ヒーメロス通信


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井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。小林稔・連載第六回「空」と「不空」について。

2013年11月20日 | 井筒俊彦研究

連載第六回

井筒俊彦『意識の形而上学』を読む

小林稔

 

「空」と「不空」について

 

 真如とは、あらゆる存在の真の姿、心のあるがままの真実のすがたと『大乗起信論』に記されている。(筑摩書房「世界古典全集第七巻」からの引用)これは古代ギリシアから現代に至る哲学の本質である。私たち日本人は哲学というと、何か現実と離れた別の世界を思考する隠者の学問と考えがちであるが、哲学をする者も読む者も、そのような偏見を破棄しなければならないと私は思う。井筒氏の導きの後で『起信論』を改めて紐どくと、より近寄りやすく感じられてくる。私は『意識の形而上学』の中盤まで読みかつ書き留めてきたが、「空」と「不空」をまとめるにあたって、冒頭から『大乗起信論』を読み直してみようと思った。『意識と本質』においてもそうであったが、私は詩学との接点を探っているのである。というより読み進めればポエジーの聯想は止めどなく浮上してしまうのを抑えることができない。しかしここでは極力抑制して仏教哲学を読み解き、それを終えた時に詩学を確立してみよう。

『起信論』の序文では、「仏と法と僧との三宝に帰命する」とある。「法は真実のままに仏道を修業しつつある人たちである」。「すべてのひとびとが、仏に対する疑いの念を晴らし、邪な考え方を捨て去って、「大乗」に対して正しい信念を起こすように」願うからであると書かれている。大乗とは「ひとびとを悟りの世界に導く大いなる乗りもの」と書かれている。いわば超大型のジェット機のようなものであり、人類を悟りの世界に連れていくものだと述べているのだ。実際には「仏自らの体」である法をこの経典は伝えようとしているのである。第二章で、二種類の観点を明らかにする。つまり「大乗の実体とは何か」と、「いかなる義理によって大乗と名づけられるのか」である。

最初の観点。「大乗の実体」とは「一切の衆生が内にそなえている心」だという。この「衆生心」とは一般大衆のこころ(「意識」)であろう。「衆生心」には世間の法、つまり迷いと出世間の法、つまり悟りが内包されている。「衆生心」の真のすがたには前回述べた三大、「現実のさまざまに展開しつつあるすがたは」、大乗自体(体)と属性(相)とその働き(用)を示すものであるという。

二番目の観点。「衆生心」はなぜ大乗と呼ばれるのか。その理由の一つは、衆生心それ自体は「あらゆる存在の真なるすがた(真如)であり、それは悟りに到達せる仏の位にあっても、あるいは迷いの生存にあっても、つねに平等であり、悟りによって増加することもなければ、迷いによって減少することもないからである。」第二の理由は、「衆生心は本来、すでに悟りに到達せる覚者と全く同等のすぐれたる性質・功徳を具有しているからである。」第三の理由は、「衆生心の働きは、よく一切の世間と出世間とにおける善の原因と結果(因果)とを生ぜしめるからである。」と『起信論』の第二章には述べられている。そして過去の仏たちはこの大乗の教えによって悟りに達したのだという。

ここで解読する限り、衆生心とは「一切衆生包摂的心」であり、プロティノスのいう全宇宙的覚知体、「ヌース」に本質的に照応すると井筒氏は解釈する。しかし衆生心にはもう一つの意味がある。「普通の我々平凡人の日常的意識」でもあり、この両方の意味が一体化していると井筒氏は指摘する。衆生心がこのように自己矛盾的双面性を示したように、絶対無分節・絶対未現象態(A領域)における存在も自己矛盾的双面性があり、「如実空」(空そのもの)と「如実不空」(不空そのもの)という言葉で『起信論』は説明している。「心真如」(A領域)から「心生滅」(B領域)の存在論的価値づけを進めてきたが、それを逆転させBからAに関連して、「心真如」それ自体の本来的あり方を考察しようとすれば、「意識の形而上学の窮極処に踏み込む」ことになり、「アラヤ識」を避けて通ることはできないと井筒氏は考える。その序奏として「空」「不空」の概念把握をしているように思われる。

意識と存在のゼロ・ポイントの「心真如」(A領域)は「一切の意味分節を超絶して一点の妄染すらない」、これこそ「空」というと井筒氏は説明する。

 

