ヒーメロス通信


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長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十六)その一

2013年04月04日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十六)その一

小林 稔

 

 44 キュニコス主義における生存の技法と真なる言説

  プラトンの書物の読後にいつも感じられる一種の清浄しさ、それが『饗宴』や『パイドロス』などのエロース論に限らずソクラテスの死の三部作、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』などの書物もそうであるが、何かふっ切れた思いに浸され、物事を正面から立ち向かおうとする勇気に包まれる、そういった感慨はどこからくるのであろうか。ギリシアの自由を求める気風の中にあって、他から押し付けられるといった、権力による道徳ではなく自らに倫理を生み出そうとする風潮があったことは、フーコーも指摘している。それが真の生とは何かの探究に連結し、ソクラテスによって、哲学的パレーシア(真なることを語ること)として引き継がれていく。フーコーによると、パレーシアとは自らの命の危険に晒されても貫徹するものであるという。(詳細はこの論考ですでに十分述べてきた。)パレーシアの実践とともに、真善美を基底とする生存のあり方もまた求められてきたのであり、それは真理探究の過程を通して自らの生を代価にした行為であるといえるであろう。ソクラテスにおいてはアテナイへの愛からその国制への忠誠が貫かれていた。神から宛てられた「自己への配慮」を人々に説くという任務において、政治と哲学の衝突に対し、一種の中庸の立場に身を置いたが、パレーシア行為は一歩も譲ることはなかったのである。それは、プラトンの思想として描かれたソクラテスのエートスではあるが、「別の生」としてイデア世界(形而上学的世界)への確信があったからである。ところが、真理探究において、より過激に性急に哲学を実践しようとする流派があった。それがこれから述べようとするキュニコス派である。「真の生」を妥協なく「別の生」に置き換えようとした人々といえるキュニコス主義と呼び習わされる人々が、単純に「変人」として処理できない問題を、晩年の

フーコーは重視していた。理論ではプラトン主義やストア派には比べられないほどの脆弱さを示しながらも、哲学の根本原理を逆説的に捉えていたことと、後の時代のキリスト教思想、さらにニーチェやボードレール、近代以降の革命思想などにキュニコス主義の形態がみられることを指摘し、フーコーは晩年の思想、「生存の美学」を形成していくのである。詩における「生の変革」を実践したランボー以後の詩人像(この論考の後半は詩人論になる)を浮き上がらせようとする私の詩学の試みに賦与するであろう。

 

倫理の実践における美しい生存の探究

 ギリシア文化において、すでにホメロス、ピンダロスに現れていた「美しい生存への配慮」が、〈真なることを語ること〉への気遣いとのあいだに、ソクラテスとともに現れる倫理的方式のもとで、作品としての生存という原則とどのように混交したのか、ということに晩年のフーコーは関心を寄せていたことを自らに語る。〈真なることを語ること〉〈他の人々や自己自身に対し、自己自身や他の人々に関して、真なることを語ること〉という原則が「真の生」の問題を出現させたのである。また、「魂の形而上学」と「生存のスタイル論」は合体したり離散したりする柔軟性を持っていることもフーコーは追記する。

 真理の形式及び〈真なることを語ること〉の実践における美しい生存の探究(フーコー)というテーマで、この講義「真理と勇気」(コレージュ・ド・フランス講義一九八四年度)の後半はキュニコス主義の例をフーコーは取り上げている。なぜなら、「キュニコス主義の実践において、一つの生の形式が、〈真なることを語ること〉の原則に非常にしっかりと連接されている」からである。つまり、「極端に類型化された生の形式の要請が――非常に特徴的で非常に明確に定められた諸規則、諸条件、諸様式を伴って――羞恥や恐れなしの〈真なることを語ること〉、勇気ある無制限の〈真なることを語ること〉、耐え難い横柄さに転じるほどに勇気と大胆さを押し進めるような〈真なることを語ること〉の原則に、しっかりと連接されていると思われる」からであるとフーコーはいう。

