ヒーメロス通信


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鈴木正雄新詩集『死のほとりにて』(銅林社刊2011年9月1日

2011年12月17日 | 詩集批評

息子を亡くした父親の悲しみ
      詩は死からの復権である。 (個人季刊誌「ヒーメロス19号」から転載)

鈴木正雄詩集 二〇一一年九月一日刊
『死のほとりにて』(銅林社)
             
               
 子に先発たれた親の悲壮な想いは癒しようもなく深い。作者はその快癒できない苦しみを生前の十八歳の息子の面影を浮かべながら言葉に綴るのである。そうしている時間の流れの中で、息子の死を忸怩たる思いで自分に言い聞かさなければならないときもあった。

そのとき ぼくは
目をつむりながら
ひとつの言葉をのみこんだ
 (お前は死んだ)
するとそれは響動(とよ)みながら
こだまのように
ぼくの内部をわたっていった

老いていま
漠たるぼくの風景の
ふとどこか
それはなじみの場所からのように
 (お前は死んだ……)

言葉は口から零(こぼ)れれば
陽にとける霜に似て
たちまち消えるけれど
そのたびにはほっと明るみ
目覚めのようによみがえる
晩秋 もみじに染まりながら
ひととき
山が澄みかえるように
「よみがえる」

 未知の発見や驚きだけが詩なのではない。この詩集の前半(一)はよく見る光景が描かれている。それなのに作者の思いに心を重ね合わせるときの感動はこのうえもなく深いのである。やはり平易な言葉を時間にかざして息子をいたわるように舌転し紡いた結果であろう。篠崎勝巳氏によって「栞」引用された「火葬」や(une catastrophe)などの詩編は涙をそそってやまないが、右に引用した「よみがえる」にあるように、時には死者の命が自然の風景によみがえることがあるのを作者が知って読み手に安堵感を与えるのである。
 この詩集は二部仕立てになっている。一部は筆者が述べたように息子への想いが綴られ、二部ではそれ以後の作者の生活が描かれている。哀しみの刻印は消えないながらも、日常の瑣末事に喜怒哀楽を感じ生きていくしかない。じつにいきいきと技巧に走ることなく手慣れた描写を見せ、上手いと思わせる詩がつづいている。しかし一冊の詩集として構成されたものであることを忘れるわけにはいかない。一部に息子の事故死があり、それを受け入れがたく苦悩する父親の姿を知った私たちは、二部でその死をのり越えどのように生きていくのかを知りたいと思うのだ。十代にして詩作にとりつかれた私は、なぜか詩を書くことで絶えず自分の死を呼び寄せていた。詩作は生きることと同価値であった。それ以降の人生は今に至るまで変わらず、常識を超えた生のありようと他人には映っているであろう。詩は死からの復権である。十代後半の親への反抗、社会への反抗、規範への受け入れがたき謀反は、何十年も過ぎて顧みれば、それらを内包して俯瞰することができたと自負するが、さらに意識の深みへと突き進み、言葉が切り開く地平に詩作を移動させようと私はしている。詩はいろいろあってよいが私の闘いはつづいている。私にとって若者の死が悲しみをそそるのは右のような自分の詩作の根拠があるからだ。
 先述したように詩集の構成を考えたとき、一部に死があり、二部に遺された作者の生があることになれば、死を忘却するのではなく、勿論すっかり忘れているのではないが諦めと時間からの退色ではなく本質的にのり越える次の展開を一冊の詩集に期待してしまうのである。個別の死や人間の存在から流出して言葉の世界にまで辿りつく詩作。そこには詩の源泉が見つけられる。私たちの日常はそこから届けられているのであり、それゆえにこの世の事象が価値を持つ。


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