ヒーメロス通信


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『意識の形而上学』を読む「アラヤ識について」」小林稔・連載第七回

2013年11月22日 | 井筒俊彦研究

『意識の形而上学』を読む・連載第七回小林稔「アラヤ識について」

連載第七回

アラヤ識について

小林稔

 意識と存在の未分節態A領域の「心真如」と、意識と存在の分節態B領域の「心生滅」は本性的に流動的であり、両者の相互関係は微妙であると井筒氏は指摘する。AはBの自己分節態であるからBに転位し、Bは己の本源であるAに還還しようとする。『起信論』的に表現すれば、AとBは「非一非異」的に結ばれているということができると井筒氏はいう。

「衆生心」は、それ自体、絶対真実であり離念の境界として「不生不滅」をくり返している世界であるといわれるが、一方において、それは同時にさまざまに展開して「生滅」をくり返している世界である。したがって、現実のわれわれにおける心のあり方は、「不生不滅」と「生滅」とが和合して、しかも両者が一でもなければ異なるものでもないという関係にあると言わなければならない。われわれの現実におけるかかる心の構造をここに<アーラヤ識>と名づける。

                               『大乗起信論』第三章第一節の二の1より

 

 井筒氏によれば、A領域とB領域の結合の場所を『起信論』では「アラヤ識」と呼ぶという。一般的な唯識哲学と『起信論』の「アラヤ識」では顕著な相違がいくつかあるという。一番の違いは、唯識哲学では「アラヤ識」はB領域のみであるのに反して、『起信論』ではAとBに跨るということ。つまり「心真如」と「心生滅」の両領域にわたる。一つのフィールドの中に包摂し、両者を綜観的に一つの全体として見る、それゆえに「和合識」と呼ぶという。さらにもう一つの相違は、深層意識性を強調するか否かによると井筒氏は指摘する。唯識では「アラヤ識は「妄識」であり、意識の最下底、深層意識であるから、A領域とは関わることがなく、一切の人間経験の意味化の場所、存在現出のカオス的原点としての意識深層部位を「アラヤ識」として内部機構を追求していくのみであると井筒氏は説明する。それに対して『起信論』では、中間者的性格を規定するという。AとBの介在する中間領域をⅯ領域と呼ぶことにして、井筒氏は『起振論』的「アラヤ識」の「真」「妄」和合性を構造化して論じる。『起信論』ではなぜこのような中間領域を設け、そこに重大な機能をもたせるのかについて、井筒氏は、言語意味分節の理論から解明できるという。井筒氏は『意識と本質』においてアラヤ識の深層意識領域を言語アラヤ識と名づけ説明したが、この書物では一切使わずに解釈しているが、それほど違いはないであろう。Ⅿ領域が形相的意味分節のトポス(場所)であるということは、存在界の一切が予め先験的にそこに全部分節されていると井筒氏はいう。実存的個体主体にとって先験的とは、超個的であり形相的であることであり、存在カテゴリー群の網羅的・全一的網目構造であると指摘する。現象的「有」の世界はすべて元型的意味分節の網目を通過することによって型どられていくのだと井筒氏はいう。ユング哲学でいう元型と同じである。

 さらに井筒氏は中間領域Ⅿ(アラヤ識)をⅯ1「如来蔵」とⅯ2「アラヤ識」(狭義的意味)に分ける。Ⅿ1「如来蔵」は無限に豊饒な存在生起の源泉、Ⓜ2「アラヤ識」は限りない妄念的「仮有」の生産の源泉とする。B領域の存在分節態をA領域の本体そのものの自己展開として見るとき、Ⅿ領域は「如来蔵」(如来の宝庫)としてのポジティヴな面と、BのAの分裂的汚染態としてのネガティヴな面の両方があるということになる。

 ここまで辿ってきた構造的分析がつぎに向かうところは、「真如」の形而上学に基く個別実存の内的メカニズムの探究であると井筒氏はいう。それは最終章である第三部で展開することになる。私はここまで読み解いてきて絶えず念頭にあったことは、構造分析でそのプロセスは解明されてはきたが、これらのシステムはオートマティックに発生展開するものではないのではないか。そこに一個の主体の存在があって初めて成立するのであろうということである。次の章では個別実存の内的メカニズムが解明されるという。その言葉が意味するように、メカニズムであって、一人の主体の必然ではない。おそらくそれが解明されるのはエクリチュール(文学)の場になるだろう。哲学と文学の関係がどのようなものになるのか私は知らないが、哲学的思惟が文学(詩)を鼓舞し、多くのものを示唆するに違いない。哲学とスピリチュアリテ(霊性)という観点からフーコーも井筒氏も哲学の概念を大きく変えたと私は思う。さらに詩作をよりアクティヴに、あるいはダイレクトに生きることの改革と把握する詩人は、自らの生を代価に詩を実践の場としてとらえるであろう。そのような詩人が出現するならば、詩作はその実践として哲学を牽引していくことになるであろう。

 

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