ヒーメロス通信


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哲学と霊性「汝自身を知れ」 小林稔連載エセー「自己への配慮と詩人像」より掲載

2015年12月30日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

「自己への配慮」と詩人像(二)
小林 稔




3 ソクラテス=プラトン的契機

 このテキスト(プラトン『アルキビアデス1』)では「汝自身を知れ」というデルポイの神託を三度引用して、自己への配慮がいかに重要であるかを説いている。一度目は慎重であれ、と教えるものであり、自己を配慮しなければならないことに気づかせるためのものである。二度目は、配慮しなければならない自己とは何かを考えさせるものであり、三度目は、自己に配慮するとは何をすることなのかを考えさせるときに提出されたものである。その答えとして、自己への配慮とは正義を配慮することであると結論づけられたのであった。すでに「2 眼の比喩」で詳細は論じた。
フーコーによれば、プラトンによる独自性とは、自己への配慮という主題が初めて哲学的主題に登場したことにあるということである。それ以前とプラトン以後の分岐点をソクラテス=プラトン契機と呼んでいる。
もとより神殿の石に刻まれていた「汝自身を知れ」それ自体は、プラトンの著作に初めて持ち上がった言葉ではなく、当時の世界に知れ渡っていたものであった。一九〇一年のロシャーなる人物の論文によると、「あまり多くの事柄を尋ねることなかれ、有用なことだけを尋ねよ」「守れないようなことは約束するなかれ」というものであったという。一九五四年、ドゥフラダスの論文によれば、「中庸を得よ。また振る舞いにおいても過剰であってはならない」というものであった。もともと「汝自身を知れ」という銘は、「ひとが結局のところ死すべき者であり、従ってあまり自分の力を買いかぶって神の力と対決したりしてはならないこと、これを絶えず覚えておかなければならないという原則であった」とフーコーは説く。また、「汝自身を知れ」は、「汝自身に配慮せよ」という原則の範囲内で語られてきたという。『ソクラテスの弁明』では、「汝自身に配慮せよ」と市民たちに説くことを、神によってゆだねられた使命とするソクラテス像が描かれている。一方、スパルタでは、「自分自身に専念しなくてはならない」という古い格言があった。スパルタ人は広大な土地を自分では耕さず、農奴たちにゆだね、自己に専念できるようにしている、それは貴族たちの、政治的や経済的な特権と結びついていたとフーコーはいう。つまり、「汝自身を知れ」というプラトン的解釈には下地となるべき伝統があったということを示している。
 フーコーがいうソクラテス=プラトン契機とはいかなることを示唆するのかを要約してみよう。
まず、哲学的な思索における自己への配慮という問題。アルキビアデスを登場させているアルキビアデスは他の青年とは違うものを持っているということ、つまり気高い出自をもっていること、ペリクレスのような保護者がいること、それゆえにアルキビアデスは多くの求愛者をはねつける傲慢さを持っていること、容貌の美しさを持っていたことなどがソクラテスの興味を引きつけたのであった。さらに、アルキビアデスには政治的野心があること、彼の美しさがなくなる(求愛者の対象となる年齢ではなくなる)ときに、彼が他者の統治へと向かおうとしていることにソクラテスは注目する。「身分上の特権、身分上の優位を他者の統治に転化させる」人物は私を置いてほかにないとソクラテスは確信するからである。付属物である身体の美は盛りを過ぎようとしているが、これからはアルキビアデス自身の開花期にとって一歩を踏み出すにふさわしい年齢であるということに関心を寄せる。
 アルキビアデス自身の開花期と述べたが、われわれ自身とは何かという命題に、ソクラテスは、われわれの心(たましい)という答に導いていく。心が身体を支配するものだからである。つまり「人間は心にほかならないという帰結」になる。すでに私はこの論考の1と2で論じたところである。
「汝自身を知れ」という銘はこの段階では、「心を知れ」という意味に解釈された。「自己に専念する」という、現代では否定的な意味で受け取られる考えが、古代では肯定的な意味を持っていたこと、そこから紀元前の数世紀から紀元後の初めの時代の厳格な道徳が構成されていったことをフーコーは述べ、その道徳から生み出された峻厳な規則は、「(自己放棄という)キリスト教道徳にも(他者に対する義務という)非キリスト教的な近代の道徳にも登場してくることになる」と主張し、「汝自身を知れ」が喚起する自己認識と自己への配慮に対して前者のみが取りざたされ、それが後者が闇に消えてしまった、とフーコーは考える。この瞬間を「デカルト的契機」と呼んでいる。デカルト(十七世紀)以降、「汝自身を知れ」は自己認識の手段として考えられていった。つまり「私という存在の不可疑性というかたちで」「存在への到達の根源に主体の固有の生存が持つ明証性を置いたことで、真理に到達する根本的な手段になった」とフーコーは論じている。詳しくは後に取り上げていくことにする。