 一般的にキュニコス主義は、ソクラテスの弟子であるアンティステネスを祖とするヘレニズム期の哲学の一派を指すが、それ以降もキュニコス主義といえる思想が受け継がれている。フーコーは、古い形態のキュニコス主義だけを語ると述べる。つまり、ディオゲネス・ラエルティオス、ディオン・クリュソストモス、エピクロスやルキアノス、あるいはローマの皇帝ユリアヌスによって書かれた、風刺的ないし批判的テクストに見られるキュニコス主義である。例えば、ディオゲネス・ラエルティオスのテクストでは、キュニコス派のディオゲネスに関する逸話を取り上げている。人間において最も美しいものは何かを訊かれたディオゲネスは、パレーシア(率直な語り)であると答えた、という逸話をフーコーは述べる。生存の美しさとパレーシアの行使というテーマが直接的に結び付けられ、またエピクテトスのテクストで描かれたキュニコス派の肖像は、ある種の形態の哲学的修練主義のキュニコス的本質について理想上の定義としてとらえられるものであるとフーコーはいう。世界の事物の中で人間に味方になりうるもの、敵になりうるものを見定める偵察者として人間の前線に送られてきた者として描かれている。避難所もなく休憩所もなく、祖国すらない彷徨の人である。任務を終えた後で真理を告げるために戻ってこなければならない。そこには、キュニコス主義の、恐れることなく〈真なることを語ること〉を行使するパレーシアの定義が示されているとフーコーはいう。前回に考察した『ラケス』においてラケスが語っていたこと、つまりラケスには好きなロゴスと嫌いなロゴスがあり、それらは何によって区別されるか、それは、語り手が話す内容とその人物が生きるやり方のあいだに、ある種の調和、ある種のホモフォニーがあるかどうかということによる。語ることと生きることとのあいだのホモフォニーは『ラケス』よりもキュニコス主義ははるかに複雑かつ明確であるとフーコーは指摘する。また、節食、勇気、知恵のような徳を示し表明するソクラテスより、キュニコス主義の生の様式は、きわめて明確にコード化された諸形態によって特徴付けられるとフーコーはいう。『ヘラクレイトス駁論』に登場する杖は、パレーシアと結び付けられ非難され、ユリアヌス帝に非難されている。杖はキュニコス派を象徴するものの一つに過ぎず、その他、頭陀袋を持つ人、マントを纏う人、サンダル履きあるいは裸足の人、髭もじゃの人、薄汚い人、家も家庭も持たない人、物乞いをする人などの姿で様々なテクストに描かれている。

 

 生の様式の諸機能

 キュニコス主義は〈真なることを語ること〉との関係において、三つの機能、道具的機能、縮減の機能、試練の機能(役割)を持っているとフーコーは語る。エピクテトスは『語録』で述べているように、キュニコス派は家族を持つことができない。なぜなら人類が彼の家族と考えているからである。「キュニコス派は、自分の気を散らすかもしれぬすべてのものから自由なままにとどまり、全面的に神に使え、人々の間に出入りして、私的な義務につなぎとめられないようにすべきではないのか。」私的な義務を果そうとすれば「神々の使者、偵察者、英雄という彼の役目を破壊してしまうことになる」と(弟六九節―七十節)に記述されている。使者的な役目を果すためにあらゆるつながりから自由でなければならないのであり、そういう意味でパレーシアの可能性をキュニコス派の誓の様式は条件として持っているとフーコーは指摘する。二つ目の縮減の機能を果すものとしての生の様式とは何か。万人に受け容れられてはいるが、自然によって理性によって基礎づけられていない無益な責務を縮減するということである。真理を明るみに出すための研磨のようなものであるとフーコーはいう。三つ目は試練の機能である。人間の生にとって最も基本的な本質を構成するものを還元不可能な裸の姿で明るみに出すということだとフーコーはいう。このような生の様式はキュニコス派の奇天烈な行動へと駆り立てている原因になっているのだ。キュニコス主義によって、生、生存、ビオスが、真理表明術と呼びうるようなものとなるとフーコーはいう。

 

