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ヒーメロス通信


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長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十七)その二・詩誌「ヒーメロス」25号、10月25日発行

2013年11月21日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』〈十七)その二

小林稔

 

 キリスト教的経験とパレーシアの変遷

 ユダヤ・ヘレニズムのテクストにおけるパレーシアについて、フーコーはヘブライ語が理解できない

ので既存のテクストに依らざるをえないことに言及する。そのテクストとは『キッテル新約聖書神学辞典』の「パレーシア」の項目におけるシュリーアの研究と『カトリック聖書研究』詩のスタンレー・マローによる「パレーシアと新約聖書」という論文であるが、それらを要約すると、一、伝統的意味のパレーシアという語の用法が見られるということ。大胆さと勇気という形態における〈真なることを語ること〉、心の完全さの帰結としての〈真なることを語ること〉という意味での使われかたである。それは、アレクサンドリアのフィロンの『特別な立法について』のなかで、神秘を伴う宗教形態を断罪する箇所で、キュニコス派と同様のことを語っているに過ぎないのだが、「自然はその栄光ある作品の何ものも隠しはしない」のであれば、万人にとってその行動が有益であるような人々は完全な表現の自由を用いなければならない、そうした人々にパレーシアがあって欲しいということが書かれているとフーコーはいう。二、一般的有用性が示され、ギリシア・ヘレニズムの伝統に依存した意味が見られるが、フィロンや七十人訳聖書のテクストでは、パレーシアという語の根本的変更が見られるということ。そこではパレーシアは個人の勇気を示すものではなく、神の視線に自らを差し出す心の開示、つまり魂の透明性のようなものと受けとめられていて、それと同時に純粋な魂の上昇運動が起こり、その魂が全能の神のもとへと高められる。個人と他の人々との水平的関係ではなく、神との関係という垂直軸の上に位置づけられるとフーコーは指摘する。七十人訳聖書のテクストでは、「そのとき、あなたは全能者から無上の喜びを得て」の部分のヘブライ語のテクストをギリシア語に訳すとき、「パレーシアゼスタイ」という動詞を用いているという。パレーシアという意味が伝統的な意味を変えて非―隠蔽としての真理、魂が神のもとへと高められ神の高みへともたらされて神と触れ合うような関係、魂が自ら浄福を見出すことができる関係への意向があるとフーコーは指摘する。フィロンにも多少同様な表現が前記のテクストに見られるという。自分の良心の純粋さから出発していのることのできる者はパレーシアの能力を持つと書かれているという。もはやパレーシアは「語る」ことではなく、神に対する魂の開示である。三、パレーシアを、神の一つの属性、資質、さらに神の一つの賜物としてあらわされる。『箴言』(七十人訳聖書)には「知恵は街路で叫び、広場に声を上げる。雑踏の入口で叫び、城門のそばで街中で語りかける」という箇所があり、パレーシアは知恵の叫びと表現されているとフー。神の溢れんばかりの現前ないし神の機能がパレーシアと呼ばれていると指摘する。人間と神との存在論的関係の内部へとつまり神のもとへともたらされる人間の至福、浄福へとパレーシアを移動させている。また新約聖書ではパレーシアは人間の一つの存在様式、一つの活動様式を示しているとフーコーは指摘する。つまり、パレーシアは神と人間を結び合わせるための絆のなかに、あらゆるキリスト教徒がもちうる確信であり、そうしたパレーシア的信頼によって祈ることが可能になり、人間は神との関係を結ぶことができると考えられていた。フーコーは、「ヨハネの手紙」五の十四、「もし私たちが神の御意志に従って何かを願うならば、神は聞き入れてくださる、これが神に対する私たちの確信です。」という記述の「確信」というコトバに「パレーシア」という言葉でギリシア語に翻訳されていることを指摘し、そこに見られる「服従の原則」のなかでの神への信仰と永遠の命を持つことの確信、神に向ける願いと神の意志である願いとの循環のなかにこそパレーシアが根を下ろしていると指摘する。つまりパレーシアは「確信」であり、神が耳を傾けるという「信頼」であり、そのようなパレーシア的態度に基づいて最後の審判の日の終末論的信頼も可能になるとフーコーはいう。さらに、新約聖書のテクストでは、福音を説き勧める者の勇気ある態度のしるし、使徒の使命に適った「徳」のことであり、ギリシア・ヘレニズム的な考え方と近いものが見られるとして、「使徒言行録」のパウロの行い、ギリシア人たちとの議論との戦いを通して、命を危険に晒す事実がパレーシアの徳を特徴づけているのだとフーコーはいう。つまり神への「信頼」と「徳」としてのパレーシアがあることを指摘する。

 紀元最初の数世紀とその後の時代になるとさらに複雑になる。ギリシア人においては、パレーシアは人々に声をかけ彼らを誤謬から真理に連れ戻そうとする勇気であると同時に、好き勝手に話す自由な、無政府状態でもあったという両義性、つまりポジティヴな面とネガティヴな面がキリスト教世界にも移し換えられたことをフーコーは指摘する。先述したギリシアに見出されるパレーシアに近い、「あらゆる脅威にもかかわらず主張する勇気」、殉教を受け入れるという点で有徳かつ有益なパレーシアが見られる。一方では、パレーシアは神への信頼であるような勇気、救済への信頼、神の全善への信頼、神が聞き届けてくれることへの信頼がパレーシアに通じているとフーコーは分析する。ソクラテスないしディオゲネスの勇気と殉教者の勇気との差異は、彼らが他の人々に向ける一人の人間の勇気であるのに対して、キリスト教徒の勇気は神への信頼が根底にあることであるとフーコーはいう。これがキリスト教に見られるパレーシアのポジティヴな側面である。しかし人間の自分自身に対する信頼が希薄になっていく。フーコーによると、神への服従の原則によって、神を恐れなければならなくなるにつれて、自分自身に対する不信のテーマ、沈黙の原則が発達してくる。神への信頼としてあったパレーシアは、傲慢さや思い上がりとして現われることになる。五世紀、六世紀になると、キリスト教のなかで権威の構造が発達するにつれ個人的な修徳主義が制度的構造の内部に取り込まれていく。つまり神との関係を、個人が自分の心の開示では持つことができず、権威の構造を介してしか持つことができないとすれば、個人は自分自身に不信を抱かなければならなくなるとフーコーは解く。自分自身は自分自身にとって不信の対象になり、最終的には自分自身のうちに悪以外の何ものも見出せなくなり、人間にとっての救いとは、唯一、自己を放棄し、服従の原則を実行に移すことになる。そうなれば、パレーシアは欠陥、危険、悪徳の信頼に照らされた信頼として再登場せざるをえなくなり、咎められるべき、批判されるべき行動様式になるとフーコーは分析する。

 例としてフーコーは、『砂漠の師父の言葉』からのいくつかのテクストを取り上げる。一人の若い修道士がアガトンのところに来て兄弟たちといっしょに暮らしたいというと、アガトンは「あなたが彼等のもとに赴いた最初の日のように、日々常によそ者意識を持ち続けなさい。あまりに彼らと打ち解けることのないようにしなさい」「パレーシアは、強い熱風に似ている。それが吹き荒れるとき、人は逃げ惑い、木々の実は無に帰すのだ」と説教する。フーコーによれば、共同生活で修徳主義の実践のためにやって来た若い修道士の、典院の権威のもとで共通の規則に従う生活に存在する危険、つまり自分自身にも他の人々にも不信を抱かず全面的な信頼のもとで生きる危険を記述している。パレーシアの実践によって本当の修徳主義的生においてなすべきことを忘れてしまう危険であるという。この段階でのパレーシアを要約すれば、パレーシアとは死や罪を考えないことによって神への畏敬を自己の遠くへ追い払うもの、死の瞬間に起こることへの恐れや最後の審判における罪への恐れから、身を引き離してしまうものである。さらに神を恐れぬだけでなく、自分自身にも用心せず、我々の行いを吟味しないものである。つまり、世界への信頼、他の人々とともに生き人々の行いや語ることを受け入れる習慣における絆が、世界に対して持たなければならぬよそよそしさに敵対し対立することになるとフーコーは指摘する。自己への配慮であるパレーシアがここにおいては逆転しているという。他の人々に敬意を払わない、つまり慎みの欠如というストア派やキュニコス主義的な問題が準拠されていると考えられることもできる。ここで見出されるのは他の人々への敬意を必要としない、自己への信頼としてパレーシアが存在し、服従の問題がパレーシアの価値の転倒の核心にあるとフーコーは指摘する。

 キリスト教的経験における二つの大きな母型として、フーコーはパレーシアの極と反パレーシアの極があるという。前者はポジティヴなパレーシアで、前述したように神の愛への信頼、最後の審判の日に神が人間を迎え入れるやり方への信頼である。このようなパレーシアの極は、キリスト教の神秘主義的伝統の起源にあったものであるとフーコーは把握する。つまり、心が神に開かれるほど十分純粋である者に対して、神は救済を保証し、神との永遠の向かい合いを許すことによって答えるという考え方である。後者は、修徳主義的伝統を創設するものとしての反パレーシア的な極である。ここで真理を打ち立てられるのは、神への恐れと畏敬による服従においてのみであり、誘惑や試練を通した疑い深い自己の解読というかたちにおいてのみであり、歴史的、制度的な面から考えれば、後者の極が重要であったといえるとフーコーはいう。後者にとっては、パレーシアは疑いを持ち実践するものであり、それに対抗するようにして前者のパレーシアは困難を伴いつつも存続してきたのだとフーコーは主張する。

 修徳主義的な後者の反パレーシア的な極の発達とともに、以後、真理の認識と自己の真理との間の諸関係をめぐる問題は、真理本位の生存であると同時に、自己についての真理を認識できる生存でもあるような別の生存の完全なる形態をもはや取ることはないだろうとフーコーは指摘する。自己認識は魂の浄化のための、神との信頼関係に達するための前提条件になるだろうとフーコーはいう。つまり、真の生はその条件を充たさない限り到達できないものになってしまったのだ。この世で自己を解読することは、自己および世界に対する不信、神に対する恐れとおののきのなかで自己自身を解読することでしかなく、それが真の生に到達する方法である。キュニコス主義において真理本位の真の生を生きる可能性を肯定した古代の修練主義が、キリスト教敵修徳主義によって根本的に変容されたのだとフーコーは結論した。

 

46 『「自己への配慮」と詩人像』前半の総括と補記

 

 フーコーの書物、『知の考古学』(一九六九年)の訳者、慎改康之氏の解説(『知の考古学』河出書房新社二〇一二年に収録)によると、この書物は「人間学の問題化という十年間にわたる一つの任務を継続し、それを仕上げようとするものである」という。十年間とは、一九六一年の『狂気の歴史』、一九六三年の『臨床医学の誕生』、そして、一九六六年の『言葉と物』が書かれた時期を指す。それ以前の、つまり五十年代のフーコーの著作、一九五四年の「『夢と実存』(ルートヴィヒ著)のフランス語訳の序文」や同年の『精神疾患とパーソナリティ』でフーコー自らおこなっていた思想の基底を批判する。つまり「人間の言語や人間の実践が制御されていることを示しつつ、長年にわたって思想界を支配してきた実存主義的人間主義を根底から脅かすものとして六十年代の著作は機能しえた」と指摘、『知の考古学』もまた同様の考えを主張するものであると慎改氏は主張する。したがって人間学的な思考からの自らの決別という意味もあったのである。慎改氏の言葉を借りれば、「自己自身から身を引き離すための努力」だったのである。『知の考古学』では、フランスの思想界を支配してきた人間主義的な思考と自分の思考を区別し、問題化することであり、そのことが構造主義とみなされる一因でもあったのだが、フーコーは、「言語的タイプの形式化」ではないことを強調しつつ構造主義者の一人として分類されることに異議申し立てをしたのである。構造主義とは、「人間の意識にそのすべてが与えられていない規則によって人間の「語られたことの総体を語られたことそのもののレヴェルにおいて扱うものとし、それに対して自らの歴史研究を特徴づけ、伝統的な思想史の任務との対比によって明らかに示そうとした」ものであると慎改氏はいう。

 それでは人間学的思考から解放された、フーコーのいう「考古学」はいかにして可能なのか。フーコーによると、まず第一に、連続性のテーマからの解放と、起源の探索や伝統の再構成、進化を辿り目的論を企画することをやめることである。なぜなら連続的な歴史と人間学的思考は共犯関係にあるからである。フーコーの『知の考古学』を読み取ることは別のところですることにして、この私の論考で問題になるのは、一九八四年の講義録『真理の勇気』で展開される「真理表明術」の諸形態に関する研究である。「講義の位置づけ」として掲載されたフレデリック・グロによると、それまでのフーコーの「考古学は、構成された知を構造化するものとしての言説の組織化を明るみに出」すことによって「認識論の規範と科学史の規範から同時に逃れることになった」のだと主張する。以後、フーコーは、「真なる言説に対して、その形式可能性や段階的発見の諸条件をめぐる問いではなく、それが存在するための歴史的かつ文化的諸条件をめぐる問いを提出したのだ」という。つまり認識論的諸構造に関する分析と、「真理表明術」の諸形態に関する研究との差異を明確にする。後者が提出するのは、「主体が自己の自己及び他者との関係をある種の〈真なることを語ること〉に依存させる際の、主体の倫理的変容についての問いを提出したのだ」とグロはいうのである。この私の論考で『真理の勇気』を読んできた読者には納得されることであろう。一九八二年以降、パレーシアなる概念を基軸に「真なる諸言説の存在論」を展開した。その内在する諸形式ではなく、「それを用いる主体の存在様式に関する問いを提出するような研究」であり、それは論理的形式による諸言階層化という、アリストテレス以来の伝統的な類型学ではなく、古代文化における真理陳述のスタイルについての独自の類型学によって、真理の主張が合意する自己及び他者との関係のタイプを考察しようとしたのだとグロはいう。

 再び『知の考古学』の訳者、慎改氏の解説を引用すると、フーコーは若いころ「人間主義的なマルクス主義へ帰属し、人間学的な思考に完全にとらわれていたが、そこから身を引き離そうと書かれた書物が六十年代の彼の努力の結果であるという。この自己からの離脱という企ては、まさに「主体の隷属から解放されること」で可能になる。つまり「考古学的」記述は自己の連続性を切り離すために有効なのだ。七十年代の彼の著作『性の歴史』では、「主体に何らかの真理が組み込まれる際に作動する権力のメカニズムを読み解こうと試みる」ことになるが、八十年代になって当初の構想の大幅な変更を迫られる。主体と真理の関係をめぐる問題を別のやり方で提起する必要が生じたのである。『性の歴史』の第二巻「快楽の活用」で語られているのは一貫して彼が述べている「自己からの離脱への欲求」であった。

 (私を駆り立てた動機はというと)、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであてはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもも思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方は異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そういうことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえすればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったいなんであろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索するこが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とはなんであろう? (『性の歴史Ⅱ「快楽の活用」序文』

 このように述べられたフーコーの主張は、八二年度の講義『主体の解釈学』の最初の授業で述べられた「哲学と霊性」に関する事柄と同じ主旨のものである。霊性の原理とは、主体に正当な権利として真理が与えられるのではなく、つまり認識行為によって与えられることはなく、真理に到達する権利を得るには自分自身が別のものにならなければならないということであり、真理は主体の存在そのものを問題にする「代価」を払って与えられるものである。西欧では、現在置かれている状況からの立ち返り(コンヴェルシオン)はエロースとアスケーシスという二つの形式に従って行われ、アリストテレスを例外として哲学の本性でありつづけたが、デカルトからは認識が霊性に取って代わったのだとフーコーはいう。コンヴェルシオンにはエピストロフェーとメタノイアの二つの形式があり、前者は、魂は存在の完成へと回帰し、存在の永遠の運動のなかに改めて場所を占めるものである。それは覚醒で根本的な形式はアナムネーシス(想起)であるという。後者は、主体自身による主体の再出産で自己放棄の経験としての死と復活があるとフーコーは説明する。この私の論考ですでに十分述べてきたのでここでは、フーコーの哲学的エートス自体もまた前者の適用であるということである。認識論から、真理を可能する主体の存在様式に対する問いへと移行したことを確認するに留めよう。

 一般にフーコーの研究は、「知」、「権力」、「主体化」、ダロの言い方に従えば、「真理陳述」、「統治性」、「主体性の諸形式」という三つの項目から成り立っている。この三つの次元は哲学を語る際の同一性を強調することになる。つまり「真理の言説を研究する際には必ずそれと同時に自己もしくは他者の統治へのそうした言説の影響を考えなければならず、権力の諸侯王を考える際には必ずその諸構造がどのような知とどのような主体性の構造を拠り所としているのかを示さなければならず主体性の諸形式を評定する際には必ずそうした諸形式が政治にどのように延長され、真理へのどのような関係によって自らを支えているのかを理解しなければならない」(のであり、一方が他方に還元することは不可能であるという還元不可能性と、必然的相関関係の二つの原理はギリシア以来の哲学の同一性を決定するには十分であるとグロはいう。

 フーコーの最後の講義『真理の勇気』は、ギリシア政治哲学の革新地点となる倫理的差異化の原則であったと、「講義の位置づけ」でグロが述べる。「最善の国制」の探究は道徳的探究とは合致するものではなく、政治的卓越は、政治的行為者が自分自身を倫理的主体として構成できたやり方に依存することをフーコーは強調している、つまりよき政治は徳の高い指導者に依存するということである。民主主義の構造的危うさとは、一人の主体における真理が一国民全体を作用させることが可能であるとは考えにくいことであるとグロはフーコーの主張の困難さを述べている。さらにフーコーによるギリシアの政治思想を再評価することによってフーコー自身の歩みをその航跡に組み入れたとグロはいう。

