ヒーメロス通信


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長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十七)その二・詩誌「ヒーメロス」25号、10月25日発行

2013年11月21日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』〈十七)その二

小林稔

 

 キリスト教的経験とパレーシアの変遷

 ユダヤ・ヘレニズムのテクストにおけるパレーシアについて、フーコーはヘブライ語が理解できない

ので既存のテクストに依らざるをえないことに言及する。そのテクストとは『キッテル新約聖書神学辞典』の「パレーシア」の項目におけるシュリーアの研究と『カトリック聖書研究』詩のスタンレー・マローによる「パレーシアと新約聖書」という論文であるが、それらを要約すると、一、伝統的意味のパレーシアという語の用法が見られるということ。大胆さと勇気という形態における〈真なることを語ること〉、心の完全さの帰結としての〈真なることを語ること〉という意味での使われかたである。それは、アレクサンドリアのフィロンの『特別な立法について』のなかで、神秘を伴う宗教形態を断罪する箇所で、キュニコス派と同様のことを語っているに過ぎないのだが、「自然はその栄光ある作品の何ものも隠しはしない」のであれば、万人にとってその行動が有益であるような人々は完全な表現の自由を用いなければならない、そうした人々にパレーシアがあって欲しいということが書かれているとフーコーはいう。二、一般的有用性が示され、ギリシア・ヘレニズムの伝統に依存した意味が見られるが、フィロンや七十人訳聖書のテクストでは、パレーシアという語の根本的変更が見られるということ。そこではパレーシアは個人の勇気を示すものではなく、神の視線に自らを差し出す心の開示、つまり魂の透明性のようなものと受けとめられていて、それと同時に純粋な魂の上昇運動が起こり、その魂が全能の神のもとへと高められる。個人と他の人々との水平的関係ではなく、神との関係という垂直軸の上に位置づけられるとフーコーは指摘する。七十人訳聖書のテクストでは、「そのとき、あなたは全能者から無上の喜びを得て」の部分のヘブライ語のテクストをギリシア語に訳すとき、「パレーシアゼスタイ」という動詞を用いているという。パレーシアという意味が伝統的な意味を変えて非―隠蔽としての真理、魂が神のもとへと高められ神の高みへともたらされて神と触れ合うような関係、魂が自ら浄福を見出すことができる関係への意向があるとフーコーは指摘する。フィロンにも多少同様な表現が前記のテクストに見られるという。自分の良心の純粋さから出発していのることのできる者はパレーシアの能力を持つと書かれているという。もはやパレーシアは「語る」ことではなく、神に対する魂の開示である。三、パレーシアを、神の一つの属性、資質、さらに神の一つの賜物としてあらわされる。『箴言』(七十人訳聖書)には「知恵は街路で叫び、広場に声を上げる。雑踏の入口で叫び、城門のそばで街中で語りかける」という箇所があり、パレーシアは知恵の叫びと表現されているとフー。神の溢れんばかりの現前ないし神の機能がパレーシアと呼ばれていると指摘する。人間と神との存在論的関係の内部へとつまり神のもとへともたらされる人間の至福、浄福へとパレーシアを移動させている。また新約聖書ではパレーシアは人間の一つの存在様式、一つの活動様式を示しているとフーコーは指摘する。つまり、パレーシアは神と人間を結び合わせるための絆のなかに、あらゆるキリスト教徒がもちうる確信であり、そうしたパレーシア的信頼によって祈ることが可能になり、人間は神との関係を結ぶことができると考えられていた。フーコーは、「ヨハネの手紙」五の十四、「もし私たちが神の御意志に従って何かを願うならば、神は聞き入れてくださる、これが神に対する私たちの確信です。」という記述の「確信」というコトバに「パレーシア」という言葉でギリシア語に翻訳されていることを指摘し、そこに見られる「服従の原則」のなかでの神への信仰と永遠の命を持つことの確信、神に向ける願いと神の意志である願いとの循環のなかにこそパレーシアが根を下ろしていると指摘する。つまりパレーシアは「確信」であり、神が耳を傾けるという「信頼」であり、そのようなパレーシア的態度に基づいて最後の審判の日の終末論的信頼も可能になるとフーコーはいう。さらに、新約聖書のテクストでは、福音を説き勧める者の勇気ある態度のしるし、使徒の使命に適った「徳」のことであり、ギリシア・ヘレニズム的な考え方と近いものが見られるとして、「使徒言行録」のパウロの行い、ギリシア人たちとの議論との戦いを通して、命を危険に晒す事実がパレーシアの徳を特徴づけているのだとフーコーはいう。つまり神への「信頼」と「徳」としてのパレーシアがあることを指摘する。

