ヒーメロス通信


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元型」イマージュと言語アラヤ識 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月21日 | 井筒俊彦研究

連載/第十五回

「元型」イマージュを生む言語アラヤ識領域と中間地帯(M)

 小林 稔

 

  シャマンの超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め、シャマン的神話を変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識をさらに越えた哲学的知性の第二次的操作が要る。古代中国の思想界では、荘子の哲学が、シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想だ、と井筒氏はいう。(P199)

  「想像的」イマージュは、深層意識的イマージュであり、「本質」論のつながりでは、事物の「元型」(アーキタイプ)を形象的に提示するところに成立し、つまり、「元型」の形象化を通して事物の本質を露呈させることなのだと井筒氏は指摘する。

 今回は『意識と本質』のⅨ(P205)から読み解いていこう。

 「元型」とは人間の実存に深く喰い込んだ生々しい普遍者であると井筒氏はいう。フィリップ・ウィールライトは、ゲーテの「根源現象に結びつけ、真の詩的直観のみが、世界内の事物をそれらの「元型」において把握する、「具象的普遍者」と呼んだという。個々に事物を個々の事物としてではなく「元型」で把握する、つまり「元型」は「想像的イマージュ」として深層意識に自己を開示する「本質」であるということであると井筒氏は解く。カール・ユングは彼のいう「集団的無意識」が「元型」的に規定された構造を持つといっているといっているのだということを井筒氏は指摘し、「元型」とは、集団的無意識」または「文化的無意識」に深みにひそむ、一定の方向性をもった深層意識的潜在エネルギーであるという。

 「元型」イマージュは人間の存在経験の方向をあらかじめ規定するもの(原初的)であり、事物の「本質」であっても、どのようなイマージュとして現われるかは誰にもわからないものであり、このような「元型」イマージュ的「本質」とプラトンのイデア的「本質」とはまったく違うものであると井筒氏はいう。文化ごとに顕現形態が違うのはもちろんのこと、同一文化内でも複数のイマージュ群が生まれるが、それでも一つの「元型」方向性を感得できるし、「本質」を象徴的に提示すると井筒氏は解く。古代中国の「易」の全体構造は、転地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系であると井筒氏は読み解く。そして聖人の深層意識に映し出される存在世界は、一切事物と事態の「元型」的形象のマンダラとして現成するという。

 井筒氏は深層意識構造を説明している(P214)。最下の一点は意識のゼロポイントであり、その上の層が無意識。深層意識領域は全体が無意識層だが、意識化に向かう段階を考えて、この領域を無意識の領域とする。その上が意識化に次第に向かう胎動を見せる領域である。ここが言語アラヤ識の領域であると井筒氏はいう。意味的「種子」(ビージャ)が潜勢性において隠在する場所である。唯識哲学から井筒氏が借定したものである。ユングの、集団的無意識の領域であり「元型」成立の場所であるという。その上の領域に「想像的」イマージュが生起し、神話と詩の象徴化作用の機能を発揮する領域である。しかし、井筒氏によれば、この領域は象徴化だけでなく他の働きもあるという。チベット密教の専門家であるという、ラウフの分析では、深層意識のイマージュ現象を三つのプロセスで解いていると井筒氏はいう。①「元型」→②「根源形象」→③シンボルとする。

 無意識の領域に成立する「元型」は、無意識と経験的意識の中間地帯で「根源形象」、つまり、「想像的」あるいは「元型」的イマージュとなって形象化する領域であり、「元型」的イマージュが表層意識の領域に出て記号に結晶したものが「シンボル」である。つまり、「シンボル」は本来、強烈なエネルギーの充満する深層意識領内で生起するが、ここで「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、平凡に見えていた日常的事物がたちまち象徴性を帯びていく。花はもはやただの花ではない。井筒氏が語りたいのは、この「元型」イマージュの第二次的機能ではなく、「元型」イマージュのそれ自体の第一次的機能であるという。

  無意識の領域のすぐ上にあるのが言語アラヤ識の領域であることはすでに触れたが、そこではいろいろなイマージュを生み出しているが、その多くは経験界に実在する事物のイマージュであると井筒氏はいう。これら、外界に対応物を持つイマージュは、経験界の現実の事態に刺激を受けて発生し、そのまま表層意識に上昇し、そこで事物の知覚的認知を誘発する。しかし、「元型」イマージュは外界に直接の対応物を持たないと井筒氏はいう。例えば、神話の主人公の英雄のイマージュや、仏教のイマージュ空間に咲く花は現実の花に「似ている」が現実の花の直接のイマージュではない。したがって「元型」イマージュは表層意識まで到達しないで、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯にとどまる。ここが「元型」イマージュの本来の場所であると井筒氏は説明する。禅においては、ここに現われる不思議なものは虚妄で根拠のないものとする。禅宗第五祖、弘忍(601-674)は坐禅する初心者に向かっていったという、坐禅していると瞑想状態にあるお前の目の前に、あるときは巨大な光が燦然と輝きながらお前の身体から発出し、あるときは仏陀が肉身の姿で現われる、また多くの不思議なものが猛烈なスピードで互いに変融し合う有様が見えるが、静かに心を保ち、決して注意を払ってはならない、それらはすべて虚妄で無根拠なのであり、お前自身の妄念の働きで見えるだけなのだからと。(『修心要論』)

 シャマニズムや密教では、このようなイマージュに意義を認めるという正反対の立場であると井筒氏はいう。それではそれらは、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯、意識のM領域で果す役割とはどのようなものなのかを、井筒氏は次の章、(P220)で考察する。

 

 

次回、第十六回につづきます

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