ヒーメロス通信


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「間文化意味論の試み」 小林稔評論「意識の形而上学」(井筒俊彦)を読む

2016年01月08日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論」を読む・第四回

小林稔

 

間文化意味論の試み

 

『大乗起信論』では意識論と存在論は「密接不離の絡み合い」として進展すると井筒氏はいう。つまり思想の中心軸をどちらに置くかによって、意識面と存在面のどちらかが表面に表れるのだが、本性的に『起信論』(『大乗起信論』を以下このように表記する)は唯心論の立場を取るので意識の面に根底を置き哲学を構築していかざるを得ないと井筒氏はいう。

 

大乗の実体とは、一切の衆生が内にそなえている心(「衆生心」)に他ならない。一切の世間の法(迷い)と出世間の法(悟り)はことごとくこの「衆生心」の中に含まれているのであって、この「心」にもとづいて大乗の義理を明らかにすることができる。           『大乗起信論』第二章 問題の所在

 

 井筒氏によると、衆生心とは「一般大衆の心」であり、上記した文は意識論に置くという姿勢の宣言であるという。このように決定的に唯心論的思想コンテクストにおいて存在論はどのような位置を占めるのであろうかと井筒氏は問い、言語的意味分節は意識分節と存在分節の双面構造であると指摘し、『起信論』の「忽然念起」を引用し説明している。

 

 いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。「念」が起る、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ヌ意識の分節が起る、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。        井筒俊彦『意識の形而上学』

 

『起信論』には唯「心」論的思惟傾向があるため、つまり存在概念の中に意識性が深く浸透しているために、ここでの存在論は人間的であり、主体的・実存的であり、情意的ですらあると井筒氏はいう。井筒氏はこの論考で『起信論』で使われた「心」を「意識」と置き換えて展開することを次のように説明する。「心」と「意識」に間には意味上の大きな差異がある。意識とは現代思想における文化的普遍者としての「意識」である。そのホンヤクの意義を考え、意図的に積極的に意味のズレを利用し、東洋哲学の世界における、一つの間文化的意味論の実験を試みるのだと井筒氏はいう。このように「意識」を仏教術語の「心」と置き換えることで、思想のダイナミズムを生み出そうとする。それは意味の「ズレ」を解消するのではなく、相互の働きかけを通じて「心」を活性化させ「意識」に深さを加え我々の言語意識をアラヤ識の育成に向かって深めていくになると井筒氏は説明している。

したがって「意識」といっても個々人の心理機構ではなく超個人的・形而上学的意識一般の、純粋叡知的覚体といいうるものであると井筒氏はいう。ユング心理学の集団無意識の「超個」性を考えてみるとよいと指摘する。集団的無意識とは、集団的アラヤ識の深層における無数の言語的分節単位に見られるように、超個人的共同意識を想定し、主体を汎時空的規模に拡大し全人類(一切衆生)まで広げて考える必要があると井筒氏は解釈するのである。「一切衆生」包摂的な意識フィールドの無限大の拡がり、と彼は表現し、これが『起信論』は「衆生心」と呼んでいるのだという。このような意味で「意識」は「存在」と完全に相覆うことになる。

 このようにして『起信論』はさらに進められるが、この間文化的意味論の試みについて井筒氏は追記する。古代中国が仏教の経典や論書を組織的に漢訳した時の、古典中国語に生起した間文化意味論的事態や、イスラーム文化史の初期、アッバース朝の最盛期に、ギリシャ哲学の基本的典籍が大規模な組織でアラビア語に翻訳された時の古典アラビア語に生じた事態は、まさに間文化意味論性の重大な意義を私たちに教えている。今、実践しようとしている試みが巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われるなら井筒氏の唱える「言語アラヤ識」は注目に足るだけの汎文化性を帯びるだろうと彼自身主張している。彼が残りの人生をかけた「共時的構造化」の壮大な哲学の構想が浮かび上がっていたであろう。

 

次回、第五回では間文化意味論的思考が奮起され、第二部の「存在論から意識論へ」が始められていく。

 

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