4 哲学と霊性

 哲学が物事の真偽を問うだけでなく、真や偽をあるようにしているものについて問う思考形式であるといえるなら、「主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを霊性と呼ぶことができるように思われる」とフーコーは述べる。「霊性とは真理への道を開くために支払われるべき代価」であり、「主体は自らを修正し、自分自身と別のものにならなければならない。主体はそのままでは真理を受け入れることができないからである」という。主体の変形や立ち返りなくして真理はありえない。「現在置かれている条件から引き離す運動」によって真理が主体に訪れる。この運動はエロスの運動であるという。霊性にとってはたんなる認識行為では真理への道を導いていくことはない。唯一の例外として知られているグノーシス派においては、「認識そのものなかに
霊的体験の形式と効果を置き換え移転するものだった」という。しかし一般的には古典古代では、アリストテレスのような例外を除いて、哲学的問題と霊性の実践は強く結びついていた。 
「主体が真理に到達するための条件として認識だけがあると認めた日を近代に入った日といえる」とフーコーはいう。「デカルト的契機」のことである。しかし、フーコーも何度も繰り返しているように、デカルトがコギトを発見したときにとつぜん始まったのではなく、それ以前から動向はあった。それは科学ではなく神学(聖トマスに、スコラ学)にあるという。「普遍的な射程を持つ信仰を基礎づける合理的な思索として自らを規定することで、同時に一般的な認識する主体を基礎づけた」のである。「すべてを知る神と、知るという能力をあまねく賦与されている主体の照応」を要因として、西洋の哲学的思考は霊性から引き離されたという。「デカルト的契機」があった十七世紀さえ霊性と哲学が問題になったことがある。スピノザの存在である。「スピノザにおいては真理への到達の道が主体の存在そのものにかかわる一連の要請と強く結びつけられていて」、至高善を与えてくれる真理への到達が「知性改造の主題は、認識の哲学と、主体が自ら行うその存在の変容の霊性との間に残されたつながりに特徴的なものであった」という。
 フーコーの言わんとすることは、認識と霊性が神学によって分離し、デカルトによってさらに哲学から霊性が「たぶん決定的に断ち切られた」と思われるが、その過程で霊性の問題がたびたび問題になり衝突を重ねていたし、十九世紀の哲学においても認識の行為においても主体の存在と変容に結びついて、消滅せず底流に存在し、ことあるごとに「自己への配慮」が真理への到達の道の条件として霊性の問題を出現させているということであろう。
 先回りして言えば、さらに私は、哲学と霊性を、詩とポエジーに置き換え、詩人という主体のあり方を考えてみたいのである。私は、詩学は哲学と神学に対してアナロジーの関係にあると長い間考えてきた。この二千年以上に及ぶ思想史を横断した後で詩人と主体のあり方を考察したい。主体を持たない詩が現代詩的と考えられている風潮のなかで、ポストモダンをのりきる方途としての、主体とポエジーの内的体験を論じたいと考えている。この長い論考の最終部で論じたいと考えている。