キュニコス主義の後裔

 世に認められた哲学がキュニコス主義に対して両義的な態度、つまり批判された実践とキュニコス主義の核となるものとの区別を試みてきたことが哲学の歴史にあるということをフーコーは指摘している。このことが、古代から顕著に見られるとはいえ、後代のキュニコス主義の価値剥奪に影響を与えてきた。西欧の思考に伝えた哲学に、プラトンやアリストテレスの哲学、ある程度までストア主義があるが、キュニコス主義はそうではなかった。その理由にはキュニコス主義のテクストがわずかしか残されていないこと、またその理論的敵骨組みが未発達であったことが考えられる。従って学説ではなく、生き方としてのキュニコス主義の歴史を研究することが可能であるとフーコーはいう。近代ヨーロッパの思考と文化におけるキュニコス主義と古代キュニコス主義の関係を扱った書物に、キュニコス主義を扱ったドイツ語のテクスト、ティリッヒの一九五三年の『存在する勇気、あるいは存在に対する勇気』と題された書物があり、ニーチェや実存主義との参照が見られるとフーコーはいう。現代のキュニコス主義を派生させ、それを自分自身で自分の創造者となる勇気という観点から論じているとフーコーは紹介している。さらに一九六六年の『哲学と神話にかんする四考察』というハインリヒの書物も取り上げている。古代のキュニコス主義は自己自身の肯定であり、都市国家および政治的共同体の破壊に呼応し、かつての政治的で共同体的な構造を参照できず、動物性の鳴かにその基準と基礎を探す自己自身の肯定である。それに対して、現代のキュニコス主義(Zynismus)は自己の肯定であるが動物性に関連せず、不条理および意味の普遍的な不在に対して行なわれていると述べられている。フーコーはその他にゲーレンの『道徳と超道徳』、スローターダイクの『シニカル理性批判』を挙げている。しかし、これら(前者三つの書物)は古代のキュニコス主義にポジティブな価値を与え、近代のキュニコス主義には否定的な価値を与え対立させて論じているように思えるとフーコーはいう。だが、両者には顕著な非連続性が見られるが、キュニコス主義の連続的な長い歴史があったとすれば、ヨーロッパ文化全体を通じてキュニコス主義なる、恒久的な存在があったと考えられるとフーコーは指摘する。先述したハインリヒとティリッヒの解釈においても個別の生存の高まり、自然的で動物的な生存の高まりとして提示されているが、個人主義として分析すると、見逃されてしまうもの、つまりフーコーの一番の関心事である、「生存の諸形式と真理の表明とを関係づけるという問題」が見落とされてしまうと指摘する。フーコーは今後なされうる仕事としながらも、「真理が出現する場としての生のスタイルないし生の形式というテーマ(真理表明術としてのビオスというテーマ)」から始まる考察を受け入れるとするなら、キュニコス主義的生存様式を、キリスト教的古代および近代世界に伝えることができたものとして、三つの要素が挙げられるとフーコーはいう。一、キリスト教修徳主義に見られるキュニコス主義的存在様式、二、政治的実践(革命的運動)に見られるキュニコス主義的存在様式、三、芸術に見られるキュニコス主義的存在様式である。

 

キリスト教修徳主義とキュニコス主義

 キュニコス主義的存在様式が幾世紀にもわたりにヨーロッパに運ばれてきたと思われるものが見出されるとフーコーは指摘する。キュニコス派のやり方での修徳の実践によって真理に具体的なかたちを与えようとしていたという証言が数多く残されている。ペレグリノスという人物に関するルキアノスの記述では、ペレグリノスはある時期にキリスト教徒になり、禁欲をすべて受け入れ、キリストに対する忠節と服従により焼身自殺したとある。キリスト教とキュニコス主義の生の様式の混交は緊密なので、キュニコス派に敵意を持つルキアノスのような人物はそれらを混同することがありえるとフーコーはいう。さらにユリアヌスや聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムスなどの記述から両者の混同が見られるのであって、キリスト教黎明期には、キュニコス派に観察されたテーマ、態度、行動形態の多くが、中世の霊的運動の中に再び見出されるとフーコーは指摘する。フランシスコ会修道士やドミニコ会修道士たちはキリスト教を通じて伝達されたキュニコス主義のモデルであったし、十一世紀フランスの霊的指導者、アンブリッセルのロベールについてフーコーは取り上げている。彼は襤褸を纏い裸足で村を渡り歩き、聖職者の風俗壊乱と戦ったことを述べている。あるいはキリストの裸姿に裸で付き従うというテーマがヴァルドー派にあったという。フーコーによれば、それらは「完全に簡素化という生の様式であると同時に、世界と生に関する真理を完全な裸姿のうちで表明するものであるという、キュニコス主義の裸姿に備わる二重の価値との関わりが見いだされる。プロテスタントの宗教改革の内部、あるいはカトリックの対抗宗教改革の内部においても感じ取られるという。

 

 政治的実践に見いだされるキュニコス主義的存在様式

 革命的運動はキリスト教的霊性のさまざまな形態から借り受けていて、真理の暴力的かつスキャンダラスなである表明はキュニコス主義的考えは、革命的運動がとった諸形態の一部をなしているとフーコーは指摘する。近代ヨーロッパ世界における革命は、政治的企図であるだけでなく、生の形式でもあったし、十九世紀、二十世紀のヨーロッパにおいて、革命的生としての「戦闘的態度」(革命的態度を生として定義し阻止気づけるとするなら)は三つの大きな形態をとったとフーコーはいう。

①     秘密結社における革命的生。現在の可視的な社会に対抗する結社や陰謀、千年王国思想の原則ないし目標に従った不可視の社会性の構成という側面は、十九世紀初頭に非常に重要であったとフーコーは指摘する。

