ヒーメロス通信


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長期連載エセー「自己への配慮」と詩人像(十八)小林稔

2014年05月22日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮」と詩人像(十八)

小林稔

 

 

47 来るべき詩への視座

 

  

ボードレールにおける詩人像(一)

 

 詩の未来を論じようとするとき、現代詩はボードレールが提出した諸々の問題を継承することが今でも可能であろうか、あるいは現代詩においてそれは,すでに過去のことであり、まったく新しい視点で見るべきなのかと問うなら、私の立場は前者である。このエセーの前半に長々と論考してきた「自己への配慮」というテーゼは、ここに受け継ぐべき場を持つことになる。

 私がこのように考える機縁は、ミシェル・フーコーの一九八二年度のコレージュ・ド・フランス講義『主体の解釈学』にあった。元来、この私の論考それ自体がこの講義録を起点としたものである。この書物にわずかに垣間見える、フーコーによるボードレールへの言及と、次に来るフーコーの講義録『自己と他者の統治』、さらに『真理の勇気』では、キュニコス派からの哲学的継承とする十八世紀、十九世紀の革命思想の流れに定位しようとするボードレールの位置への言及がある。フーコーにはまとまったボードレール論はないが、神学と哲学のアナロジーにおいて詩学を確立しようとする私の試みに、ボードレールは不可欠と言えるのである。(私は『悪の花』から現在まで二十編を稚拙ながらも訳出し、「ボードレールについて(一)」を書き、さらに続行する予定である)。ここで私は、先に述べたフーコーの晩年の哲学、「生存の美学」へと結集するプロセスを通して、詩人の実存的主体(詩人像)を論じていこうとする。

 過去十七回にわたる私のこのエセーは、プラトンのエロース論やイデア論を迂回したために、原稿用紙で千枚を超える長々しいものになった。いよいよ後半に及んで、これまでの考察をまとめる必要性が生じているが、その一方では後半の「詩人像」を書きつづけていく必要性も生じている。前半がそうであったように、私の論考は書きつつ次第にその全貌が見えてくるという性格を持つものであるようだ。しかしながら、前半を書き終えた今、ボードレール以降の詩人を論じるにあたって、前半との最低限のつながりを、この時点で手短に要約しなければならないだろう。

 先に述べたように、私が『主体の解釈学』を初めて紐どいたときにボードレールの名に出会ったのは、その書物の中ほどにおいて一度だけであった。

 

「自己の倫理と自己の美学を構成しようとする困難な試み、あるいは一連の試みとして読み直すことができるのです。たとえばシュティルナー、ショーペンハウアー、ニーチェ、ダンディズム、ボードレール、無政府主義や無政府思想など、実にさまざまな試みがありました、それらはおたがいに異なりますが、次のような問いに収斂していると思われます。自己の美学や自己の倫理を構成したり再構成したりすることは可能なのか。それは何を代価として、どのような条件においてなのか。」(ミシェル・フーコー『主体の解釈学』p293)

 

 フーコーはこの講義録の冒頭で、「主体と真理」という問題を「いかなる歴史形態において、西欧ではこれら二つの要素の諸関係が取り結ばれてきたのか」を考えてみたいのだと述べ、「自己への配慮」という観念を取り上げることを宣言し、デルフォイの神託「汝自身を知れ」との関係を解く。哲学においてはプラトンの描くソクラテスのテクストが出発点になっている。フーコーの言い方を借りれば、「汝自身を知れ」は一般的な「自己への配慮」の枠内で現れてきたのである。「自己への配慮」とはどのようなことをいうのであろうか。『ソクラテスの弁明』ではソクラテスは、神からゆだねられた使命、つまり「自分自身への配慮」を人々に気づかせる任務を背負わされている人である。デカルトの『省察』の明証性においては、「汝自身を知れ」という命題は、真理に到達する自己認識という手段として扱われ、「自己への配慮」という観点は次第に重要性を減少させることになる。その結果、哲学からスピリチュアリテ(探求、実践、経験という意味での霊性)が弱められ、近代哲学においては自己は否定的に見られるようになり、自己への配慮は顧みられなくなってしまったのだ。しかし古典古代では、哲学的問題と霊性の問題は一度も分けられたことはなかったとフーコーはいう。