5 プラトン主義の逆説

フーコーは、プラトンの『アルキビアデス1』におけるいくつかの特異な事柄が、どのようにして歴史的に引き継がれていったのかを論じる。特異な事柄とは、政治行動への関係、教導への関係、少年愛への関係である。政治行動への関係では、統治者に求められていた自己への配慮が、ヘレニズムおよびローマ時代の哲学では、政治的活動をする者だけでなく、すべての人に求められるようになる。しかし、自己へ配慮するためには、能力、時間、教養などがなくてはならないので、少数者に限定されるが、その制限を越えて一般化を権利として要求していくようになった。
次に、教導への関係では、自己への配慮に必要性は、プラトンでは思春期の終わりに始めるように説かれていたが、ヘレニズおよびローマ時代になると、生涯における自己への配慮の必要性、あるいは老年に備えるための壮年期にすべきものという考えに移行するのであった。
最後の少年愛への関係では、ヘレニズムおよびローマ時代にさまざまな変遷を経て、少年愛との関係で自己への配慮が説かれることは主要な要因ではなくなった。少年愛は自己の技術と自己の陶冶のなかに消えてしまったとグーコーはいう。ただし例外として、フロントとマルクス・アウレリウスの関係をフーコーは挙げている。総じていえることは、政治行動、教導、少年愛への関係は、プラトン以降、変遷をしながら弱体化していくがまったく消滅したとは言えないのである。
プラトン及びプラトン主義に見られる「自己への配慮」の特徴は、フーコーは「自己への配慮が、自己認識のなかにその形式ないし完成を見ているという点」にあり、それが真理へ進む道を開くということ、さらに真理への到達が神的なものを自己のうちに認めるということにあると述べている。これらの特徴から、「プラトン主義の逆説」としてフーコーはいくつかの事柄を論じている。「十七世紀にまで至るヨーロッパ思想史」において、プラトン主義がさまざまな霊的運動を生み出した理由は、「認識と真理への到達を、ただ自己認識から、自己自身における神的なものの再認であるような自己認識から出発してのみ考えていたからである」とフーコーはいう。真理への到達が自己としての神的なも
のへの関係と密接な関係にあった。しかし歴史的には、神的なものへの関係を取り去ったなかでの認識の運動が発展したのであった。フーコーは、「真理に到達するために必要な霊性の諸条件を、たえず繰り返し立てると同時に、霊性を認識の運動に、つまり自己、神的なもの、さまざまな本質の認識の運動に吸収することに」なったのだという含蓄のある言い方で述べている。