一九八四年六月二十五日、フーコーが息を引き取る日が近づいていた。一月は体調を崩したものの、二月には回復し、一日からの講義お行うことができた。「私にはどのくらいの時間が残されているのか」を絶えず気遣いながら。講義は二月後半から三月の講義はまさに「死への恐れにかかわるものである」。プラトンの著作『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』の死の三部作をテクストにフーコーの講義は進められた。この私の論考ではすでに詳細は論じられた。死を恐れぬソクラテス像にフーコーはいかに自らの迫る死を重ね合わせたのであろうか。ソクラテスが死を恐れないのは、人々に自己への配慮を説いて回るという神からの使命を果たさなければならないからである。それゆえ、政治的パレーシアによって命を落とすことを恐れたのであり、神の使命を果たせなくなるならむしろ死を選ぶのである。彼の哲学的企てとは、「対話者に自分自身への正しい配慮を学ばせるために、その存在者の存在様式を変容させることを目指す、勇気ある〈真なることを語ること〉」であるとグロはいう。

 プラトンの著作『パイドン』のソクラテスの最後の言葉にある、「クリトン、我々はアスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。私の借りを返してくれ、忘れないようにしてくれ」の意味するところは、伝統的解釈では、「私は死のおかげで生という病から治癒するからだ」と解釈されてきたが、フーコーはそれとは別の解釈をしたとグロは指摘する。「偽なる言説という病、ありふれた支配的な臆見や先入見の伝染からの治癒であり、哲学によってもたらされた治癒である」と。さらにグロはフーコー自身の死との闘いと六月の死を重ね合わせ想いを深める。「私が恐れるのは死ではなく、仕事の中断なのだ。あらゆる病のなかで本当に致命的な病、それは言説の病(偽りの明晰さと人を欺く自明性)である。徹底した哲学が私にその病からの治癒をもたらしてくれるのだ」と亡きフーコーの代弁をする。ソクラテスは「真理の勇気」を持つ者、パレーシアを最後まで行使した者としてプラトンは描いている。「生存の可視的内容において」勇気を持つ者、フーコーはここに生存のスタイルを見出し、「真の生」の問題提起は始まるとグロはいう。この講義の後半がキュニコス主義に関する考察にあてられているのはそのためである。グロによると、『真理の勇気』にプラトンの対話編『ラケス』を取り入れたことは、講義の骨組みの中で意表を突くものであろうと述べている。『ラケス』は勇気の問題について書かれたものであるが、〈真なることを語ること〉、つまりパレーシアと生存のスタイルとを支える勇気のみを考察したからであるという。ここにおいても『ソクラテスの弁明』と同じように、ソクラテスが、一人一人に彼らのエートスを正すように言葉をかける人物として描かれ、勇気ある〈真なることを語ること〉を行使する者として描かれている。加えて、「生存の可視的内容においてそうした真理の要請を価値づける勇気を持つ者でもあり、「そのことによって真の生の問題を提起することが可能になる」とグロは読み解く。「カント以来の近代的思考」に修正を加えることになるという。カントから発生した二つの道、超越論的な後裔と批判的後裔の区別を七十年以降たびたび行ってきたとグロは指摘する。前者は「私は何をすることができるかと問うもの」であり、後者は「我々はどのように統治されているかと問うもの」であり、八十年代にフーコーはこの区別を権力関係の研究に倫理的次元を加えることで浴衣にしたとグロは解釈する。そこでのフーコーの問いは、「いかなる主体化の様式が、人間たちの統治の諸形態に自らを連接し、それらに抵抗したりそれらに住み着いたりすることになるだろうか」ということであるという。さらにフーコーは事態を進展させる。つまり一九八四年には、つまりこの『真理への勇気』の講義では、『アルキビアデス』から引き出した「不死のプシュケーと超越的真理との根源的絆言説の中で理論的熟視によって基礎づけようと努める魂の形而上学を派生させ、他方では『ラケス』において問題化される生存の美学、つまり、可視的で調和がとれており美しい形式を生(bios)に対して与える)ことになったと分析する。ここまでくるとカントの二者択一と大きく相違する。カントのそれは「真理の諸条件に関する研究」と「人間たちの統治性の諸条件に関する研究」を区別することであったが、フーコーのそれは、「一つのロゴスのなか、一つの認識体系の構成のなかにその実現を見出す霊的任務と、具体的生存の現実性と修練のなかでその広がりを得るもう一つの任務とが対置されること」になるとグロはいう。簡単にいえば、認識の哲学と試練や態度としての哲学を比較しているといえよう。

キュニコス派の人々はソクラテスの後裔に似つかわしく書物を残さなかった。理論的貧しさゆえに古代哲学史において常に冷遇されてきたとグロはいう。フーコーはとうぜんプラクシスの面で取り上げたのであり、グロの言葉を借りれば、「生の試練と世界の変容の側に置き直された哲学的真理のラディカルな再評価のための純粋な契機としようとした」のである。市民の勇気ある発言、民衆扇動の権利という民主的契機から、君主に勇気をもって助言を与えるという専制的契機へと変化するパレーシアに、ソクラテスが行使した一人一人に問いただす倫理的側面が加わる。この点はキュニコス派がソクラテスの継承者であるが、彼らは「ソクラテスに比べものにならないほどはるかに攻撃的で乱暴かつラディカルなやり方」で行動したのであり、むしろキュニコス派は世間から隔絶した生の様式によって自ら際立たせているとグロはいう。古代哲学に内包する真理の概念から演繹される「真の生」は、「真理の諸原則を文字通りに生きようとするキュニコス主義的価値転換」によって、「スキャンダラスで不安にさせる生、ただちに拒絶され周縁化される「別の生」としか表明されないものになった。さらにキュニコス派は「現前する世界の変容を前提として到来するものとしての「別の世界」の地平を出現させるとグロはいう。一方、ギリシア哲学はプラトン主義によって「他界」に関する問いを提出してきたのである。フーコーによると、西欧哲学は「他界」と「別の生」をめぐる二つの大きな形式の境界の愛仇で自らを展開してきたという。自己への配慮は一方では、配慮すべき自己とは何かという問いを生み、それは魂であるという発見に導かれる。そこで発見されるのは、真理の純粋な世界としての「別の世界」であり、形而上学の起源をしるしづけたとフーコーはいう。他方では、「自己に配慮する生はいかなるものか」という「他界」に向かうものではない動きがある。ここで出会うのはプラトン主義ではなくキュニコス主義であり、「別の生」というテーマであるとフーコーは指摘する。グノーシス主義の運動とキリスト教においては「別の生」は「他界」に接近するための条件として思考しようとしたいう。ルターによって問題化されたプロテスタントの倫理のなかでは、「他界への接近が、この世における生存そのものに完全に合致した生の形式によって定義されることが可能になる」とフーコーはいう。つまり他界への到達を別の生に依存させることへの拒否であるとグロはいう。グロが指摘するように、フーコーによれば、キリスト教の独創性はまさしく、プラトン主義による「他界」という狙いと、キュニコス主義による「別の生」の要請とを交叉させたことにあるという。

「別の世界(monde autre)」と「他界(autre monde)」、「別の生(vie autre)」と「もう一つの生(autre vie)」という二つの組合せについて、訳者、慎改氏は四つの表現にはすべて、「他なる」という意味の〈autre>が入っていることに注意し、「他性」に関する一つの哲学を前提にしているというグロの言及、フーコーは他性の次元を、真なるもののしるしとしてあらためて作用させることになるという言及を指摘している。つまり真なるものは世界および人間たちの意見において差異をなすもの、自らの存在様式の変容を強いるもの、その差異によって構築し夢見るべき別の世界のパースペクティヴを開くもの、それこそが真理のしるしであるとフーコーは言いたいのだとグロはいう。講義の最後に添えられたフーコーの草稿の一番最後には次のような言葉が見つけられる。

「真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。」

 

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長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十七)その一・詩誌「ヒーメロス」25号、10月25日発行

2013年11月18日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十七)その一

小林 稔

45 古代ギリシアの修練=修徳主義からキリスト教の服従の原則までのパレーシアの変遷

 

 真の生(alethes bios)をめぐる古代哲学に求められていた四つのテーマが、キュニコス主義では極端化「拡大適用」とそれに纏わるスキャンダルによって、大きく変貌してしまった様態をフーコーの叙述に沿って考察してきた。四つのテーマとは、隠蔽せざる生、非依存的な生、まっすぐな生、そして主権的な生である。キュニコス主義による変容によって、前者の三つは、それぞれ、裸の生、貧しい生、獣的な生といえるものに特徴を持たされていく。つまりキュニコス主義の真の生は、プラトンやストア派の哲学と問題を共有しているが、結果として別の生へと導かれていったのである。フーコーによれば、キュニコス主義とは、「古代哲学の限界」を出現させるものであり、「哲学者がそこに自分を見ながら自分を認めるのを拒否するよう導かれる壊れた鏡のようなもの」なのである。四つ目の「主権的な生」のテーマは、フーコーによって詳しく述べられていて、前回の私のエセーで概略を示したが、ここで要約をかねてフーコーの叙述のレジュメをしておこう。

プラトンやセネカ、エピクテトスたちのストア派において「主権的な生」の概念がどのようなものであっか。二つの特徴を挙げると次のようになる。

 一、「享受の次元に属する自己との肉体の創設を目指す生」であるということ。それは自分自身を所有する生である。つまり自分自身に対して主権を持ちつづけることである。真の逸楽(所有であるとともに快楽)のあらゆる原理と基礎が自己のうちに見出される生である。

二、一人もしくは複数の他者との関係に対して開かれているということ。指導、援助、霊的な助けの関係である。他者にとって自分が有益な者であるということ。それは義務の属するものであり、自己統御を他者の目前で証言すること、自己自身を享受することと必要とする人を助けることは、いわば同一の主権性の異なる側面に過ぎず、余剰ないし過剰の活動である。

このように捉えられる「真の生」のテーマが、キュニコス主義では誇大化されることによって、「キュニコス派は王であるという傲慢な言明」のかたちをとることになる。フーコーは、プラトン哲学、ストア派、キュニコス派における、政治的主権と自己自身にたいする主権としての哲学的生の人々に専念する結びつきの違いを述べている。それによると、プラトンにおいては、哲学と君主制の関係は構造上のアナロジーの形態で描かれているということがあり、理想的な地点では、哲学者が君主制を行使できるということ、つまり哲学と政治の一体化が求められているのである。ストア派においても君主制と哲学の結びつきは見られるが、ストア派では、哲学者は王以上の者、つまり自分自身を統治できるだけでなく、王の魂を管理し、指導し、先導できる者と考えられていた。たんに都市国家に生きる人々の魂だけでなく、人間一般の魂、人類の魂をも統治できる人のことであると考えられていた。キュニコス派では、「キュニコス派自身が唯一の真の王である」と言明した。実際に戴冠した王は、真の王の影に過ぎないというのである。キュニコス派は自分を、「王に敵対する王、自らの君主制の真理そのものによって政治的王制の錯覚を告発しそれを明るみに出す真の王として措定したのである。

ディオン・クリュソストモスの書物に報告されているディオゲネスとアレクサンドロス大王の出会いは有名である。同じ書物でペルシアの祭式でなされたことに言及する。「ある種の儀式に一人の捕虜を連れてきて、しばらくの間彼を王のように扱い、彼に廷臣を与え、彼のあらゆる欲求、あらゆる欲望を満たす。本当に王にふさわしいやりかたで彼を扱った後で、彼の衣服を脱がせ、彼を鞭打ち、彼をついに絞首刑に処するに至る」。これが人間たちの王すべての運命なのだとディオゲネスは語ったと、クリュソストモスは記述した。キュニコス派の王はそれらの満足、快楽、飾りを必要とせず王でありつづけるのだが、「自分が王であることを意図的に隠す王である」、さらに「自己の自己に対する執拗な攻撃」が見出されるとフーコーはいう。フーコーによれば、それは忍耐の訓練である。またキュニコス派の君主制は献身のそれでもある。それは自己の放棄という形態で他の人々に専念する。つまり犠牲的な使命ともいえる。そうした使命が闘いの形態を取るということ、論争的な特徴があるといえる。キュニコス主義における哲学的戦闘性は、しきたり、法、制度といった人間に共通する悪徳、欠点などに立ち向かうものであり、「世界を変えようとする」戦闘性、世界の中で世界に対抗する開かれた戦闘性であるとフーコーは指摘する。

 

使命としてのキュニコス主義

ストア派のエピクテトスのテクスト『語録(人生談義)』からキュニコス主義的主権の定義についてフーコーは考察しようとする。フーコーも注意を促しているように、エピクテトスはストア派の一人なので、そこに述べられているのは、キュニコス派の直接的表現ではなく、ストア主義とある種の形態のキュニコス主義との接点から見て容易に受け入れられるものに関する描写であることを注意しなければならない。つまり、「一人のストア派がキュニコス主義的生を、自分にとって最も容易に受け入れたもの、最も容易に認めることができたもの、最も本質的で最も純粋であると思われたもの関して描写したものであるということ」とフーコーはいう。

エピクテトスは、キュニコス主義からスキャンダラスな部分を排除し、清潔さと礼儀正しさを強調する。そして哲学的生の戦闘的実践として提示している。フーコーによると、ストア派では地位や境遇に齎される責務や義務を怠ることは不名誉なこととされていた。しかし哲学はあくまで生の選択であると考えられていたが、エピクテトスはそれを変形させたという。キュニコス主義者になろうとする者に、キュニコス派の衣服、風体、生の様式という外的な特徴を選択することを戒める。それは「見せかけの姿」に過ぎず、自分をキュニコス派と任じることはしてはいけないことであり、必要なことは神によって指名されなければならないということを述べる。神に授けられた使命は個人的にある一つの任務に縛り付けていたソクラテスのテーマとは、少し別の意味があるとフーコーは指摘する。神から指名されなかった人をその務めから遠ざけるという効果がある。それでは、指名された人と指名されなかった人とを分けるものとは何か。自分で自分をキュニコス派と認めることではなく、まず自分を試練に賭けることである。エピクテトスはいう、「自分の欲望を完全に捨て去り、きみに依存するもののみを避けるよう務め、怒りも妬みも哀れみも抱かないようにしなければならない。・・・(略)・・・きみは次のことを知っておかなければならない。すまわち、他の人々はその行動を成し遂げるために塀や家や闇によって身を守っているということ、そうした行動を隠す無数の手段を持っているということを。人は自分の戸を閉ざしているのだ。」ここには「隠蔽されざる生」の理想が見つけられるが、その原則はアナイデイア(慎みの欠如)ではなく、逆にアイドース(慎み)に直接連結されているとフーコーはいう。つまり、「哲学的生を送る者は、慎みの諸規則に従って行動する者である以上、自らを隠す必要などないからである」。自分がキュニコス派であると認めるようにするための第一の試練は、隠蔽なき生を生きることができるかという点にある。  

第二の試練は、簡素化された貧しい生を生きることができるかどうかという点にある。「小さい肉体は私に対しては何ものでもないし、またその諸部分は私に対して何物でもない。死か。好きな時に、その全体でも部分でもやってくるがよい。追放か。しかしどこへ追い出すことができるのか。宇宙の外にはできない。またどこへ私が立ち去ろうとそこには太陽があるし、また月も星辰も、夢も、前兆も、神々との交わりもあるのだ。」(エピクテトス『人生談義』下、岩波書店刊からの引用)貧しい生とは混合も依存もない生のことである。「貧しさと彷徨の生の試練である」とフーコーは説明する。

第三の試練は、敵と見方を見分ける術を心得た生を送ることができるかという点である。エピクテトスのテクストによれば、キュニコス派は、人間たちに対して何が味方で何が敵かを示す偵察者(カタスコポス)であると語られる。キュニコス主義の使命は修練や訓練というアスケーシスの実践において認められるものであるとフーコーはいう。自分で自分をキュニコス派と認めるのは、キュニコス主義的生の試練の中で行なわれる。その試練の中で認められるのは一つの使命であるとフーコーは分析する。それによると、キュニコス派の考える使命とは、哲学的戦争を進める者であるということであり、自分に課す耐久である。つまり、他の人々から被りうる暴力、殴打、不正の受け入れである。殴打、侮辱、屈従は一つの訓練であり、一つの反転を伴うのである。

君自身を知るがいい、ダイモニオンの声に訊ねるがいい、神なしには着手せぬがいい、というものに神が忠告するならば、よく知っておくがいいが、神は君が偉大なる者となることを欲しているか、あるいは大いに打たれることを欲しているのだ。というのはこれも犬儒学徒には非常に上手く織り込まれているからである。自分は驢馬のごとく打たれねばならぬ、そして打たれながら、自分を打つその人たちをば、万人の父であり、兄弟であるように愛さなければならない。……犬儒学徒にとって皇帝は何であるか、総督は何であるか、あるいは自分をこの世に送ってくれて、そして自分の仕えているもの、すなわちゼウスより外のものは何であるか。(同書『人生談義』下、第二十二章)

 

 屈従はゼウスによる訓練としての価値を持つが、さら忍耐の訓練によって哲学者と人類全体とのあいだに存在しうる人類愛的な絆、自分に害を与える人々に結びつけられているという確信が表明され強化されているとフーコーは指摘する。このような背景のもとにおけるキュニコス派の任務は、偵察者の任務であり、見張りの任務である。エピクテトスは、すべての人間は結婚しなければならないが、キュニコス派の人々は結婚しないことが必要であるという。「全面的に神に奉仕して気を散らさぬこと、つまり人々のあいだに自由に出入りして、個人的な義務にも縛られなければ、また諸々の関係にも巻き込まれるべきではないのではないだろうか」とエピクテトスのテクストでは記述されている。人間の眠りに気を配る普遍的な夜警のような者、巡回し脈をとる医師のように、とフーコーは形容する。何が善であり何が悪であるかを語る者、つまり倫理的普遍性に仕える者であるが、一つの集団の政治的普遍性ではなく、あらゆる人間の普遍性であるとフーコーは指摘する。さらに、フーコーはエピメレイアのテーマにも言及する。哲学者は人間たちの配慮に対して気を配っている、つまり人類全体に関する幸福と不幸、自由と隷属を問題にする政治的活動の、キュニコス主義哲学の任務を指摘している。「あらゆる簡素化、あらゆる耐乏、あらゆる苦痛を通して、人間たちを呼び止めて彼らがいる場所で彼らに助けを与えるというキュニコス派の一日のつらい仕事を思い起こさせるとフーコーはいう。そして「自分のすべての思考が、神々の友であり神々への奉仕である者の思考、ゼウスの統治に協力する者の思考である(エピクテトス)」ことをキュニコス派は知り、純粋なこころで眠りに憑くことができるのだとフーコーは思いを述べている。キュニコス派は生の黄昏時に、隠された君主制を越え、人類全体に対する神々の主権という真の主権の中で復活するのだ。ここにキュニコス主義の主権のテーマの反転があるとフーコーはいう。