 このように哲学からスピリチュアリテ(霊性)が消え、自己への配慮が顧みられなくなった時点を、フーコーは十分な留保つきで「デカルト的契機」と呼んだ。真実への到達を可能するのはただ認識だけであるとする時のことであり、そのことを認めた日を境に近代に入ったという。さらに、主体の真理への到達は認識の内部からであり、生存における個人的なものや主体の構造に関係がなくなり、学問的な合意、道徳的な条件、地位や身分にかかわる利害から離れた探求の規範など、客観的な条件が重視されていったとフーコーは説いている。それ以降、主体はそのままで真理を受け入れることができるが、真理は主体を救うことができなくなったとフーコーはいう。

しかし、「デカルト的契機」はデカルトがコギトを発見したときに始まったのではなく、それ以前の聖トマスとスコラ哲学において、認識する主体を神のうちに自らのモデルを求め、絶対的な到達点を同時に見出していたとフーコーは主張した。すべてを知る神と、知るという能力を賦与された主体の照応を要因とし、西欧の哲学的思はそれまでそれに随伴していた霊性を解離・分離したのだとフーコーは結論した。つまり科学が霊性を否定したのではなく神学との対立に求めるべきだというのだ。さらにデカルトと同時代の十七世紀に霊性と哲学の問題が、スピノザのうちに見られるということにフーコーは注意を喚起する。哲学が元来付随していた霊性が認識に席を譲る時代の流れの中で、主体と真理の関係に霊性を重視する流れが継承されていたとフーコーは言いたいのだ。分析知に属するようなかたちでラカンの精神分析は霊性にかかわる問題を提起しようとしたとフーコーは指摘している。真実を語るために支払う代価の問題と、主体が自身について真実を語り、真実を語ることが主体に及ぼす影響の問題をラカンは提起したということである。これまで私はこのエセーで十分論じてきたことであるが、哲学的思考の「霊性と自己への配慮」の結びつきは切り離しえないものであることを私はここで確認したい。

「自己への配慮」という概念を初めて哲学的テーマとして登場させたのはプラトンの対話編『アルキビアデスⅠ』であったことを、フーコーの指摘でこれまで何度も述べてきた。ソクラテスが「自己への配慮」を説く相手は思春期から成人に移行する政治家志望の青年であったが、後のローマ帝政期(紀元一、二世紀)になると「自己への配慮」のテーマは青年時代の一時期から生涯を通じたものになり、政治と距離を置いたものになった。主体は全生涯にわたって自己への配慮を気づかわねばならなくなった。いずれにしても「自己への配慮」には、自己に対しておこなう運動、「立ち返り」という観念が含まれてくことをフーコーは指摘する。自己を配慮するといっても、今ある自己を大切にすることとは全く異なり、あるべき自己への移動や回帰が重要視されるのである。「主体の自己への移動と、自己の自己への回帰」という主題を解明することがテーマになるとフーコーはいう。セネカとマルクス・アウレリウスにいて私はこれまでに論じてきたのでここでは繰り返さない。「自己への配慮」の概念が時代によって変遷があり、プラトン主義的モデル、ヘレニズム的モデル、キリスト教的モデルを区別してフーコーは論じていることは、このエセーでもすでに紹介した。

 

今日の私たちは、自己の倫理を再構成しようと努力しているとはとても言えないような状態にあることはおわかりでしょう。自己の倫理を再構成しようとする一連の努力は動きを止め、凝固してしまっています。この努力の中で、今日の私たちは絶えず自己の倫理を参照することを強いられているのですが、それにいかなる内容をも伝えることができない。私は、こうした動きの中に、自己の倫理の再構成が不可能であると感じさせるような何かを見て取らなければならないのではないかと思っています。しかし自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題なのです。(ミシェル・フーコー『主体の解釈学』p294)

 