 紀元最初の数世紀とその後の時代になるとさらに複雑になる。ギリシア人においては、パレーシアは人々に声をかけ彼らを誤謬から真理に連れ戻そうとする勇気であると同時に、好き勝手に話す自由な、無政府状態でもあったという両義性、つまりポジティヴな面とネガティヴな面がキリスト教世界にも移し換えられたことをフーコーは指摘する。先述したギリシアに見出されるパレーシアに近い、「あらゆる脅威にもかかわらず主張する勇気」、殉教を受け入れるという点で有徳かつ有益なパレーシアが見られる。一方では、パレーシアは神への信頼であるような勇気、救済への信頼、神の全善への信頼、神が聞き届けてくれることへの信頼がパレーシアに通じているとフーコーは分析する。ソクラテスないしディオゲネスの勇気と殉教者の勇気との差異は、彼らが他の人々に向ける一人の人間の勇気であるのに対して、キリスト教徒の勇気は神への信頼が根底にあることであるとフーコーはいう。これがキリスト教に見られるパレーシアのポジティヴな側面である。しかし人間の自分自身に対する信頼が希薄になっていく。フーコーによると、神への服従の原則によって、神を恐れなければならなくなるにつれて、自分自身に対する不信のテーマ、沈黙の原則が発達してくる。神への信頼としてあったパレーシアは、傲慢さや思い上がりとして現われることになる。五世紀、六世紀になると、キリスト教のなかで権威の構造が発達するにつれ個人的な修徳主義が制度的構造の内部に取り込まれていく。つまり神との関係を、個人が自分の心の開示では持つことができず、権威の構造を介してしか持つことができないとすれば、個人は自分自身に不信を抱かなければならなくなるとフーコーは解く。自分自身は自分自身にとって不信の対象になり、最終的には自分自身のうちに悪以外の何ものも見出せなくなり、人間にとっての救いとは、唯一、自己を放棄し、服従の原則を実行に移すことになる。そうなれば、パレーシアは欠陥、危険、悪徳の信頼に照らされた信頼として再登場せざるをえなくなり、咎められるべき、批判されるべき行動様式になるとフーコーは分析する。

 例としてフーコーは、『砂漠の師父の言葉』からのいくつかのテクストを取り上げる。一人の若い修道士がアガトンのところに来て兄弟たちといっしょに暮らしたいというと、アガトンは「あなたが彼等のもとに赴いた最初の日のように、日々常によそ者意識を持ち続けなさい。あまりに彼らと打ち解けることのないようにしなさい」「パレーシアは、強い熱風に似ている。それが吹き荒れるとき、人は逃げ惑い、木々の実は無に帰すのだ」と説教する。フーコーによれば、共同生活で修徳主義の実践のためにやって来た若い修道士の、典院の権威のもとで共通の規則に従う生活に存在する危険、つまり自分自身にも他の人々にも不信を抱かず全面的な信頼のもとで生きる危険を記述している。パレーシアの実践によって本当の修徳主義的生においてなすべきことを忘れてしまう危険であるという。この段階でのパレーシアを要約すれば、パレーシアとは死や罪を考えないことによって神への畏敬を自己の遠くへ追い払うもの、死の瞬間に起こることへの恐れや最後の審判における罪への恐れから、身を引き離してしまうものである。さらに神を恐れぬだけでなく、自分自身にも用心せず、我々の行いを吟味しないものである。つまり、世界への信頼、他の人々とともに生き人々の行いや語ることを受け入れる習慣における絆が、世界に対して持たなければならぬよそよそしさに敵対し対立することになるとフーコーは指摘する。自己への配慮であるパレーシアがここにおいては逆転しているという。他の人々に敬意を払わない、つまり慎みの欠如というストア派やキュニコス主義的な問題が準拠されていると考えられることもできる。ここで見出されるのは他の人々への敬意を必要としない、自己への信頼としてパレーシアが存在し、服従の問題がパレーシアの価値の転倒の核心にあるとフーコーは指摘する。