真如が<空>であるといわれるのは、真如が本来、一切の汚れと渉りあうことがないからである。真如は、一切の諸法を差別的認識によって把らえようとする立場からはとうていその真相に触れることのできないものであり、そこには虚妄の心念がないからである。真如の本性は、有でもなく、無でもなく、有にあらざるものでもなく、無にあらざるものでもなく、有にしてかつ無にあらざるものでもない。また一でもなく、異でもなく、一にあらざるものでもなく、異にあらざるものでもなく、一にしてかつ異なるものでもない。すなわち、われわれの思考形式におけるあらゆる手段をつくしてこれに近づこうとするも、かかる妄念にもとづいた差別的認識(「分別」)の尺度のよっては、その真相に触れることはできない。このような差別的認識を超越した真如のあり方を<空>と言う。したがって、もし妄心を離脱するならば、真如そのものには、実に否定さるべき何ものも存しないのである。

                  『大乗起信論』第三章第一節の一より

 

 人間には誰でも妄心なるものがあり、時々刻々、存在を「分別」(=意味分節)し、限りない現象的「有」を生み出して止まない。それらの事物はどれも「真如」とはピタリ合うものはない。だから「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を一挙に払拭するために、どうしても「空」という概念を立てることが必要であると『起信論』は述べていると井筒氏はいう。「空ずべき空もなし」、そのことがまさしく「空」なのである。「なんという興味深いレトリックだろう!」と井筒氏は感嘆し、中国の荘子の「無無無」という「無」すら無化しようとした表現を思い起こしている。

「形而上学的なるもの」の窮極処を「空」や「無」で現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのは、東洋哲学一般に通ずる特徴的アプローチであると井筒氏はいう。『起信論』では、それで終わらずに「不空」という概念を立てるのは、形而上学の最後の言葉ではなかったことを物語ると井筒氏は追記する。つまり、「心真如」を「空」とした観点から形而上学は方向を一変し、「心真如」の「有」的側面に向かい、一切の現象的存在者の絶対窮極的原因としての「心真如」が照射され、それに伴い、存在分節機能が発動すると井筒氏は説明する。ここでわれわれが目にするのは、以前の存在分節の世界であるが、この時点での現象界は「妄念」分節の所産ではない、全現象が「心真如」の自己分節、内的自己変様なのだと井筒氏はいう。表面的には何も変わっていないように見える。どのようにしてその差異を見極めるのかは、おそらく『意識の形而上学』第三部「実存意識機能の内的けカニズム」で説かれるであろう。しかしなぜ「心真如」がこのようなことが可能なのか。「すべて原因されたものは、自分の源泉としての原因の中に、始めから存在していたのだと『起信論』では述べられている。つまりプロティノスを引用して説明したように、現象的「有」は「心真如」の中に始めから不可視の存在可能態において、潜在的に、伏在していたと考えるからであると井筒氏はいう。元型的あるいは形相〈イデア〉的に潜在していたものが現勢化する、それが「心真如」の自己分節に他ならないと井筒氏解釈する。「心真如」は不生不滅の「真心」(しんじん)で虚妄性はまったくなく玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。その「浄法」が、「心真如」の自己分節という形で現象的存在者として顕現してくるという「心真如」のこの側面を「不空」と名づけるのだと井筒氏は指摘している。

「不空」と名づけられるべき「心真如」においては、井筒氏によれば「一切の現象的事物事象をあますことなく形相的存在可能性において包蔵している。あらゆるものがそこにあるイデア空間、言語アプリオリ的分節空間、全包摂的全一性において、一切が永遠不変、不動」」とも呼ぶべきものであるという。

『大乗起信論』のテクストでは、第三章「詳細なる説明」のうちの第一節「大乗に関する正義を明らかにする」の、さらにその一、「心のあるがままの真実のすがたにおいて把える立場」において、真如を「空」の方向から考察する立場(「如実空」)と、真如を「不空」の方向から考察する立場(「如実不空」)から真如を説明してきたのである。次の二、「心が現実にさまざまに展開しつつある世界において把える立場」と書かれていて、1から5まであり、その1、「心の生滅――現実における生滅心Ⓜ構造を心の本性の上に位置づけるための論述」と記され最初の項目が、《アーラヤ識の定義》となる。井筒氏の『意識の形而上学』第二部の最終章Ⅻは「アラヤ識」(p91)から、この(『意識の形而上学』を読む)連載第七回で突きつめてみよう。

 

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