 フーコーの意図するところは、単なる歴史的研究ではなく、彼がおかれた現在からの考察であることは容易に見出される。彼の哲学は絶えず未知なるものへと導かれており、哲学それ自体への問いかけであり、絶えず変貌し続けたのであった。私がフーコーの書物から引き出そうとしたのは、「哲学と霊性」、それに伴う「自己への配慮」から、現代における詩人とはどのような存在であるべきか、つまりボードレールに見られる詩人像を浮上させたいのである。フーコーの言うように近代以降、「自己」というものを否定的に受け取られる傾向にあり、詩人においても例外ではない。「主体」を吐露することや「主体」を追求することは詩作においてはマイナスの要因として受け取られてきた。「自己への配慮」がフーコーの指摘するように、「自分自身に専念する」「自分の中に引きこもる」というような定式が流布し、肯定的に受け止められなくなっている。その結果、詩人とは特別の存在ではなくどこにでもいるごく普通の人であることになった。だが、ボードレールの詩から、ボードレールという一個人を超えた詩人像が浮き彫りにされる。一般に流布される「ダンディズム」を生きたのであったが、それは彼の生の表層であって、詩人としての生き方の本質が理解されなければならない。ボードレールの詩には「あるべき詩人像」があり、彼はそれに牽引された生を生き、詩を書いたと言えないだろうか。それは彼以後の詩人たちに継承され、シュルレアリズムの終わりとともに見えないものになった。作品の前に詩人は消えるべきだという批評の影響であろうか、詩人の主体は軽視されていく。わが国の詩は、現実の生活から詩を導き出し、現実を超えることのない詩か、始めから現実を超えたところで言葉を操る言語派にとどまる詩のどちらかになった。詩人の実存的主体から詩作が絶縁しつづけるなら現代詩は滅びると私は思う。個別性としての経験と詩とは何かを問う普遍性が必要なのである。ここではロマンティシズムとボードレールを分かつものは何かを考えなければならない。ランボーはボードレールを神と称え、そこから「生の変革」としての詩を夢見たのである。いわゆる「見者の詩法」では確固とした詩人像をランボーが描いていたことが理解される。哲学と詩の違いが問題にされなければならないであろう。フーコーが考えた哲学と「自己への配慮」の密接な関係を読み取り、そこから導き出される「生存の美学」と、フーコーには直接の言及は見られないが、詩作との関係を私は展開してみたいのである。また詩作が詩人の経験に深く根ざし、詩作品はそれを超越したものであるというエクリチュール論を、実践を通じて私は考えてみたいのである。つまり私が導こうとするのは「生の変革」から「生存の美学」への移行なのである。

 

ヴァレリー「ボードレールの位置」

「ボードレールは光栄の絶頂にあります」という書き出しで始まるヴァレリーのボードレール論はフランスの詩界ではいかにボードレールが例外的存在であったことを主張している。これがボードレールの『惡の華』初版(一八五七年)から約七十年ほどたった一九二四年に発表されたものである。例外的とする理由は、フランス以外のヨーロッパに翻訳され広がったことである。それまでは散文に理解を示した外国人も、詩に対してはフランス語の特殊性(厳格な韻律学、精神の抽象的傾向など)によって敬遠されてきたが、「ボードレールに至って、フランス詩歌はついにフランスの国境を出た」のであるとヴァレリーはいう。それだけでなく外国の詩人に与えるボードレールの影響を伝え、フランスにおいては彼以上に重要な詩人はいないとまで指摘した。ボードレール自身、「平均から遠い存在」であるにもかかわらず、その重要性の根拠は何か。まず最初に考えられるのが「批評的叡知と詩的効力を兼ね合わせ」ていたということがある。そのことから彼はエドガー・ポオの知的世界を発見するという幸運と巡り合ったことで、才能が変容され運命が一変されたとヴァレリーはいう。「明晰の魔、分析の天才、論理と想像、神秘性と計算の結合の発明者、芸術のあらゆる資源をきわめ利用する文学技師」とヴァレリーが称賛しているポオの精神とボードレールの精神の「魔術的接触」は運命的であったと彼はいう。

 ボードレールを最も重要な詩人と考えるもう一つの理由に、ロマン主義に関する事情があるという。ロマン主義全盛期に青年時代を送ったボードレールは、先人たちの後裔に動かされ影響を受ける一方で、彼らへの否定や打倒への思いに駆られていた。「大詩人であること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」という思いが必然的にボードレールの裡にあったとヴァレリーはいい、「高名の詩人たちが久しい以前から詩的領域の百花繚乱たる諸州を分有してしまった。ゆえに私は別のことをしよう」(『惡の華』序文草案)を引用している。

