ヒーメロス通信


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道元「山水経」に見る「水の現成」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月26日 | 井筒俊彦研究

連載/第十三回

小林稔

 「水、水を見る」。道元が「山水経」に説く「水の現成」とは。

 

無「本質」的分節なるものが、いかにして「本質」抜きで成立するのか。

以下、井筒氏の言説を追ってみよう。(P168~180) 

 「本質」とは元来、存在の限界付けである。存在界を一つの全体と見て、これを現実と呼ぶ。その中の一つの部分を他から切り離して独立したものと見立てる。これが「本質」である。こうして局所的に措定された「本質」をめぐって一つのものが組み立てられる。コトバによって名指しされるものは、このような形で私たちの意識に現前する。これが分節Ⅰである。このような経験的世界を大乗仏教は妄念の世界、空華、と呼ぶ。分節Ⅱを真の現実(真如)と考えるからである。分節Ⅱが分節Ⅰと分かつのは無分節である。存在の究極的無分節態は、存在(存在=意識)のゼロ・ポイントであり、意識と存在の二方向に分岐して展開する創造的活動の発出点である。しかも無分節者が最高度の存在充実である。

 「無」に瀰漫する存在エネルギーが発散してものを現出させる。

 分節Ⅱにおいてそのものを覚知する。この次元の意識にとって、経験的世界(現象界)の事物の一つ一つが、無分節者の全体を挙げての自己分節なのである。「無」全体がそのまま花となり鳥となる。局所的限定ではなく、現実の全体が花であり鳥である。つまり無「本質」的なのであると井筒氏はいう。この存在の次元転換(分節Ⅰと分節Ⅱの転換)は瞬間的出来事であるから無分節と分節は二重写しになる。すなわち「花のごとし」である。

 すべてのものが無分節者の全体の顕露であるがゆえに分節されたものが他のものを含む。

  「しるべし、解脱にして繋縛なしといへども、諸法住位せり」(道元)

 水は水の存在的位置を占め、山は山の存在的位置を占めて、それぞれ完全に分節されてはいるが、しかしこの水とこの山とは「解脱」した(無「本質」的)水と山であって、「本質」に由来する一切の繋縛から脱している。ところが、分節Ⅰにおいても水が低所に向かって流れるだけと見るのは偏った見方である。地中を流通し、空を流通し、上に流れ、下に流れ、川となり、深い淵となり、天に昇っては雲となり、下っては流れを止めてよどみもする。しかしこのような分節Ⅰの境地にとどまっている限り、水の真のリアリティーはつかめない。分節Ⅱでは無分節者が全エネルギーを挙げて、自己を水として分節する。 

「水のいたらざるところあるといふは、小乗声聞教なり。あるひは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり。心念思慮分別裏にもいたるなり。覚知仏性裏にもいたるなり」

「一切衆生、悉有仏性」という根本命題の存在論的意味である。一滴の水の中にも無量の仏国土が現成するとも言われる。しかし、水の中に仏土があるのではなく、水すなわち仏土なのである。水の所在は過去、現在、未来の別を超越して、どの特定の世界にも関わりがない。しかし水は水として存在する。したがって「仏祖のいたるところには水はかならずいたる。水のいたるところ、仏祖かならず現成するなり」。

 『正法眼蔵』第二十九「山水経」の中で、道元は無「本質」的分節の自由性を、彼独自の先鋭な論理で考究しているが、「山水経」の主題は、有「本質」的分節のために枯渇している存在を、無「本質」的次元に移して、本来の生々躍動する姿に戻そうとすることにある。無分節者が自由に不断に分節していく。私たち人間が感覚器官の構造とコトバの文化的制約性に束縛され行なう存在分節は分節様式の一つに過ぎず。例えば、天人の目になり、魚の目になって、新しく分節し直してみればわかるということを道元はいっているのだと井筒氏は解釈する。しかし道元の存在分節論はさらに続き、先に挙げたような視点を含めた高次の視点に表われる「髄類の諸見不同」を超えて、「水、水を見る」ところに跳出しなければならないと道元はいうと井筒氏は説明する。

「水が水を見る」に至って、分節Ⅱは幽玄な深みを露にする。水が水そのもののコトバで自らを水と言う。水の自己分節。水が水自身を無制約的に分節する、これが水の現成であるが、水が水自身を水にまで分節するということは分節しないのと同じであり、分節しながら分節しない、それこそが無「本質」的存在分節の真面目であると井筒氏はいう。

 井筒氏は、「本質」否定論に対立する「本質」肯定論の第一の型である、宋儒の「格物窮理」を説明するついでに、正反対の.禅の無「本質」論を取り上げ、より明確にしようとしたが、その他これから井筒氏が述べようとするであろう肯定論の第二型においても対立を明確にするという理由があってのことなのだという。

それでは、その肯定論の第二型とは何か。井筒氏の言葉を下記に引用すれば、

 {詩的想像力、あるいは神話形成的想像力によって深層意識のある特殊な次元に現われる元型(アーキタイプ)的形象を、事物の実在する普遍的、「本質」として認める一種の象徴主義的「本質」論の立場である。グノーシス、シャマニズム、タントラ、神秘主義などなど。東洋哲学の領域において、顕著な位置を占め、その広がりは大きい。何処からともなく湧き起こって、意識の仄暗い深層にうごめきつつ、そこに異様な心象の絵模様を描き出す元型的「本質」。その世界を、無「本質」主義の禅はまったく知らない。あるいは知っていても、全然問題にしない。}

 Ⅷ P180~

 ここから第二型の肯定論に入る。(第一型の肯定論は、宋儒の「格物窮理」であった。)

 人間の表層意識に出没する怪物たちの棲息地は深層意識内である。ふだんは姿を現さない。この内的怪物たちが深層意識領域にとどまる限り、あるべき形で働く限り、それぞれの役割があり、時には幽玄な絵画ともなり感動的な詩歌を生み出すものをもっていると井筒氏は指摘する。チベット・ラマ教美術の不気味な空間に浮かぶ異形のものたち、胎蔵界マンダラの外縁、外金剛部院を充たす地獄、餓鬼、畜生、阿修羅など輪廻の衆生。本来の深層意識の観想地域を離れて、表層意識に出没し、日常世界をうろつき廻るようになるとき、人間にとって深刻な実存的、あるいは精神医学的な問題が起こってくると井筒は解説する。心理学では、イマージュ形成こそ、人間意識の、他の何物によっても説明できない、最も本源的な機能であるといわれていると井筒氏はいう。ここで井筒氏が言おうとするのは、イマージュの場所は、深層意識だけではなく、表層意識にもあって、イマージュの性格も働き方も根本的に違うということであり、どう違うのかが、これからの論点になる。

 

以下、第十四回につづく

 

 

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