 キリスト教的経験における二つの大きな母型として、フーコーはパレーシアの極と反パレーシアの極があるという。前者はポジティヴなパレーシアで、前述したように神の愛への信頼、最後の審判の日に神が人間を迎え入れるやり方への信頼である。このようなパレーシアの極は、キリスト教の神秘主義的伝統の起源にあったものであるとフーコーは把握する。つまり、心が神に開かれるほど十分純粋である者に対して、神は救済を保証し、神との永遠の向かい合いを許すことによって答えるという考え方である。後者は、修徳主義的伝統を創設するものとしての反パレーシア的な極である。ここで真理を打ち立てられるのは、神への恐れと畏敬による服従においてのみであり、誘惑や試練を通した疑い深い自己の解読というかたちにおいてのみであり、歴史的、制度的な面から考えれば、後者の極が重要であったといえるとフーコーはいう。後者にとっては、パレーシアは疑いを持ち実践するものであり、それに対抗するようにして前者のパレーシアは困難を伴いつつも存続してきたのだとフーコーは主張する。

 修徳主義的な後者の反パレーシア的な極の発達とともに、以後、真理の認識と自己の真理との間の諸関係をめぐる問題は、真理本位の生存であると同時に、自己についての真理を認識できる生存でもあるような別の生存の完全なる形態をもはや取ることはないだろうとフーコーは指摘する。自己認識は魂の浄化のための、神との信頼関係に達するための前提条件になるだろうとフーコーはいう。つまり、真の生はその条件を充たさない限り到達できないものになってしまったのだ。この世で自己を解読することは、自己および世界に対する不信、神に対する恐れとおののきのなかで自己自身を解読することでしかなく、それが真の生に到達する方法である。キュニコス主義において真理本位の真の生を生きる可能性を肯定した古代の修練主義が、キリスト教敵修徳主義によって根本的に変容されたのだとフーコーは結論した。

 

46 『「自己への配慮」と詩人像』前半の総括と補記

 

 フーコーの書物、『知の考古学』(一九六九年)の訳者、慎改康之氏の解説(『知の考古学』河出書房新社二〇一二年に収録)によると、この書物は「人間学の問題化という十年間にわたる一つの任務を継続し、それを仕上げようとするものである」という。十年間とは、一九六一年の『狂気の歴史』、一九六三年の『臨床医学の誕生』、そして、一九六六年の『言葉と物』が書かれた時期を指す。それ以前の、つまり五十年代のフーコーの著作、一九五四年の「『夢と実存』(ルートヴィヒ著)のフランス語訳の序文」や同年の『精神疾患とパーソナリティ』でフーコー自らおこなっていた思想の基底を批判する。つまり「人間の言語や人間の実践が制御されていることを示しつつ、長年にわたって思想界を支配してきた実存主義的人間主義を根底から脅かすものとして六十年代の著作は機能しえた」と指摘、『知の考古学』もまた同様の考えを主張するものであると慎改氏は主張する。したがって人間学的な思考からの自らの決別という意味もあったのである。慎改氏の言葉を借りれば、「自己自身から身を引き離すための努力」だったのである。『知の考古学』では、フランスの思想界を支配してきた人間主義的な思考と自分の思考を区別し、問題化することであり、そのことが構造主義とみなされる一因でもあったのだが、フーコーは、「言語的タイプの形式化」ではないことを強調しつつ構造主義者の一人として分類されることに異議申し立てをしたのである。構造主義とは、「人間の意識にそのすべてが与えられていない規則によって人間の「語られたことの総体を語られたことそのもののレヴェルにおいて扱うものとし、それに対して自らの歴史研究を特徴づけ、伝統的な思想史の任務との対比によって明らかに示そうとした」ものであると慎改氏はいう。