「ボードレールは元来生まれはロマン派であり、のみならずその趣味性からもロマン派であるにかかわらず、時として一古典派の様相を呈する」とヴァレリーはいう。「己自身の裡に一人の批評家を擁し、これを己の仕事に緊密に協力させる作家は、古典派である」というのがヴァレリーの定義である。「あらゆる古典主義は先立つロマン主義を前提とする」。ヴァレリーによると、ロマン派の人々は、「抽象的熟慮と推理」、つまり分析を嫌い、「衝撃と衝動との対比の効果」だけを求め、「教養や大規模な思考」を浅薄であると決めつけたのであった。「科学が異常な発達を遂げようとする時期にあって、ロマン主義は反科学的精神状況」を呈していた」のだ。彼らにとって必要なのは、「情熱と霊感とは、自分自身よりほかには要らないと思い込む」ことである。このような時期にエドガー・ポオという人物が現われ、「精神の事象と、またその中で文学的制作を、詩的天分を授けられた頭脳のうちに存したこと」は彼以前にはなかったことだという。ここでヴァレリーは先にも述べたポオとボードレールの精神の出会いの重要性を強調している。しかし二人の作家が同様の文学を成就したのではなく、「価値を交換した」とヴァレリーはいう。「ポオはボードレールに斬新で深奥な思想の一体系をそっくり引き渡し」、ボードレールはそれを「啓発し、豊饒にし」たというのだ。そしてボードレールはポオを世に広めるために翻訳や序文を書いたというのである。それにしてもなんという変貌がボードレールに見られることだろう。『惡の華』のボードレールには、普遍的と思われるような詩人像がどっしりと腰を据えてある。

ヴァレリーの解釈をみてみよう。ポオは一詩篇の心理的条件を分析する。まずポオは一詩篇の大きさに依存する諸条件を考え、長さに異常なくらいの重要性を賦与する。そして論弁的あるいは経験的認識を、内奥存在の創造と感動の威力とに異様に結合させた。ボードレールの詩には、霊肉結合、荘重と熱気と苦渋、永遠性と親密性との混合、意志と諧調との合体があり、ロマン派と完全に区別されるという。ポオが詩について抱いていた観念はボードレールの芸術に変更を与え主要な要因として作用したのである。またヴァレリーは、ボードレールの詩にみられる「音色の充溢と独自の鮮明さ」を指摘し、散文調に反抗したボードレールが音楽に熱烈な興味を抱く最初のフランス作家であることに注目する。一方でまたボードレールが絵画批評家であることも

指摘する。しかしこのヴァレリーの論文「ボードレールの位置」においてとりわけ重要なのは、ボードレールの『惡の華』が影響を与え、大詩人たちを産み出したことであると主張する。

 その大詩人とは、ヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーのことである。「ヴェルレーヌのうちに発展する、内奥の感覚及び、神秘的感動と官能的熱烈との力強く混濁した混合、ランボーの簡素で激越な作品を、あのように逞しく激烈にしている、出発の狂熱、宇宙によって掻き立てられる焦燥感、諸感覚とそれらの諧調的反響との深い意識、これらはボードレールのうちに明瞭に現存し、認められるものである」とヴァレリーは記した。そしてマラルメは、ポオの分析とボードレールの評論などによって、「形式的ならびに技術的探究の情熱を伝えられて、最も精妙な帰結のうちに追究した」と指摘する。「感情と感覚の秩序」においてヴェルレーヌとランボーはボードレールを継続し追求した」が、「マラルメは完璧と詩的純粋性の領域で、これを延長した」とヴァレリーはこの論文を締めくくっている。

 私たちはその後の詩人たちの推移をすでに知っている。ダダイズムがあり、ランボーやロートレアモンを掲げたシュルレアリスムがあった。それ以降はボードレールの影響は影を薄くしたように私は思う。詩からも霊性が失われていったのである。

 

初期美術批評に見られるボードレールの詩学

ネットに公開された二つの『ボードレールの美術批評』があり、そこで論じられている論考を紹介し、私自身の考えを述べていきたいと思う。その一つは、片山昇『ボードレールの美術批評』(宝塚造形芸術大学紀要10・1‐22・1996₋03₋31)と、もう一つは、荻野哉『ボードレールの美術批評』(「美学、第51巻201号・2000年6月30日発行)である。

