ヒーメロス通信


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[フーコーの変貌と真理ゲームという概念 小林稔「自己への配慮と詩人像」より掲載

2016年01月01日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(六)  『ヒーメロス』14号2010年6月10日発行
小林 稔

30 フーコーの変貌と「真理ゲーム」という概念

 プラトンを中心とする古代ギリシアの哲学は、紀元前一世紀から紀元一、二世紀のヘレニズム・ローマ期に継承され、真実の言説を主体化する技法や実践が重んじられたが、それがどのようなものであったかをフーコーに導かれながら考察してきた。第一段階は聴くこと、読むこと、書くことについてフーコーの分析に沿って辿ってみた。聴くこと、つまり聴覚はロゴスを主体が摂取するときの重要な関心事であった。プラトンの『国家』では、音楽と詩を一括りにして危険視される、いわゆる詩人追放論なるものを考えてみた。すべての感覚のうちで聴覚は最も受動的であるがゆえに、欠点と利点の両方を備えているのである。グレコ・ローマン期の哲学者によって、聴覚は強く魂を魅惑させるものであることから、理性に対する敵対とロゴスへの覚醒の両義性が説かれた。聴覚はセネカによっても尊重されたが、やはりある種の技法が必要であると主張された。また書くことと読むことにおいてもさまざまな技法がストア派の哲学者たちによって考察された。キリスト教との比較において論述を展開してきた。(キリスト教については次回以降、独立して詳しく論じる予定である。)
 主体は、真理の主体になるため、まず真実の言説を師から聴くことを求められた。導かれる者は沈黙を強いられ、師の言説には真理が求められたのである。弟子において主体化される真実の言説の方法論を考えるとき、そこに見えてくるものがパレーシアという概念であった。パレーシアとは語る主体に要求される道徳的資質であるとフーコーは述べる。ここまでが前回の概略である。今回はパレーシアについてさらに考察してみたい。(前回に論じたプラトンの「詩人追放論」は聴覚の受動性に関連して挿入した論考であり、パレーシアとは直接の関連性はないことをお断りしておく。)

 フーコーの書物あるいは講義録にパレーシアという概念が表れたのは最晩年のことである。より詳しく
は、この論考が準拠する『主体の解釈学』(一九八二年の講義)の後半部分から表れ、『真理とディスクー
ル』(二〇〇二年筑摩書房刊)は、パレーシアについての一九八三年カルフォルニア大学のバークレー校の講義を書物にしたものであるが、そこではパレーシアが中心テーマになっている。この書物の訳の巻末で、中山元氏によるフーコー哲学の転向が解説されている。パレーシアを論述する前に、パレーシアという概念がフーコーに訪れた推移を辿ることは、私が書き進めているこのエセーを理解するためにも必要なことなのでここで紹介しておくことは無駄ではないだろう。
 中山氏によると、フーコーは初め考古学的見地から真理の問題を考えていた。それはカントから示唆されたものである。カントは理性の考古学を考えることで、人間の思考の前提条件となっているものを探求しようとした。それに対して、フーコーは真理が可能となる前提条件を考察することを構想した。ある命題が「真理」と判断されるためには、どのような歴史的条件が必要とされるかを考えたのである。中山氏は進化論の例を挙げ、「進化論の命題が真理として認識されるためには、生物についての概念がアリストテレス的な伝統から一新される必要があった」「そのためには、古代や中世のエピステメーから、近代のエピステメーへと、知の枠組みが変動する必要があった」ように、永遠不動の真理などはなく、それぞれの時代の知の前提条件での真理に過ぎないということであろうと述べている。『言葉と物』の基本的なコンセプトはここにあると思われる。
 しかし、そこに留まらずフーコーは、「真理を語ることがいかに権力を生むか、他者の語る真理に服することで、どのような権力的な場におかれるか」を重要と考えるようになったと『真理とパレーシア』の巻末の解説で中山氏は述べている。今度はニーチェの系譜学から示唆されたのである。真理の考古学から真理の系譜学へと移行した。「ニーチェが示した系譜学という概念は、ではなく、という観点から、真理の問題を考察するものである」と中山氏は指摘する。ここでも真理は相対化される。「誰がどのような意図で語るかを考えなければならないし、現実世界での役割を考えなければならない」、「真理を権力との関係で分析するという視点を貫こうと」したと中山氏は述べる。『狂気の歴史』や『監獄の誕生』などの書物の基本テーゼであろう。
 フーコーの転向はここで終わらなかった。さらに「一九七〇年代末から一九八〇年代はじめに」、「真理を語る主体という側面から考察する必要がある」と考え出したのである。「真理を語る主体の変貌」を語り始めるようになったのである。それはまたフーコー自身の哲学の変貌でもあったのであろう。(私は、パリ滞在を含むヨーロッパ、アジア、アフリカ放浪から帰ってきたばかりで(一九七六年十二月三十一日)、次の年からアテネフランセに一日中立てこもり、フランス語の学習はもとより、ギリシア語、ラテン語、フランス文学、フーコーの哲学をフランス語で行なわれる授業を受講していたころである。『オイディプス王』『アエネーイス』『オーレリア』『性の歴史』『狂気の歴史』などを学んでいた。『性の歴史』の授業では、フーコーが第一巻『知への意志』を刊行したまま(一九七六年のフランスで刊行、日本語訳は一九八六年刊行新潮社)、八年間の沈黙の時期を迎えていた。「知への意志」を原書で読みながらオードブラン夫人(アテネフランセの教師)の配布するフーコーの最新インタビュー記事などを読んでいた。)今になってみれば、『主体の解釈学』の巻末に、この書物の校閲者であるフレデリック・グロの詳細な解説やその後のフーコーへのインタビュー、講義録などによって、沈黙の八年間にフーコーに何が起こっていたのかが知れるのである。
 例えば「講義の位置づけ」で引用されているフーコーの『快楽の用法と自己の技法』(一九八三年)を書き出してみよう。「哲学が思考自身への思考の批判的作業でないとしたら、今日、哲学とはいったい何であろう。もし、また哲学の本領が、自分の知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であるか」。この発言をグロは、一九七六年から一九八四年の間の変化を知る意味で重要であるという。そしてまた、この私のエセーの骨格とする『主体の解釈学』にまとめられた、一九八二年のコレージュ・ド・フランスの講義は決定的に重要であるとグロは指摘する。