 フーコーはこの叙述の後で、講義(『真理と勇気』)で取り上げなかった草稿を載せている。要約すれば、哲学的戦闘性はキュニコス主義の発明ではなく、古代の哲学の伝統に根づいていたものである。しかしキュニコス主義の特異性とは、開かれた場で展開されたこと、パイデイア(教育)を要請しないという点にあり、しきたり、法、制度と闘う、つまり世界を変えようとする戦闘性である。さらに、このような戦闘性の中に世界に対抗する戦闘性が持つプロパガンダの実践であり、その歴史的な重要性が、キュニコス主義が組み込まれる系列に与えられるということにフーコーは注意を喚起している。すなわち、霊的闘いであると同時に世界のための闘いでもあるキリスト教の活動主義とそれに纏わる托鉢修道会、宣教、宗教改革であり、その後に起こった動き、十九世紀の革命的戦闘性を指摘する。「世界を変化させるための、別の生としての、闘いの生としての真の生」のテーマがそれらに見出されるとフーコーは主張している。

 

別の生に移行するキュニコス主義的生の原理

 私は真の生をめぐる古代哲学における四番目の主権のテーマが、キュニコス派によって別の生に導かれたことをフーコーの指摘によって述べてきた。キュニコス主義を特徴づける主権は、政治的主権、つまり政治的主権に対し二重の愚弄を構成しているとフーコーは要約する。ディオゲネスはアレクサンドロス大王の対決で自分こそ真の王である言明する。それはアレクサンドロスの君主制の保持は、知恵の主権に過ぎないからである。それが一つ目の愚弄であり、もう一つの愚弄は、政治的君主制における富と権力を自らに与えていたのに対して、キュニコス主義の君主制は孤独の実践、簡素化の実践であったことを示したことである。そここらキュニコス主義の君主制はほんとうの君主制、普遍的君主制であったことを主張する。キュニコス派は、一日の黄昏時になって、「自分の思考が、神々の友であり神々の奉仕者である者の思考、ゼウス統治に協力する者の思考である」ことを知り、純粋な心で眠りにつくことができたのだとフーコーはいい、さらにキュニコス主義的主権の行使は二つの帰結をもたらした。一つは、主権を行使する者に至幸の生の方式を創設したということである。キュニコス派は自らの運命を肯定し、ゼウスによって導かれることを受け入れる、つまりゼウスが授ける試練、生の厳しさのすべてを受け入れることである。何一つ持たないにもかかわらず自由であるという王制のテーマである。地上の王たちのための浄福はなく、自分の運命を受け入れる者に与えられるものであるというのがフーコーのいう第一の帰結である。二つ目は、キュニコス派の主権的生が浄福の生であると同時に真理の表明でもあるということである。その真理の表明にはさまざまに異なる道を同時に辿るということがある。第一の経路においては、真理との直接的な関係である。プラトンの対話篇『ラケス』において本質的なテーマであった、語ることと生きるやり方との調和である。行いにおけるこのような合致のみならずキュニコス派には、肉体的な合致の関係もある。エピクテトスは、キュニコス主義の惨めさの誇張を拒絶する。なぜなら真理は人をひきつけ納得させるものでなければならないが、汚さ、醜さ、下劣さは人を押し返すものであるからである。したがって、キュニコス派は身体の簡素化に加え、清潔さにおいても人をひきつける真理の造形美を持つものであると主張する。フーコーがいうように、これらはストア主義的な原則に従い、キュニコス主義の肖像に規制を加えることである。つまり真理の表明のための最初の道であるとフーコーは指摘する。第二の経路においては、自己の自己に対する真理の作業が問題になる。苦難、悪徳、誘惑に対する闘いに対して敗北を避けるため、自分が取り込むことになる事柄に対して見積りをしなければならない。自己認識はそれだけではなく、自己の自己に対する絶え間のない警戒でもなければならない。自分自身の思考の夜警でなければならないということ。つまり、性急な承認、熟慮を伴わない性向、

みたされない欲望、忌避に至らない嫌悪、成果を伴わない計画がありはしないか、中傷や魂の卑しさや妬みがありはしないかなど、自分の注意と活力を集中させる。「自らの表象の流れへの絶え間ない視線であること」とフーコーはいう。これに加えられる三つ目の経路は、他の人々への監視の関係である。自分が持つ無数の目を自分自身に向けるだけでなく他の人々に対する絶え間のない視察を行なうこと。フーコーによると、ギリシア人によって絶えず批判されていたポリュプラグモシュネーというネガティヴな概念がある。それは誰のことにも口出しをする「おせっかい」のことであるが、キュニコス派は、他の人々の個別な生にではなく、人類一般に属することに専念しつつ同時に自分自身に配慮することである、したがって「おせっかい」とは区別されねばならない。フーコーは「兵士たちを視察する将官」を例に挙げて説明する。将官の視線で問題になるのは、兵士たちの個人の生ではなく、兵士が軍隊の不可欠な一部をなすために必要なもののすべてであり、将官は軍隊全体に専念している、つまり軍隊の一部をなしその責任を担う自分自身に専心しているという。このような他の人々の監視でもあるような自己の監視は一つの変化を目的とするとフーコーは指摘する、それは、個々人の行いにおける変化と、世界の一般的布置における変化である。

 

 おお諸君、諸君はどこへ急いでいるのか。可哀そうに諸君は何をしているのか。諸君は盲人のごとくに行きつ戻りつしている、諸君は本当の道を棄てて別の道を進んでいる。諸君はゆとりのあることと幸福とをそれらのない別の処にさがし、他人が教えても信じないのである。どうして諸君はそれを外界にさがすのか。それは肉体の中にはないのだ。(エピクテトス『人生談義』下)

 

キュニコス派はこのように言葉の介入によって、人間たちの間違いを示す。フーコーが前述したようにュ

ニコス派は古典哲学の伝統的テーマを取り上げ直し、貨幣の価値を変えて、真の生が、哲学者を含む人間たちの伝統的な生とは別の生でしかないことを明らかにする。真の生があるとしたら、普通の人々の営む生とは全く別の生であることを明るみに出す。そして真の生の役目は自らを別の生として提示しつつ、それ以外のすべての生は誤謬であることを示すこと、つまりキュニコス主義的生を送っていない人間に対し本当の生存へとつながる生存形式へ立ち返るように勧告することは、キュニコス主義的真理陳述であるとフーコーは指摘する。しかし、少数の人たちに声をかけ納得させるのではなく、すべての人間に対して、世界全体の改革であるような生の一つの形式に言及し、彼らとは別の生を送っていることを示すのだとフーコーはいう。

 フーコーは八四年の講義『真理の勇気』に取り上げることのなかった草稿を講義録に加えている。それによると、もう一つの別の世界としての真の生は、プラトンが描き出した「身体から解放された後の魂に約束された世界」とは同じではない。それは、「キュニコス主義的戦闘性がもはやまったく必要でなくなるような世界」、つまり賢者たちの世界であり、「身体、権力の行使、財産の所有のなかにではなく、自己自身のなかに探さなければならない」のが、その真の生の原則である。こうした事柄はストア主義にも属するものであるが、キュニコス主義の歴史的核を構成するものが表明されている。それは、「自己および他の人々との関係において真理を表明し真理を実践するような生となることである」、つまり「真理陳述の生は、人間と世界を変容させることを目標とする」とフーコーはいう。「キュニコス主義は哲学的学説はほんのわずかしかの濃さなったが、哲学的生に対しては特異な形態を与え、別の生に基づく生存に対して強力な執拗さを与えたので、そのご幾世紀にもわたって哲学的生の問題をしるしづけることになる」とフーコーは書き記した。

 世界をめぐる形而上学的経験と、生をめぐる歴史的かつ批判的経験は、西欧の哲学的経験の生成における根本的な二つの核であるとフーコーは指摘する。しかし、世界が真理においてどのようなものかを知り語ることは最終目的ではなく、「世界が自らの真理に合流するため、世界が変貌し別のものになって自らの真の姿に到達するためには、人が自己に対して持つ関係における完全な変化と変質が不可欠である」、つまりキュニコス主義によって約束された別の世界の移行は「自己の自己への回帰、こうした自己への配慮」が不可欠であるという原理を彼らが示したのだとフーコーはいう。近代がそこから始まるというフーコーが指摘するデカルト的認識とはまったく異なる原理である。

 

 キュニコス主義的修練主義からキリスト教的修徳主義への移行

 フーコーは、ここまで述べてきたキュニコス主義的生の原理は、ストア派のエピクテトスが明らかにしたストア主義との一つの混成物であると注意を促している。それにも関わらずにエピクテトスのテクストを使用する目的は、いかにキュニコス主義が、他のさまざまな哲学、主にストア主義の哲学から借り受けたいくつかのテーマによってどのようにして取り巻かれることになったのか、またその結果、本来のキュニコス主義的学説と比較し、どのようにして混成物の形態を取ったのかをフーコーは示したかったのだという。簡単にいえば、前時代の哲学的考察のなかに次の時代の萌芽を解読し、さらに次の時代の相続を解読するという系譜学的な歴史解釈と考えてよいであろう。ともかく、ここではエピクテトスの「『人生談義』下、第三巻二十二章」の、犬儒学派に記述されている人物像にキリスト教的モデルの類似点をフーコーは指摘する。人間たちに真の生の修練的=修徳的実例を示し、自分自身に立ち返るように勧告し、彼らをまっすぐな生に置き直し、世界のもう一つ別のカタスタシスを告げる者という人物像は、一方ではソクラテスから相続されたものであり、他方では、後のキリスト教的モデルに近いものであるとフーコーは指摘する。

 これらを見通した後にフーコーがさらに探求しようと望むのは、古代哲学以後の時代、つまりキリスト教時代の、生きる技法、生の形式としての哲学研究、つまり「真理との関係における修練=修徳主義についての歴史研究」である。それは「異教的修練主義からキリスト教的修徳主義への移行」の分析であるとしてフーコーはいう。まず第一は、修練=修徳の実践、忍耐の形式、訓練の様式において見出される、キュニコス主義とキリスト教との、食物との関係、食の節制との関係、食に関わる修練=修徳との関係に見出される連続性であるという。それらは後に優位に立つセクシュアリティよりも遥かに重要であった。キュニコス派の禁欲の実践は、最小の代価と最小の依存によって最大限の快楽を与える最低限の食べ物と飲み物に限定することが求められた。キリスト教徒はあらゆる快楽が制限され、食べ物も飲み物もそれ自体はいかなる形態の快楽も引き起こさないと考えていたとフーコーはいう。キリスト教修徳主義は、三、四世紀にその強度を強めたやり方で発展した、連続性と極端化が、その後の修道生活の形態内部において社会化されていったとフーコーは指摘する。しかし修道生活以前にはキュニコス主義と似たところがある。例えばスキャンダル、他の人々の意見にたいする無関心、権力に対する無関心などのテーマが見られるという。またキリスト教修徳主義にはキュニコス主義的修練主義との連続性に、動物性が表明されるとフーコーは指摘する。一糸纏わず獣のように草を食べて暮らしていたという隠者の話が、『東方の修道士たち』のテクストに見られる。しかしキュニコス主義とは異なる要素もあるという。その一つは、修徳主義者が選ぶ別の生は、この世界を変容させることを目標とせず、もう一つ別の世界への到達を目標にしていたとフーコーはいう。真の生としての別の生というテーマが、真理への到達としての他界への到達という考えを連結させたのだていたとフーコーは主張する。つまり、真の生の真理を基礎づけるものへの到達としての他界への到達であり、それはプラトンを起源とする形而上学とキュニコス主義を起源とする修練主義の合流であるとフーコーはいう。二つ目の相異は、キュ二コス主義にもプラトン主義にも見られない服従の原則があるとフーコーは指摘する。つまり、主人としての神と、人を奴隷、その僕とする者としての神への服従。主人の代理を務める人々、神からの権威を保持する人々への服従である。真の生としての別の生は、これらの服従と他界への到達と結びつけられているということをフーコーは指摘し、一般的に考えられているように、異教とキリスト教の差異は、キリスト教の修徳主義とそうでない古代の道徳の差異にあるのでなく、修練=修徳主義そのものが、異教的古代、古代ギリシア・ローマの発明品であったことをフーコーは主張している。また、古代の修練主義を暴力的で貴族的なものとして特徴づけ、魂を身体から切り離すような別の形態の修徳主義と対立させるようなニーチェの考え方は間違いであるともフーコーはつけ加える。異教の修徳主義によってキリスト教の修徳主義が成立し、他界との関係、他者への服従(神への服従と代理人たちへの服従)が打ち立てられ権力関係の新たなタイプ、真理の別の体制がキリスト教に姿を現わしたのだとフーコーは主張する。

 

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長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十六)その三

2013年04月06日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十六)その三

小林稔

 

「真理の勇気」の三つの形態

 フーコーは「真理の勇気」という問題を三つのカテゴリーに分け考察する。一つ目は、政治的大胆さと呼びえるものである。民会や君主に対して、民衆派や廷臣が異議を申し立てる。真理に与することで自分の生を危険に晒す勇敢さであるとフーコーはいう。二つ目は、ソクラテス的イロニーと呼びうるものである。人々に対し知っていると思い込んでいるものは、実は知らないのだと語るように仕向け、其れを認めさせることである。それは人々を怒らせ、苛立たせ、訴訟を起こされたりする危険を冒すものであるが、人々を自分自身、自分自身の魂、真理への配慮へと導いていく。つまり、「自分が知らないということを知っているという一つの知の内部に、ある種の形態の真理を滑り込ませ、それによって人間たちを自分自身の配慮へと導くことが問題になっている」とフーコーは解いている。三つ目の第三の形態はキュニコス主義のそれである。原則のレベルで認められていることを表明しながら、その表明を人々に非難させたり、拒絶させたり、侮辱させたりすることである。つまり人々が頭の中では認めていたり価値づけているのに、自らの生では拒絶し軽蔑していることを人々の目に見えるかたちで提示し,彼らの怒りに立ち向かうことであるとフーコーはいう。

 最初の二つの形態では、真理を語るために自らの生を危険に晒すのだが、キュニコス主義の真理の勇気では、スキャンダルを登場させ、自分の生きるやり方によって、自らの生を危険に晒すことだとフーコーはいう。言説によらず、自らの生をそのものによって危険に晒す点がたの真理の形態とはまったく異なるのである。フーコーはここに関心を寄せた理由があるが、他の理由として、キュニコス主義のスキャンダルな実践において、古代の提起し、キリスト教や近代世界にも提起し続けた、恒久的で困難な問題とは、ビオス・ピロソピコス(哲学的生)の問題であるとフーコーは告白する。フーコーのいおうとすることは明白である。哲学全体が、パレーシア(真なることを語ること)の歴史から見れば、真なるものを認める条件として一つの言表を提起する傾向を次第に強めていくのに対して、キュニコス主義はパレーシアを実践するものとしての生の形式はどのようなものでありえるかを絶えず提起し続ける哲学形態であるといえる、ということである。西欧哲学では起源以来、哲学は哲学的生存と切り離すことができないということ、哲学の実践は多少なりとも一種の訓練でなければならないと認められてきたし、科学と区別されるところであるとフーコーはいう。しかしそのような原則を定めながらも、哲学的生の問題を哲学的実践から切り離し、本質から周縁へと追いやってしまった。真の生のテーマとその実践が次第に宗教のなかに吸収されてしまったことがあるとフーコーはいう。あるいはまた、〈真なることを語ること〉の実践が、一つの科学という形で制度化されたことも、哲学的問題としての真の生というテーマが消え去ってしまったことの理由であろうとフーコーは指摘する。もし科学的コンセンサス、科学的実践が真理への接近を保証するのであれば、〈真理を語ること〉の実践に必要な真の生の問題が消え去るのは当然である。宗教制度、科学的制度の中で、真の生の問題が無効にされるということが理解できるとフーコーはいう。

 キュニコス主義と哲学の外在化

 〈存在〉の問題が西洋哲学によって忘却され、その忘却によって形而上学が可能になったのであるとすれば、哲学的生の問題もなおざりにされてきたのだとフーコーはいう。「哲学的生の問題は、哲学、哲学的実践、哲学的言説に対し、それらが科学的モデルに準拠するようになるにつれて絶えず余分な物として現れた」といい、そうなることによって「真理との関係が、今ではもはや科学的知の形式においてしか有効と認められず表明されえないという事態が可能になった」とフーコーは指摘する。このような見地から、キュニコス主義は西欧の歴史に繰り返し現れるキュニコス主義は、スキャンダルという形態のもとで有無を言わさず哲学的生の問題を喚起するとフーコーはいう。つまり科学によって退去させられた真の生のテーマが、キュニコス主義のスキャンダルという形態によって哲学的生の問題が絶えず浮上すであろうということである。キュニコス主義によって哲学的生がスキャンダルとして構成されるということは、哲学的生の問題が、哲学、哲学的実践、哲学的実践、哲学的言説の実践に対して大規模なやり方で外在化されたことの、最初の表明であり、そのことがキュニコス主義に興味をもつ理由であるとフーコーはいう。

 真の生の問題が、哲学的反省および哲学的実践から後退していったが、まったく除去されたのではなく、フーコーによれば、モンテーニュから啓蒙に至るまでの哲学的生の問題があり、十六世紀から十八世紀に至るまで、一定の強度と一定の力を伴って提起されたという。例えば、スピノザの『知性改善論』があり、真の生の問題を哲学的実践においていて、最後の大いなる人物であるとフーコーはいう。