ボードレールは詩集『惡の華』以前に、美術批評を世に送り出していた。片山氏によると、ボードレールの初期の論文に、『一八四五年のサロン』、『一八四六年のサロン』があり、かつてのディドロの『一七五九年のサロン』に倣ったものように思われるという。「アカデミー」や「サロン」の歴史の詳細な歴史的背景は片山氏の論文に詳しく書かれているのでここでは割愛する。私が主張したいのは、ボードレールが『惡の華』に結晶するに至る、詩の概念がどのように成立していったのかを、彼の美術評論から考えてみたいのである。『一八四五年のサロン』で特筆すべきボードレールの主張は、ドラクロアを色彩の諧和家と呼んでいることであろう。緑色と赤の色彩は穏やかだが渋く深く、「血みどろな、恐るべきものである」という。右記に挙げた『一八四六年のサロン』と、『一八五五年の万国博覧会・美術』、『一八五九年のサロン』では、ボードレールが述べる、真のロマン主義とは何かを考察するとき、そこで問題になるのはドラクロアの芸術である。「彼(ボードレール)の美術・文学評論は「悪の華」の詩学の生成発展の里程標と考えるべきであろう」と片山氏はいう。先ほど上げたディドロのほかにスタンダールの『イタリア絵画史』から多く影響をボードレールが受けていたことがわかる。片山氏によると、「ディドロの努力によって生まれた美術批評はフランスにおける芸術的感受性の発展に貢献し」、「スタンダールは音楽・美術の愛好家として始めた『イタリア絵画史』の翻訳、研究を通して美術作品の分析・描写の文体を身につける。ディドロとスタンダールは美術批評を通して、芸術の中に魂を見ることを教えたのである。」後には同時代であるゴーチェの美術批評から受けるボードレールの影響が見られるようになるという。

荻野氏は、『一八四六年のサロン』でボードレールは、ドラクロアの評価をしながらロマン主義の概念を明らかにしていったという。ここでは、一貫して過去に目を向けるロマン主義はニセのロマン主義であることをボードレールは述べる。真のロマン主義とは、「美の最も新しい、最も現在的な表現」であり、「現世紀の道徳と類似した着想の中に存する」ものである。つまり現代的な芸術について論じることになるが、それは「内面性、精神性、色彩、無限への憧れ」という要素が表現されている芸術であったと荻野氏はいう。このような芸術の代表者にボードレルはドラクロアを想定していたのであるが、それは必然的にユゴーをロマン主義から除外することであるとボード―レールは述べている。荻野氏が指摘するように、ドラクロアの「色彩」は「調和家」としての、「色彩を調和的に配置し得る才能」をボードレールは認めていた。「内面性」と「精神性」においては、ボードレールはユゴーとの対比で述べている、「ユゴーが主題の皮をつかむに過ぎないのに対して、ドラクロアはその臓腑をもぎ取る」というように。主題への深い理解を述べているのである。それは主題と詩人(芸術家)の内面性の探求なくしてあり得ないだろう。ボードレールは画家アングルの「自然主義的なデッサン」に対して、ドラクロアの「想像されたデッサン」を挙げる。「一八四六年のサロン」で、ハインリヒ・ハイネの次のような文章を引用する。「芸術家は自然の中に自らの典型のすべてを見出すことはできないのであって、最も傑出した諸典型は、生得的な観念の生得的な象徴体系と同様、彼の魂の中に、それも同一の瞬間に啓示される。(…)芸術の典型は外的自然の中にいささかもなくて、まことに人間の魂の中にあったのだ」。ボードレールが指摘するように、ドラクロアはこの原則から出発したのである。この「超自然主義」がドラクロアの絵画にどのような様相を見せるのかは、ボードレールの次に続く二つのサロン批評と『惡の華』出版以降のボードレールの批評、『ウージェーヌ・ドラクロアの作品と生涯』を見ていかなければならない。

 

 書簡と日記に見られるドラクロア

 ドラクロアという芸術家の精神性(スピリチュアリテ)を一部分でも見届けるために、書簡や日記を参照してみよう。片山氏によると、「彼の近代芸術のための孤独な闘争の内面史は彼の日記と書簡の中に見出される。ボードレールはドラクロアの庇護のもとに『悪の華』の美学を形成した」という。片山氏の論考にはドラクロアの伝記的説明が詳しく書かれているが、ここでは割愛して、引用された書簡と日記だけを紹介することにしよう。

 

 ぼくの孤独を想うとき、またぼくに愛情を寄せてくれた人々との出会いを想うとき、ぼくは涙をおさえられないのだ。ぼくは一人の友と一緒の時だけしか幸福ではない。友と一緒に過ごす時間はぼくの宝なのだ。その時間だけが記憶に残る。それはぼくの祝祭、ぼくの真の富なのだ。(一八一八年11月6日、ピエレ宛書簡)

 