6 「老いるために生き」なければならない

 新プラトン主義へと辿る以前の、紀元一世紀から二世紀における時期は、「自己への配慮の歴史における真の黄金時代であった」とフーコーはいう。この時期からいきなり変貌したのではなく、プラトンの著作やプラトン以後のエピクロスなどに見られた要素が、次の時代に色濃く現れてきたのである。。つまりプラトンのテキストにすでに萌芽としてあったものが開花したとも言えるのである。
 紀元一世紀から二世紀はヘレニズム期、帝政ローマ期と呼ばれる時代である。先述したプラトンの自己への配慮がどのように変貌したのかを挙げてみよう。まず、自己への配慮をしなければならない人とは誰かということ。プラトンでは「権力を行使することになる若い貴族たち」であった。しかしこの時期には、「一般的な無条件の原則」となったということがある。次に、「自己への配慮に目的や正当性があるかということ。プラトンでは、「自分が持つことになる権力を、適切に、道理にかなった仕方で、高潔に行使することができるようにするためであったとフーコーはいう。それがこの時期では、自分自身のためであり、自己を目的としている」のであり、自己へ配慮するさいに常に念頭にある目的として現れてくる」ということ。最後に、プラトンでは自己への配慮は自己認識であったが、この時期には、自己認識という形式が弱まり、一つの全体、より広範な全体のなかに統合されのである。これらの変貌に深く関連して留意しなければならないのは、「自己へ配慮する」という表現が「認識という唯一の活動によって囲まれた領域を大きく超え出るものであったことである。「自らを鍛錬し訓練する」という意味に使われ、「活動の形式」を示すようになる。つまり、「自己の実践」が問題になり、個人の生にまで拡大し、生の技法へとなる。自己への配慮は生涯続かなくてはならない義務」になり、「哲学することと自分の魂を世話することが同一視されている」のであり、これらはプラトン以降、すでにエピクロスにおいて現れているとフーコーはいう。
 自己の実践が思春期の終わりから壮年期に移行したときの、プラトンでははっきりしていた身体の技法と魂の技法の区別が、ストア派では結びつき、身体も配慮すべき対象になるのである。つまり自己への配慮は、魂と身体に及ぶのであった。これらのことから「老年が新たな重要性を、価値を持つようになった」と言える。これらのことから帰結されることは、「自己への配慮の到達点、そのもっとも高度な形式、それが報いられるはずの時期が、まさに老年期となった」とフーコーは指摘する。老年期には、身体的な欲求から解かれ、政治への野心は棄てられ、さまざまな経験を経て、自分自身を支配し満足した状態を保つにふさわしい時期と解釈されていくのである。
 ギリシア、ローマの伝統としてある、幼年期、思春期、青年期、老年期に対する概念への批判でもある。ストアのセネカは、「属する年代によって生き方を変える人々には同意できない」のであり、「老年へと向かって行く連続的な運動の統一性」を説き、「追い立てられるように振る舞いなさい。急いで生きなさい。生涯を通して、あなたを追いかけているひと、敵がいるのを感じなさい。この敵とは、人生の偶発事であり、厄介事です。それはとりわけ、あなたは若者の、あるいは成年の時期にあって、まだ何かを望み、快楽に執着し、力やお金ほしがっている限り、そうした偶発事があなたに引き起こしうる感情や動揺のことです。これがあなたを追い立てる敵です。……あなたは逃げ出さなければなりません。あなたに安全な隠れ家を提供してくれる場所へ急いで行きなさい。その場所が老年なのです。」とフーコーはセネカのテキストを要約している。セネカのいう老年とは実際の年齢ではなく、「理念的な老年」であり、「自分の振る舞いやありようにたいして、すでに老年に達しその生涯を終えてしまったひとのような態度、行動、無頓着さ、覚悟を持たなければならないということであるとフーコーは指摘する。

7 主体の達成、記憶の師から操作媒体としての師への移行

 ヘレニズムおよびローマ時代や帝政初期における自己への実践の特徴は、生の技法と一体化され、老年を生存の特権的な瞬間と捉え、「主体の達成の理想的な点」と考えられてきたことであった。古典期に提示された「自己への配慮」が「自己への実践」と移行するにつれて、主体を達成させるためにはいかにすべきかが問われるようになった。
 プラトンの『アルキビアデス1』では、他者を統治するための自己への配慮だったものが、この時期においては、自己への配慮がそれ自身を目的にし、生存の形式の探求として捉えられた。身分や職業に関係がなく、すべての人に実践されるべき目的として開かれていたが、実際には一部の人にしか受け入れられなかったことはすでに述べた通りである。宗教集団を中心にした封鎖性と、「教養あふれる閑暇を実践する能力」、つまり「経済的、社会的」なものによる分離であり、生存の技法は、救済というテーマを導いていったとフーコーはいう。この時期には、他者との関係、師弟関係が表面化してくるのであった。
『アルキビアデス1』では、師(他者)は模範となるべき存在であった。師とは、かつての英雄や偉大なる年長者、愛人である。若者に無知を自覚させ、そこから脱出させる必要性から、若者の模範になる存在でなければならなかった。つまり無知と、物事を上手く行う知を記憶することが重要になり、これらのことから師はなくてはならない存在なのであった。
 ヘレニズムおよびローマ期においても、師は重要な役割を担うが、無知を自覚させる機能に、教育の欠陥や悪い習慣を認めさせる機能が付加するのである。矯正を担った師の存在が見られる。
「主体が向かうべきは、その無知に置き換わるような知」ではなく「師は個人を主体として改革し、形成する操作媒体」となるとフーコーはいう。自己の実践は、外部からくる迷妄から脱出することであり、このように外的な規定を避け、絶対的な意思で獲得すべきものは、自己をおいてほかにないのである。その操作媒体になるべきものが哲学者であったとフコーはいう。職業として哲学者が存在する基盤が社会にあったのである。エピクテトスのギリシア的な学校やデメトリスのような忠告者という形で顧客に対応する形もあった。