②     もう一方には可視的で認知され制度化された組織の形態を持ち、その目標と活力を社会的かつ政治的な領野のなかで価値づけようとする戦闘的態度がある。(革命的組織、政党のなかに現れる)

③     生存のスタイルという形態における生による証言としての、社会のしきたりや習慣,価値を対立する戦闘的態度。「真の生」としてのもう一つの生の具体的な可能性と価値を表明する。真の生というテーマは、ソクラテスによってすでに提起され、西洋思想全体に絶えず現れつづけたとフーコーは指摘する。

 

このように、革命的生は、秘密結社、制度化された組織、真の生の証言という三つの側面を持っていたとフーコーはいう。三番目の生による証言(真の生)は、二番目の戦闘的態度ともつながりを持つ。十九世紀半ばに起こった運動に支配的であった、ドストエフスキー、ロシア・ニヒリズムやヨーロッパおよびアメリカのアナーキズム、そしてテロリズムの問題があるとフーコーは主張する。つまり、「ギリシア人とギリシア哲学によって真理本位の、生の根本的諸原則のうちの一つとして措定された真理のための勇気を、真理のために死に至る生の実践としてのアナーキズムとテロリズムが、どのようにして常軌を逸したやり方で極端化するのか」について研究する必要があるとフーコーはいう。十九世紀に支配的であった生による証言は、ニヒリズムやアナーキズムへ至る運動の中に見出されるというが、それがヨーロッパの革命主義の歴史における一つの歴史的形象に過ぎなかったというのではなく、今もって真理のスキャンダルとしての生という問題が再出現するのを、極左主義と呼びうるものの中に、革命的生のスタイルの問題が恒久的に出現するのを絶えず目にするとフーコーはいう。今やヨーロッパに限らず、フーコーは立ち会うことがなかった9・11など、イスラム原理主義によるテロリズムの問題なども含めて考えなければならない事項が二十一世紀には起こっている。

 

 近代芸術における反プラトン主義

真理のスキャンダルとしての生の様式というキュニコス主義的テーマはまた芸術のうちに見いだされるとフーコーはいう。古代においてもキュニコス主義的芸術とキュニコス主義的文学があった。サチュロス劇や喜劇はキュニコス主義的テーマに貫かれていたし、中世のキリスト教的ヨーロッパにおいては、祝祭とカーニバルのキュニコス主義的生の表明と見ることができるが、近代芸術においてキュニコス主義の問題が特に重要であり、現在の我々においてもそうであるとフーコーは指摘する。十八世紀ないし十九世紀の間に起こったことで、「芸術家の生」という、ヨーロッパ文化に特異な何かの出現とともにもたらされたとフーコーはいう。もともと芸術家には通常のノルムに還元しえない特別な生を送らなければならないという考えがあった。しかし、十八世紀と十九世紀の初めにかけて、それとは異なる何かが生まれる。芸術家の生が真理においてある種の証言をしなければならないという考えが生まれた。芸術は生存に対して他の形式とは対立する「真の生の形式」を与えることができるという原則と、その生に根を張る作品は芸術の領域に帰属することを保証するという原則に依拠しているとフーコーはいう。つまり、芸術作品としての芸術家の生という考えは、他の生からの、スキャンダラスな断絶の表明としての生、生を通して真理が明るみに出し自らを表明するという原則を別の側面から浮かび上がらせる方法であるとフーコーはいう。さらに近代芸術がキュニコス主義の運び手であったといえるもう一つの理由は、「生存の暴露」、生存にとって基本的なものへの暴力的還元に属するような関係を打ち立てなければならないという考えが現れたことであるとフーコーは指摘する。十九世紀半ば以来、顕著になってくる何かとフーコーはいう。ボードレール、フローベール,マネにおいて登場する何かである。下にあるもの、低いところにあるもの、基本的なものが一つの文化において表現の権利あるいは可能性を持たないものが闖入する場としての芸術のありようが構成されてきたとフーコーはいう。フーコーのいおうとするのは、既存の芸術観にはありえなかったものの流出であろう。俗なるものへへの視線が芸術領域にスキャンダラスに現れたことである。フーコーは「生存の暴露としての芸術」と呼んでいる。マネからフランシス・ベイコン、ボードレールからベケット、バローズに至るまで見いだされる深い傾向であるとフーコーは述べている。「芸術は、文化、社会的ノルム、美学的な諸価値や諸規範に対して、還元、拒絶、侵害といった論争を呼ぶ関係を打ち立てる」ことになったとフーコーはいう。

