
 私も前方へ少しずつ移動して、最前線のコールが合わせられるところまで辿りついた。仙台でもSEALDs_TOHOKUが主催するデモが2回あったので、すこしは慣れているテンポよい若い人のコールが続く。


[1] 岸上大作「意思表示」『現代短歌全集 第十一巻』(筑摩書房、1981年) p. 292。
[2] 同上、p. 291。


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