 どうしようもない、人は常に自分の心の中に、決して埋められることのない深淵を見る。人は決してやって来ない何かを追い求めるものだ。つねに空虚。充溢は永遠に来ない。ぼくは自分のやり方で、つまり、感情と心によって真に生きるために、絵画の中に歓びを求めなければ、いや奪い取らなければならない。ぼくは手探りで仕事をしている。ぼくがこれから辿るべき道に明るい光をまず最初に投げかける松明がない。描いては消し、やり直す、それでもまだ求めるものは見つからない。(一八二一年2月21日、スーリエ宛書簡)

 

 画家の芸術はそれがより物質的に見えるだけ人の心により内面的に訴える。というのは人間においては、外的自然におけると同様、有限のものと無限のものとの役割ははっきりと分かれているからだ。無限のものとは即ち、感覚にのみ訴える対象の中にある、内面的に人の心を揺り動かすものだ。(一八二二年10月8日の日記)

 

 私にとって最も現実的なもの、それは私が私の絵によって創造する幻想である。それ以外のものは流砂だ。(一八二四年2月27の日記)

 

 孤独の中で生きながら多産な詩人は、我々が心中に抱いてはいるが、他人に心を許すとすぐ逃げて行くあの宝物をしっかりと享有している人だ。(…)しかし詩作するだけでなく、それを印刷しようとするあの熱望の目的は一体何だろう? 賞賛の幸福だけでなく、自分の魂を理解してくれるすべての魂に向かうことだ。すべての魂が絵の中で自分に再会するということが起こる。(…)画家は、それぞれ自己流に自然を見た魂たちに、更にもう一つの魂を加えることができる。これらの魂すべてが描いたものはそれ自体新しい。それをお前は更に新しく描くのだ。彼らは物を描くことによって彼らの魂を描いた。そしてお前の魂は自分の出番を要求している。(…)新しさは創造する精神の中にある。描かれた自然の中にはない。(一八二四年5月14日の日記)

 

ここに取り上げた書簡や日記は、ドラクロアの二十代前期から中期に書かれたものである。

何かを追い求める者にとって現実は絶えず空虚だ。親しい友と語り合うときに感じる幸福も一つ

に過ぎない。真の芸術家は「永遠」を求めているのだ。この世界とは別の世界ではなく、この世界に奪い取るためにカンバスに描き現在化しようとする。このドラクロアの内的葛藤をボードレールはその色彩に見る。「主題」に画家の魂は深く感応する。詩人と同様に自分の魂を理解してくれる他者の魂に出会うことを熱望する。このころドラクロアは「キオス島の虐殺」や「サルダナパールの死」をサロンに出品するが不評を買う。片山氏によると、一八三〇年の七月革命に共

鳴したドラクロアは「民衆を導く自由の女神」を描き、革命的理想主義の勝利を象徴的に描いたという。一八三〇年、モロッコと友好関係を結ぶためフランスは使節団を送ったのであるが、ドラクロアは一員として同行した。イスラム文化圏に触れた彼は、「夜と霧の世界の知的夢想家」ではなく、「古代の理想を、生きた現実の中で体験した」と片山氏はいう。

 

栄光はここでは無意味な言葉です。ここではすべてが甘美な無為に行きつきます。ここではこれがこの世で最も望ましい状態なのです。美は街路を走っています。絵画というより絵を描こうなどと考えるが愚かに見えます。ここではもっと単純でもっと原始的な何かがあります。(…)私は今はギリシャ人やローマ人を直接知っています。ギリシャの大理石は真実そのものです。しかしそれを読みとれなければなりません。哀れな現代人たちはそこに象形文字しか見なかったのです。(一八三二年6月4日批評、批評家ジャルへの書簡より)

 

モロッコ体験で得たそれらは「アルジェの女たち」などの絵画に反映される。ドラクロアは大変な読書家であったが、音楽的才能にもたけていたと片山氏は叙述している。

 