一つの規則は後の規則によって絶えず拒絶し破棄する運動になる。「芸術のあらゆる形式には、あらゆる獲得された芸術に対する一種の恒久的なキュニコス主義がある」という意味で、フーコーはこれを「近代芸術の反アリストテレス的性格と呼ぶことができるという。「生存にとって基本的なものへの還元とその暴露」という意味でフーコーは反プラトン的と呼んでいるのであり、獲得された形式の絶え間ない拒絶という意味で反アリストテレス的と呼んでいるのであろうが、本質的には反文化的という一つの機能を果すという。それらが反プラトン主義的といいえるかは、何をもってプラトン的と呼ぶかに関わるであろうが、当時の考え方から判断してそのような傾向が顕著に現れたことを指摘していると考えてよい。(フーコーが晩年、古代ギリシアに関心を移したことを考えるなら、プラトン主義の、西洋思想からの曲解が考えられよう。別の機会に論じることにする。)「文化のコンセンサスに、その粗野な真理における芸術の勇気を対立させることが問題となる」というフーコーの論点は、現代芸術、特に文学(詩)の領域における〈真なることを語ること〉の形態として充分納得されるものであった。フーコーは今後解き明かされねばならない問題の覚え書としてこの講義で論じているが、彼にはそれをする生の時間は残されていなかったのは残念である。

 

 キュニコス主義と懐疑主義(草稿)

この『真理の勇気』の二月二十九日の講義録には、フーコー自身による草稿がつけられている。芸術のキュニコス主義と革命的生との間の関係についての記述があり、革命的な〈真なることを語ること〉の勇気を、真なるものの野生の闖入としての芸術の暴力に結びつける試みは本質的に不可能であることをフーコーは指摘する。近代芸術ではキュニコス主義的機能がその核心にあるが、革命的運動では政党が組織され社会的かつ文化的な画一性によって「真の生」を定義すればキュニコス主義的機能は周縁的なものになるからであるという。近代芸術に固有のエートスと、政治的実践に固有のエートスとの両立不可能性を構成するとフーコーはいう。古代において大衆的な動きであったキュニコス主義は、十九世紀、二十世紀においては否定的な価値としか結び付けられなくなったのは、懐疑主義との近づけうるものになったということと関係づけられる。しかし、懐疑主義は実践を脇に置き、知の領域における吟味の態度であるのに対して、キュニコス主義は実践的態度をその中心に置き、理論に関する無頓着ないし無関心とに連接されていて、十九世紀のキュニコス主義と懐疑主義の組み合わせが「ニヒリズム」の根源にあったことをフーコーは鋭く指摘する。キュニコス主義は、西欧文化以前に提起された問題、つまり真理への意志と生存のスタイルをめぐる問題の、歴史的に位置づけられた一つの形態と見なさなければならないとフーコーはいう。西欧文化の核心には、真理への配慮と生存の美学との間のつながりを定義することが困難であるゆえに、キュニコス主義は重要な問題であるとフーコーは指摘する。多様な真理を発明し、多種多様な生存の技法をこしらえた西欧にとって重要なことは、学説の歴史ではなく、生存の諸技法の歴史を打ち立てることである、つまり「不可欠なのはほんのわずかな知識であり、真理に執着するときに必要なのはほんのわずかの生であるということ」キュニコス主義は思い起こさせる」フーコーは書き加えている。

 

 デメトリスとペレグリノス

 フーコーはこれまで論じてきたのは、西洋文化のなかでキリスト教制度、政治生活などの実践において、キュニコス主義的生、キュニコス主義を運搬したものについてのいくつかを論じてきたことを確認し、それとは別のキュニコス主義の理論的考察が、一九七九年にドイツで出版された、プレープシュティンクなる人物の著した『ディオゲネスのキュニスムスとツュニスムス概念』という書物で考察されていることを紹介している。この書物では、十六世紀から現代までの哲学史のなかでキュニコス主義が描き出されたやり方そのものへの参照が見られ、ニーチェのような他の著者たちへの参照も見られるという。ルートヴィヒ・シュタインがニーチェに対してなされたニーチェの世界観とその危険について、ニーチェのキュニコス主義を告発している書物であるとフーコーはいう。

