ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

詩誌「ヒーメロス」30号、平成27年8月1日発行、小林稔「タペストリー8」

2015年08月06日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品

タペストリー 8

小林 稔

 

 

   一

乗り込んだ車輛に乗客が通路にまであふれ、私は背から降ろしたリュックを片

手で持ち、立ちつくしている人々にぶつかりながらコンパートメントをガラス

の扉越しに覗いて、隙間を縫うように歩いて行く。後方車輛との連結部の手前

の洗面所の近くまで来て立ち止まる。アムステルダムに向かう列車内に私はい

た。日本を発ち一か月は過ぎようとしている。

陽が落ちかけ、通路の窓ガラス越しに見える田園風景が後ろに素早く流れ、そ

こに私の身体の影が貼りついたように映っている。ドイツ語からオランダ語の

響きに車内のアナウンスが変わってから、制服を着た帽子の若い男が、通路を

私の方に歩いて来て、無造作にリュックの紐を解き、本と下着の間に手を滑り

込ませると急いで立ち去った。抜き打ちの荷物検査らしく、気まずい思いに駆

られたが、気を取り戻し、乗客がまばらになった通路を歩いて空席の見えるコ

ンパートメントの扉を開け入ると男女四人の日本の若者たちがいた。

アジアを陸路で帰るつもりでいることを私が告げると、私のきびしい眼つきか

ら即座に了解したと彼らはいう。いくつもの異種の生活文化が重なり、少しず

つずれて東へ移動する国々の名を一つひとつ心に唱えながら、その涯の日本へ

帰るという醒めきらぬ悪夢に向けて、何もかも私が一人で決断したことであり

ながらも、運命に身を預けた不安に若い私は脅えもした。

 

絶えず心を突き動かし、私の身体を前方に押していたものとは何だったのだろ

うか。帰路に向かうにはまだ日数がある。ヨーロッパを南下し、北アフリカに

も行ってみたいと思いながら、見知らぬ街から街へ足を踏み入れていた。

得体の知れぬ生きものに直に触れたような怖れと歓喜に胸は締めつけられたが、

どこにでも歩いて行けるという自由な異国の旅人を装い、舗道を行き交う人々

の歩調に合わせ進み、大きく息を吸い込んだ。

 

   二

記憶のうごめく暗闇から声が屹立し形づくられる影像は、私に何を語らせよう

と身構えているのだろうか。言葉は私に残された未詳の生を決定づけるために、

私を白紙に向かわせる。言葉を綴る私の生という放たれた帯の行く末に、過去

は自らの命を永らえさせようと私の傍らで他者の眼差しを投げかけている。



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