 最近(二〇〇八年筑摩書房刊)出版された『賢者と羊飼い・フーコーとパレ-シア』という書物で、著者の中山元氏は、「哲学者の語る真理そのものよりも、真理を語る哲学者に注目することで、ヘーゲルとはまったく異なる哲学史を試みた」ものとして、カール・マルクスの若き時代の学位論文『デモクリトスの自然科学とエピクロスの自然哲学の差異』を取り上げ、晩年のフーコーの哲学的行為との類似性を指摘している。マルクスはヘーゲルのように哲学の思想の真理性に注目するのではなく、真理がどのように語られるかという視点から、真理を語る賢者の像を重視しようとしたと中山氏は指摘する。マルクスは「賢者が真の学問の現実の姿として示される」ことに関心をもち、真理を語る個人の歴史という観点からギリシア哲学を描き出そうとしたのである。七賢人とされる初期の賢者、ソクラテス、ストア派とエピクロスの賢者に分けられる。「神が賢者の口を借りて真理を語る。アテナイの人倫のうちに、生身の身体をもってごく自然に生きている」のが初期の賢者の姿であり、そこから「この人倫が神の境地から独立してくる」ようにな
り「生ける芸術品として登場する」と中山氏は述べる。マルクスは『エピクロスの哲学』(大月書店刊)において「民衆はみずからのうちから、それが彫塑的な偉大さで登場するのを見る。最初の賢者たちの場合と同じように、彼らの活動が普遍的なものを形成するところでは、彼らの発言は現実に適用する実体、つまり法律となる」と述べる。しかし、ソクラテスにおいてこのような関係は破綻した。「ソクラテスはアテナイの人倫ではなく、みずからの魂に聞こえてくる声、ダイモーンに従ったからである」。つまり、ソクラテスは「神の言葉でもなく、アテナイのポリスの人倫の真理でもない。」実体をもたぬ主観性なのである。彼は人々の足を止め、みずからの魂の配慮について説教を続ける賢者なのであると、中山氏はマルクスの考えを要約する。次の三番目の賢者は、ストア派とエピクロスである。彼らはプラトンとアリストテレスを継承する賢者である。「エピクロスはデモクリトスの自然哲学を作り替えることで、心の平静を保ち神について観想するソフォスとなりえたか」をマルクスは述べているという。ソクラテスには語るべき真理はなく、ひたすら魂の配慮を求め、実質的な内容は語られず、無知の知が打ち出されるだけである。プラトンの描くソクラテスはイデアの理論を説く人物として存在するが、ソフォスとしてのソクラテスはそのような人物である。中山氏は、マルクスは「真理を生きる者である賢者の変身の経過が、ギリシアの哲学の進展を象徴し、それを動かしていくと考えた。この生き方の系譜と語られる真理の系譜には深い絆がある」と指摘する。このようなマルクスの視点とフーコー晩年の視点の類似性は興味深いことである。転向後のフーコーは病に倒れるまで、「真理を語る主体の系譜学」とも呼ぶべき学を展開していった。