ドラクロア論から確立したボードレールの詩学

ボードレールは『ウージェーヌ・ドラクロアの作品と生涯』という論文を一八六三年に公表する。それまでの美術批評の総決算として、ドラクロアの死後に書かれたものであるが、以前の自分の批評をたびたび引用しながら論じている。そこからドラクロアから導き出された詩学を考えてみよう。まず「ドラクロアの役割と義務」とは何であったのかを問う。ルーベンス、ラファエロ、ヴェロネーゼ、ルブラン、ダヴィッドという錚々たる画家たちの系列にドラクロアを取り上げる。彼らに共通するものは、普遍的なものに対する愛であると指摘する。さらにほかの画家たちが不完全にしか表出しなかったものを、ドラクロアは表現したという。そしてそれは一個の犠牲を代価として獲得したものであるが、ほかの画家よりよく表出したものとは何か。それは熟練した画家の完璧さはもとより、ドラクロアには「文学者の厳格さ」、「情熱的な音楽家の雄弁」をもって表現したのだという。つまりそれぞれの芸術が相互に力を貸し与えて」「新たな力を獲得したのだという。実際、ドラクロアは熱心な読書家であり、音楽に深い造詣があったことは先述した通りである。過去に埋もれた詩的な感情と思念を記憶に呼び戻す画家だとボードレールは述べる。輪郭と色彩によって、「創造者の魂の状態」を表現することに成功し、画家たちより文学者たちに共感を呼び寄せたとボードレールはいう。芸術家たちの知的水準が低下した当代の芸術家の間に哲学者、詩人、学者を探し求めることは不当であると訴えている。ボードレールはドラクロアの、ゲーテにも匹敵する「あらゆる種類の才能」、つまり総合力を絶賛しているのである。ドラクロアは「教養の人だった」のであり、職人に過ぎないほかの当時の芸術家を非難している。

 ボードレールはドラクロアの「果てしない情熱」を目に見える仕方をきわめて冷静に探し求めた画家だという。「恐るべき意志に裏打ちされた果てしのない情熱」を指摘した。ドラクロアにとって想像力は最も重要な能力」であったが、想像力の「性急な気まぐれ」を追っていく「迅速な技巧」を制御する能力を持っていたという。それらを表現する手段、色彩に関する絵の具の質の探求は科学に対する彼の好奇心をあおり、その点でレオナルド・ダヴィンチにも似ていたという。

 

私はかつて、ドラクロアのパレットほど細心に注意をもって精妙に準備されたものを、見たことがありません。それは、巧みな技をもって配合された花束に似ていました。(ボードレール『ウジューヌ・ドラクロアの作品と生涯』)

 

 絵の具の質に対する絶え間ない探求は全体的調和という原則に対して必要であり、一定の距離から眺められたとき、自然に溶けあるものだとボードレールはいう。小林秀雄は『近代絵画』において、「近代絵画の運動とは、扱う主題の権威や強制から逃れて、いかにして絵画の自主性あるいは独立性を作り創り出そうかという烈しい工夫の歴史を言う」と述べている。それは文化的活動の形式と領域が分離する近代社会の反映であり、近代絵画だけでなく、近代詩でも同じだ。ボードレールは、当時の詩人、ユーゴーやラマルティーヌに人々は関心の目を向けていたが、漠然と詩について曖昧な関心しか寄せていなかったという。散文と詩の混合を平気で許しているが、詩とは本来何を目指して創られるべきかの根本的な明察が欠けているからだと考え、彼は詩の固有な魅力があるはずで、そのために言葉を極めようとしたと小林秀雄はいう。ドラクロアにとってはそれは色彩の調和であろう。目に見える世界は、想像力によって相対的な位置と価値を付与されるイマージュや記号に過ぎず、想像力が消化し変形する飼料なのであるが、人間の魂のあらゆる能力は想像力に従属させられなければならないとボードレールはいう。物をあるがままに表象するレアリストと自ら名乗る芸術家と、物たちを自分の精神で輝かせ、その反映を他の精神たちの上に投影させたいと願う想像力豊かな人がいると彼はいう。ドラクロアは後者の人で、彼の想像力は、霊柩台のまわりの燈明のように熱く燃え、情熱のうちにある苦痛のすべてが、彼を熱中させる、宗教の困難な高みによじ登ることさえ恐れないほどであると指摘する。

 先述した小林秀雄によると、「このパレットの上の大理論家は、又、深い文学的教養を持ったペシミストであった、彼の思想は、人間の永久に変わる事のない残酷な野蛮な性質の上を絶えずさまよっていた様だ」というが、これはボードレールがドラクロアに感知したもので、ボードレール自身にも当てはまるものである。さらに小林秀雄は、「詩魂の光が、通念の約束によって形作られている、凡ての対象を破壊してしまう事が、先ず必要である、とボードレールは信じたと言える」という。ボードレールは、「ロマン派芸術が、芸術家の社会的孤立と反逆との上にしか咲かない花である事を、はっきり意識していた」と書き添えている。

 