フーコーのここまでの論考はキュニコス主義がもたらした後裔への影響であった。パレーシアの一連のフーコーの研究においては、彼自身が語るようにパレーシアという語のもつ意味の解体がいかにしてキリスト教で起こるのかである。しかしその前に、古代におけるキュニコス主義の歴史に立ち戻ろうとしている。まずキュニコス主義におけるいくつかの問題を指摘する。一つ目は古代においてさえ様々な態度や行動がキュニコス主義にはあったことである。「短いマントを纏い、もじゃもじゃの髭をたくわえ、汚れた裸足で歩き、頭陀袋と杖を持つ人物、街角、広場、神殿の入り口で、人々を呼び止めて自分が思ったことをずけずけという人物」というステレオタイプの彼方に、他の数多くの生の形式があった。例えば、簡素化された貧しい生を送ったデメトリオスなる人物がいた。ストア派のセネカは彼を自分の時代の哲学において最も傑出した人物のうちの一人と語っている。セネカは『恩恵について』のなかで、皇帝カリグラによって差し出された大金を荒々しいやり方で拒絶したことを述べ、デメトリオスは「私を誘惑したかったのであれば、彼はローマ帝国全体を差し出す必要があっただろう、という注釈を、デメトリスは添えたとフーコーは記す。フーコーによれば、帝国が差し出されても誘惑に屈しなかったであろう、しかしデメトリオスのいいたかったことは、「もし誘惑が、自分自身を強化するための試練、世界を前にして自分自身の主権を保証するための忍耐力の試練なのだとしたら、そしてもしその試練が、彼が自らを鍛え上げ、自らを強化し、自らの忍耐力を増大させることを可能にするための本当に真剣な試練でなければならなかったとしたら、彼に差し出されなければならなかったのは、もちろん大金ではなく、少なくともローマ帝国全体であった、ということ」であるという。この申し出に対してこそ抵抗すべきであったし、自分の勝利が価値をもつはずであった。自分になされるすべての提案を拒絶し、横柄な言葉を付け加える人物ではあるが、セネカはデメトリスを教養豊かな人物であり、街角の説教師からは遠く隔たった人物であるとして紹介している。「デメトリスは、完璧な知恵を備え、重要な主題にふさわしい雄弁によって、飾り気もなく、言葉を歪めることも凝った言葉を用いることもせずに語る人である」というセネカの文章をフーコーは引用する。装飾を棄て、簡素化したものである限りキュニコス主義といえようが、街角の説教師、それはキュニコス主義のイメージに還元されている。しかし、彼らがわめき立て罵りあう横柄な態度とは別の雄弁さをしめしているとフーコーは指摘する。

また別の例としてフーコーはペレグリノスという人物も取り上げる。ルキアノスの記述によれば、オエリグリノスはキュニコス派の哲学者であり、彼は人生のある時期にキリスト教徒になったが、禁欲の全てを受け入れ実践したのは、十字架にかけられたキリストに対する忠節と服従によるという。ローマにおいてイディオスタイ(教養も、社会的、政治的地位を持たない人々)に向けて教えをペリグリノスは施していた。また、アレクサンドリアの大衆による反ローマ運動にも関わっていてローマを追放された。このぺレグリノスとデメトリスの対立をフーコーは指摘し、キュニコス主義という同じ特徴を持ちながら、非常に異なったい

くつもの態度があること示している。二人の対立で象徴的なことは、タキトゥスの『年代記』によれば、デメトリスは、トラセア・パエトゥスが皇帝によって自殺を命じられたときの助言者であり、「完全にソクラテス的な様式」のもとで、魂の不死について対談したという。それに対して、ペレグリノスは自らの死を大衆的な祝祭として準備し,焼身自殺したとルキアノスによって記述されている。

 

 真のキュニコス主義と偽りのキュニコス主義

このようにさまざまな態度や行動がキュニコス主義に属するものとして示されていたことが、キュニコス主義を分析するときの難しさを示すものであるとフーコーはいう。さらに文責を難しくしている二番目の要因は、キュニコス主義が大きく発展した時期を紀元前一世紀から三世紀(ユリアヌス帝に至るまで)とするなら、キュニコス主義に対して示された態度の両義性があるとフーコーは指摘する。一つは、「粗野な者,無知な者、無教養な者」であるというキュニコス主義に関する激しい非難や告発である。前述した二世紀末のルキアノスは、[キュニコス主義の大敵であり哲学一般の大敵である](フーコー)彼の『逃亡者たち』の記述によれば、「軽蔑すべき人間たちの一族がおります。……彼らは奴隷状態に晒され、日雇いの身分で、靴屋、大工,縮充工、梳毛工といった、自分たちの身分にふさわしい仕事に従事しています。……ところが、成人になって、大衆が私の同胞たちを[つまり真の哲学者たちを](フーコー)この上なく深く尊敬し、彼らの率直さを容認し、彼らの友愛を求め、彼らの助言を聞き、彼らによるほんのわずかの非難にも屈するのを見て、彼らは、哲学がその絶対的な力によって全てを支配していると考えたのです。この仕事に必要なことを学ぶのは時間がかかりすぎる、というよりむしろそれは不可能であると、彼らには思われました。他方、彼らのつらく卑しい仕事は彼らの生活をなんとか賄える程度で、その奴隷状態は、実際、彼らに重くのしかかるようになりました。ではどうするかと言えば、彼らは、最後の錨を投じようと決断します。……彼らは狂気の港に投錨し、〈横柄〉、〈無知〉、〈無分別〉といった馴染みの仲間たちに助けを求め、新式の悪罵を自分の口先にいつも準備しようとします。それから……彼らはできる限りの変装を自らに施して、私にそっくりの姿を手に入れるのです。」

