ヒーメロス通信


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「自己への配慮」と詩人像(七)その一、小林稔季刊個人誌『ヒーメロス』15号2010年9月10日発行から

2012年03月15日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
〔長期連載エセー〕    小林稔 季刊個人誌「ヒーメロス」15号2010年9月10日発行からの転載。無断転用禁止。

自己への配慮と詩人像(七)
小林 稔

34 『饗宴』におけるエロース論
 
 複雑な作品構造と文学性                 
 ある人(アリストデモス)から聞いた出来事をアポロドロスが友人に報告するという形式を取るプラトンの作品『饗宴』は、なぜそのような複雑な形式が必要とされたのか。そこで友人に報告されるソクラテスが語る話は、ディオティマなる女性から聞いた話であり、二重、三重に語りが畳み込まれている。『饗宴 パイドロス』(プラトン全集5)の巻末解説で訳者鈴木照雄氏は、「詩と真実との兼合いの上に立つ芸術家プラトンの腕の見せ所である」と指摘しているが、前々回に、プラトン『国家』において、いわゆる「詩人追放論」で芸術と哲学の分岐線を考えてきた私にとってはそれで終えられることではない。プラトンの作品は、論文調の文体ではなく対話を基調に登場人物がいきいきと描かれているので、文学の範疇に入れられることがあるが、思想的には哲学の古典として後世に影響を与えつづけているのである。いずれ独立した論で詩と哲学の相違を徹底的に考察することにし、いまここでは簡潔に論点を提示することに留めておきたい。鈴木氏は、報告者を登場させる理由に、「本篇の主要テーマの一つにソクラテスの讃美があるということは、文学的に、当のソクラテスを語り手にすることを不可能とする」と指摘する。また、報告の形式にすると、論議しなければならない問題が発生してくる。例えば、語られる出来事の年代、報告された年代があり、この場合に限らないが、プラトンの執筆年代との関係から前者二つが類推されるであろう。(詳しくは『饗 パイドロス』(プラトン全集5)の巻末にある『饗宴』解説を読んでいただきたい。)ある出来事とは、アガトンが悲劇で優勝したときアガトンの邸で催された饗宴(シンポシオン)であり、アガトン三〇歳あまり、ソクラテス四十五歳の前四一六年である。報告された年代は前四〇〇年ごろであり、プラトンの執筆時は前三八五年後数年の間ぐらいであろうと鈴木氏は推定する。
この書物の語り手、つまり報告者が、なぜアポロドロスでなければならなかったのかという問題も当然に起こってくる。鈴木氏の解説によると、アポロドロスは『パイドン』にも登場し、「ソクラテスに傾倒していた情熱的な弟子」で「才気煥発の弟子よりも、創造の才には欠けるが忠実一途の弟子がその役に選ばれる方が、その報告の信憑性も増大するであろうこと」を考慮し、報告の信憑性をもたせる意味で適切であったと指摘している。『饗宴』は集まった人々の一人が座長の役を務め、飲食から始められるが、中心は論議の方であった。詳細は鈴木氏の解説に委ねることにして、ここでは順次なされるエロース論を要約し、そこから問題系を抽出していくことにしよう。
 さて、報告者の語る『饗宴』の話に入ることにする。エリュクシマコスという人物(人物紹介は省略)は、日ごろパイドロスから、「詩人によって昔から多くの神々が讃美され、讃歌や頌歌が作られてきたが、エロースという偉大な神にたいしては誰一人それらを作ってこなかった」ことを耳にしていた。エリュクシマコスはパイドロスのこの主張はもっともなことだと思い、一人ずつエロースの讃美をしてはどうかと、そこに集まった人々に対して発言し、この議題の産みの親(パイドロスは座長に選ばれている)であるパイドロスから始めることを提案したのであった。
 