 フーコーは、キュニコス主義が哲学的生の問題がどのように提起し、どのように実践したのかを整理して四つの基本原則を取り上げている。

第一は、キュニコス主義にとって哲学は生への準備であるということ。生のためにロゴスもしくはプロコスを準備しなければならない。理性(ロゴス)よって生を組織するか、もしくは縄(プロコス)によって首を吊るか。哲学は生への準備である。第二に、生への準備は自己自身への専念を合意しているということ。自己への配慮の重要性を説く。哲学における凡庸なテーマである。第三に、自分自身に専念するには生存のなかで生存のために本当に有用なことのみを研究しなければならない。第四に、自らの生を自分が述べている方針に合致させなければならないということ。自己への真の配慮があるのは、述べられている原則が生きるやり方によって保証され、真正なものとして示されているという条件においてであるとフーコーはいう。

 これら四つの伝統的な原則に加え、キュニコス派は第五の原則を付け加えたとフーコーは指摘する。

第五の原則とは、貨幣の価値を変質させ、変化させるが必要であるという原則である。「貨幣を変化させる」という意味が、貨幣の不正な変質でもありうるし、貨幣に刻まれた肖像の変更でもあり、真の価値を取り戻すための変更でもありえるということである。「貨幣の価値を変える」ということが生の原則と見なされていたことにフーコーは注意を促す。ユリアヌスは、キュニコス主義の特徴は他の哲学にも見られるというだけでなく、ヘラクレスより前、人間尾は始まりまで遡ると考え、「汝自身を知れ」と「汝の貨幣の価値を変えよ」の二つの原則がデルポイのアポロンより古いものであると指摘しているとフーコーはいう。「汝自身を知れ」はソクラテスに差し向けられたものでもあるが、「バラカラクソン・ト・ノミスマ」(汝の貨幣を再評価せよ、汝の貨幣を変質させよ、その価値を変えよ)は、ディオゲネスだけに差し向けられた原則である。なぜこの二つの原則が結び付けられたのかについて、ユリアヌスは、「汝の貨幣を再評価せよ」を可能にするには、「汝自身を知れ」という経路が必要なのだ、この経路によって自分について自分や他人が持つ臆見という贋金が、自己認識という真の貨幣によって置き換えられるといっているとフーコーは解く。「自分自身の生存を操作すること、現実の事物に配慮するように自己に配慮すること、自分の真実の生存の真の貨幣を手中にすること。これは自分自身を知るという条件において可能になるのだ」とフーコーは読み解いている。ユリアヌスの記述における、ディオゲネスとアレクサンドロスの逸話をフーコーは挙げている。

アレクサンドロスはいう、「もし私がアレクサンドロスでなかったとしたら、ディオゲネスでありたいと思ったであろう」と。自分自身を知ったために、ディオゲネスは、アレクサンドロス大王その人よりも優れたものとして自分を認めることができ、そのような者として他の人々に認められることもできたとユリアヌスはいう。この原則にはいくつもの解釈があるとフーコーは指摘する。ノミスマが貨幣であると同時に、慣習、法(ノモス)であるという解釈があるという。ノミスマを変質させるとは、慣習を断ち切る、法を打ち破るという意味も込められているという解釈である。

  ビオス・キュニコス(犬の生)

 ディオゲネスが「犬」と呼ばれた理由に、住まいとして選んだ場所による解釈と、彼は実際、犬の溶暗生活をおくったとする解釈があるが、フーコーによると、語源はさほど重要ではなく、問題は、紀元一世紀のキュニコス主義の伝統の中で、それがいかなる価値を受け取り、どのようにして機能させられるのかであるという。アリストテレスの注釈者、エリアスによると、キュニコス主義的生が犬の生であるといわれるのは、慎みも羞恥心も人間的敬意もないという点にあるという。つまり、万人の前で、犬や動物だけしかしない好意をする人であるということ。さらに、起こりうることに無関心な生を犬の生と見立てたということ。次に、吠え立てる生であるということ。敵と闘い、敵に対して吠え立てることのできる生。主人を敵から区別する術を知る生。最後に、他の人々を救うために身を捧げ、主人の生を守る術を知る生。エリアスのよるこれらの解釈が基準にされているようだとフーコーはいう。そしてこのような基準は、先述した真の生を定義するために伝統的に用いられてきた特徴と類似関係にあるとフーコーは指摘する。すなわち、隠蔽されざる生、非依存的な生、まっすぐな生、主権的な生という真の生の特徴の反響、継続、延長であると同時に、極端化、反転であるとフーコーはいう。隠蔽されざる生は、慎みを欠いた生であり、反転してスキャンダルな生になり、羞恥心を覚えない生になり、恥知らずな生になる。無関心な生は、何も欲求しない生、投げ与えられたもので満足する生、これらは混合のない生や非依存的な生をスキャンダラスなやり方で反転させたものであるとフーコーはいう。

 キュニコス主義に結び付けられる貨幣の変質に、生存や習慣を哲学が伝統的に認めている原則によって置き換えることを意味し、たんにロゴスの領界に維持するだけではなく、生そのものに適用することによって、貨幣に肖像が刻まれるように諸原則が生にかたちを与えることで、その他の人生がたんなる贋金、価値のない貨幣として示されるとフーコーは説く。つまり真の生の諸原則を本当に適用しているその生が、人間一般、特に哲学者たちが送っている生とは別のものであるということがキュニコス主義のゲームによって表明されるとフーコーは主張する。「哲学の肖像が現実に、実際に、本当に刻まれるやいなや、生がただちに別のものになるという動きこそがキュニコス主義である」ことを認めるならば、「真の生」はラディカルに、逆説的に「別の生」となるしかないだろう、そして、その生はありきたりの哲学的実践のなかで最も一般的に認められた原則を実行に移すことしかしないないだろうからであるとフーコーはいう。

 他界と別の生の境界

 ギリシア哲学は、ソクラテス以来、プラトン主義という名において他界に対する問いを提出してきたといえるが、しかしキュニコス主義が参照してきたソクラテス的モデル以来、もう一つの別の問いを提起したとフーコーはいう。つまり、他界と別の生というテーマ、二つの大きな形式の境界の間で西欧哲学はたえず自らを展開してきたとフーコーは結論づけようとする。そして、賢者の厳かな孤立した生を拒絶し、職人たちのもとへ行ったヘラクレイトスの実践的哲学を提示する。しかし、ソクラテス的な自己への配慮(エピメレイア・ヘアウトゥー)という大きな発達の道筋が姿を現して、西洋哲学が展開されることになったとフーコーはいう。自己への配慮は、『アルキビアデス』が出発点であることは新プラトン主義が認めていることであるが、配慮すべきものは何かという問いに導かれる。配慮すべき「自己」とは何かという問いから、専念すべきは魂であるということに至る。そこで発見されたのは真理の純粋な世界である別の世界であった。また他方では、『ラケス』を出世地点して始まる自己への配慮は、自己に配慮するという生はどのようなものかという問いへ導く。ここでは他界の動きが問題なのではなく、生の形式、自己に配慮する生の形式であるとフーコーはいう。この流れで出会うのはキュニコス主義の別の生というテーマであるとフーコーは指摘する。さらにフーコーがいうには、哲学的実践との関係では中心的であると同時に周縁的でもあるような問いとして、なぜ、真の生は別の生でなければならないのかと問い直すことになるという。

 互いに遠ざかりながら断ち切れない関係にあるこれら二つの道筋。フーコーはいう、プラトン主義もやはり、別の生の形式における真の生についての問いを提出したのであり、そこにキュニコス主義が素朴で未発達な哲学的思弁に完璧に接続され、組み合わされ、そうした思弁を身につけることができた、と。大局的に俯瞰すれば、西欧の哲学、道徳、霊性の歴史においてきわめて重要な事実であるが、「キリスト教が、そしてキリスト教を中心としたグノーシス主義的潮流のすべてが、まさしく、他界と別の生とのあいだの関係を体系的で一貫したやり方で思考しようとする運動であった」とフーコーは要約する。

 グノーシス主義とキリスト教では、通常の生存と共通の尺度を持たない、断絶した生を他界に接するための条件として思考しようとする試みであったといえるし、プロテスタントの倫理においては、ルターが問題化した、他界へと導くのは別の生であるというキリスト教修徳主義の核心にしるしづけられた関係であるとフーコーはいう。つまり、「他界への接近が、この世における生存そのものに合致した生の形式によって定義されることが可能となる」と指摘し、「他界へ至るために同じ生を送ること」がプロテスタンティズムの標語であり、その時以来、キリスト教は近代的なものとなったとフーコーはいうのである。

 非-隠蔽をスキャンダルに変容させる 

古代ギリシアに流布していた真理の概念とキュニコス主義的生を比較し、いかに合致したものであるかをフーコーは前述したが、それらを反転させてスキャンダルを引き起こすのはなぜかを、ここで検証する。第一の、隠蔽せざる生とは人を赤面させることのない生であるとフーコーはいい、『パイドロス』や『饗宴』で語られている、次のような言葉を引用する。「真実の愛とは、いかなる恥ずべき行動を隠してはおらず、自分の欲望を果すために決して物陰を探し求めることのないような愛のことである。」つまり、他の人々の支持と保証があるということである。セネカにおいても、「真の生とは、常に他の人々の一般の視線に晒されているかのように生きるべき生のことである」という記述が見られるとフーコーはいう。セネカにおいては、文通に実践そのものが他者の視線に晒されているということを意味する。フーコーによれば、「文通する二人の生存をそれぞれ相手の視線のもとに置き、一人をもう一人の視線のもとに置くという役割を持っていた」ということになる。有名なルキリウスへの書簡は、「隠蔽されざる生としての、つまり他者の現実的かつ潜在的な視線のもとにある生としての、真の生の実践である」とフーコーはいう。エピクテトスでは、非-隠蔽とは、内的視線のもとで生きることであり、自分がそのようにして生きていることを知ることであるとフーコーは指摘する。「ゼウスは各人のもとに守護霊を置いた、だから決して一人ではない。君は神の一片である。君は自分自身のうちにその神の一部を持っている。君が食べるとき、自らに食べ物を与えている君とは何者なのか。君の性生活において、それに耽っている君はいったい何者なのか。君は神を自分自身のうちに持っており、君は君の不純な思考と汚れた行動によってその神を汚していることに気がついていないのだ。」(フーコーによるエピクテトス『人生談義』からの引用の要約。)隠蔽されざる生は、真の生の特徴づけでは哲学の伝統的なテーマであって、キュニコス主義でもそれは同様であったが、一種の変質、価値転換を通して取り上げ、スキャンダルが生まれるのであり、非‐隠蔽という原則の誇大化、生そのもののなかでの生そのものによるその原則の誇大化というやり方で価値転換がなされるとフーコーは指摘する。先に挙げたセネカやエピクテトスとは大きく異なる。「キュニコス派の生は、その生が現実に、物質的に、身体的に公にされているという意味において、隠蔽されざる生なのだ」とフーコーは解く。このような特徴は、ディオゲネスに関する伝説的な物語になって表われている。家(他者の視線から守られた場所)もなく、衣服もほとんどなく、コリントス(公に開かれた場所)に出没し、(眠っている物乞いのように)マントに包まれて死を迎えたと伝えられている。同じキュニコス派のペレグリノスは、キュニコス主義的生の絶対的可視性というフーコーの言葉通り、ペレグリノスが焼身自殺を決意したときに選んだのはオリュンピア祭のあいだであった。

隠蔽されざる生とは、悪ではないものについては何も隠さない生、何も隠していないから悪を行なうことの不可能な生である。ところがキュニコス派はいう、自然が我々のうちに置いたもののなかに、悪などありうるのかと。我々が悪を行なうのは、人間がその習慣、その臆見、そのしきたりによって、自然に何かを付け加えたからではないか。したがって隠蔽されざる生とは、自然に属するもの、つまり善に属するものを隠蔽せず明るみに出し、慎みにもとづく習慣的で伝統的な限界、不可欠であると想像しているその限界を受け入れてはならないのだとキュニコス派は主張している。つまりこの伝統的な慎みによって制限された生存の非=隠蔽をスキャンダルへと変容させ、行動様式なかで表明しているとフーコーは指摘する。

 貧しさと真の生

真の生は、外的な要素や不確かな出来事に束縛なく依存もない混合なき生であると前述した。プラトン主義のなかに見出せる純粋さの美学、「魂にとって意図せざる無秩序、動揺、混乱の諸要素を構成する可能性のあるもののすべてから解放すること」と、エピクロス派とストア派に見られる、「非依存、自己充足、自給自足のスタイル論」に共通の道筋のなかに、キュニコス主義は無関心なる生を組み入れているとフーコーはいう。しかし、ここでも変質させる形式のもとで展開される。つまり貨幣を再評価し、貨幣の価値を変えて、哲学的生を別の生であるものとして、物質的、身体的、肉体的な誇大化によって、そうあるべきものとして明るみに出すが、キュニコス主義はそれを貧しさというかたちで具体化するとフーコーは指摘する。

「真の生は貧しさの生であるべきだ」というテーマは大きな文化的な広がりをもつとして、フーコーは、ギリシア・ローマの文化においては、優れた人々と大衆のあいだの対立を考察する。この対立は、古代社会、ギリシア社会、ローマ社会を組織化し、哲学的思考に影響を与えてきたとフーコーはいう。

「真の生は裕福な生ではありえないという原則と、真の生は優れた人々の生であるという原則を両立させることの困難さ」が古代には見出されるが、重要なのは金持ちかそうでないかではなく、財産への気配りに没頭したり、財産を失うことに気を取られたりすることのない一つの立場、一つの態度を保つことであり、哲学者が語る真の生では、「財産と無産に対する態度、財産の無産への変化に対する態度」の方がはるかに重要であるとフーコーは解いて、大金持ちであったセネカが、真の生とは富から潜在的に切り離された生のことであるという考えを述べていることを指摘し、キュニコス主義的貧しさとは何かを考察する。

一、キュニコス主義的貧しさは現実的な貧しさである。生存の簡素化としての貧しさ。フーコーによれば、「生存が伝統的に結び付けられている物質的諸要素、生存が依存していると習慣的に信じられている物質的諸要素なしで済ますものであるという。ルキリウスに宛てたセネカの手紙を読めば、その違いの大きさが理

解される。セネカはルキリウスにいう、「数日、君は粗末な衣服を身につけ、食べる量をできるだけ減らすべきだろう。それによって君は快楽を味わう能力を再び得るだけでなく、もしたまたまそれを君が失うことが

あっても、それによって苦しむことはないだろう」と。これは「貧しさの研修」であり、起こりうる出来事に対する防備であり、現実の実践ではない。これに対してキュニコス主義的貧しさは簡素化を実行する現実の貧しさである。

二、キュニコス主義的貧しさは能動的な貧しさである。財産に対する無関心や与えられた情況の甘受ではなく、自分自身に対して行なわれる勇気、抵抗、忍耐の作業でなければならない。富を気にかけないという無関心とは大きく異なり、「目に見える貧しさのかたちでの自己自身の練り上げ」であり、貧しさを受け入れることではなく、「貧しさを実際に行動に移すこと」なのだとフーコーはいう。

三、キュニコス主義の貧しさは終わりなき貧しさである。さらなる簡素化を求めて、満たされることのない貧しさであり、ソクラテスが受け入れていた身分相応の平均的な貧しさではなく、自己自身に際限なく働きかける際限のない簡素化であるとフーコーは説く。ディオゲネスの逸話をフーコーは紹介している。

「泉で小さな男の子が両手をコップのかたちにして水を飲んでいるのを目にしたとき、お椀でいつも水を飲んでいたディオゲネスはそのお椀を投げ捨てました。彼は、それもやはり無益な富だと考えたのでした。」

 こうしたキュニコス派の現実的な貧しさは逆説的な効果をもたらすとフーコーはいう。混合なき生の可視的形態としての能動的貧しさは、醜い生、依存する生、屈辱の生に導かれ、原則を反転させてしまうことになり、逆説的な価値付与となるが、社会には受け入れ難いものになったのだとフーコーは指摘する。ソクラテスは、身体の美しさより魂の美しさを強調する考えがあり、一つの美を別の美よりも好み大きな特権を与えることがある。フーコーによると、「ソクラテスにおいては常に、身体的な美と身体的な価値からの相対的価値剥奪の原則」が見られるが、キュニコス主義的貧しさは、身体的な醜さ、汚さ、惨めさに内在するそれに固有の価値を肯定することにある。哲学への醜さの価値導入である。さらに重要なことは、絶対的貧しさのおなかで、個人が依存の状況のなかに自らを見出すという、混合なき生、従属なき生の原則の反転であり、絶対的貧しさが到達するのは奴隷状態であり、平然と耐え忍ばれる運命を除いてはギリシア人やローマ人には受け入れがたいものであったとフーコーはいう。キュニコス主義的貧しさは必然的に物乞いの境遇に人を追いやるが、それよりさらに重大なもの、アドクシア(悪評)に立ち向かったとフーコーはいう。他の人々によって侮辱され、軽蔑され、服従させられたときに、自分について残すイメージのことであり、栄誉やよい評判を望まれていた社会では、アドクシアはネガティヴな価値を与えるものであったとフーコーは指摘し、ここでもソクラテスと対比する。ソクラテスは不正な死刑の宣告を受けたのであり、死刑の宣告という不名誉を受け入れた。しかしキュニコス派のアドクシアの実践とはまったく異なる。なぜなら実際に物の価値を知る者にとっては正しいのはソクラテスであり、彼の生はいかなる不名誉によっても傷つけられることはなかったからであるとフーコーは解く。

 ポジティヴな価値を付与されるアドクシア(悪評)

 キュニコス主義には、一般に不名誉とされる行為に積極的な意味と価値を与えようとする実践が伴われることがある。それはフーコーがいうように「古代道徳全体において極めて特異な何か」である。インガルスという人の「不名誉の追求」(一九六二年『ハーバード古典文献学研究』誌に掲載)という論文によると、キュニコス主義が完全にギリシア的風景の一部をなしているという事実に著者は関心を寄せていることがわかるとフーオーはいう。キュニコス派はギリシア的道徳に関するいくつかのテーマを、いわば濃縮されたかたちで鮮明に表現するものに他ならなかったが、ただ一点、アドクシアだけは例外とせざるをえないと著者は主張する。彼は、「不名誉および不名誉の追求にポジティヴな価値を付与するある種のヒンズー教徒のグループに見いだされるような、ある種の実践の影響を介入させているとフーコーは紹介している。