8 自己への回帰

『アルキビアデス1』には三つの「汝自身を知れ」という神託が扱われていることは前にも述べたが、後にこれらがどのように分離し受け継がれていったのかを考えることにしよう。『アルキビアデス1』のテキストには、政治的ないくつかの原理、規制を導入するものと、カタルシス的な操作に訴えるものが、「汝自身を知れ」に見られる。プラトンのその後の書物においても、前者は「ゴルギアス」に、後者は「ファイドン」に受け継がれていった。後代の新プラトン主義では、先述したように、自己への配慮が自己認識の形式へ吸収されていく。『アルキビアデス1』では、「他者たちへ配慮することができるようになるために、自分自身を配慮しなければならない」のであった。カタルシスの技法を実践するのは、政治的な主体になるためのものであったが、一、二世紀には自己への配慮は、自己にとっての最終目的となる。都市や他者から切り離されていき、生存の技法と自己の技法は同一になり、「真理をめぐる思考としての哲学の、主体による主体の存在様式たる霊性へ吸収」していくのである。そして、そこから回心というテーマが出現し、自己の変容が展開されていく。この時代以降、自己の陶冶とうテーマが展開されていく。フーコーは、陶冶は次のような条件のもとで可能だという。それは、最小限の上下関係、階層関係が成立している価値の体系があること、その価値は普遍的であるが一部の人々しか到達可能ではないもの、規定された振る舞いが必要であること、細かく定められた手続きや技術によって条件付けられていることである。自己の実践が教育の場を越えて生涯を貫く技法になる。師と弟子との間の恋愛的な関係もなくなるのである。自己のために自己に配慮することになる。自己の中心において自分の目標を定めるようになる。つまり、それは立ち返りであり、自己への回帰である。
 フーコーによると、自己への回帰は、この時代の特徴的なものではなく、プラトンにおいても重要な主題であったという。第一に、見かけから離れるということ。第二に、自分の無知に気づき、自己へ配慮し、自己に専念することで自己に回帰すること。第三に自己への回帰から出発して、本質の、真理の、存在の祖国へ帰還することである。プラトンでは、現世と来世の対立があり、魂を牢獄としての身体から解放し、引き離すという主題に支配されていた。自らを知ることは真実を知ることであり、真実を知ることは自らを解放することである。これらは想起という行為に結び付けられていた。
 ヘレニズムおよびローマの文化および自己実践では、現世と来世の対立概念はなくなり、世界への内在そのものにおいてなされることになる。つまり「主人たりえないものからの解放」であり、「自己の自己に対する適切な関係の定位」であるという。プラトンとの最大の相違点は、認識がプラトンにおけるほど根本的な役割を持たず、むしろ、訓練、実践、鍛錬が重要になるということである。
 一方、三世紀以降のキリスト教と比較すると、立ち返りは悔悛と呼ばれるものになり、「主体の存在様式を一撃のもとにひっくり返し、変容させてしまうような、特異な、突然の、歴史的であるとともにメタ歴史的であるような一つの出来事を必要」とするようになる。立ち返りが生じるのは、「主体の内部で断裂が生じる限りにおいてのみであり、「立ち返る自己とは、自分自身を放棄した自己なのである。以前の自己とは「何の関わりもないもう一つの自己に、新しい形式において再生すること」が根本要素といえるのである。今、問題になっているヘレニズムおよびローマ時代では、キリスト教に見られるような断裂はなく、自己の内部で起こるものではなくて自己を取り巻くものとの断裂である。この時代の立ち返りは、自己を「眼前に据える」ことを必要とするものであった。自己主体化、つまり、「いかにして、自己を目的として定めつつ、自己の自己に対する適切で十全な関係を打ち立てることができるのか」が問題になったとフーコーはいう。セネカの「自然研究」や書簡集では奴隷を解放するという比喩で語られている。「主人が自分の奴隷を解放するときに行なうような身振りを、哲学は主体に行わせる」というわけである。自己を眼前に据え、目標に向かうように自己へ回帰することが求めら、それは、「自己の自己に対する適切で十全な関係を打ち立てることができるのか」という「自己主体化」であるとフーコーは指摘するのだ。セネカとマルクスについては後の章で詳しく論じる。
フーコーが示唆されたというピエール・アドの書物には、西欧文化における二つの大きな立ち返りを論じられているという。エピストロフェーのモデルと、メタノイアのモデルである。エピストロフェーとは、「魂が自分の源へと回帰するということを合意する立ち返りの概念、体験」であり、アナムネーシス(想起)の様式を取る。「光を見出し光の源へと回帰することである。これは、プラトン=ピュタゴラスの概念である。一方、メタノイアは、「主体自身による主体の再・出産であり、その中心には自己および自己の自己による放棄の経験としての死と復活がある」ということである。これはキリスト教以降の概念である。この二つの対立は、西欧思想が引き継いでいったものであるとしながらも、フーコーは、エピクロス派、犬儒派、ストア派はどちらにも属さない、別のモデルを考えてきたと指摘する。彼らが「自己自身を見つめよ」という命法で伝えていることは、「他者たちから、世界の事象から視線を逸らせよ」ということであった。主題は、「自己と自己との間になお残るこの距離のゆえにこそ成立する、自己の、自己への現前、自己の自己への距離における自己の自己への現前」であり、到達しなければならないのは自己なのである」とフーコーは解読しているのである。