 恋する人のひたむきさと勇気
 第一話者のパイドロスの話では、エロースは古い神であることが指摘され、それはよき事の根源をなしていると述べられる。ヘシオドスの『神統記』に書かれている、初めにカオスが生じ、次に生まれたのがゲ(ガイア)とエロースの二柱の神であるという記述を証拠としている。そして、「立派な生き方をしようとする人々にとってその一生の指導原理ともなるべきもの」を少年たちに植え付けるものが恋(エロース)と呼ばれるものである。その指導原理とは、「醜いものに対しては恥じ、美しいものに対しては功名を競う心である」。これが国家や個人に偉業を可能にする。少年を恋する者にとって恋されている相手の少年に、自分の勇気を守る勇気がないなど、恥ずべきことをしているのを見られるのは最も恥ずべきことなのだ。恋し合う大人や少年で構成される国家や軍隊においては、エロースは彼らに勇気を吹き込み、立派な国家を作るであろうとパイドロスは語る。神々は「恋ゆえのひたむきと勇気とをこの上ないものとする」一方で、よく知られている、オルペウスが妻を尋ねて冥界に行き連れ去ることに失敗した理由は、「彼が竪琴弾きの歌い手であるため軟弱な人間で」「敢然と恋のために死に赴くことができず、生きて幽界に入ることを策謀したと神々にみられたからである」と説く。ここにも真理を追究し行為する哲学に対する詩の劣性を主張するプラトンの思想の影が揺曳しているように私には思える。反対の例としてアキレウスを挙げる。神々が彼を讃え、「浄福なる人々の住まう島」へ送ったのは、「自分を恋してくれるパトロクロスを援け、その仇を討ち、彼のために死ぬというだけでなく、亡き彼の後を追って討死するというかかる道をあえて選んだからである」という。恋を源とする勇気という徳を神々は讃える。「恋をしている人は神がかりの状態にあるので、恋されているよりもより神のような人である」。この下りは、プラトンの『パイドロス』にある、「最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである」を思い起こさせる。かつてのソクラテスの教えを遵守するパイドロスであればこその発言であり、恋されるよりも恋するという能動性を神々はより讃嘆するとパイドロスはここで述べる。このようにエロースの神は、「徳と幸福を獲得するためにいちばん力を持つ者である」としてパイドロスは話を終えた。