 それでは人間学的思考から解放された、フーコーのいう「考古学」はいかにして可能なのか。フーコーによると、まず第一に、連続性のテーマからの解放と、起源の探索や伝統の再構成、進化を辿り目的論を企画することをやめることである。なぜなら連続的な歴史と人間学的思考は共犯関係にあるからである。フーコーの『知の考古学』を読み取ることは別のところですることにして、この私の論考で問題になるのは、一九八四年の講義録『真理の勇気』で展開される「真理表明術」の諸形態に関する研究である。「講義の位置づけ」として掲載されたフレデリック・グロによると、それまでのフーコーの「考古学は、構成された知を構造化するものとしての言説の組織化を明るみに出」すことによって「認識論の規範と科学史の規範から同時に逃れることになった」のだと主張する。以後、フーコーは、「真なる言説に対して、その形式可能性や段階的発見の諸条件をめぐる問いではなく、それが存在するための歴史的かつ文化的諸条件をめぐる問いを提出したのだ」という。つまり認識論的諸構造に関する分析と、「真理表明術」の諸形態に関する研究との差異を明確にする。後者が提出するのは、「主体が自己の自己及び他者との関係をある種の〈真なることを語ること〉に依存させる際の、主体の倫理的変容についての問いを提出したのだ」とグロはいうのである。この私の論考で『真理の勇気』を読んできた読者には納得されることであろう。一九八二年以降、パレーシアなる概念を基軸に「真なる諸言説の存在論」を展開した。その内在する諸形式ではなく、「それを用いる主体の存在様式に関する問いを提出するような研究」であり、それは論理的形式による諸言階層化という、アリストテレス以来の伝統的な類型学ではなく、古代文化における真理陳述のスタイルについての独自の類型学によって、真理の主張が合意する自己及び他者との関係のタイプを考察しようとしたのだとグロはいう。

 再び『知の考古学』の訳者、慎改氏の解説を引用すると、フーコーは若いころ「人間主義的なマルクス主義へ帰属し、人間学的な思考に完全にとらわれていたが、そこから身を引き離そうと書かれた書物が六十年代の彼の努力の結果であるという。この自己からの離脱という企ては、まさに「主体の隷属から解放されること」で可能になる。つまり「考古学的」記述は自己の連続性を切り離すために有効なのだ。七十年代の彼の著作『性の歴史』では、「主体に何らかの真理が組み込まれる際に作動する権力のメカニズムを読み解こうと試みる」ことになるが、八十年代になって当初の構想の大幅な変更を迫られる。主体と真理の関係をめぐる問題を別のやり方で提起する必要が生じたのである。『性の歴史』の第二巻「快楽の活用」で語られているのは一貫して彼が述べている「自己からの離脱への欲求」であった。

 (私を駆り立てた動機はというと)、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであてはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもも思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方は異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そういうことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえすればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったいなんであろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索するこが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とはなんであろう? (『性の歴史Ⅱ「快楽の活用」序文』

 このように述べられたフーコーの主張は、八二年度の講義『主体の解釈学』の最初の授業で述べられた「哲学と霊性」に関する事柄と同じ主旨のものである。霊性の原理とは、主体に正当な権利として真理が与えられるのではなく、つまり認識行為によって与えられることはなく、真理に到達する権利を得るには自分自身が別のものにならなければならないということであり、真理は主体の存在そのものを問題にする「代価」を払って与えられるものである。西欧では、現在置かれている状況からの立ち返り(コンヴェルシオン)はエロースとアスケーシスという二つの形式に従って行われ、アリストテレスを例外として哲学の本性でありつづけたが、デカルトからは認識が霊性に取って代わったのだとフーコーはいう。コンヴェルシオンにはエピストロフェーとメタノイアの二つの形式があり、前者は、魂は存在の完成へと回帰し、存在の永遠の運動のなかに改めて場所を占めるものである。それは覚醒で根本的な形式はアナムネーシス(想起)であるという。後者は、主体自身による主体の再出産で自己放棄の経験としての死と復活があるとフーコーは説明する。この私の論考ですでに十分述べてきたのでここでは、フーコーの哲学的エートス自体もまた前者の適用であるということである。認識論から、真理を可能する主体の存在様式に対する問いへと移行したことを確認するに留めよう。

 一般にフーコーの研究は、「知」、「権力」、「主体化」、ダロの言い方に従えば、「真理陳述」、「統治性」、「主体性の諸形式」という三つの項目から成り立っている。この三つの次元は哲学を語る際の同一性を強調することになる。つまり「真理の言説を研究する際には必ずそれと同時に自己もしくは他者の統治へのそうした言説の影響を考えなければならず、権力の諸侯王を考える際には必ずその諸構造がどのような知とどのような主体性の構造を拠り所としているのかを示さなければならず主体性の諸形式を評定する際には必ずそうした諸形式が政治にどのように延長され、真理へのどのような関係によって自らを支えているのかを理解しなければならない」(のであり、一方が他方に還元することは不可能であるという還元不可能性と、必然的相関関係の二つの原理はギリシア以来の哲学の同一性を決定するには十分であるとグロはいう。

