ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

個人季刊誌「ヒーメロス」最新号からの詩を紹介。

2011年12月17日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品
榛(はしばみ)の繁みで
          小林 稔

   一、死

榛(はしばみ)の繁みで身を隠しているものたち! 真昼時、通り抜けるたびに
どこかで子供たちの真鍮(しんちゅう)を打ち叩く音、火事を報せる消防車の遠
くから響く警報に似たそれを耳にしているような思いがしてならなかったが、
繁みに見出すのは淀んだ闇だけであったし、ずいぶん長く会っていない人たち
の気配がそこから立ち昇ってくるのであった。いやそれはぼくの思い違いでぼ
くのどこか頭の片隅からやってくるのかもしれない。それにしてもそこから立
ち現われてくるのは、不慮の事故や病気で亡くなったと知らされている友だち
だ。もっともぼくが知らないだけで、遠くで近くでもう死んでしまっている友
だちがもっといるのかもしれないのだ。

裸足で庭を駆けてきて縁側で西瓜を頬張(ほおば)っているのは誰?

満水の川岸に辿りきれず溺れ死んだのは誰?

別れて何十年も経ち、ぼくの記憶に居場所を落ち着けてしまった人たちには時
間が止められていて、ぼくだけが老いてしまっているから会うことが億劫(おっ
くう)になる。ある時ある場所を共有していたことは事実だから記憶は永遠に
生きつづけることになる。永遠だって? どんなに長く生きてもぼく自身が三
十年あるいは二十年しか生きられないというのに。それならむしろ書きとめる
べきではないのか。しかし記述は再現でなく記述する時間を言葉で生きること
になるので、新しい生が始まるともいえるのだ。

そうであるならば、ぼくの命あるかぎり亡者たちを(そのなかには生存者もい
るかもしれない!)登場させようでないか? 書物に永遠に(とりあえずは)
記されることになる。ぼくのこれまでの時間の鍵が解き明かされるかもしれな
い。ぼくの経験から、犇(ひし)めき合っているたくさんの他者たちの声を救い
出し、新しい命の出産に立ち会おうじゃないか。


   二、空

ぼくたちの日常を、そこでは人に好意を抱いたり憎しみに身を引き裂かれたりし
ているのだが、すべて包み込んでいる空があった。十歳にならないころ、ぼくは
麦をいちめんに刈り取った畑の真ん中で、雲雀(ひばり)の鳴き声を遠くに聞きな
がら眠りについてしまった。気がついたときは辺りが薄暗くなり始めていた。畑
の向こうに民家が孤島のように点在する風景がまどろむ瞼にも見えたし、その先
は黒い帯、(おそらく庭木や森の樹木)が地平にコンパスをひろげて張りめぐら
されていた。帰ろうと立ち上がり歩くと、あのうろこ雲がぼくを追ってきた。空
は地平の果てにもつづいている。夕日に映えた空は血を滲(にじ)ませ、おまえを
襲うぞという脅迫を与えたし、空が落ちてきてのみ込まれてしまうというぼく自
身の恐怖でもあったのだ。誰も助けてくれる人がいない(その後、何度そう感じ
たことか!)、そうした孤独をぼくがはじめて身をもって知ったときだった。

十四歳になったころ、庭から見上げる夜の空は静まりかえっていた。以前の、恐
怖を圧しつけた夕暮れの空ではなかった。この世の事象をすべて闇で蔽(おお)っ
ている空であった。昼と夜の世界があって二つの領域をぼくはこれから生きてい
かなければならないのだ。この空で煌(きら)めく星たちにも孤独というものがあ
ると知ったのであったが、そのとき空は孤独のもつ峻厳(しゅんげん)と勇気をぼ
くに教えてくれた。

現象の世界と永遠の世界を所有するぼくたち! じつは同じ一つの世界に過ぎな
いのではないか。というのも、現象は永遠のただなかにしか存在しないからだ。
昼の孤独を嘗(な)めつくすさなかにあの金色の光を煌めかせる強靭(きょうじん)
さは、無数の傷口(そう、騙(だま)しあい裏切られ、時に他者や自分を打ちのめ
したいほど嫌悪するぼくたち)が、それぞれの角度に光を放つ鉱石のそれではな
いのか。その光は、ぼくたちの胸の深海の波が空を、鏡にして写す海面から超え
出ようとする言葉たちだ。


コメントを投稿