 ウラニア・アプロディテに属するエロースを礼讃する
 第一話者パイドロスの後にはいく人かの話者がいたが、アリストデモスの記憶に残らなかったため省略されている。彼の記憶に鮮明に刻まれていたのが、次のパウサニアスのエロース論であった。パウサニアスはパイドロスのエロースに異論を唱える。エロースの神が一種類であればその通りであろうが、実は二種類であるという。
 「アプロディテはエロースと不可分の関係にあるが、アプロディテの女神は二種類であるから、エロースもまた必然的に二種類である。」(「プラトン全集5「饗宴」の訳注によれば、アプロディテが生まれ神々の仲間入りするとき、エロースとヒメロスが付き従った、という記述がヘシオドスの『神統記』にあり、クセノポンの著作『饗宴』では、ウラニアとパンデモスのそれぞれにアプロディテが祀られているという記述が見られるとある。)一方はウラノスを父とし母なくして生まれたアプロディテであり、もう一方はゼウスとディオネの娘で、パンデモスと呼んでいる。ウラニアとは「天上の」、パンデモスは「低俗の」という意味の形容詞である。このような理由で、それぞれに付き従ったエロースも二種類あるとパウサニアスは語った。
 後者のパンデモス・アプロディテに属するエロースは、その名の通り低俗(パンデモス)で、特徴は少年を恋するだけでなく女性をも恋し、相手の魂より肉体を愛する、さらにできるだけ考えをもたない相手を恋することである。恋の成就だけに心を傾け、愛し方が立派であるかどうかを考えないからだ。ウラニア・アプロディテより若く「出生において男女両性にあずかっているからである」という。
 一方、ウラニア・アプロディテに属するエロースは、男性だけにあずかり女性は関係をもたず、少年への恋に属するエロースである。「この恋(エロース)の霊気を吹き込まれた人々は、本質的に強壮で理性に恵まれたものの方を愛するからして、男性のもとに赴くのである。」と語られ、このような人々が恋をするのは、少年たちが理性を持ち始める時期のことであるという。プラトンの『アルキビアデス1』においても、ソクラテスがアルキビアデスに自己への配慮を説くために、それまで離れていたアルキビアデスに近づいたのは、そのような時期であり、髯の生える頃であった。(『アルキビアデス1』の訳注にあるように、「アテナイでは青年男子は一八歳になると兵役の義務に服し、二ヵ年の訓練を経たのち二〇歳で完全な市民権を得た」という」アルキビアデスは政治家志望の青年であり、市民権を得る時期を間近に控えた少年であるという記述から、おそらく十七歳の終わり頃、あるいは二十歳に達しようとしている年齢と思われる。パウサニアスの語る、「少年たちがすでに理性を持ち始める時期」とは、アルキビアデスのこの年頃を指すのであろうが、それ以前の「年端の行かぬ少年を相手にしてではなく」と断っていることから、「少年への恋」は理性を持ち始める時期から後と解釈される。おおよそ髯の生える年頃が境界線として目印になろう。『アルキビアデス1』で描かれた、ソクラテスを抑止するダイモーン(神と人間の中間に存在する鬼神的存在)からソクラテスが解かれたときと考えてよいだろう。
 少年愛と一般的に呼ばれているが、青年と考えられる年齢であったり、若者愛と呼ばれていたりして統一性がないように思われる。個人差を考慮すればはっきりとした年齢は定義できないことであるが、ソクラテスにダイモーンの抑止があった頃のアルキビアデスは美しい少年であり、多くの求愛者たちを目にしながらもソクラテスはアルキビアデスから距離を取り観察しているだけであった。私の考えでは、少年とは十一、二歳から十四、五歳ぐらいの男子を指す。十五、六歳以降は青年になり始める頃を思い浮かべる。二千年以上も前のことで現在の少年たちとの相違もあろう。しかし私が年齢にこだわるのは、古代ギリシアの書物における少年愛という言葉の使われ方が漠然としているからである。パウサニアスのいう「年端のいかぬ少年」ではなく、「理性を持ち始める時期」の少年への恋は、少年ではなく青年、あるいは若者というべき者たちへの愛と呼ぶべきであるように思われる。しかし少年が一気に青年のある時を境に一気に変貌することはない。少年の面影を残しながら青年の凛々しさの芽生えを混在させる美しさというのもあろう。さらに生涯、少年性をもちつづけ理性と共存させる大人もいる。(少年性については、この「自己への配慮と詩人像」というエセーの後半、「詩人像」で詳細に論じる予定である。)興味深いのは「年端の行かぬ少年」への恋に否定的な理由である。善悪の区別がつかない未成年への悪い影響からではなく、少年の素質を見究め、年長者が無駄な時間を費やさないためという主張である。いま問題にするエロース論では、「髯の生える年頃」の前後において年長者の愛し方が異なるということを強調しなければならない。(少年期を脱した若者がいかに年長者の愛を受け入れ大人になっていくのか、つまり恋される客体から主体(能動性)への移行が若者に課せられたのである。後半の章でさらに詳しく論述する。)
 「恋人が相手の想いを受け入れるのは恥ずべきことである」と考える人がいるが、それは一つには低俗(パンデモス)な恋をする人たちに起因する。また夷狄の支配下に暮らしているところでは僭主制であることから、友情や恋愛は支配者にとって国の崩壊の危機を生じかねないとして人々にそう思わせているのであるとパウサニアスは語る。
 パウサニアスのエロース論の眼目は、恋することそのものが美しいのではなく、行動のなされ方によって美しくもあれ
ば醜くもあるということである。魂よりも肉体を愛する恋は永続性がなく、低俗というべき醜いものであることをパウサニアスは指摘し、ウラニア・アプロディテに属するエロースこそが美しい恋であると述べる。

 恋を寄せられている少年が相手の想いを受け容れるのは美しいことだ、という結果が将来されるべきであるならば、少年への恋(パイデラスティアー)に関するものと、愛知やその他のすべての徳に関するものと、この二つを合して一つのものにしなければならない。なぜなら、恋を寄せている者とその恋人である少年とがそれぞれの習わし(掟)となるものをもっていっしょになるとしよう。その習わしというのは、恋を寄せる者の方は、自分の想いを受け容れてくれる少年にどんな奉仕をしようとも、それは正当な振舞いになるだろう、というのであり、他方恋人である少年の方は、自分を賢く立派な人間にしてくれる者のためには、どのようなことをしてやっても、やはりすべて正当なことになるであろう、という内容のものである。しかも恋を寄せる者の方は、叡知やその他の徳で少年に寄与することのできる者であり、少年の方は人間形成の教養やその他のどんな知恵においても得るところありたいと望んでいる者であるとしよう。さてこういう場合にこそ、上の二つの習わしは一つのものに合するからして、ただここにおいてのみ、恋を寄せられている少年が相手の想いを受け容れてもそれは美しいことであるという結果になる。(プラトン「饗宴」184C~E)