 非依存的な生が誇大化され絶対的な貧しさに達したとき、反転して依存と不名誉に出会うが、その屈辱的状況が価値を持つのは、臆見や信仰やしきたりの現象に抵抗するための訓練を与えてくれるからであり、屈辱の内部で状況を反転させ、そうした状況を支配できるようになるという事実があるからであるとフーコーはいう。さらにフーコーは、キュニコス主義の屈従(ユミリアシオン)からキリスト教の謙遜(ユミリテ)に至るまでには、慎み深さの歴史、汚辱の歴史、恥辱および恥辱によるスキャンダルの歴史の全体があり、

ギリシア人とローマ人にとって一般的であった道徳とは無縁のものであると主張する。しかし、キリスト教の謙遜とキュニコス主義の不名誉とは区別する必要があるともいう。キリスト教の謙遜は、屈従を被ったと

きに表明され感じられる精神の一つの状態、態度であるのに対して、キュニコス主義の不名誉は、名誉と不名誉にかかわるしきたりをめぐって行なわれるゲームであるということ、つまり、最も不名誉な役割を演じるときに、自らの傲慢と優越を価値づけ、自らの主権、統御を確立することである。キリスト教の屈従というよりは謙遜は、自己自身の放棄であるとフーコーは指摘する。非依存的な生が、貧しさ、不名誉などによって誇大化することにより、古典的な哲学的なテーマの反転がなされ、スキャンダラスに別の生として真の生が出現するということであるとフーコーは解釈する。

 

 動物性のスキャンダルと生の訓練

 真の生の特徴の一つは、ある種のロゴスに合致したまっすぐな生であることはすでに前述した。その伝統的な概念には、自然に合致した生であると同時に、法、規則、慣習に合致した生でもあるという両義性があった。キュニコス主義がまっすぐな生を示すとき、その一方、自然の法に合致した生だけを受け取る。キュニコス派は結婚を拒絶し、家庭を拒絶し、同棲を実践し、食に対するタブーとしきたりを拒絶するとフーコーはいい、ディオン・クリュソストモスのうちに見出される一節を紹介している。

オイディプスの父、ライオスはデルポイの神託を誤解していた。神託は子をもうけるな、あるいは子を遺棄せよと告げていた。それについて、ディオゲネスは、神託の意味するところは、子をもうけてはならないし子を遺棄してもならないといったということであったといった。しかし、ライオスは子をもうけ遺棄した。ライオスは愚かな過ちを犯したのであり、オイディプスはその継承者である。スフィンクスの謎を解いたからといってそれほど利口であったわけではない。どんな人間でもできるだろう。しかし、オイディプスは近親相姦に対して愚かさと素朴さを示す。オイディプスがすべきことは何だったのか。「汝自身を知れ」というデルポイの原則を本当の意味で実践すべきだった。そうすればテイレスアスの助言は必要がなかったし、クレオンをデルポイに送ることなく自分自身でそこに行き、父親を殺し母親と結婚したことを理解したであろう。そしてそこですべてを知ったときオイディプスは利口であったならどうしたか。そういうことは動物たちの世界では実際よくあることである。オイディプスはこうした自然のモデルを認めることができなかった。つまり自分自身を知ることがなかったからであり、自分自身のうちに自分の自然性の核のうちの一つを見出すことができなかったからである、とディオゲネスは述べたと記されている。

 キュニコス派にとって、まっすぐな生の到達地点は、動物性に対するポジティヴな価値付与であるとフーコーは指摘する。古代思考においては、動物性は人間との絶対的な差異化の役割を果していたのであり、人間存在は、自分自身を動物性から区別することで自らの人間性を肯定し表明していた。しかしキュニコス派は、動物性に価値を担わせ、行動様式のモデルとした。つまり「動物がなしで済ますことのできるものを人間存在が欲求してはならないという考えにもとづく物質的モデルとなるということ」であるとフーコーは解く。カタツムリが自分の家を背負っているのを見て、同じような生き方をしようとしたディオゲネスの逸話をフーコーは紹介し、「動物の欲求以外の欲求、つまり自然そのものによって満たされた欲求以外の欲求を持ってはならない」というディオゲネスの考えを表明しているという。動物よりも劣らないようにするため、動物性を「生の縮減」された形式と見なし引き受けることは、動物性を所与と見なすことではなく義務と見なすことであり、自己自身に対する一つの存在の仕方、絶え間ない試練のかたちをとることである。それは任務であり訓練であるが、他の人々にとってはスキャンダルであるとフーコーは指摘する。

 主権的な生

 真の生の実践が限界まで誇大化されて、隠蔽せれざる生が裸の生に、依存のない生は貧しさという形態のもとで、物乞いする生に、まっすぐなノモスに合致した生が獣的な生に反転し、別の生の要請を引き起こす。前述した四つの真の生の最後の四番目は、主権的な生である。ここでも反転が見られる。この伝統的な主権的生のテーマには二つの特徴があるとフーコーはいう。一つは、享受の次元に属する自己との関係の創設を目指す生である。所有であると同時に快楽であるものとしての享受がある。主権的な生とは自分自身を所有する生のことであり、いかなるものもその生の自分自身に対する権力と主権から逃れられないものとして自分自身に帰属するものである。主権的な生では、真の逸楽と快楽の原理と基礎が自己のうちに見出せるとフーコーはいう。セネカの記述にはこれらに関する多くの表現が見られる。「自分自身を喜ぶ、自分自身のうちに喜びを得る」(書簡二三)、「自己の内側に自らの喜びの全体を探し求めること」(『ヘルウィアに寄せる慰めの書』)。したがって享受の生とも呼ばれているとフーコはいう。二つ目は、主権的な生は他の人々にとって有益な生ということである。指導、援助、支えという個人的タイプの関係であり教師と生徒との関係であるとフーコーはいう。主権的生は、人類全体に対して普遍的な射程を持つ教えが実例やテクストによって与えられる場合、他の人々にとって有益なものになるが、このような他者との関係が賢者には義務になるということがわかる。しかし、他者に有用であることは過剰の活動としてであり裏面に過ぎない。自己による自己の獲得によって、一方では私自身の享受が与えられ、他方では苦境ないし不幸に陥っている他の人々に私が有用になるということであるとフーコーはいう。

 王としての哲学者

 プラトンにおいて哲学と君主制との関係は二つのやり方で姿を現わすとフーコーは分析する。一つは、アナロジーの形態として現われる。哲学者とは、一つのタイプのヒエラルキーを打ち立てられる者のことであり、その権力は君主によって行使される権力と同じ形態、同じ構造を持つとフーコーは指摘する。もちろん君主がその名に値する者であり、その統治が君主制の本質に一致している必要があるが、政治的君主制と自己の自己に対する主権とに共通の、一つの本質、一つの形態、一つの構造があるとフーコーはいう。一方では都市国家全体の幸福と安定を保証し、他方では各自の魂に対して自己の自己対する主権を保証することが理想として求められるということであるとフーコーは説明する。ストア派においては哲学者は王以上の者、王より優れた者であり、自分自身の魂だけでなく、人類一般の魂を統治することができるとされる。キュニコス派においてはまったく別の形態を取る。キュニコス派自身が王であるという考えである。戴冠した君主たちは、真の君主制の影であり、戴冠した王、つまり地上の王に対していかに虚しく錯覚に満ちて儚いものであるかを示すのだとフーコーはいう。

 キュニコス派を、王に敵対する王、君主制の真理によって政治的王制の錯覚を告発し明るみ出す真の王として措定することは非常に重要であるとフーコーは指摘する。アレクサンドロス大王とディオゲネスの新座的な出会いは母型的な場面を構成しているとして、アレクサンドロス大王とディオゲネスの神話的な出会いを挙げる。それがキュニコス派にとって母型的な場面であるゆえにフーコーが歴史的出会いといってよいとする。ディオン・クリュソストモスの第四弁論前半部分に記されている。両者の出会いは非対称的のもと行なわれる。栄光の輝きの満ちた全能の王、アレクサンドロス大王と、樽の中の惨めなディオゲネス。「もし、私がアレクサンドロスでなかったとしたら、私はディオゲネスでありたいと望んだであろうに」という大王の有名な言葉にあるように、二人きりで逢うことを決意する。フーコーはこの出会いを四つの要素に分析する。一、アレクサンドロスは地上の王、人間たちの王、政治的な王である。その君主制を保証し行使するためには依存を余儀なくされる。軍隊が必要であり、衛兵が必要であり支持者が必要である。つまり、極めて脆く儚い君主制である。一方ディオゲネスは何も必要としない。ディオゲネスノ君主制は転覆されない君主制である。二、教育もしくは世襲によって、親や自分を選んだ人から王という責務を授けられた者がほんとうの王であろうか。アレクサンドロスはそういう王である。ディオゲネスのような王は直接的にゼウスから生まれる。君主制の家系からではない。賢者の魂は完全かつ完璧な主権性を持つものとして形作られたということ。生まれながらにして王にふさわしい者であり、いかなる教育も必要がない。このように王にふさわしい者はこのような人をいうのだ。勇気であると同時に男らしさであるもの(アンドレイア)、魂の高貴さ(メガロプロシュネー)を備えている人をいうのである。三、君主は敵を打ち負かすことができる者と一般に考えられている。それが主権の保証になる。アレクサンドロス王はギリシャ人の王であるが、やがてメディア人やペルシャ人を打ち負かし、彼らの王になるであろう。そのとき「私は完全無欠の王であることになりはすまいか」というアレクサンドロス王に対してディオゲネスはいう、何をいうか! ほんとうの敵とは内側の敵のこと、つまりお前の欠点と悪徳のことだ。賢者にはそれらはない」といい返す。四、人間たちの王と、王としての哲学者、つまりキュニコス派の王の対立が見られる。人間たちの王は王国を失うことがあるが、王としての哲学者は決して王であることをやめない。このような哲学者と君主制のあいだの関係は、プラトンやストア派の考えとは異質のものであるとフーコーはいう。さらに、キュニコス派の王は、認められざる王、知られざる王、自分が身を晒す簡素化と禁欲によって、惨めな王、嘲笑の王である。この簡素化は意図的な忍耐、限界をさらに押し進めようとする絶え間のない作業である。そして献身の君主制であるということができる。自然は彼(ディオゲネス)をキュニコス主義的王としたが、他の人々に専念すべく犠牲的な使命を課されていることも特徴の一つである。哲学者は自己自身をそのように犠牲にすることのなかに自らの喜びと自らの生存の充足を実際に見出すのだとキュニコス派は語っているとフーコーは指摘する。しかし、この使命は立法者の使命や統治者の使命ではなく、医術的関係であるという。治癒行為のおかげで人々は自分自身の治癒と幸福を確保することができる。フーコーは、助言や書きものによってのみ人々を助けるストア派と比べて、家から家へと赴き、必要とする者に治癒を与えるキュニコス派の使命は、一種の医術的介入であると述べている。

また、キュニコス派の使命が論争的な闘いの形態を取ることもある。街角や祝宴の最中に立ち上がり攻撃する。つまり人間に及ぼす悪徳を攻撃しようとすることも、キュニコス派の特徴である。このような攻撃的な性格はソクラテスの伝統以来、同様の喩えが見出されるが、キュニコス主義にはある種の変更があるとフーコーはいう。しかし、ソクラテスやストア派の戦いは、自分自身の欲求、自分自身の情念に敵対するものであり、理性の勝利を保証するものである、魂の勝利を保証するものであり、霊的闘いといえるものであった。それは、人間たちのうちに見出される習慣、振る舞い方、法、政治組織、社会のしきたりにおける悪徳でもあるのでありしたがってキュニコス主義的闘いは、現実の生に対する意図的、恒常的な攻撃であり、人間を変えること、人間の道徳的態度を変えることであり、人間を習慣、しきたり、生き方において変えることであったという。

 ヘラクレスという形象

キュニコス主義的王のモデルはヘラクレスであるとフーコーは指摘する。彼はゼウスの息子であり、安易な生より訓練と忍耐の生を選ぶ。ヘラクレスはエウリュテウスから一つの使命を授かる。世界の苦難と人間たちの苦難に対する闘いである。やはりディオン・クリュソストモスの「第八弁論」の末尾でヘラクレスをキュニコス主義の英雄として描いている。しかし、ヘラクレスはアルゴ船の乗組員の一人ゼテスのような者ではなく、万人に認められたその偉業によって幸福を得た英雄たちの一人でもない。人間のうちで最も哀れな者なのだと、クリュソストモスは描いているという。死後に認められ、栄誉を与えられ,神の列に置かれる。ヘラクレスはライオンのように敏捷で猛暑にも極寒似も超然としている。寝台で眠らず、毛布を必要としない。物乞いと同じである、この隠れた王、惨めな王、物乞いの王とし、様々な偉業を象徴的な意味をクリュソストモスは与える。ヘラクレスが棍棒で打ち砕いたトラキア王ディオメデスは不正で横暴な君主で自分の領土を通る外国人を皆殺しにした。人間の普遍性を認めることのできない君主。また、ゲリュオン、それは富であり、彼から雌牛を奪う。アマゾーン、それは淫らさ、身体的逸楽である。ヘラクレスによって解放されるプロメテウスはソフィストとして描かれている。人間をその原始の動物性から遠ざけ、最初は人間のものであった自然本性から遠ざけてしまい、人間を苦難へと運命づけた者としてキュニコス主義では否定的な形象であったが、ヘラクレスがプロメテウスを自由にしたのは、プロメテウスが持っていた自分に対する傲慢な臆見から彼を自由にしたという解釈を、クリュソストモスはディオゲネスが述べたものとして記述しているという。ディオゲネスがこの弁論を終えたとき、熱狂に包まれた聴衆が目にしたのはディオゲネスの下品な行為であり、それを見た聴衆はディオゲネスに怒り始めたと書かれている。君主制の新の形態としての本来の動物性への反転があり、そして王は身を隠す。嘲弄に値する惨めな王の、嘲弄の君主制における主権の誇大化はキュニコス派に特徴的なものであるとフーコーは指摘する。

まず、隠蔽されざる生という考えを、裸姿と慎みの欠如の実践の中で誇大化することによって、それを反転させたということ、さらに、非依存的な生というテーマを貧しさの形態の中で誇大化することによって反転させたこと、さらに、まっすぐな生というテーマを動物性の形態の中で誇大化することによって、それを反転させたことが見られるとフーコーはいう。

 西欧における倫理的経験の母型

 倫理の歴史において、戦闘的な態度や戦闘性という用語は重要な核が見出されるとフーコーは指摘する。敵に近づいて噛みつく番犬。キュニコス派は自分自身を「犬」と考えた。世界の苦難と戦う兵士。万人の幸

福のために自分自身の惨めさを耐える闘士。哲学的戦闘性という考えは、古代哲学にもしばしば見出されるが、キュニコス主義のそれは特異なものがあるとフーコーはいう。古代哲学の戦闘性が閉鎖的なものであった。勧誘、宣伝活動の力によって信奉者を獲得するとこがあったが、常に学派のもとで、特権化された少人数制のかたちで実行されたのに対して、キュニコス派は万人に向けられた戦闘性教育によるものではなく人々を激しく動揺させ、考えを一気に変えさせようとするものであった。しきたり、法、制度における悪徳や臆見に対する戦闘である。「開かれた普遍的で攻撃的な一つの戦闘性、世界の中で世界に対抗する一つの戦闘性を認めることも必要である」とフーコーはいう。特に、「嘲弄に値する戦闘的な君主制としてのキュニコス主義的主権という考え方」には二つの事柄の重要な起源を見ることができるという。一、嘲弄の王という形象には、「王と道化」というテーマがある。道化は王に敵対しながらいつも王の傍らにいる者、王よりも真理を知る者、王の真理をする者であり、嘲弄の君主制というテーマのある種の変形であるとフーコーは指摘する。また、「隠れた王、認められざる王は、じつは徳の最も高度な形態と真の権力とを保持する王である」というテーマが見出され、キリスト教においては、「隠れた王としてのキリスト」というテーマは、惨めな王というテーマからいくつかの要素を取り上げ直したものであろうとフーコーは分析する。また、「追放された王」という形象は、その英雄的な行為が大いに有益な価値がいかなる人間によっても認められない、仮面をつけた人物である。これらが合流する地点に見出されるのが「リア王」の形象であるとフーコーはいう。リア王は、真理をそれがある場所において認めることのできなかった者であると解く。「キュニコス主義は、キリスト教的修徳主義のなかにみいだ見出されうる歴史的諸形象の長い系列の発祥地にあったもの」とフーコーは指摘する。「自分自身の罪に対する、自分自身の誘惑に対する霊的な闘いであると同時に、世界全体のための闘いである」。それは中世の托鉢修道会や宗教改革の前後に起こった動きであることにフーコーは注意を喚起し、十九世紀の革命的な戦闘的態度も同様であるという。「見かけの惨めさの下に、個人による禁欲と簡素化のなかで、世界全体の変化へと導くべき闘いを進める」ものであり、キュニコス主義は「真の生」というテーマを別の生へというテーマへ転倒させるだけでなく、「別の生のその他性を、至幸で主権的な一つの異なる生の選択として措定しつつ、別の世界をもたらす闘争の実践としても措定したのだ」とフーコーは主張する。つまり、キュニコス派真の生をめぐる古代哲学の伝統的なテーマを取り上げながら、反転させ、別の生の必要性の主張、および肯定へと導いたのである。真の生が別の生の原則となり、もう一つの別の世界の熱望となる動きは、西欧における倫理的経験の母型を、その萌芽を構成しているとフーコーはいう。

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長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十六)その二

2013年04月05日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

 

長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十六)その二

小林稔

 

二つの道という形象の歴史

 長く理論的な教育を省いた徳への近道という考え方は、西欧の哲学的思考と霊性のなかで頻繁に見られる形象であり、二つの道という形象の歴史があると指摘し、フーコーはまずパルメニデスの〈詩〉にある二つの道の区別を挙げる。一つの道は、〈存在〉はあるという確実さの道。なぜならその途は真理に付き従う道であるからだ。もう一つの道は、〈存在〉はないとする道。人が何も学ぶことのできない細道であるとパルメニデスはいう。この二つの道は意味は異なるが、クセノポンの『ソクラテスの思い出』第二巻、プロディコスの神話的物語のなかにあるとフーコーはいう。ヘラクレスは二つの道の岐路に立っていた。一方は困難な道、最終的には幸福に導く険しい道。他方は容易な道、快楽の道でこの道を行くことでは真の幸福には達するこ