 フーコーの最後の講義『真理の勇気』は、ギリシア政治哲学の革新地点となる倫理的差異化の原則であったと、「講義の位置づけ」でグロが述べる。「最善の国制」の探究は道徳的探究とは合致するものではなく、政治的卓越は、政治的行為者が自分自身を倫理的主体として構成できたやり方に依存することをフーコーは強調している、つまりよき政治は徳の高い指導者に依存するということである。民主主義の構造的危うさとは、一人の主体における真理が一国民全体を作用させることが可能であるとは考えにくいことであるとグロはフーコーの主張の困難さを述べている。さらにフーコーによるギリシアの政治思想を再評価することによってフーコー自身の歩みをその航跡に組み入れたとグロはいう。

一九八四年六月二十五日、フーコーが息を引き取る日が近づいていた。一月は体調を崩したものの、二月には回復し、一日からの講義お行うことができた。「私にはどのくらいの時間が残されているのか」を絶えず気遣いながら。講義は二月後半から三月の講義はまさに「死への恐れにかかわるものである」。プラトンの著作『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』の死の三部作をテクストにフーコーの講義は進められた。この私の論考ではすでに詳細は論じられた。死を恐れぬソクラテス像にフーコーはいかに自らの迫る死を重ね合わせたのであろうか。ソクラテスが死を恐れないのは、人々に自己への配慮を説いて回るという神からの使命を果たさなければならないからである。それゆえ、政治的パレーシアによって命を落とすことを恐れたのであり、神の使命を果たせなくなるならむしろ死を選ぶのである。彼の哲学的企てとは、「対話者に自分自身への正しい配慮を学ばせるために、その存在者の存在様式を変容させることを目指す、勇気ある〈真なることを語ること〉」であるとグロはいう。

 プラトンの著作『パイドン』のソクラテスの最後の言葉にある、「クリトン、我々はアスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。私の借りを返してくれ、忘れないようにしてくれ」の意味するところは、伝統的解釈では、「私は死のおかげで生という病から治癒するからだ」と解釈されてきたが、フーコーはそれとは別の解釈をしたとグロは指摘する。「偽なる言説という病、ありふれた支配的な臆見や先入見の伝染からの治癒であり、哲学によってもたらされた治癒である」と。さらにグロはフーコー自身の死との闘いと六月の死を重ね合わせ想いを深める。「私が恐れるのは死ではなく、仕事の中断なのだ。あらゆる病のなかで本当に致命的な病、それは言説の病(偽りの明晰さと人を欺く自明性)である。徹底した哲学が私にその病からの治癒をもたらしてくれるのだ」と亡きフーコーの代弁をする。ソクラテスは「真理の勇気」を持つ者、パレーシアを最後まで行使した者としてプラトンは描いている。「生存の可視的内容において」勇気を持つ者、フーコーはここに生存のスタイルを見出し、「真の生」の問題提起は始まるとグロはいう。この講義の後半がキュニコス主義に関する考察にあてられているのはそのためである。グロによると、『真理の勇気』にプラトンの対話編『ラケス』を取り入れたことは、講義の骨組みの中で意表を突くものであろうと述べている。『ラケス』は勇気の問題について書かれたものであるが、〈真なることを語ること〉、つまりパレーシアと生存のスタイルとを支える勇気のみを考察したからであるという。ここにおいても『ソクラテスの弁明』と同じように、ソクラテスが、一人一人に彼らのエートスを正すように言葉をかける人物として描かれ、勇気ある〈真なることを語ること〉を行使する者として描かれている。加えて、「生存の可視的内容においてそうした真理の要請を価値づける勇気を持つ者でもあり、「そのことによって真の生の問題を提起することが可能になる」とグロは読み解く。「カント以来の近代的思考」に修正を加えることになるという。カントから発生した二つの道、超越論的な後裔と批判的後裔の区別を七十年以降たびたび行ってきたとグロは指摘する。前者は「私は何をすることができるかと問うもの」であり、後者は「我々はどのように統治されているかと問うもの」であり、八十年代にフーコーはこの区別を権力関係の研究に倫理的次元を加えることで浴衣にしたとグロは解釈する。そこでのフーコーの問いは、「いかなる主体化の様式が、人間たちの統治の諸形態に自らを連接し、それらに抵抗したりそれらに住み着いたりすることになるだろうか」ということであるという。さらにフーコーは事態を進展させる。つまり一九八四年には、つまりこの『真理への勇気』の講義では、『アルキビアデス』から引き出した「不死のプシュケーと超越的真理との根源的絆言説の中で理論的熟視によって基礎づけようと努める魂の形而上学を派生させ、他方では『ラケス』において問題化される生存の美学、つまり、可視的で調和がとれており美しい形式を生(bios)に対して与える)ことになったと分析する。ここまでくるとカントの二者択一と大きく相違する。カントのそれは「真理の諸条件に関する研究」と「人間たちの統治性の諸条件に関する研究」を区別することであったが、フーコーのそれは、「一つのロゴスのなか、一つの認識体系の構成のなかにその実現を見出す霊的任務と、具体的生存の現実性と修練のなかでその広がりを得るもう一つの任務とが対置されること」になるとグロはいう。簡単にいえば、認識の哲学と試練や態度としての哲学を比較しているといえよう。