 先に述べたように、「真理を語ることでどのような主体が構成されるか」という視点から、真理のゲームという概念が誕生したのは、カント、ニーチェと示唆されてきたフーコーが、次はウィトゲンシュタインの言語ゲームという概念に示唆されたからであると中山氏は指摘する。ウィトゲンシュタインの言語ゲームの理論では「言語とはなにかという問いを拒む。語の定義というものは、語によって語ることができない」、「これは自己言及的な悪循環に陥るからである。」「語を語によって定義するのではなく、実際に使われる方法によって認識する必要がある」という主張であると中山氏は述べる。フーコーに引き寄せて考えれば、「真理の本質について語るのではなく、現実の世界という力関係の場において、どのようにして真理が語られるかを考察することが重要になった」(中山氏)のである。パレーシアとは現実世界で真理を語ることであるが、「言語ゲームと同じように」「真理を語る主体にとって、真理を語るという行為がなにを意味するのかが問われ」、「さらに言語行為の理論と同じように、真理が語られることによって他者のもとに生み出されるさまざまな影響を考察する」。つまり「真理を語る主体と真理を告げられる他者との関係に焦点をあてようとする」ことであると中山氏は解説している。
 『主体の解釈学』の訳者、廣瀬浩司氏の巻末の解説によると、権力は変更可能で流動的な諸関係の総体として分析されるべきだという「監獄の誕生」以来の定義をあらためて確認したうえで、このような「権力の戦略的領野」としての「統治性」の分析においては、自己との関係の分析が不可欠であることを強調し、そしてこの関係においてしか、政治的権力に対する「抵抗点」はないかもしれないとフーコーは付け加えていることを指摘する。「戦略の根拠を、権力側からではなく、いわば内側から組織し直すものであるとも言える」といい、「主体への移行はといえるような、個人的で主体的な経験の図式が規定され始めたのは、十九世紀以降である」というフーコーの記述から、「抵抗の可能性」という問題の立て方を、より広い射程で考え直そうとしているように思えると廣瀬氏は述べる。「真理を語る主体」についての考察においてパレーシアという主題が重要になってくるのだという。ここまで確認した上で、パレーシアについてフーコーの語ることに耳を傾けてみよう。

