ヒーメロス通信


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エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その一/小林稔

2016年06月11日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

詩誌「ヒーメロス」33号の記事から、三回に分けて掲載します。

 

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(二十五)

小林 稔

 

 48 日本現代詩の源流を求めて

 

萩原朔太郎における詩人像(二)その一

 

詩作における「感情」と「経験」

私たち詩を書く者が、詩という未来を切り開く水路となるべく方向性を見つけ出そうとするとき、己が置かれている現在時での基底が、いかなるものの上に成立しているのかを考慮しなければならないだろう。詩が言葉で構築される創造行為であることを放棄しない限り、先人たちの詩の営みを鑑みる必要に迫られるのは必然である。なぜなら、詩にいつも求められる「新しい何か」は、私たちの現存の立場に立ち批判される、過去への強い反抗から生じるものだからである。

詩集『月に吠える』『青猫』「郷土望景詩」(『純情小曲集』)『氷島』と辿る詩作のプロセスは、詩人が『氷島』に至るための必然であったと感得してしまうのは、あまりにも恣意的な読み方であろうか。『氷島』は言語表現において評価を二分する問題を内包する詩集である。詩的形式ではそれ以後の詩人たちにアンチテーゼを投げかけているものの、詩的精神を考えるなら、『氷島』は普遍的な詩人像を浮き彫りにする詩集と言えるのではないかと私は思うのである。

『月に吠える』初版の序で、「詩の目的は感情の本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と朔太郎は述べたが、『氷島』では彼の生きざまを烈しく表出し、詩人の「漂泊する魂」を言葉に託し、哲学的な思惟さえ感得することができる。かつての『新体詩抄』には、日本の詩歌の主要なテーマである花鳥風月を廃し、言葉の構築性を目指し、堅固な思想の上に詩を開花させようとする意図があったはずである。つまり西洋の詩から学ぶべきことは感情や感傷に流されない思想の探求であったのではないのか。リルケが『マルテの手記』で書いた「詩は感情ではなく経験である」という言葉と、「詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである」という朔太郎の主張は、短歌ならいざ知らず、私は少なからず違和感を持つが、当時の時代状況、つまり文語的表現から口語への変換がいかに困難をきわめたかを思い至るなら、さらに晩年の達成を思えば致し方なかったとも思える。詩の「構築性」「思想」と「感情」「情緒」という概念は、朔太郎においては対立するものではなかった。フランス語でsens(サンス)は主に「知覚」を意味する言葉であり、派生語のsentiment(サンチマン)は「感情」を意味し、sensation(サンサシオン)は「感覚」を意味する。朔太郎の詩には「感覚」を駆使した詩が多くあるのだが、それを内省的に主観的に捉え、sentimentalisme(サンティマンタリスム)「感傷主義」的に把握する傾向がある。後にこのエセーで問題にするが、朔太郎においては、普遍的な想念と彼自身の生は切り離されていなかったことと、自己神話化する性向に起因する。

『氷島』は朔太郎詩のある意味で詩的達成と私は言ったが、それは決してポジティブな達成という意味ではなく、西洋詩の模倣から始めた日本の詩が、はたして本当に成立したのかという疑問を、彼の詩業は明確化したということである。その根拠となるべきものには、いまだ過ぎ去っていない現在の詩の問題が内包されていると私は考える。

 

『氷島』の詩的評価

 篠田一士氏は評論集『詩的言語』の「『氷島』論」において、この詩集の評価には賛否両論があり、評価する人は作品そのものよりも詩人の精神のあり方に瞠目し、評価しない人は朔太郎の詩的破産を読み取ろうとすると指摘する。前者は、『氷島』を朔太郎の詩的発展の絶頂とする見方であり、後者は、そこに朔太郎の詩的破産を宣告しようする動きを見るという。河上徹太郎氏や寺田透氏などの評論家たちには前者、三好達治のような詩人たちには後者が多いという。

この詩集に対しては朔太郎自ら述べたエセー「『氷島』の詩語について」がある。「当時僕の生活は破産し、精神の危機が切迫していた。僕は何物に対しても憤怒を感じ、絶えず大声で叫びたいような気持でいた。……(中略)……そこで詩を書くということは、その当時の僕にとって、心の絶叫を言葉の絶叫に現わすということだった。しかるに今の日本の言葉は、どうしてもこの表現に適応されない、といって文章語を使うのは、今さら卑怯な退却(レトリート)のような気がして厭だったし、全くそのジレンマに困惑した」と述べている。篠田氏は『氷島』を最大に評価する評論家であるが、その理由を少しずつ明らかにしていこう。

まず、朔太郎の詩集の中では「一冊の詩集として画一性と完結性を詩人自身が最も意識した詩集」であることである。詩集冒頭の「漂泊者の歌」は、「永遠に漂泊者として呪われた存在であることを意識した詩人が、その心の絶叫をうたった詩である」が、複雑な陰影にみちた高貴さをもっていて、「ある種の懐かしさを呼び起こす楽句のようにぼくたちの内面に直にしみわたる」ものがあり、日本の、どの詩人にも許されなかった輝かしい達成があると篠田氏はいう。

 篠田氏は、二十世紀スペインの詩人ロルカと比較しながら、詩的言語の伝統では全く異なってはいるが、ロルカと朔太郎は同じ姿勢でフランス・サンボリズムに向っていたという。両者から感じられるのはノスタルジアである。ノスタルジアとは「失われたものを自覚することであり、なにもない――失われるものも、獲得するものもないことを意識することだ」と篠田氏はいう。

 朔太郎、西脇順三郎、三好達治の詩業は、近代日本史の中核をつらぬく、ひとつのかがやかしい系譜をかたちづくっていると篠田氏は主張する。それは「近代日本のポエジーが否応なしに直面させられたヨーロッパ経験の深さであり、またその経験から獲得されたポエジーのまぎれもない真正さ、あるいは正統性である」という。篠田氏が詩をポエジーと呼ぶとき、日本近代詩だけでなく、短歌や俳句という伝統詩を含めた詩的精神の総称である。したがって「近代日本のポエジー」というとき、近代詩だけでなく短歌や俳句を含めて述べていることになり、それらが「ヨーロッパ経験」を問題にするという意味になるが、斎藤茂吉を唯一例外として、短歌、俳句の伝統詩は、不思議なことに明治以降のヨーロッパ経験に深く直面することはなかったことを指摘する。つまり本来は、ヨーロッパの伝統を背負った伝統がなだれ込んだとき、日本のそれまでの伝統詩に深刻な事態が起こるのが芸術一般の理法であるが、実際はそうならず、伝統詩の形式を死守した。一方、新体詩以降、ヨーロッパの模倣から始まった日本の詩は、短歌や俳句のような独自の形式の達成は完全にはいまだ実現していないというのである。

 



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