 パウサニアスにとってこのようなウラニア・アプロディテに属する恋(エロース)だけが讃美すべきものである。「恋する者も恋を寄せられている者も自分で自分に気をつけて、徳に向って励まなければならないようにさせるからである。」結果的に、プラトンの描き出すソクラテスの恋愛論にたいへん近いものであると思われる。
 
 分裂抗争から調和を導くエロース
 パウサニアスの話の後を受けて、エリュクシマコスが始める。(訳者の解説と注によると、エリュクシマコスはアルクレピオス医師団に属する医者でありパイドロスの親しい友人であるという。アルクレピオスはギリシアの医神で、後裔と称する医師団にはヒュッポクラテスがいる。)エリュクシマコスは、パウサニアスが述べた二種類のエロースが万物に偏在していることを指摘する。例えば、身体においては健康な部分と病気の部分がある。前者の優秀な部分を持つ恋(欲求)を満足させることは美であり、後者の劣悪な病的部分を持つ恋(欲求)を満足させることは恥ずべきことであると語る。前者と後者を判明し前者を獲得させたり植え付けたりするのが医学であるという。つまり充足と欠乏を取り扱う学問なのである。音楽では、高音と低音が音楽の技術によって協調させるのが有能な音楽である。音の遅速であるリズムも分裂抗争していたものを協調にまで導いていくのが音楽なのである。有能な音楽家であれば「未だ節度に欠けるならばそれを持つ者になれるようにと、その人々の想いを受け容れ、その人たちへの恋を大事にしなければならない」。人間界や神界のすべてにおいて二種類のエロースは見守らなければならないというのがエリュクシマコスの主張である。温かいと冷たいなど、そう反するものが世界には充満しているが、「放縦の悪徳を持ったエロース」が力を持つと貪欲と無秩序が生まれる。それに反して「節制と正義とをもってわれわれと神々とのうちに善事を軸にして実現されるエロースこそがわれわれに幸せをもたらすという。
 エリュクシマコスは、相反するものを和合させる知識で調和へと導くエロースを讃美するが、「分裂抗争しつつもそれ自身と一致統合している」というヘラクレスの考えは「理屈に合わないこと」だとする。エリュクシマコスの主張は、「対立緊張しているものが同時に一致統合して調和を成り立たせる」というヘラクレイトスの考えを否定することになると、訳者の注で指摘されている。万物流転を唱えるヘラクレイトスの自然哲学とは相い容れないものであろう。

 分身を求めるせつない恋の原理
世間の人々が恋の力に気づかず大きな神殿を建て祭壇を備えていないが、人間の幸福がこのエロースの神にかかわっていることを述べ、話を始めるのは次の話者アリストパネスである。(彼は喜劇作家であり、彼の作品「雲」ではソクラテスをソフィストとして風刺した人物である。)恋する情動に対して神々の行為に求めようとしたのである。その昔、三種類の人間がいたとする。男と女、それに男女両性をもつ男女(アンドロギュノス)である。容姿はみな球形で四本の手と足を持っていた。男は太陽の、女は大地の、両性は月の子孫であった。球形であるのは先祖に似ているからである。彼らは驕慢で神々に刃向っていたので、ゼウスは人間を存続させつつ今よりも弱くしようと考えた。それぞれの人間を真二つに切り、二本足で歩かせようとしたのである。「本来の姿が二つに断ち切られたので、皆それぞれ自分の半身を求めていっしょになった」。半身から離れては何もしようとしなかったので飢で滅んでいく者が多く現われた。憐れに思ったゼウスは人間たちを改造し、男と女が生殖ができるように肉体に手を入れ、行なわせた。男同士でいっしょになった者たちも充足感はもたされていたので、仕事などに配慮するようになったという話をアリストファネスは語った。切断されるまえの男や女は半身を求め同性を恋し、かつて両性であった人間がそれぞれの半身、つまり異性を恋するようになる。三種類の恋で最も優れた者は「男性的なものを追求し、その身ががんらい男性の一片であるから、少年のうちは大人の男たちを愛して、その人々といっしょに横になりまとわり付いているのを悦ぶ」男たちである。彼らは最も男らしい者たちで大胆で男らしい。この種の少年たちが成人して政界入りすると、実力を示すことになる。「男盛りになった暁には、少年を恋して、結婚や子供を作ることには生まれつき目もくれないのである。」このようにして人間は太古の姿に戻ろうとし、「恋人といっしょになり溶解されて二人が独りになることを」熱望するのである。神々に敬虔であることを忘れず節度をわきまえれば、自分の分身に巡り会え、自分の意に適った素質の恋人を獲得できる。エロースは私たちの血縁のもとへと導く神であるから讃えるべきであろうというのがアリストファネスの話の骨子であった。
 