31 エウリピデスの悲劇に見られるパレーシア  

 フーコーは『真理とディスクール』の冒頭で、パレーシアという語の定義をしている。語の意味は「率直に語る」ことであるが、それだけではまったく十分ではない。そこにはさまざまなパレーシアのゲームがあるのだ。最も早くこの言葉がギリシア文学に登場するのはエウリピデスの悲劇であるとフーコーは述べる。紀元四世紀末と五世紀を通してキリスト教の文献にも表れ、パレーシアを行使する人をパレーシアステースと呼ぶ。真実を語る人という意味である。しかし先述したように、フーコーはそこで語られる真理とは何かということに関心を寄せているのではなく、真理を語る主体に、真理を語ることが何を意味するのかを分析しようとしている。真理を語る主体とそれを受け止める他者との関係を考察するのである。十七世紀のデカルト以降の哲学では、明証性が導き出されるまで真理と見なされることはない。それに対して、古典古代のテクストでは、語る主体が道徳的な特質をもつ人であれば真理を所有していることが保証されたのである。このように時代により前提条件が異なれば真理とされるものが異なる。先述した「真
理のゲーム」とフーコーの呼ぶ所以である。紀元前五世紀から初期キリスト教の時代のパレーシアをフーコーは分析しようとしているのだが、当然ながらパレーシアには変遷が見られ、フーコーは、弁論術、政治、哲学との関係から詳細に論じている。
『真理とディスクール』の第二章第一節(p32~p112)において、フーコーはエウリピデスの六つの悲劇を取り上げ、さまざまなパレーシアの特性を指摘している。手短に挙げてみよう。
 『フェニキアの女たち』では、オイディプスの息子たち、兄エテオクレスと弟プリュネイケスの争いがテーマである。遺産を「鋭い剣で分けあうがよい」という父親の呪いの言葉を回避するため、一年ごとにテーバイを交互に支配すると取り決め、まず兄が統治するが、一年後に兄は弟に王座を譲らなかった。弟は兄から王座を奪いテーバイを占領するため軍を進める。それを知ったイオカステ、つまりオイディプスの妻にして母親、しかも彼らの母親である彼女は、争いを回避するため話し合いを提案する。イオカステは兄ポリュネイケスにテーバイを追われて苦しかったかを尋ねる。ポリュネイケスは答える。「何よりもまず、自由にものが言えぬこと」が辛いと打ち明ける。「自由にものが言えぬ」とは「パレーシアができないことを意味する」のである。「それは奴隷と同じことですね」とイオカステは声をかける。つまりパレーシアの権利を失っていることはいかなる権利も行使できない「奴隷の境遇」にあることであるし、また支配者に対して批判できず、支配者の権利に制限を与えるものがなくなるということであり、パレーシアとは支配者を批判し支配者の権力に制限を加える権利であるということがわかるとフーコーは述べる。
 『ヒッポリュトス』は、義理の息子ヒッポリュトスを愛するファイドラの物語である。ファイドラは相手の名を明かさずに乳母にこの恋を打ち明けるが、その直後に、身分の高い女性が夫以外の男と密通し夫や子供に恥をかかせる例を語り、母親を誇りに思っている息子にパレーシアの権利を行使して欲しいと願う。男性は家族の不名誉を意識すると奴隷になってしまうとファイドラはいう。つまり、市民の地位にあるものに与えられるパレーシアは、市民であるだけでなく社会的な資格と道徳的な資格が必要であることを示しているとフーコーは指摘する。
 次に『バッコスの信女』では、キタイロンの住む王の羊飼い、王の伝令である男が、バッコスの信女たちが山で混乱と無秩序を引き起こしているので王に報告する。ギリシアでは喜ばしい報せをもたらす使者は報われ、悪い知らせを伝える使者は罰せられる伝統があるので、王に、「パレーシアを行使し、知るかぎりのことを伝えてもよいか」と尋ねると、王はほんとうのことであれば罰しないことを約束する。ここでは、パレーシアテースになるのは自由人だけでなく召使にも許されているが、正直に話さない限り、パレーシアの権利を行使できない。もし王が立腹すれば真理を認識できない悪しき支配者になることになる。いうなれば「パレーシア契約」というものを認めることであるとフーコーは指摘する。これには制度的な裏づけはないので王の道徳的な義務に過ぎず、羊飼いにとっては真実を語ることでリスクを負うという理由から、契約はそれを減らすことを目指していると指摘する。
 『エレクトラ』は、娘を神の犠牲に捧げられた母親の怒りと姦通が重なって悲劇的な結末をもたらしたアガメムノン家の伝説を物語る悲劇である。僭主でありクリュタイメストラの愛人であるアイギストスの二人がアガメムノンを殺したので、息子のオレステスが父の仇討ちをした。その直後にパレーシアが行使される。オレステスは死骸を隠しておいたので、母親のクリュタイメストラはアイギストスが殺害されたことを知らず、娘エレクトラに会う。エレクトラは奴隷のような地位にいる。母親とエレクトラは対決する。母親は、夫を殺したのは娘イフィネゲイアを神の犠牲にしたからであることを語る。「さあ、言い分があるなら言ってごらん。何でも言いたいことを言って、答弁するがいい、お前の父親の死が不当であることをね。」「なんでも言いたいことを言う」がパレーシアという言葉で述べられている。エレクトラは言いたいことを述べた後で殺されることを恐れるが、パレーシアを行使する。母親のクリュタイメストラは女王であるのでパレーシアはしない。パレーシアはクライの下の者が上の者に真実を伝えるときに使うものだからからである。すぐ後で息子オレステスと娘エレクトラは母親を殺すことになる。ここでも「パレーシアの契約」が取り交わされたが、パレーシアの権利を認めた者(母親)が、パレーシアを懇願した下の位の者(エレクトラ)によって殺されることになる。『バッコスの信女』とは逆転している、いわば「逆向きの罠」であるとフーコーは述べる。