 

ここに描かれているのは、キュニコス主義を実践する人々一般が粗野で無知で無教養であることであるとフーコーはいう。またユリアヌス帝の『ヘラクレイトス駁論』では、

 

「キュニコス主義とは、非理性の一つの形態、人間にふさわしくない一つの生き方、さらには、あらゆる美しさ、あらゆる

誠実さ、あらゆる善良さを否定する魂の獣的な一つの傾向なのだろうか……神々に対する畏敬が消失し、あらゆ

る人間的な慎みが失墜することによって、名誉や正義とも呼ばれる法が踏みにじられるだけではない、それに加

えて、神々が我々の魂に刻み込んだ法、すなわち神的存在があるということ、我々の視線はその神的存在に注が

れていることを、それと告げることなく我々全てに納得させた法も、やはり踏みにじられることになるのだ……

想定してみよう」

 

という記述がつづく。この後に、神聖で神的な第二の法が拒絶されると想定してみる。それは他人の諸権利の尊重を命じる法であり、それが拒絶されたときには、追放令に処せられる必要があり、投石令に処せられる必要がある。彼らは、自分たちが非理性とは無関係であるかのように死を軽視すると述べている。フーコーによると、ここに描かれているのは、キュニコス派が神々の法、人間の法、そしてあらゆる形態の伝統性ないし社会組織に逆らっているという事実であるという。このようなユリアヌスやルキアノスの非難がある一方で、同じ人物によるキュニコス主義の価値を強調する記述があるのだ。

 

ルキアノスは、デモナクスというキュニコス主義の人物を描き出し称えている。「生まれつき彼に備わる衝動によって自然に哲学へともたらされた人」として紹介している。「人はもっぱら自然によって哲学者である」というルキアノスの主張は、キュニコス主義の重要なテーマであったものの一つである」とフーコーはいう。 また、ディオン・クリュソストモスによって報告されているディオゲネスとアレクサンドロス大王の対話をフーコーは挙げる。「王」が「王」であるのは自然によってである。その理由はゼウスの息子として生まれた者が「王」であるからだとディオゲネスはいったのであり、デモナクスも、生まれつきの衝動によって自然

に哲学へともたらされたので、ゼウスの息子のような者であるといったという。それはデモナクスが無教養の人物だというのではなく、様々な異なる哲学を組み合わせようとしたり、文学的かつ哲学的教養を身体的な忍耐力で補完しようとしたとルキアノスはいう。デモナクスは自由とパレーシアに生涯身を捧げた人、穏やかな実践家、療法や治療にかかわる実践家、侮辱や襲撃ではなく平和の実践家であったというキュニコス主義のポジティブな肖像を、ルキアノスは示すことができたのだとフーコーはいう。キュニコス主義の両義性は、別の言い方をすれば、真のキュコス主義と偽りのキュニコス主義が存在するといえるであろう。ユリアヌス帝は、『ヘラクレイオス駁書』において、真のキュニコス主義哲学は、ディオゲネスとクラテスに見いだされると主張しているとフーコーはいう。彼らこそ真のキュニコス主義の創始者であるというユリアヌス帝のいう理由は、行為と言葉の間に区別、隔たり、矛盾がなかったという点である、とフーコーは指摘する。ディオゲネスとクラテスの謙虚さ、質素さ、「いかなる欲求も持たないときあるいは身体によって煩わされないときにこそゼウスとともに君臨できるということを、怒号によってではなく事実によって証明したのである」と述べている。さらにユリアヌス帝はキュニコス主義を、「万人にとって有効であると同時に誰にでも手の届くものであるような、一種の普遍的哲学とユリアヌスは考えていたとフーコーは考えていたとフーコーは指摘する。ユリアヌス帝は『無学なるキュニコスの徒への駁論』なかで、キュニコス主義は古いものであり文化的普遍性があることを明かしているとフーコーはいう。ディオゲネスやクラテスを越え、ヘラクレスをさらに越えて、ヘレネス(古代ギリシア人の総称)やバルバロイ(異民族)にまで遡ってキュニコス主義を記述している。