キュニコス派の人々はソクラテスの後裔に似つかわしく書物を残さなかった。理論的貧しさゆえに古代哲学史において常に冷遇されてきたとグロはいう。フーコーはとうぜんプラクシスの面で取り上げたのであり、グロの言葉を借りれば、「生の試練と世界の変容の側に置き直された哲学的真理のラディカルな再評価のための純粋な契機としようとした」のである。市民の勇気ある発言、民衆扇動の権利という民主的契機から、君主に勇気をもって助言を与えるという専制的契機へと変化するパレーシアに、ソクラテスが行使した一人一人に問いただす倫理的側面が加わる。この点はキュニコス派がソクラテスの継承者であるが、彼らは「ソクラテスに比べものにならないほどはるかに攻撃的で乱暴かつラディカルなやり方」で行動したのであり、むしろキュニコス派は世間から隔絶した生の様式によって自ら際立たせているとグロはいう。古代哲学に内包する真理の概念から演繹される「真の生」は、「真理の諸原則を文字通りに生きようとするキュニコス主義的価値転換」によって、「スキャンダラスで不安にさせる生、ただちに拒絶され周縁化される「別の生」としか表明されないものになった。さらにキュニコス派は「現前する世界の変容を前提として到来するものとしての「別の世界」の地平を出現させるとグロはいう。一方、ギリシア哲学はプラトン主義によって「他界」に関する問いを提出してきたのである。フーコーによると、西欧哲学は「他界」と「別の生」をめぐる二つの大きな形式の境界の愛仇で自らを展開してきたという。自己への配慮は一方では、配慮すべき自己とは何かという問いを生み、それは魂であるという発見に導かれる。そこで発見されるのは、真理の純粋な世界としての「別の世界」であり、形而上学の起源をしるしづけたとフーコーはいう。他方では、「自己に配慮する生はいかなるものか」という「他界」に向かうものではない動きがある。ここで出会うのはプラトン主義ではなくキュニコス主義であり、「別の生」というテーマであるとフーコーは指摘する。グノーシス主義の運動とキリスト教においては「別の生」は「他界」に接近するための条件として思考しようとしたいう。ルターによって問題化されたプロテスタントの倫理のなかでは、「他界への接近が、この世における生存そのものに完全に合致した生の形式によって定義されることが可能になる」とフーコーはいう。つまり他界への到達を別の生に依存させることへの拒否であるとグロはいう。グロが指摘するように、フーコーによれば、キリスト教の独創性はまさしく、プラトン主義による「他界」という狙いと、キュニコス主義による「別の生」の要請とを交叉させたことにあるという。

「別の世界(monde autre)」と「他界(autre monde)」、「別の生(vie autre)」と「もう一つの生(autre vie)」という二つの組合せについて、訳者、慎改氏は四つの表現にはすべて、「他なる」という意味の〈autre>が入っていることに注意し、「他性」に関する一つの哲学を前提にしているというグロの言及、フーコーは他性の次元を、真なるもののしるしとしてあらためて作用させることになるという言及を指摘している。つまり真なるものは世界および人間たちの意見において差異をなすもの、自らの存在様式の変容を強いるもの、その差異によって構築し夢見るべき別の世界のパースペクティヴを開くもの、それこそが真理のしるしであるとフーコーは言いたいのだとグロはいう。講義の最後に添えられたフーコーの草稿の一番最後には次のような言葉が見つけられる。

「真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。」

 

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