32 神の沈黙をテーマとする『イオン』

 エウリピデスの悲劇のいくつかを取り上げてきたが、『イオン』と『オレステス』についてはフーコーは詳細な解説を試みている。序幕(プロロゴス)で劇の背景をヘルメスが語る構成を取る。それによると、アテナイの初代の王エレクテウスにはクレウサ、ケクロプス、オレイチュイア、プロクリスなどの子供たちがいた。娘クレウサだけが生き残り、アテナイの王家を継ぐ。ある日、崖の下で花を摘んでいたクレウ
サをアポロンは強姦する。クレウサはやがて男の子を産む。父のエレクテウスにはこのことを知られたく
ないので、子供を置き去りにする。アポロンはヘルメスに子供をデルポイ神殿に運ぶよう命じる。やがてこの子は神殿で育てられ、神の僕(しもべ)になる。この子がイオンである。アポロン以外にはこの子がどこから来たかは知らない。母クレウサはこの子のことはどうなっているかわからず、死んでしまったと思っている。クレウサは異邦人のクストスという人と結婚する。クストスは異邦人なので、アテナイで暮らすにはさまざまな問題が起こる。それを変えるには子供をもうけることが重要になるが、子供を授からないでいた。そこで彼らはデルポイに行き子供が生まれるかどうかを聞きにいく。クストスは子供が生まれるかどうかを尋ねるが、クレウサはアポロンとの間にできた子供はどうなったのかを尋ねたのである。
 アポロンの僕イオンは神殿の戸口で出会う。しかし母親と息子であることは互いに知らないのである。母と子が互いを知らないことは『オイディプス王』と同様の設定になっている。しかし『オイディプス王』では最初から真理を語るアポロンに対して『イオン』ではアポロンは最後まで沈黙を貫くのである。前者では人間は神の語る真理を回避しようと努力するが、後者では真理の解明に励むのは人間のほうである。「むりやりに利益を求め、またかりにそれを手に入れたとて、何になりましょうか、神々が進んで与え給うものこそ、私たちを益するのです。」とイオンは語る。劇の最後ですべてのことが明かされるが、アポロンは最後まで現われず、アテナ女神がアポロンの伝言を携え登場することになる。「かのアポロンは、過ぎし日への咎めが表沙汰にされぬよう、そなたらの面前に現われるのをはばかって、わらわをさし遣わし、かく言伝し給うー―」と語り、イオンに向かって「そなたを生んだのはこれなる女、父はアポロンである、してそなたをかのクストスに授けたのは、産みの父なるゆえにではなく、そなたがいとも高貴なる館の世継ぎとして、認められんがためである。しかし事の秘密が洩れたために、そなた母の策略により、また母はそなたの手にかかって、あやうく死なんとするところを、御神が然るべき手段もて救い給うたのだ。神の御意図では、一応そのことは伏せておいて、アテナイに返ってから、はじめてこの女がそなたをわが子と認め、またそなたも、自分が彼女とポイボスとの間に生まれた子であることを知るように、事を運ぶ手筈であった」と説明する。この悲劇では沈黙と罪は神の側にある。神の沈黙に抗しながら人間がなんとか真理を発見し、真理を求め闘うことに中心のテーマがあるとフーコーは指摘する。