 

「神々および神的な生へと歩んだ人々に敬意を表しつつ語りたぃと望む私としては、彼(ヘラクレス)以前にも――ヘレネスにおいての

みならずバルバロイにおいても――その哲学(キュニコス主義)を表明していた人々がいたと確信している。その哲学は、私が思うに、

普遍的で、完全に自然であり、いかなる特別の研究も必要としない。徳への欲望と悪徳への嫌悪によって、誠実なことを選べばそれ

で充分である。また、数多くの書物を開く必要もない。というのも、人もいうように、学識は精神を与えはしないからだ。他の

哲学的学派の信奉者たちがその多様性において支持しているものと別の学科に従うには及ばないのだ。」

 

この部分をフーコーは挙げて、基本的ないくつかの徳、誰もが知りうるし誰もがその訓練を行なうことのできるようないくつかの徳を実践するだけで、キュニコス主義の核そのものを構成するのに充分であるということを示しているという。さらにフーコーはそれらの特徴は一種の哲学的混合主義でもあると指摘する。つまり普遍性を獲得している反面、凡庸さも表明していることにもなる。奇妙な逆説として、フーコーは哲学に関心を寄せていた人々のもつキュニコス主義に対する二重の態度を指摘する。それは、キュニコス派は社会の周縁に身を置き、制度や法などから追い払われる存在でありながらも、哲学に関心を寄せる人々はキュニコス主義的実践から、そのものに固有の本質である核を引き出そうとする努力があったことだ。つまり偽りのキュニコス主義と、その本質的な核をもった真のキュニコス主義を区別しようとする努力があったということがかなり特異なものであるとフーコーはいう。

 また古代のキュニコス主義研究を困難にしている他の理由もある。それは、キュニコス主義が大衆的な形態を持っていたことと関連して、理論的なテクストを含んでいなかった、あるいは少ししか含んでいなかったこと、未発達のものであったことをフーコーは指摘している。キュニコス主義の二つの側面、つまり広範囲に定着した哲学でありながら、つまり大衆的でありながら、偏狭で窮屈で初歩的な理論的骨組みを持つ哲学であったということである。

 

 キュニコス主義的教育

 哲学教育の本質的な役目は、知識を伝達することではなく、教育を施す個々人に対して知的かつ道徳的な鍛錬をあたえることであった、つまり知識の総体の伝達ではなく、生のための武装の伝達であったとフーコーは解く。ディオゲネス・らエルティオスの教育に関する記述をフーコーは取り上げる。ディオゲネスによるクセニアデスの子供たちの教育に関する伝説を語る。彼はあらゆる学問を学ばせたが、すべての学問を覚えやすくするため縮減し要約して学ばせたという。そして非依存の習得を学ばせたのである。質素な服装をすることを身につけさせ、自給自足を可能にする狩りも教えたという。目を伏せて通りを歩くことを許さず、

誰かまわず言葉をかけることを許さなかった。哲学教育の本質的な役目は、知識を伝達することではなく、教育を施す人に対して知的かつ道徳的な鍛錬を与えることであったとフーコーは指摘する。このような考え方についてセネカは『恩恵について』(第七巻冒頭)において詳しく述べているとフーコーはいう。その中でセネカはデメトリオスの学問に対する考え、「この人がいつも述べていた賞賛に値する見解によると、実際、哲学の教えは、それを少ししか知らなくても掌中に置いて活用しているならば、多くの教えを学んでいながら手許に持っていない場合よりも有益である」(『セネカ哲学全集2』岩波書店)と述べている。さらにセネカはつづけて偉大な挌闘技の選手について、デメトリオスの言葉の引用として述べている。「偉大な格闘技の選手とは、敵との闘いで用いることの稀な一連の構えや締め技をすべて習得し尽くした者ではなく、その一つか二つにおいて十分かつ入念に自分を鍛え、それらを使う機会を注意深く待つ者である」と。セネカによれば、知ることができないことや、知っても役に立たないことは、見落としたとしても、君には大して害にならないだろう。真実は不可解で、深いところに隠れている」と述べられている。キュニコス派は、単純な教育、実践的教育を「手短な道」であるとしばしば語っていたとフーコーは指摘する。

次回、(その二)につづく。

 

  

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