とができないという道。初期キリスト教の『ディダケー』というテクストでは、生の道と死の道であることとフーコーはいう。キュニコス派の二つの道は、それらとは違うという。一つは努力を必要としない安易な

道で、ロゴスを通じて、言説とその習得を通じて徳へ至る道である。もう一つは困難な道、おおくの障害と引き替えに頂上に直接伸びる骨の折れる道で無言の道といえる。この道は訓練の道、アスケースの道、簡素化と忍耐の実践の道であるとフーコーはいう。プルタルコスの『恋愛をめぐる対話』というテクストの中で、クラテスの擬似書簡があり、二つの道の区別が記述されている。クラテスはディオゲネスの第一の弟子であるが、典拠の怪しいテクストである。ローマ帝国初期に価値を与えられ受け入れられたキュニコス主義の特徴が見いだされるとフーコーはいう。長い道と近道の区分だ。前者は言説によって幸福へ導く道。後者は日々の訓練を経由する道である。長い道は言説の道、短い近道は訓練の道であり、キュニコス主義的生の伝達は、言論なしのその短い道、訓練と習得の道を通ってなされたとフーコーは指摘する。つまりここでフーコーが主張したいのは、キュニコス主義が特殊な伝統性の様式を持ったということである。理論や教義ではなく、モデル、物語、逸話、実例を利用するということ、始祖とされるクラテスやディオゲネスのように歴史的現実が虚構の物語に覆い隠されたため、学説の核が見いだしにくいこと、さらにヘラクレスのような神話的人物に帰せられたりしているということである。しかしフーコーは、キュニコス主義的教育は実例や逸話によって伝達されるというやり方の中に、伝統性の一様式があったといえるし、それは学説の伝統性と非常に異なるものであったと主張する。プラトン主義やアリストテレス主義にとって哲学的学説の伝達は重要であったが、エピクロス主義では重要性を失っていたし、キュニコス主義ではほとんど重要ではなかったとフーコーはいう。

 

 生存の伝統性

 学説の重要性に対して生存の重要性をキュニコス主義は実践したとフーコーはいうが、それは次のような事柄に要約できる。エピソードを思い出させること、模倣すべきもの、再び存在させなければならないものとされるということが生存の伝統性が目指すところであるとフーコーはいう。

 学説の伝統性は、忘却を超えて、一つの意味を保持したり留め置いたりできるが、生存の伝統性は道徳的衰弱を超えて、一つの行いの力を復元することができるとフーコーは要約する。プラトン主義やアリストテ

レス主義では、学説の伝統性が本質的な部分を占め、生の実例の伝達は限られた役割しか持たなかった。ストア主義やエピクロス主義は両者(学説の伝統と生存の伝統性)の重要性は均衡の取れたものであった。キュニコス主義においては学説の伝統性は消去したり不要としたりしたとフーコーはいう。さらにそういったところに哲学的英雄という形象が現れるのが、ソロンやヘラクレイトスのような賢者ではないとフーコーは指摘する。哲学的英雄は生の様式を体現していて、哲学的態度にとっての一種の実践的母型を示しているとフーコーはいう。理論的貧しさにもかかわらず、生の諸形式の歴史においてのみならず思考の諸形式の歴史においても一つの重要な出来事になる。英雄的生としての哲学的生が、キュニコス主義の伝統によって組み入れられ伝達されたのだとフーコーは主張する。

 この哲学的英雄のイメージに形を与え、価値を肯定したことから、キュニコス主義はキリスト教的修徳主義に甚大な影響を与えたとフーコーは指摘する。哲学的英雄性は哲学的伝説といいるようなものを創設し、現在に至るまで西欧において哲学的生が構想され実践されたやり方を形成してきたとフーコーは主張する。このような考察は、今までの諸学説の歴史で伝えられてきた哲学史とは違う、生の形式、生の様式、生のスタイルの、哲学的生の歴史、倫理の形式であると共に英雄性の形式としての歴史を書くことができるであろうとフーコーはいう。もちろん哲学が教師の仕事となってから、つまり十九席の初め以来、倫理および英雄性の哲学の歴史は終わるといえるかもしれないが、哲学的英雄性が存在理由をもたなくなった時期というのは、哲学的生の伝説がその最高かつ最後の文学的表明を受け取る時期であるとフーコーはいう。フーコーはゲーテの『ファウスト』を念頭に置いている。それは哲学的伝説の最後の表明である。哲学が教師の仕事となるとき哲学的生は消え去る。あるいは同時期に、哲学的生の歴史、哲学的英雄性の歴史再開させることが、別の形態のもとで望まれるかもしれない。別の哲学的形態とは何か。フーコーは政治的領野、つまり革命的生のなかに自らの場所を見いだすであろうという。

 

 真の愛と真の生

 キュニコス主義はパレーシア、〈真なることを語ること〉のある種の形態であるというのが、以前からのフーコーの解読であった。特徴的なのは、パレーシアを行使する者の生そのもののなかに、生存の一つの表明が見出せることである。キュニコス主義が特権的なやり方で真理の証言としての生のかたちをとるのはなぜ、どのようにしてなのか、そしてその諸要素をこれまでの講義で述べてきたとフーコーはいう。つまり真理表明術の実践方法が、生の形式そのものにおける真理の産出として現れるとフーコーは指摘する。それは古代哲学やキリスト教的霊性において重要であったテーマであり、現代哲学では重要性を失ったが、十九世紀以来の政治倫理の中で重要であったテーマがある。それは真の生というテーマだとフーコーはいう。キュニコス主義以前に、あるいはキュニコス主義の他に、「真の生」という表現はギリシア哲学ではどのような意味に用いられていたのかとフーコーは問う。その前に真理の概念そのものを考える。真理はアレーテイア、真理であるはアレーテースとギリシア語では呼ばれている。フーコーは四つの意味ないし形式を取り上げる。第一に、「隠されざるもの」、そこから第二に、「自分自身とは別のものとのいかなる混合も被らないもの」、第三に、「直線的なもの」、最後に「変化も堕落もなく同一性のなかに存在し、あらゆる変化の彼方に自らを維持するもの」、これらが「真理」の本質的な価値であり、そしてそれらはロゴスに対して適用されているという。ロゴス・アレーテースは語り方のことである、つまり何一つ隠蔽されていないような語り方のことであり、偽なる外見や臆見が真なるものに混ざり合わないことのないような語り方であり、諸規則や法に真っすぐ言説であるということであり、同一にとどまり、変化せず、堕落も変質もなく、打ち負かされることも覆されることも反駁されることもないような言説であるとフーコーはいう。アレーテースという形容詞が西欧文化のなかで重要な概念であるもの、それはアレーテース・エロース(真実の愛)であるとフーコーは指摘する。第一に二つの意味において隠蔽しない愛である。真実の愛には隠蔽すべきもの、恥ずべきものはないという意味と、目的を隠蔽しない愛、相手に対する術策も曲解もない愛である。証人に対しても相手に対しても隠蔽のない愛、第二は、真実の愛は快と不快の混合のない愛、また官能的快楽と魂同士の友愛が混ざり合うことのない愛である。第三は、正しいものに合致したまっすぐな愛、規則、慣習に逆らうものを何も持たない愛である。最後は、変化、生成に委ねることのない愛である。同一にとどまる堕落せざる愛であるとフーコーは説く。真の愛と真の生は、プラトン主義以来、伝統的に、互いに帰属し合っている二つのもので

あり、キリスト教的プラトン主義はこのテーマを取り上げ直すことになると述べ、フーコーはアレーテース・ビオスについて説明を始める。

 アレーテース・ビオスは、キュニコス主義的語義の(逆説的で奇妙な形式の)外で標定したいとし、古典期の哲学的テクストに現れるような真の生を、またプラトンにおいて究極てきに練り上げられたかたちにおいてではなく、プラトンのテクストの自明でありふれた意味において取り上げようとフーコーはいう。

 一番目に挙げた隠蔽されざる生。意図と目的を何も隠していない行動の仕方である。フーコーは『ヒッピアス(小)』(364e-365a)に、このような考え方が見られるという。『イーリアス』第九歌をソクラテスは引用する場面で、オデュセウスとアキレスの対立が描き出される。アキレスはオデュセウスに次のように呼びかける。「策略に富むオデュセウス、君に私の意図を単刀直入に語らねばならぬ、私がそれを実行するとおりに、そしてそれがかく果されるだろうと私が知るとおりに。一事を心に秘めて他を口にする輩を、私はハーデースの門と同じく忌み嫌う。」ソクラテスはこのアキレスの呼びかけに注釈を加える、オデュセウスは幾多の曲折を用いる人であると。つまり話し相手に対して、考えていること、したいと思っていることを隠す者であるということだ。アキレスは彼に対し、自分の意図を曲折なく語る人だという。ソクラテスはアキレスに対して、ハプルースタトス・カイ・アレーテスタトス(最も単純で、最も直接的で、最も真なる人)であると語る。ハプルースとアレーテースの結合は、生の一つの形式を示すとき頻繁に見られるとーフーコーはいう。例えば、『国家』(第二巻)のなかで真理として、真実の生として、真なる存在様式として特徴づけられたのは神の実在である。神は単純であり真であるような何かと語られているとフーコーは指摘する。

 二番目に挙げた混合のない生。雑多の要素からなる人間や、自らの欲望や自らの欲求や自らの魂の動き多様性にとらわれている人間が真理にふさわしくない人間であるということが、『国家』(第八巻)で語られているとフーコーはいう。様々な快楽に同等性を打ちたて、最初に姿を見せる快楽の指揮に身を委ね、あくまで堪能し、次は別の快楽に身を任せるように対等に扱う。あるときは無為、あるときは哲学に耽っている様

子を見せ、しばしば思いついたことを演壇上で語る。民主的人間の生は、このようにあるときは無為、あるときは多忙、あるときは快楽の数々に、あるときは政治に身を委ねる、統一性のない生は真理なき生であり、ロゴス・アレーテース(真なる言説)に場を与えることができないのだとプラトンは描写している。

 三番目に挙げたまっすぐな生。ノモスに合致した生のことである。『ゴルギアス』の神話では、魂は死後裁判官、ラダマンチェスのもとに大王がやってくるが、ラダマンチェスが大王たちの魂に心を動かされることはない。そうした魂には健全な部分がまったくないため、すべてが歪んで、まっすぐでなないためである。つまり真理なしで生きたからである。

 

 さて人々が死んで、裁判官のところへやってきたなら、つまり、アジア出身の者なら、ラダマンチェスのところへやって

くると、ラマダンチェスは彼らを停止させ、そのひとりひとりの魂を観察するのであるが、その際、それが誰の魂である

か知らないのである。いな、しばしば、ペルシャの大王でも、あるいは他のどんな王や権力者でも、それと知らず取り押

さえてみと、その魂には、何一つ健全なところはなく、むしろ偽誓や不正のために、その魂のいたるところ鞭で引っぱた

かれていて、その傷跡というのは、その人の生前における行為の一つ一つが、彼の魂の上に刻印したところなのである。

また、その魂は、嘘や法螺のためにすっかりひん曲がっており、そして真実を無視して育てられたがために、真直ぐなと

ころは一つもいのを見てとるのだ。さらには、何でも思いのままにできる自由と、贅沢と、傲慢さと、そして行為に抑制

がなかったこととによって、その魂はつりあいを失い、醜くなっているのを見るのだ。ところで、そういったありさまを

見てとると、ダマンチェスは、その魂を見下げるようにして、真直ぐに牢獄の方へ送るのであるそしてその魂の方は、そ

こへ着いたなら、その魂にふさわしい責苦を耐え忍ばねばならないことになっているのである。(『ゴルギアス』524E-525)

 

複数の要素から、雑多な要素からなる魂はふさわしい罰を受けに行かせられるとある。ソクラテスとは別の魂を発見することもあるという。哲学者の魂であり、普通の市民の魂であったりするという。健全なりとともに、真理とともに生きた魂について、ラダマンチェスはその美しさに驚嘆し、それを「幸福の島」へとおくると書かれている。魂の相反する二つの運命への言及の後、真理の探究によって「生においても死においても」自分を完璧にするように努力したいとソクラテスは決意するとフーコーは説明する。

真直ぐな生、それは諸原則、諸規則に合致した生、ノモスに合致した生である。プラトン第七書簡で、デ

ィオンの招請をためらったが、ディオンが自分の諸規則を受け入れ、それによってディオンがその生を形づくったことに思い至ったとき説き伏せられた、つまりディオンが哲学を受け入れ教育を受け入れたことによ

って、シケリア全体が、そうした法を受け入れるのではないかと希望したのだとフーコーはいう。プラトンの哲学が人々に提案できる諸規則に従う生、それこそプラトンが希望していた真実の生であったし、フーコーによれば、ディオンに対する個人的な生だけでなく、社会的な生や政治的な生において諸規則を提案しようとしていたのは、法であり、政治的秩序であった。

四番目に挙げた自らの存在の同一性のなかで変容なしに維持する生。一方で、生の支配や統御に服従させるすべてに対して非依存、非隷属として理解された自由が、他方では自己の自己に対する統御および自己の自己による享受として理解された幸福が、生の生自身に対する同一性によって保証されるということであるとフーコーは指摘する。完璧に統御された生、完全に幸福な生としての真の生。フーコーはプラトンの『クリティオス』に描かれたアトレンティスの住民たちの生存や『テアイテトス』(174C-176A)を挙げている。引用は割愛するが、フーコーの解説を要約すれば、実践的な生存にかかわることには習熟してその問題を上手く切り抜けることはできるが、多忙で騒々しく時間的余裕のない生と対比して、日常生活には不器用で滑稽な人々の生、しかし「諸言説の調和に自らを適合させ、神々および至幸の人間たちが送る真の生を堂々と称える」ことのできる人々の生、それこそが真の生であると描かれているとフーコーは指摘する。

 

貨幣の価値を代えよ

 キュニコス主義が真の生という概念にどのように作用を及ぼしたのかをフーコーは考えようとする。ディオゲネス・ラエルティオスによって語られたディオゲネスの生を挙げているので、手短に紹介しよう。ディオゲネスが両替商の息子であり、ディオゲネスもしくは父が、公金横領で出身地であるシノーぺから追放されたらしいということ、シノーぺを追われたディオゲネスはデルポイに赴きアポロンに助言を求めたところ、「貨幣を変えよ」という助言を受けたということが記述されている。フーコーによると、キュニコス主義の伝統において「貨幣の価値を変えよ」という原則には二つの意味があるという。第一の目的は、ソクラテス

とディオゲネスの間にシンメトリーを打ち立てることである。デルポイの神から、彼こそ最高の知者であるという預言を授かったと同様に、ディオゲネスはデルポイに行き、「貨幣の価値を変えよ」という返答を受けた。つまり両者はそれぞれ一つの使命を授かったということである。ユリアヌスのよって、四世紀にこのシンメトリーは打ち立てられ維持される。

 「貨幣の価値を変えよ」という意味には貨幣という語が意味するノミスマ、と法という語が意味するノモスの接近にフーコーは注意を喚起する。つまり法に対する態度を変えよということである。貨幣の価値を変えるとは、貨幣の価値を下げることではなく、貨幣にその価値を失わせるために貨幣を「変質させる」という意味でもあるとフーコーはいう。「変質させる」とは、肖像が刻まれた貨幣の肖像を消し去り、別の肖像に置き換えること、つまり貨幣に優れた別の肖像を刻むことによってその貨幣にその価値返還することであるとフーコーは指摘する。真の生(アレーテース・ビオス)の貨幣を取り上げ、その伝統的な意味に最も近いところで手直しを加えることである。キュニコス主義者は、断絶ではなく、極端化によって、伝統的に認められてきた真の生と正反対の一つの生を明らかにしようとしたとフーコーはいう。キュニコス主義のうちに断絶を指摘するのではなく極端化を見る、つまり外在性というより、一種の拡大適用を見ることが必要であるということ、フーコーによれば、「真の生というテーマの一種のカーニバル的連続性」を見ることが重要であると主張する。それは真の生としてのビオス・キュニコスを考察することである。

 

 キュニコス主義の逆説

 一方では当時の哲学との共通の特徴を持ちながら、つまり凡庸さ見せながら、他方ではスキャンダルとそれを取り巻く非難,嘲笑、嫌悪、懸念の混合が見られるとフーコーはいう。ヘレニズム時代からキリスト教黎明期までキュニコス主義が存在してきた間、非常に馴染み深いものであると同時に異様なものであったということ、凡庸であるのに受け入れがたいものであったとフーコーは指摘する。前述したが、セネカが重要な哲学者と認めたキュニコス派のデメトリオス、エピクテトスが述べる理想的なキュニコス派の肖像がある。ユリアヌスにおいては、キュニコス主義を批判するまさにそのとき、キュニコス主義を哲学の起源そのもの以来のあらゆる哲学者の普遍的態度として示しているし、ルキアノスもペレグリノスのようなキュニコス派に激しい批判をしているが、デモナクスにはポジティヴな肖像を描いているとフーコーは指摘する。なぜこ

のようなことが起こるのだろうか。フーコーは、古代哲学にとってキュニコス主義は、「壊れた鏡」のような役割を果しているという。あらゆる哲学者たちはそこに自分の姿を認める。つまり哲学がそうであるところのものと哲学がそうであるべきものの反映、自分がそうであるところのものと自分がそうありたいと望むものの反映を認めることが必要になっているとフーコーはいう。哲学者はこの鏡の中に、暴力的で醜く不格好な変形のようなものを知覚し、そこに自分の姿を認めることもなければ哲学を認めることもないとフーコーは解く。さらにフーコーは、転倒した一種の折衷主義であるように思われるという。折衷主義というものを、一つの時代の様々に異なる哲学において最も伝統的で最もありふれた特徴の数々を組み合わせる哲学的な思考と定義するなら、そのような組み合わせを行なうのは、それらの特徴を万人にとって受け入れられるものし、それらを知的かつ道徳的なコンセンサスを組織する原則とするためであるとフーコーはいう。同時代の哲学に見出される根本的な特徴を取り上げ直しそれをけしからぬ実践とすることで異様さや外在性を生じさせ、敵意や戦いを引き起こしたのだとフーコーは指摘する。キュニコス主義が、誰もが語っていることを語ると同時に、それを語る事実を容認しがたいものにすることができたのはなぜか。キュニコス主義は真政治的かつ哲学的な問題を新たな光を出現させ、それに対して新たな形態を与えるものであるように思われるとフーコーはいう。