ゴーチェとボードレール

 片山氏の『ボードレールの美術批評』によると、ユゴー、ラマルチーヌのロマン派第一世代は詩の宗教や政治との合一を求め、ゴーチェの第二世代は美を宗教や政治と分離する芸術至上主義に傾いていったのだと指摘する。したがってゴーチェの美術批評には「美の絶対性」と「内的小宇宙」への信仰がある、と片山氏はいう。ゴーチェはボードレールよりも十歳年上で、ボードレールが文学に関心を寄せるころ、ゴーチェはすでに詩人批評家であり、ゴーチェを経由してボードレールは文学より絵画に、ユゴーよりドラクロアに心を奪われていたと、若き日の親友プラハロンは語る。片山氏によると、当時アングルのデッサン至上主義とドラクロアの色彩革命は論争を引き起こしていたが、ゴーチェは一方に与することなく、両者の立場を明快に解き明かしているという。一八五〇年にゴーチェは雑誌「芸術家」で、「芸術のための芸術」を展開する。「美」は精神のいくつかの道が到達する共通の頂点である。詩人は先と色と音の巧妙で調和のとれた複雑な組み合わせによって、情熱・思索・科学・幻想のすべての資源によって「美」を実現させねばならぬ」と述べている。一八五九年の。「芸術家」に掲載したボードレールの「テオフィル・ゴーチェ」では次のような文章が書かれている。文学の世界に「ディレッタンティズム」が現れた。「真」は科学の基礎と目的になるもので、純粋な知性が求められる。「善」は道徳的探求の基礎と目的をなし、「美」は「趣味」が唯一の野心であり、唯一の目的である。ボードレールはこの論文を出版しようと計画し、ユゴーに序文を頼む。ボードレールはユゴーから返事をもらい、それをもとにして序文にした。二年前にはボードレールは『悪の華』をゴーチェに捧げる。それは「完璧なる詩人、フランス文学の完全な魔術師、わが敬愛する師にして友、テオフィル・ゴーチェに、深甚なる謙遜の念をこめてこの病める花々を捧ぐ。C.B.」(片山氏訳)というものであった。ボードレールがユゴーやゴーチェの名声を自身を世に送り出すため方策としていたとしか私には考えられない。ボードレールの死後五十年に、アンドレ・ジイドは次のような文章を述べている。「溢れんばかり感動と音楽と思想を湛えたこの盃を、フランス文学が生み出した最も無味乾燥な、最も非音楽的な、最も無思想な職人にさし出すとは。」さらにジイドは、講演で「この無知、外界だけを見ようとするこの決心、というよりは外界以外のすべてのものに対するこの盲目性」とゴーチェに手厳しい批判を投げかけた。ゴーチェは生前、ボードレールよりずっと評価されていたが、のちの象徴派の詩人たちの間でボードレールの評価は高まるばかりであった。ゴーチェの「芸術のための芸術」の理論とボードレールの理論の間には越えられない深淵があったという、エルネスト・レイノオのような人も現れた。彼は、「ボードレールは見者である。物の形の下に彼はその意味と存在理由を探求する。彼は現象と永遠を結ぶ関連性を見る。彼は神秘な照応(correspondance)を発見するのだ。二人の資質は火と水のように相容れない」と指摘した。「ボードレールはゴーチェに対して真摯な称賛の念を抱いていた。ゴーチェは本当にボードレールに影響を与えた。ゴーチェもボードレールも造形的である。ボードレールの詩的位置は、造形が音楽と合体して、絵画と音楽との等距離のところに新しい言語、本質的な詩的言語を創造する地点にある」と指摘するアンリ・デリューという人もいた。片山氏は、「詩と絵画を通して、お互いに友情を育てた二人の傑出した詩人は、それぞれ違った方向に進み、ボードレールは師事し兄事した先輩のゴーチェを遥かに超えて、近代詩を代表する存在になった」という。ゴーチェの美術批評によってドラクロアの美学に開眼し、ゴーチェの「芸術の転移」の方法に学び批評家として育っていったと指摘する。ボードレールとゴーチェの差異はいかなるものか。芸術の深遠を超えて現実世界に帰還し変革する文学と、芸術に埋没しつづける文学との相違ではないだろうかと私は思う。文学と、本当の意味での哲学と交差する地点にまでボードレールは詩を称揚したのである。ミシェル・フーコーの指摘する「生存の技法」と、「キュニコス派」の十九世紀的継承と深く関連づけて考えることができるであろう。   (次回に続く)

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