 アガトンのエロース讃歌
 エロースは神々の中でも一番若い、しかも永遠に若いことを指摘することからアガトンは話を切り出した。したがってエロースは若者たちと交わることを好み老齢からは遠ざかる。「神は常に等しい者を等しい者へと導かれる」という『オデュッセイア』(第十七巻二一八行)の詩句を訳者鈴木照雄氏は注で引用している。古代ギリシアの思想の根底に絶えず横たわっている考え方であると思われる。エロースは華奢な体をしているので、「神や人間の心根や魂の中に住まいを建てるとアガトンは語る。「均斉がとれたみずみずしい姿に対しては、この神の容姿の優美なことが有力な証拠である」。「花の咲き誇り芳香馥郁たる所があれば、そこに腰をおろし、そして留まるのである」。このようにエロースの美しさを讃美した後でこの神の美徳について語るのである。神や人間の関係において不正を与えたり与えられたりしない、また正義と節制の徳を十分に備えているという。そして「エロースは快楽や欲望を支配するものであるから、際立って節制に富むものということになるであろう」。エロースに触れたら人は皆詩人になり、エロースの知恵によって生物は生まれる。さらに弓術や医術などの発見者アポローンも鍛冶の術をもつヘパイストスも機織の術のアテナも神々と人間を支配するゼウスさえも、技術活動において教えを受けたという点ではエロースの弟子なのであると述べられる。エロースは自ら美しく高貴であるから他の者に対して、同じ類のことの原因になっている。人々には平和を、海原には静けさを、憂いのうちには眠りをもたらし、善き者を顧慮し悪しき者を一顧だにせぬ者、すべての神々と人間を魅了する者であるゆえに見事な讃歌を捧げ従わなければならないと主張するのであった。アガトンのこれらの話の後で、ソクラテスはアガトンに質問を始める。おなじみのソクラテスの対話がすでに始まっているのだ。

 エロースは何者か
 エロースとは対象への恋なのか、それとも対象のない恋なのかをソクラテスはアガトンに問う。対象への恋、つまり、あるものへの恋であると答えるアガトンに、対象を欲求するものかどうかという質問に、アガトンは欲求すると答える。エロースが欲求するときは、対象を持っていないときのことであること、さらに現にあるものを欲求するとは現在持っているものを将来にわたって存在して欲しいときであることを、ソクラテスとの問答で進められ了解された。「するとそれは、彼の手もとにはなく彼のものともなっていないあの事態を欲求すること、つまり、あのいろいろなものが将来にわたって無事に彼のものとして欲求すること、ではないか」という問いかけにアガトンは頷いた。エロースとは美への恋であるならば、エロースは美を持っていないことになる。「それでは、もしエロースが美しいものを欠いており、しかもよきものは美しいものであるとすると、エロースはまたよきものを欠いていることになるだろう」というソクラテスの言葉に、アガトンは論理の袋小路に追い込まれたのである。
 