 

 

次回その三につづく。

(十六)は、その三で終了します。

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長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十六)その一

2013年04月04日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十六)その一

小林 稔

 

 44 キュニコス主義における生存の技法と真なる言説

  プラトンの書物の読後にいつも感じられる一種の清浄しさ、それが『饗宴』や『パイドロス』などのエロース論に限らずソクラテスの死の三部作、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』などの書物もそうであるが、何かふっ切れた思いに浸され、物事を正面から立ち向かおうとする勇気に包まれる、そういった感慨はどこからくるのであろうか。ギリシアの自由を求める気風の中にあって、他から押し付けられるといった、権力による道徳ではなく自らに倫理を生み出そうとする風潮があったことは、フーコーも指摘している。それが真の生とは何かの探究に連結し、ソクラテスによって、哲学的パレーシア(真なることを語ること)として引き継がれていく。フーコーによると、パレーシアとは自らの命の危険に晒されても貫徹するものであるという。(詳細はこの論考ですでに十分述べてきた。)パレーシアの実践とともに、真善美を基底とする生存のあり方もまた求められてきたのであり、それは真理探究の過程を通して自らの生を代価にした行為であるといえるであろう。ソクラテスにおいてはアテナイへの愛からその国制への忠誠が貫かれていた。神から宛てられた「自己への配慮」を人々に説くという任務において、政治と哲学の衝突に対し、一種の中庸の立場に身を置いたが、パレーシア行為は一歩も譲ることはなかったのである。それは、プラトンの思想として描かれたソクラテスのエートスではあるが、「別の生」としてイデア世界(形而上学的世界)への確信があったからである。ところが、真理探究において、より過激に性急に哲学を実践しようとする流派があった。それがこれから述べようとするキュニコス派である。「真の生」を妥協なく「別の生」に置き換えようとした人々といえるキュニコス主義と呼び習わされる人々が、単純に「変人」として処理できない問題を、晩年の

フーコーは重視していた。理論ではプラトン主義やストア派には比べられないほどの脆弱さを示しながらも、哲学の根本原理を逆説的に捉えていたことと、後の時代のキリスト教思想、さらにニーチェやボードレール、近代以降の革命思想などにキュニコス主義の形態がみられることを指摘し、フーコーは晩年の思想、「生存の美学」を形成していくのである。詩における「生の変革」を実践したランボー以後の詩人像(この論考の後半は詩人論になる)を浮き上がらせようとする私の詩学の試みに賦与するであろう。

 

倫理の実践における美しい生存の探究

 ギリシア文化において、すでにホメロス、ピンダロスに現れていた「美しい生存への配慮」が、〈真なることを語ること〉への気遣いとのあいだに、ソクラテスとともに現れる倫理的方式のもとで、作品としての生存という原則とどのように混交したのか、ということに晩年のフーコーは関心を寄せていたことを自らに語る。〈真なることを語ること〉〈他の人々や自己自身に対し、自己自身や他の人々に関して、真なることを語ること〉という原則が「真の生」の問題を出現させたのである。また、「魂の形而上学」と「生存のスタイル論」は合体したり離散したりする柔軟性を持っていることもフーコーは追記する。

 真理の形式及び〈真なることを語ること〉の実践における美しい生存の探究(フーコー)というテーマで、この講義「真理と勇気」(コレージュ・ド・フランス講義一九八四年度)の後半はキュニコス主義の例をフーコーは取り上げている。なぜなら、「キュニコス主義の実践において、一つの生の形式が、〈真なることを語ること〉の原則に非常にしっかりと連接されている」からである。つまり、「極端に類型化された生の形式の要請が――非常に特徴的で非常に明確に定められた諸規則、諸条件、諸様式を伴って――羞恥や恐れなしの〈真なることを語ること〉、勇気ある無制限の〈真なることを語ること〉、耐え難い横柄さに転じるほどに勇気と大胆さを押し進めるような〈真なることを語ること〉の原則に、しっかりと連接されていると思われる」からであるとフーコーはいう。

 一般的にキュニコス主義は、ソクラテスの弟子であるアンティステネスを祖とするヘレニズム期の哲学の一派を指すが、それ以降もキュニコス主義といえる思想が受け継がれている。フーコーは、古い形態のキュニコス主義だけを語ると述べる。つまり、ディオゲネス・ラエルティオス、ディオン・クリュソストモス、エピクロスやルキアノス、あるいはローマの皇帝ユリアヌスによって書かれた、風刺的ないし批判的テクストに見られるキュニコス主義である。例えば、ディオゲネス・ラエルティオスのテクストでは、キュニコス派のディオゲネスに関する逸話を取り上げている。人間において最も美しいものは何かを訊かれたディオゲネスは、パレーシア(率直な語り)であると答えた、という逸話をフーコーは述べる。生存の美しさとパレーシアの行使というテーマが直接的に結び付けられ、またエピクテトスのテクストで描かれたキュニコス派の肖像は、ある種の形態の哲学的修練主義のキュニコス的本質について理想上の定義としてとらえられるものであるとフーコーはいう。世界の事物の中で人間に味方になりうるもの、敵になりうるものを見定める偵察者として人間の前線に送られてきた者として描かれている。避難所もなく休憩所もなく、祖国すらない彷徨の人である。任務を終えた後で真理を告げるために戻ってこなければならない。そこには、キュニコス主義の、恐れることなく〈真なることを語ること〉を行使するパレーシアの定義が示されているとフーコーはいう。前回に考察した『ラケス』においてラケスが語っていたこと、つまりラケスには好きなロゴスと嫌いなロゴスがあり、それらは何によって区別されるか、それは、語り手が話す内容とその人物が生きるやり方のあいだに、ある種の調和、ある種のホモフォニーがあるかどうかということによる。語ることと生きることとのあいだのホモフォニーは『ラケス』よりもキュニコス主義ははるかに複雑かつ明確であるとフーコーは指摘する。また、節食、勇気、知恵のような徳を示し表明するソクラテスより、キュニコス主義の生の様式は、きわめて明確にコード化された諸形態によって特徴付けられるとフーコーはいう。『ヘラクレイトス駁論』に登場する杖は、パレーシアと結び付けられ非難され、ユリアヌス帝に非難されている。杖はキュニコス派を象徴するものの一つに過ぎず、その他、頭陀袋を持つ人、マントを纏う人、サンダル履きあるいは裸足の人、髭もじゃの人、薄汚い人、家も家庭も持たない人、物乞いをする人などの姿で様々なテクストに描かれている。

 

 生の様式の諸機能

 キュニコス主義は〈真なることを語ること〉との関係において、三つの機能、道具的機能、縮減の機能、試練の機能(役割)を持っているとフーコーは語る。エピクテトスは『語録』で述べているように、キュニコス派は家族を持つことができない。なぜなら人類が彼の家族と考えているからである。「キュニコス派は、自分の気を散らすかもしれぬすべてのものから自由なままにとどまり、全面的に神に使え、人々の間に出入りして、私的な義務につなぎとめられないようにすべきではないのか。」私的な義務を果そうとすれば「神々の使者、偵察者、英雄という彼の役目を破壊してしまうことになる」と(弟六九節―七十節)に記述されている。使者的な役目を果すためにあらゆるつながりから自由でなければならないのであり、そういう意味でパレーシアの可能性をキュニコス派の誓の様式は条件として持っているとフーコーは指摘する。二つ目の縮減の機能を果すものとしての生の様式とは何か。万人に受け容れられてはいるが、自然によって理性によって基礎づけられていない無益な責務を縮減するということである。真理を明るみに出すための研磨のようなものであるとフーコーはいう。三つ目は試練の機能である。人間の生にとって最も基本的な本質を構成するものを還元不可能な裸の姿で明るみに出すということだとフーコーはいう。このような生の様式はキュニコス派の奇天烈な行動へと駆り立てている原因になっているのだ。キュニコス主義によって、生、生存、ビオスが、真理表明術と呼びうるようなものとなるとフーコーはいう。

 

キュニコス主義の後裔

 世に認められた哲学がキュニコス主義に対して両義的な態度、つまり批判された実践とキュニコス主義の核となるものとの区別を試みてきたことが哲学の歴史にあるということをフーコーは指摘している。このことが、古代から顕著に見られるとはいえ、後代のキュニコス主義の価値剥奪に影響を与えてきた。西欧の思考に伝えた哲学に、プラトンやアリストテレスの哲学、ある程度までストア主義があるが、キュニコス主義はそうではなかった。その理由にはキュニコス主義のテクストがわずかしか残されていないこと、またその理論的敵骨組みが未発達であったことが考えられる。従って学説ではなく、生き方としてのキュニコス主義の歴史を研究することが可能であるとフーコーはいう。近代ヨーロッパの思考と文化におけるキュニコス主義と古代キュニコス主義の関係を扱った書物に、キュニコス主義を扱ったドイツ語のテクスト、ティリッヒの一九五三年の『存在する勇気、あるいは存在に対する勇気』と題された書物があり、ニーチェや実存主義との参照が見られるとフーコーはいう。現代のキュニコス主義を派生させ、それを自分自身で自分の創造者となる勇気という観点から論じているとフーコーは紹介している。さらに一九六六年の『哲学と神話にかんする四考察』というハインリヒの書物も取り上げている。古代のキュニコス主義は自己自身の肯定であり、都市国家および政治的共同体の破壊に呼応し、かつての政治的で共同体的な構造を参照できず、動物性の鳴かにその基準と基礎を探す自己自身の肯定である。それに対して、現代のキュニコス主義(Zynismus)は自己の肯定であるが動物性に関連せず、不条理および意味の普遍的な不在に対して行なわれていると述べられている。フーコーはその他にゲーレンの『道徳と超道徳』、スローターダイクの『シニカル理性批判』を挙げている。しかし、これら(前者三つの書物)は古代のキュニコス主義にポジティブな価値を与え、近代のキュニコス主義には否定的な価値を与え対立させて論じているように思えるとフーコーはいう。だが、両者には顕著な非連続性が見られるが、キュニコス主義の連続的な長い歴史があったとすれば、ヨーロッパ文化全体を通じてキュニコス主義なる、恒久的な存在があったと考えられるとフーコーは指摘する。先述したハインリヒとティリッヒの解釈においても個別の生存の高まり、自然的で動物的な生存の高まりとして提示されているが、個人主義として分析すると、見逃されてしまうもの、つまりフーコーの一番の関心事である、「生存の諸形式と真理の表明とを関係づけるという問題」が見落とされてしまうと指摘する。フーコーは今後なされうる仕事としながらも、「真理が出現する場としての生のスタイルないし生の形式というテーマ(真理表明術としてのビオスというテーマ)」から始まる考察を受け入れるとするなら、キュニコス主義的生存様式を、キリスト教的古代および近代世界に伝えることができたものとして、三つの要素が挙げられるとフーコーはいう。一、キリスト教修徳主義に見られるキュニコス主義的存在様式、二、政治的実践(革命的運動)に見られるキュニコス主義的存在様式、三、芸術に見られるキュニコス主義的存在様式である。

 

キリスト教修徳主義とキュニコス主義

 キュニコス主義的存在様式が幾世紀にもわたりにヨーロッパに運ばれてきたと思われるものが見出されるとフーコーは指摘する。キュニコス派のやり方での修徳の実践によって真理に具体的なかたちを与えようとしていたという証言が数多く残されている。ペレグリノスという人物に関するルキアノスの記述では、ペレグリノスはある時期にキリスト教徒になり、禁欲をすべて受け入れ、キリストに対する忠節と服従により焼身自殺したとある。キリスト教とキュニコス主義の生の様式の混交は緊密なので、キュニコス派に敵意を持つルキアノスのような人物はそれらを混同することがありえるとフーコーはいう。さらにユリアヌスや聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムスなどの記述から両者の混同が見られるのであって、キリスト教黎明期には、キュニコス派に観察されたテーマ、態度、行動形態の多くが、中世の霊的運動の中に再び見出されるとフーコーは指摘する。フランシスコ会修道士やドミニコ会修道士たちはキリスト教を通じて伝達されたキュニコス主義のモデルであったし、十一世紀フランスの霊的指導者、アンブリッセルのロベールについてフーコーは取り上げている。彼は襤褸を纏い裸足で村を渡り歩き、聖職者の風俗壊乱と戦ったことを述べている。あるいはキリストの裸姿に裸で付き従うというテーマがヴァルドー派にあったという。フーコーによれば、それらは「完全に簡素化という生の様式であると同時に、世界と生に関する真理を完全な裸姿のうちで表明するものであるという、キュニコス主義の裸姿に備わる二重の価値との関わりが見いだされる。プロテスタントの宗教改革の内部、あるいはカトリックの対抗宗教改革の内部においても感じ取られるという。

 

 政治的実践に見いだされるキュニコス主義的存在様式

 革命的運動はキリスト教的霊性のさまざまな形態から借り受けていて、真理の暴力的かつスキャンダラスなである表明はキュニコス主義的考えは、革命的運動がとった諸形態の一部をなしているとフーコーは指摘する。近代ヨーロッパ世界における革命は、政治的企図であるだけでなく、生の形式でもあったし、十九世紀、二十世紀のヨーロッパにおいて、革命的生としての「戦闘的態度」(革命的態度を生として定義し阻止気づけるとするなら)は三つの大きな形態をとったとフーコーはいう。

①     秘密結社における革命的生。現在の可視的な社会に対抗する結社や陰謀、千年王国思想の原則ないし目標に従った不可視の社会性の構成という側面は、十九世紀初頭に非常に重要であったとフーコーは指摘する。

②     もう一方には可視的で認知され制度化された組織の形態を持ち、その目標と活力を社会的かつ政治的な領野のなかで価値づけようとする戦闘的態度がある。(革命的組織、政党のなかに現れる)

③     生存のスタイルという形態における生による証言としての、社会のしきたりや習慣,価値を対立する戦闘的態度。「真の生」としてのもう一つの生の具体的な可能性と価値を表明する。真の生というテーマは、ソクラテスによってすでに提起され、西洋思想全体に絶えず現れつづけたとフーコーは指摘する。

 

このように、革命的生は、秘密結社、制度化された組織、真の生の証言という三つの側面を持っていたとフーコーはいう。三番目の生による証言(真の生)は、二番目の戦闘的態度ともつながりを持つ。十九世紀半ばに起こった運動に支配的であった、ドストエフスキー、ロシア・ニヒリズムやヨーロッパおよびアメリカのアナーキズム、そしてテロリズムの問題があるとフーコーは主張する。つまり、「ギリシア人とギリシア哲学によって真理本位の、生の根本的諸原則のうちの一つとして措定された真理のための勇気を、真理のために死に至る生の実践としてのアナーキズムとテロリズムが、どのようにして常軌を逸したやり方で極端化するのか」について研究する必要があるとフーコーはいう。十九世紀に支配的であった生による証言は、ニヒリズムやアナーキズムへ至る運動の中に見出されるというが、それがヨーロッパの革命主義の歴史における一つの歴史的形象に過ぎなかったというのではなく、今もって真理のスキャンダルとしての生という問題が再出現するのを、極左主義と呼びうるものの中に、革命的生のスタイルの問題が恒久的に出現するのを絶えず目にするとフーコーはいう。今やヨーロッパに限らず、フーコーは立ち会うことがなかった9・11など、イスラム原理主義によるテロリズムの問題なども含めて考えなければならない事項が二十一世紀には起こっている。

 

 近代芸術における反プラトン主義

真理のスキャンダルとしての生の様式というキュニコス主義的テーマはまた芸術のうちに見いだされるとフーコーはいう。古代においてもキュニコス主義的芸術とキュニコス主義的文学があった。サチュロス劇や喜劇はキュニコス主義的テーマに貫かれていたし、中世のキリスト教的ヨーロッパにおいては、祝祭とカーニバルのキュニコス主義的生の表明と見ることができるが、近代芸術においてキュニコス主義の問題が特に重要であり、現在の我々においてもそうであるとフーコーは指摘する。十八世紀ないし十九世紀の間に起こったことで、「芸術家の生」という、ヨーロッパ文化に特異な何かの出現とともにもたらされたとフーコーはいう。もともと芸術家には通常のノルムに還元しえない特別な生を送らなければならないという考えがあった。しかし、十八世紀と十九世紀の初めにかけて、それとは異なる何かが生まれる。芸術家の生が真理においてある種の証言をしなければならないという考えが生まれた。芸術は生存に対して他の形式とは対立する「真の生の形式」を与えることができるという原則と、その生に根を張る作品は芸術の領域に帰属することを保証するという原則に依拠しているとフーコーはいう。つまり、芸術作品としての芸術家の生という考えは、他の生からの、スキャンダラスな断絶の表明としての生、生を通して真理が明るみに出し自らを表明するという原則を別の側面から浮かび上がらせる方法であるとフーコーはいう。さらに近代芸術がキュニコス主義の運び手であったといえるもう一つの理由は、「生存の暴露」、生存にとって基本的なものへの暴力的還元に属するような関係を打ち立てなければならないという考えが現れたことであるとフーコーは指摘する。十九世紀半ば以来、顕著になってくる何かとフーコーはいう。ボードレール、フローベール,マネにおいて登場する何かである。下にあるもの、低いところにあるもの、基本的なものが一つの文化において表現の権利あるいは可能性を持たないものが闖入する場としての芸術のありようが構成されてきたとフーコーはいう。フーコーのいおうとするのは、既存の芸術観にはありえなかったものの流出であろう。俗なるものへへの視線が芸術領域にスキャンダラスに現れたことである。フーコーは「生存の暴露としての芸術」と呼んでいる。マネからフランシス・ベイコン、ボードレールからベケット、バローズに至るまで見いだされる深い傾向であるとフーコーは述べている。「芸術は、文化、社会的ノルム、美学的な諸価値や諸規範に対して、還元、拒絶、侵害といった論争を呼ぶ関係を打ち立てる」ことになったとフーコーはいう。