アポロンは「反パレーシアステース」であり、イオンとクレウサがパレーシアを行使する者であるという。神はクストスに神殿を出て最初に会うのが息子だと告げるが、それは嘘で神殿の戸口で待ち構えるのはイオンだったからである。つまりアポロンは真理を語る者ではなく嘘つきなのだとフーコーはいう。クストスは自分の息子だと信じて喜び抱擁するがイオンは突き放す。二人の質疑応答が始まる。父親が異邦人であれば子供はアテナイの市民と認められないという不安がイオンの脳裏を掠める。エウリピデスはこの場面でアテナイの政治生活や王政の政治生活を批判しているとフーコーは指摘している。イオンは一方ではエレクテウスを継ぐ第二代の王家の後継者を望んでいる。最後の場面にならなければ真理は明かされないので、この時点では私生児と見られることを心配するが、最初はイオンを客人として迎え、息子であることは隠しておき、しかるべきときに息子として後継ぎにしようというクストスの提案をイオンは受け入れるのである。イオンは母親がアテナイの女性であることを望むが、それはパレーシアの権利を享受しようとするからである。民主制と王政をイオンが批判的に語るのは、イオンがパレーシアテース的な人物であるからだとフーコーは指摘する。母親が不明ではパレステースの権利はない。イオンにそうさせているのはアポロンが反パレーシアステースだからである。母クレウサが真理を語ることで息子がパレーシアステースになれる。したがって母クレウサもパレーシアテース的な人物であるとフーコーはいう。
 クレウサの方からパレーシアを分析してみよう。イオンによる政治的パレーシアとはまったく異なり、アポロンの過ちを公の場で糾弾しようとする。アポロンが自分にした強姦という行為、息子を奪い、クレウサの問いに答えないこと、クレトスに息子を与えたことに憤怒し、真実を語ることを決断する。『オイディプス王』では、アポロンの語る真理が信じがたいものだったので、人間はアポロンの神託を受け入れなかった。それに対して、『イオン』では、アポロンは嘘をつき沈黙するので、人間が真理に導かれていくのである。クレウサはアポロンの嘘でイオンがクストスの実の息子だと信じている。クレウサの糾弾がパレーシアであるのは、自分よりも強い権利を持っているからである。クレウサの批判は長い詩行で書かれているが、その特徴を挙げると次のようになる。公的な場での非難であること、光り輝くアポロンの姿と、洞窟の暗がりで若い娘を強姦するレトの子という姿の対比、竪琴を弾く音楽の神アポロンと泣き叫ぶクレウサ。彼女のパレーシアは自己告発、自分自身についての真実を告発するものである。イオンとクレウサのそれぞれ違ったパレーシアを並列することで、最後に真実が明かされるとフーコーは指摘する。イオンがクレトスの実の子供だと信じるクレウサは、イオンを殺そうとし、それに気づいたイオンは逆にクレウサを殺そうとする。これはオイディプスの状況を逆転させたものであるとフーコーは主張する。
 この悲劇で、真理が開示される場がデルポイからアテナイに移動し、アテナイ市民のパレーシアによって、神々が人間に語るものではなく人間が人間に語るものとなったことをエウリピデスは伝えたかったのだとフーコーは指摘している。
 
