1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『景行天皇を巡る冒険』2.第12代景行天皇

2022-11-09 21:21:00 | 景行天皇の記録

【第12第景行天皇】
景行天皇は第12代の天皇です。『日本書紀』に書かれてある和風諡号(わふうしごう)は「大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)です。第11代の垂仁天皇(すいにんてんのう)(活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと))の第三子で、日本武尊(やまとたける)の父にあたります。

実在説と非実在説がありますが、『古事記』『日本書紀』に記述があり、特に後者の『日本書紀』には景行12年から景行19年にわたる7年におよぶ九州征伐(九州巡幸)のことが記述されています。

河村哲夫氏は、著書『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』のなかで『日本書紀』や『風土記』、歴史考古資料、各地に残る伝説や現地調査によって、下図1のような景行天皇の九州巡幸の経路を示しました。また、安本美典氏の「統計的年代論」にのっとり、景行天皇の在位期間はおおむね西暦370年から385年と考えました(図2参照)。これは古墳時代の前期頃にあたります。

図1 景行天皇の九州巡幸経路
河村哲夫氏 著『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』より


図2 景行天皇の時代
河村哲夫氏 著『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』より


この時期、大陸では前秦が華北の統一を果たし、これに高句麗、新羅が接近をはかります。一方、朝鮮半島南西部で勢力を増大させてきた百済は南朝の東晋と倭国(日本)に接近をはかっていて、東アジアの政治情勢は緊張状態にありました。
このため、畿内大和を中心とするヤマト王権は、すみやかに国内の支配体制を確立し、百済と協力して高句麗と新羅の南下に備える必要がありました。

景行天皇の九州巡幸やその子の日本武尊(やまとたける)の東征や西征は、このような国際的な政治情勢の中、速やかな国内統一のための抵抗勢力に対する討伐であったと考えられていています。そして、のちの神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出兵につながったと考えられます。神功皇后の子は応神天皇であり、孫は仁徳天皇です。応神天皇、仁徳天皇の時代は、その古墳陵墓の大きさからもわかるように、日本は飛躍的な発展を遂げました。その基礎を築いたのが景行天皇と日本武尊だったのです。

おおげさかもしれませんが、景行天皇や日本武尊の親子は、東北や北海道を除いく当時の日本において最初に国内統一をやってのけた人物たちと言えるのではないでしょうか。しかし、それは血で血を洗ったような戦国武将に勝るとも劣らない武人だったということなのでしょうか。いずれにしても既にヤマト王権と友好的な関係にあった豪族に帰属していた人々は、巡幸してきた天皇をあたかもスーパースターもしくは本当のカミとあがめて迎え入れたのかもしれません。

つづく。


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『景行天皇伝説を巡る冒険』1.山鹿灯籠まつりと景行天皇

2022-11-08 21:07:00 | 景行天皇の記録

【山鹿灯籠まつりと景行天皇】
熊本県の北部に位置する山鹿市では、全国的にも有名な「山鹿灯籠まつり」が8月15、16日の2日間にわたり行われます。町全体が幻想的な灯りで彩られる山鹿の夏の風物詩です。なかでも圧巻は、そろいの浴衣姿の約千人の女性たちが、和紙で作られた金灯籠を頭に掲げて優雅に舞い踊る「千人灯籠踊り」。民謡の「よへほ節」の調べに合わせ、幾重にも重なる灯の輪は、幻想的な世界へと私たちを誘ってくれます。



2つの画像は山鹿市HPより引用
上の画像は、金灯籠をつけた女性たち
下の画像は、千人灯籠踊り


しかし、この伝統的なお祭りが、景行天皇の伝説を一つの起源としていることはあまり知られていません。

ここでの伝説とは、景行天皇が熊襲征伐の九州巡幸のとき、菊池川を遡って上陸しようとしたところ、濃霧にはばまれた天皇の軍勢を山鹿の里人が松明を灯して一行を導いて助けたというものです。当時の山鹿•菊池盆地には「茂賀の浦」と呼ばれる湖が広がっていて、里人は景行天皇が滞在した行在所跡(後に大宮神社が建てられた地)に景行天皇を祀って毎年松明を奉納したというのが灯籠まつりの起源の一つとされています。

一方、江戸時代の安永元年(1772年)の『鹿郡旧語伝記』には次のような内容が書かれています。
灯籠の謂れ(いわれ)は、景行天皇の八頭大亀本記よりこと起きるとされ、延久四年(1070年)に初代菊池則隆が阿蘇大明神を景行天皇の社にして合殿に祭り、さらに治承年中(1177年〜1180年)に大亀の火の光を霊として郡民の祭日の夜、太鼓•鐘をならして炬提燈等を捧げさせて今に伝える、とあります。

このように、第12代景行天皇は、前作の『三玉山霊仙寺を巡る冒険』で紹介した「三玉」だけでなく、現代まで続いている伝統行事にも深く関わっているのです。このことを知ると、景行天皇の九州巡幸は、古代の熊本、すなわち火の国において、極めて特異なできごとであったことが伺えます。

これは、一体、何を意味するのでしょうか?

はたして第12代景行天皇とは、そして、景行天皇の九州巡幸の伝説とは何なのでしょうか。

これらは、古代の人々が紡ぎだした想像上の物語なのでしょうか?

つづく。
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