一つの規則は後の規則によって絶えず拒絶し破棄する運動になる。「芸術のあらゆる形式には、あらゆる獲得された芸術に対する一種の恒久的なキュニコス主義がある」という意味で、フーコーはこれを「近代芸術の反アリストテレス的性格と呼ぶことができるという。「生存にとって基本的なものへの還元とその暴露」という意味でフーコーは反プラトン的と呼んでいるのであり、獲得された形式の絶え間ない拒絶という意味で反アリストテレス的と呼んでいるのであろうが、本質的には反文化的という一つの機能を果すという。それらが反プラトン主義的といいえるかは、何をもってプラトン的と呼ぶかに関わるであろうが、当時の考え方から判断してそのような傾向が顕著に現れたことを指摘していると考えてよい。(フーコーが晩年、古代ギリシアに関心を移したことを考えるなら、プラトン主義の、西洋思想からの曲解が考えられよう。別の機会に論じることにする。)「文化のコンセンサスに、その粗野な真理における芸術の勇気を対立させることが問題となる」というフーコーの論点は、現代芸術、特に文学(詩)の領域における〈真なることを語ること〉の形態として充分納得されるものであった。フーコーは今後解き明かされねばならない問題の覚え書としてこの講義で論じているが、彼にはそれをする生の時間は残されていなかったのは残念である。

 

 キュニコス主義と懐疑主義(草稿)

この『真理の勇気』の二月二十九日の講義録には、フーコー自身による草稿がつけられている。芸術のキュニコス主義と革命的生との間の関係についての記述があり、革命的な〈真なることを語ること〉の勇気を、真なるものの野生の闖入としての芸術の暴力に結びつける試みは本質的に不可能であることをフーコーは指摘する。近代芸術ではキュニコス主義的機能がその核心にあるが、革命的運動では政党が組織され社会的かつ文化的な画一性によって「真の生」を定義すればキュニコス主義的機能は周縁的なものになるからであるという。近代芸術に固有のエートスと、政治的実践に固有のエートスとの両立不可能性を構成するとフーコーはいう。古代において大衆的な動きであったキュニコス主義は、十九世紀、二十世紀においては否定的な価値としか結び付けられなくなったのは、懐疑主義との近づけうるものになったということと関係づけられる。しかし、懐疑主義は実践を脇に置き、知の領域における吟味の態度であるのに対して、キュニコス主義は実践的態度をその中心に置き、理論に関する無頓着ないし無関心とに連接されていて、十九世紀のキュニコス主義と懐疑主義の組み合わせが「ニヒリズム」の根源にあったことをフーコーは鋭く指摘する。キュニコス主義は、西欧文化以前に提起された問題、つまり真理への意志と生存のスタイルをめぐる問題の、歴史的に位置づけられた一つの形態と見なさなければならないとフーコーはいう。西欧文化の核心には、真理への配慮と生存の美学との間のつながりを定義することが困難であるゆえに、キュニコス主義は重要な問題であるとフーコーは指摘する。多様な真理を発明し、多種多様な生存の技法をこしらえた西欧にとって重要なことは、学説の歴史ではなく、生存の諸技法の歴史を打ち立てることである、つまり「不可欠なのはほんのわずかな知識であり、真理に執着するときに必要なのはほんのわずかの生であるということ」キュニコス主義は思い起こさせる」フーコーは書き加えている。

 

 デメトリスとペレグリノス

 フーコーはこれまで論じてきたのは、西洋文化のなかでキリスト教制度、政治生活などの実践において、キュニコス主義的生、キュニコス主義を運搬したものについてのいくつかを論じてきたことを確認し、それとは別のキュニコス主義の理論的考察が、一九七九年にドイツで出版された、プレープシュティンクなる人物の著した『ディオゲネスのキュニスムスとツュニスムス概念』という書物で考察されていることを紹介している。この書物では、十六世紀から現代までの哲学史のなかでキュニコス主義が描き出されたやり方そのものへの参照が見られ、ニーチェのような他の著者たちへの参照も見られるという。ルートヴィヒ・シュタインがニーチェに対してなされたニーチェの世界観とその危険について、ニーチェのキュニコス主義を告発している書物であるとフーコーはいう。

フーコーのここまでの論考はキュニコス主義がもたらした後裔への影響であった。パレーシアの一連のフーコーの研究においては、彼自身が語るようにパレーシアという語のもつ意味の解体がいかにしてキリスト教で起こるのかである。しかしその前に、古代におけるキュニコス主義の歴史に立ち戻ろうとしている。まずキュニコス主義におけるいくつかの問題を指摘する。一つ目は古代においてさえ様々な態度や行動がキュニコス主義にはあったことである。「短いマントを纏い、もじゃもじゃの髭をたくわえ、汚れた裸足で歩き、頭陀袋と杖を持つ人物、街角、広場、神殿の入り口で、人々を呼び止めて自分が思ったことをずけずけという人物」というステレオタイプの彼方に、他の数多くの生の形式があった。例えば、簡素化された貧しい生を送ったデメトリオスなる人物がいた。ストア派のセネカは彼を自分の時代の哲学において最も傑出した人物のうちの一人と語っている。セネカは『恩恵について』のなかで、皇帝カリグラによって差し出された大金を荒々しいやり方で拒絶したことを述べ、デメトリオスは「私を誘惑したかったのであれば、彼はローマ帝国全体を差し出す必要があっただろう、という注釈を、デメトリスは添えたとフーコーは記す。フーコーによれば、帝国が差し出されても誘惑に屈しなかったであろう、しかしデメトリオスのいいたかったことは、「もし誘惑が、自分自身を強化するための試練、世界を前にして自分自身の主権を保証するための忍耐力の試練なのだとしたら、そしてもしその試練が、彼が自らを鍛え上げ、自らを強化し、自らの忍耐力を増大させることを可能にするための本当に真剣な試練でなければならなかったとしたら、彼に差し出されなければならなかったのは、もちろん大金ではなく、少なくともローマ帝国全体であった、ということ」であるという。この申し出に対してこそ抵抗すべきであったし、自分の勝利が価値をもつはずであった。自分になされるすべての提案を拒絶し、横柄な言葉を付け加える人物ではあるが、セネカはデメトリスを教養豊かな人物であり、街角の説教師からは遠く隔たった人物であるとして紹介している。「デメトリスは、完璧な知恵を備え、重要な主題にふさわしい雄弁によって、飾り気もなく、言葉を歪めることも凝った言葉を用いることもせずに語る人である」というセネカの文章をフーコーは引用する。装飾を棄て、簡素化したものである限りキュニコス主義といえようが、街角の説教師、それはキュニコス主義のイメージに還元されている。しかし、彼らがわめき立て罵りあう横柄な態度とは別の雄弁さをしめしているとフーコーは指摘する。

また別の例としてフーコーはペレグリノスという人物も取り上げる。ルキアノスの記述によれば、オエリグリノスはキュニコス派の哲学者であり、彼は人生のある時期にキリスト教徒になったが、禁欲の全てを受け入れ実践したのは、十字架にかけられたキリストに対する忠節と服従によるという。ローマにおいてイディオスタイ(教養も、社会的、政治的地位を持たない人々)に向けて教えをペリグリノスは施していた。また、アレクサンドリアの大衆による反ローマ運動にも関わっていてローマを追放された。このぺレグリノスとデメトリスの対立をフーコーは指摘し、キュニコス主義という同じ特徴を持ちながら、非常に異なったい

くつもの態度があること示している。二人の対立で象徴的なことは、タキトゥスの『年代記』によれば、デメトリスは、トラセア・パエトゥスが皇帝によって自殺を命じられたときの助言者であり、「完全にソクラテス的な様式」のもとで、魂の不死について対談したという。それに対して、ペレグリノスは自らの死を大衆的な祝祭として準備し,焼身自殺したとルキアノスによって記述されている。

 

 真のキュニコス主義と偽りのキュニコス主義

このようにさまざまな態度や行動がキュニコス主義に属するものとして示されていたことが、キュニコス主義を分析するときの難しさを示すものであるとフーコーはいう。さらに文責を難しくしている二番目の要因は、キュニコス主義が大きく発展した時期を紀元前一世紀から三世紀(ユリアヌス帝に至るまで)とするなら、キュニコス主義に対して示された態度の両義性があるとフーコーは指摘する。一つは、「粗野な者,無知な者、無教養な者」であるというキュニコス主義に関する激しい非難や告発である。前述した二世紀末のルキアノスは、[キュニコス主義の大敵であり哲学一般の大敵である](フーコー)彼の『逃亡者たち』の記述によれば、「軽蔑すべき人間たちの一族がおります。……彼らは奴隷状態に晒され、日雇いの身分で、靴屋、大工,縮充工、梳毛工といった、自分たちの身分にふさわしい仕事に従事しています。……ところが、成人になって、大衆が私の同胞たちを[つまり真の哲学者たちを](フーコー)この上なく深く尊敬し、彼らの率直さを容認し、彼らの友愛を求め、彼らの助言を聞き、彼らによるほんのわずかの非難にも屈するのを見て、彼らは、哲学がその絶対的な力によって全てを支配していると考えたのです。この仕事に必要なことを学ぶのは時間がかかりすぎる、というよりむしろそれは不可能であると、彼らには思われました。他方、彼らのつらく卑しい仕事は彼らの生活をなんとか賄える程度で、その奴隷状態は、実際、彼らに重くのしかかるようになりました。ではどうするかと言えば、彼らは、最後の錨を投じようと決断します。……彼らは狂気の港に投錨し、〈横柄〉、〈無知〉、〈無分別〉といった馴染みの仲間たちに助けを求め、新式の悪罵を自分の口先にいつも準備しようとします。それから……彼らはできる限りの変装を自らに施して、私にそっくりの姿を手に入れるのです。」

 

ここに描かれているのは、キュニコス主義を実践する人々一般が粗野で無知で無教養であることであるとフーコーはいう。またユリアヌス帝の『ヘラクレイトス駁論』では、

 

「キュニコス主義とは、非理性の一つの形態、人間にふさわしくない一つの生き方、さらには、あらゆる美しさ、あらゆる

誠実さ、あらゆる善良さを否定する魂の獣的な一つの傾向なのだろうか……神々に対する畏敬が消失し、あらゆ

る人間的な慎みが失墜することによって、名誉や正義とも呼ばれる法が踏みにじられるだけではない、それに加

えて、神々が我々の魂に刻み込んだ法、すなわち神的存在があるということ、我々の視線はその神的存在に注が

れていることを、それと告げることなく我々全てに納得させた法も、やはり踏みにじられることになるのだ……

想定してみよう」

 

という記述がつづく。この後に、神聖で神的な第二の法が拒絶されると想定してみる。それは他人の諸権利の尊重を命じる法であり、それが拒絶されたときには、追放令に処せられる必要があり、投石令に処せられる必要がある。彼らは、自分たちが非理性とは無関係であるかのように死を軽視すると述べている。フーコーによると、ここに描かれているのは、キュニコス派が神々の法、人間の法、そしてあらゆる形態の伝統性ないし社会組織に逆らっているという事実であるという。このようなユリアヌスやルキアノスの非難がある一方で、同じ人物によるキュニコス主義の価値を強調する記述があるのだ。

 

ルキアノスは、デモナクスというキュニコス主義の人物を描き出し称えている。「生まれつき彼に備わる衝動によって自然に哲学へともたらされた人」として紹介している。「人はもっぱら自然によって哲学者である」というルキアノスの主張は、キュニコス主義の重要なテーマであったものの一つである」とフーコーはいう。 また、ディオン・クリュソストモスによって報告されているディオゲネスとアレクサンドロス大王の対話をフーコーは挙げる。「王」が「王」であるのは自然によってである。その理由はゼウスの息子として生まれた者が「王」であるからだとディオゲネスはいったのであり、デモナクスも、生まれつきの衝動によって自然

に哲学へともたらされたので、ゼウスの息子のような者であるといったという。それはデモナクスが無教養の人物だというのではなく、様々な異なる哲学を組み合わせようとしたり、文学的かつ哲学的教養を身体的な忍耐力で補完しようとしたとルキアノスはいう。デモナクスは自由とパレーシアに生涯身を捧げた人、穏やかな実践家、療法や治療にかかわる実践家、侮辱や襲撃ではなく平和の実践家であったというキュニコス主義のポジティブな肖像を、ルキアノスは示すことができたのだとフーコーはいう。キュニコス主義の両義性は、別の言い方をすれば、真のキュコス主義と偽りのキュニコス主義が存在するといえるであろう。ユリアヌス帝は、『ヘラクレイオス駁書』において、真のキュニコス主義哲学は、ディオゲネスとクラテスに見いだされると主張しているとフーコーはいう。彼らこそ真のキュニコス主義の創始者であるというユリアヌス帝のいう理由は、行為と言葉の間に区別、隔たり、矛盾がなかったという点である、とフーコーは指摘する。ディオゲネスとクラテスの謙虚さ、質素さ、「いかなる欲求も持たないときあるいは身体によって煩わされないときにこそゼウスとともに君臨できるということを、怒号によってではなく事実によって証明したのである」と述べている。さらにユリアヌス帝はキュニコス主義を、「万人にとって有効であると同時に誰にでも手の届くものであるような、一種の普遍的哲学とユリアヌスは考えていたとフーコーは考えていたとフーコーは指摘する。ユリアヌス帝は『無学なるキュニコスの徒への駁論』なかで、キュニコス主義は古いものであり文化的普遍性があることを明かしているとフーコーはいう。ディオゲネスやクラテスを越え、ヘラクレスをさらに越えて、ヘレネス(古代ギリシア人の総称)やバルバロイ(異民族)にまで遡ってキュニコス主義を記述している。

 

「神々および神的な生へと歩んだ人々に敬意を表しつつ語りたぃと望む私としては、彼(ヘラクレス)以前にも――ヘレネスにおいての

みならずバルバロイにおいても――その哲学(キュニコス主義)を表明していた人々がいたと確信している。その哲学は、私が思うに、

普遍的で、完全に自然であり、いかなる特別の研究も必要としない。徳への欲望と悪徳への嫌悪によって、誠実なことを選べばそれ

で充分である。また、数多くの書物を開く必要もない。というのも、人もいうように、学識は精神を与えはしないからだ。他の

哲学的学派の信奉者たちがその多様性において支持しているものと別の学科に従うには及ばないのだ。」

 

この部分をフーコーは挙げて、基本的ないくつかの徳、誰もが知りうるし誰もがその訓練を行なうことのできるようないくつかの徳を実践するだけで、キュニコス主義の核そのものを構成するのに充分であるということを示しているという。さらにフーコーはそれらの特徴は一種の哲学的混合主義でもあると指摘する。つまり普遍性を獲得している反面、凡庸さも表明していることにもなる。奇妙な逆説として、フーコーは哲学に関心を寄せていた人々のもつキュニコス主義に対する二重の態度を指摘する。それは、キュニコス派は社会の周縁に身を置き、制度や法などから追い払われる存在でありながらも、哲学に関心を寄せる人々はキュニコス主義的実践から、そのものに固有の本質である核を引き出そうとする努力があったことだ。つまり偽りのキュニコス主義と、その本質的な核をもった真のキュニコス主義を区別しようとする努力があったということがかなり特異なものであるとフーコーはいう。

 また古代のキュニコス主義研究を困難にしている他の理由もある。それは、キュニコス主義が大衆的な形態を持っていたことと関連して、理論的なテクストを含んでいなかった、あるいは少ししか含んでいなかったこと、未発達のものであったことをフーコーは指摘している。キュニコス主義の二つの側面、つまり広範囲に定着した哲学でありながら、つまり大衆的でありながら、偏狭で窮屈で初歩的な理論的骨組みを持つ哲学であったということである。

 

 キュニコス主義的教育

 哲学教育の本質的な役目は、知識を伝達することではなく、教育を施す個々人に対して知的かつ道徳的な鍛錬をあたえることであった、つまり知識の総体の伝達ではなく、生のための武装の伝達であったとフーコーは解く。ディオゲネス・らエルティオスの教育に関する記述をフーコーは取り上げる。ディオゲネスによるクセニアデスの子供たちの教育に関する伝説を語る。彼はあらゆる学問を学ばせたが、すべての学問を覚えやすくするため縮減し要約して学ばせたという。そして非依存の習得を学ばせたのである。質素な服装をすることを身につけさせ、自給自足を可能にする狩りも教えたという。目を伏せて通りを歩くことを許さず、

誰かまわず言葉をかけることを許さなかった。哲学教育の本質的な役目は、知識を伝達することではなく、教育を施す人に対して知的かつ道徳的な鍛錬を与えることであったとフーコーは指摘する。このような考え方についてセネカは『恩恵について』(第七巻冒頭)において詳しく述べているとフーコーはいう。その中でセネカはデメトリオスの学問に対する考え、「この人がいつも述べていた賞賛に値する見解によると、実際、哲学の教えは、それを少ししか知らなくても掌中に置いて活用しているならば、多くの教えを学んでいながら手許に持っていない場合よりも有益である」(『セネカ哲学全集2』岩波書店)と述べている。さらにセネカはつづけて偉大な挌闘技の選手について、デメトリオスの言葉の引用として述べている。「偉大な格闘技の選手とは、敵との闘いで用いることの稀な一連の構えや締め技をすべて習得し尽くした者ではなく、その一つか二つにおいて十分かつ入念に自分を鍛え、それらを使う機会を注意深く待つ者である」と。セネカによれば、知ることができないことや、知っても役に立たないことは、見落としたとしても、君には大して害にならないだろう。真実は不可解で、深いところに隠れている」と述べられている。キュニコス派は、単純な教育、実践的教育を「手短な道」であるとしばしば語っていたとフーコーは指摘する。

次回、(その二)につづく。

 

  

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