そこでソクラテスは、かつてマンティネイアの婦人ディオティマから聞いたという話を始める。訳者は解説で、このデ
ィオティマなる人物はプラトンの虚構であろうと推定する。なぜならディオティマという言葉は、「ゼウスからの名誉を持つ女性という意味。ゼウスは万物を操る知者であるゆえ、上のような名の彼女は抜群の知者であることが寓意されている」(プラトン全集5「饗宴」解説)からである。ソクラテスが語るエロース論は、かつてのディオティーマなる女性との対話を聞かせるという構造をもつ。アガトンが先にしたように、エロースとは何者で、いかなる性質を備えているかをまず述べ、それからエロースの働きについて論を展開していくことになる。
 「エロースは偉大な神であり、美しいものに向うものである」というソクラテスの賛辞に対して、ソクラテスがアガトンに尋ねたように、美しく高貴である神がさらに美しいものを欲求するであろうかと聞かれ、結果としてエロースは美しいものではなくよいものでもないという認識を迫られ、自己矛盾を指摘される。神であるからには美しくもなくよくないものであるはずがないからである。ディオティマはきっぱりと主張する、美しいものと醜いもの、賢いものと無知なるものの中間にあるものの存在を。知と無知の中間にあるものとは正しい思いなしであるという。「正しいことを思いなしながら説明することができないというのは、知識を持っていることにはならない。とはいえ無知でもない。」エロースの神に対して、論理的に美しくないものと導き出されたからといって、それが醜いものであるとすることは間違いであり、中間的なものを考えなければならないとディオティマは説明するのであった。「では一体エロースはなんですか。それは死すべきものなのでしょうか」というソクラテスの問いに、「とんでもない。先に言われたものと同様、死すべきものと不死なるものとの中間にあるのです」と彼女は答えた。さらにソクラテスは尋ねると、「偉大なる神霊(ダイモーン)ですよ、ソクラテス。そして神霊的なものはすべて神と死すべきものの中間にあるからです」という返答があり、その働きとは何かという問いに対して、神と人間を媒介するものであり、「真中の空隙を充たし、世界の万有が一つの総合体であるようにとしている者である」という。「人間から祈願と犠牲とを、神々からその命令とさらには犠牲の返しとを」伝達し送り届けるのだと述べた。つまり、神と人間の交流はこの者を通して行われなければならないのである。「卜占術を行なう者や犠牲式、秘儀、呪禁、あらゆる予言と魔術に携わる聖職者は、この、神霊を通してのこと」であるという。他に、技術に関する知者も同様であり、彼らが力を授かる神霊は数多くいて種類もありとあらゆるものがあるということであった。
 エロースの出自についてディオティマは次のように語る。アプロディテが生まれたとき、祝宴の席にメディスの子ポロスがいた。ポロスは酒に酔いゼウスの園に入り込み、酔いつぶれて眠ってしまった。祝宴にベニアがやってきていてポロスの子を宿そうと思い臥してエロースを身ごもったのだ。(訳者の注によると、ベニアという言葉は「貧乏」を意味し、それを人格化したものであり、彼女は貧窮していて至福の神ではないから神ではありえないといえる。つまりエロースのうちに非神的要素が考えられるという。)このようにアプロディテの誕生の祝宴で身ごもったということから、エロースはアプロディテに仕える者となり、「美しいものを恋する者」になったのである。母ベニアから引き継がれた貧窮、つまり「欠乏と同居する者」であり、父ポロス(訳者の注によると、ポロスは道を意味し、ここでは方策、術策、資源、財源、豊富という意味で用いられた神格化されたものであるという。)からは引き継がれた素質を所有する、「美しいものとよきものを狙う者」であり、「勇往邁進し、懸命努力する者であって、手ごわい狩人、常に何らかの策略をあみ出す者、熱心に思慮分別を求めてこれに事欠かぬ者、生涯にわたって知を愛しつづけ、すぐれた魔術師、妖術師にしてソフィストであったとディオティマは説明した。
 このようなエロースの出自からさらに具体的にエロースの性質についてディオティマは次のように述べるのであった。エロースは不死なるものと死すべきものの中間なるものであることから、

「知はもっとも美しいもののひとつであり、しかもエロースは美しいものに対する恋(エロース)です。したがって、エロースは必然的に知を愛する者であり、知を愛する者であるがゆえに、必然的に、知ある者と無知なる者との中間にある者です。そしてエロースの場合、その出生がまたしてもこのことの原因になっているのです。つまり、その父親は知恵あり方策に富む者ですが、母親は知恵なく困窮している者だからです。……(中略)……親愛なるソクラテス、あなたは恋される対象の方をエロースと考えて、恋するものをそれと考えなかったようです。思うにこのゆえに、あなたの目には、エロースがまったく美しいものと映じたのでしょう。なぜなら、恋される値打ちのあるものはまた、真に美しく、繊細、完全で、その至福はまさに羨望に値するというものですが、しかし恋する者の方はそれとは別の、私が説明したような性質の持主なのです」(「プラトン全集5 饗宴」203B~C)

 

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