33 『オレステス』に見られる政治的パレーシア

 エウリピデスの悲劇『オレストス』は、貶めた意味でパレーシアが使われているエウリピデス唯一で最後の劇であるとフーコーは語る。オレステスはエレクトラとともに母クリュタイメストラを殺したために裁判にかけられている。まずフーコーは『真理とディスクール』において、『オレステス』884~931の長い引用をしてアテナイの刑事裁判の手続きを解説する。市民のすべてが集められ、伝令が事の次第を読み上げた後、「発言を求めるものはいないか」と尋ねる。平等な発言の権利を示すものであり、イセ―ゴリアと名づけられたものである。最初に発言を求めたものはタルチュビオスとディオメデスであった。前者は、ホメロスの世界から借りてきた神話の英雄であり、アガメムノンがトロイア攻略の際、使者の役を果した者であり、権力者に依存する自由人とは言いがたい人物である。したがって率直に話すことのできない男である。母クリュタイメストラとその愛人アイギストスを殺したオレステスを有罪とすると主張する。後者は比類ない勇敢さと雄弁において広く知られていた英雄である。前者とは異なり自立した人物であり、穏健な解決策、殺人に対する伝統的なポリスからの追放という処罰を提案する。両者の意見に市民たちの意見も分かれるのであった。次に登場する二入の人物は神話上の英雄ではないので名前は伏せられている。フーコーによると、二つの「社会的な類型」を表している。一人は悪しき発言者の類型であり、民主制にとって悪しき発言者の代表者の類型で、先ほどの英雄タルチュビオスに相当するという。「おしゃべり」が特徴である。フーコーは古代ギリシアの文学から、「おしゃべり」がいかに恥ずべきものと考えていたかを論じているが長くなるのでここでは省略しよう。つまり、パレーシアステースらしからぬ人物である、あるいは貶めた意味でのパレーシアを行使する人と市民に思われていたのである。語るべきことと、語らざるべきことを区別できることが、肯定的なパレーシアである。この三人目の登場人物のもう一つの特徴は「厚かましさ」であるとフーコーは指摘する。さらに、「アルゴス生まれでないのにアルゴスの人間になっている」ということと、「がなりたてる」ことである。「自分の発言に筋道をたてることに自信をもっているのではなく、大きな騒がしい声で、聴衆のうちに情緒的な反応を引き起こすことに自信をもっている」人物であるとフーコーは分析する。最後の特徴は、「下品にしゃべりまくる」ことである。教養や知恵が欠けていることを意味する。「すぐれた教育と、知的で道徳的な教養に基づいて」政治的なパレーシアが行使されなければならないことを示すものであるとフーコーは語る。最後の発言者(四番目にあたる発言者)は、「見かけは立派ではありませんが、勇気ある方」と裁判の報告で使者が語る人である。市場にはまれにしか姿を見せない人とも語られる。それはアゴラと呼ばれる市場での集まりで時間を費やす職業的な政治家ではなく、また民会に参加して報酬を得ようとする貧民でもないことを意味していると、フーコーは説く。参加するのは重要な問題が生じたときだけである。それは自作農である。エウリピデスが自作農の政治的な能力の高さを強調していることをフーコーは指摘する。このような自作農の特徴は、ポリスを守るために優れた戦士になる用意があること、よい提案のために言葉を使うことができること、つまりよい識者であるということである(数名の召使や奴隷を従えているので)。最後に道徳に優れた人物であることをフーコーは挙げている。この四番目の発言者はオレステスを無罪にすべきだと主張する。それだけでなく「その功績により、冠を授くべきだ」とさえこの自作農は主張したのである。
これほどまでに、この自作農がオレステスを讃えるのはなぜか。フーコーによると、自作農の無罪の主張は平和の意志を尊重するものである。アテナイはスパルタとペロポネソス戦争のただなかにあったことを考えるべきであるとフーコーはいう。アテナイは紀元前四一三年敗北をした後、『オレステス』が初演された紀元前四〇八年には海軍の再建が少しあったものの、まだ不安定な時期であり、戦争か平和かを選択する議論が沸き起こっているころであった。民主派は戦争支持であり平和共存を望む保守派は和平案を支持していた。民主派の指導者はクレオフォンで第三の発言者の否定的なパレーシアの特徴を備えた人物である。保守派の指導者はテラメネスという人物で、市民としての主要な権利と政治的な権利を持つのは自作農だけと考えている人物であり、好ましいパレーシアテースの特徴をもつ四番目の発言者にあてはまるとフーコーは指摘する。ギリシアの劇はいつも市民を啓蒙する意図があるので、オレステス裁判をテーマとするこの悲劇にもそれが見られるのである。
『オレステス』でパレーシアはいかなる問題を提起しているのかを要約してみよう。フーコーは、肯定的なパレーシアと否定的なパレーシアの対立が見られ、『イオン』で見たような神との関係でなく人間の役割のうちだけでパレーシアが発生していると分析する。つまりパレーシアの危機が描かれているというこ
とである。パレーシアの権利を行使できるのは誰か。市民のすべてがもちえたパレーシアの権利を、社会的な地位や個人的な徳を基準にだけ与えるべきではないか。法の下の市民の平等であるイソノミア、すべての人に与えられる発言の権利セーゴリアと異なり、パレーシアには制度的な用語としての明確な定義はなかったとフーコーは指摘し、「真理を語る人物に、いかにして法的な形式を与えることができるかという問題」が生まれていたという。パレーシアの危機の二番目の側面はパレーシアと真理の関係である。率直さや勇気だけではパレーシアは成立せず、教育や個人的な訓練の必要性を問い始めたのである。「民主主義そのものには、真理を語るために必要な特質や、真理を語る権利を手にするために必要な特質をもっているのは誰かを、決定する力」はなく、「言語活動としてのパレーシアは、真理を開示するための十分な条件」ではなく、いまや「自由、権力、民主主義、教育、真理の関係が、政治的な制度の間に重要なとして登場してきた」、つまり「発言の自由に緊張が生まれ、危機として受けとめられた」とフーコーは語る。

 


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