9 航海の比喩

 古代ギリシアやローマ人の考える自己への立ち返りには、「主体の自己への移動」と「自己の自己へ
の回帰」があり、「航海の比喩」を用いられることが多いことをフーコーは指摘する。何らかにおいて
オデュッセウス的であり、さまざまな苦難の末、辿るべき港は母港である。この航海が無事に行われるには技法が必要である。船をいかに操舵するかという知を必要とする。さらに細かく見れば、医術
と政治的な統治、自分自身の統治が操舵のイメージに結びついていることがわかる。フーコーは、これらは知と実践のあるタイプを切り出していると語る。「たとえば君主とは、他者を統治し、自分自身を統治し、都市の病、市民の病、そして自分自身の病を癒すべき人物」である。また医者は「個人の身体の病だけでなく、魂の病について所見を述べなければならない人物」として示される。つまり、船の操舵のイメージは、統治の運動と呼ばれる活動に結びついていて、「自己の実践では、自己は一つの目的として、不確実で、循環的であることもあるような航海の終着点として現われ、それは人生という危険に満ちた航海である」とフーコーはいう。しかしながら、キリスト教においては自己の放棄が原則になり、神との関係によって主体性を喪失する。「神に沈潜する自己」という主題が打ち出されて、自己への回帰の主題は敵対する主題であったというより、組み込まれ」たのだとフーコーはいう。また、「この自己への回帰という主題は、十六世紀以来の「近代」文化において絶えず回帰する主題であったが、断片的に現われてくるだけだった」と、モンテーニュを念頭において述べ、さらに十九世紀の思想史も考慮に入れる。「思想史のある一角全体を、自己の倫理と自己の美学を再構成しようという困難な試み、あるいは一連の試みとして読み直すことができる」とフーコーは主張し、シュティルナー、ショウペンハウアー、ニーチェ、ボードレール、無政府主義や無政府主義などを挙げる。「自己へ回帰すること」という表現は私たちになじみ深いものだが、「今日私たちは、自己の倫理を再構成しようと努力しているとはとても言えないような状態である」と言い、「自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である」と説いている。(次号に続く)


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