エセー
「自己への配慮」と詩人像(四)
小林 稔
13 主体の移動と神との本性の共有
後期ストア派のもう一人の重要人物、マルクス・アウレリウスの考察を始めるまえに、デカルト以降の真理に対するかかわりの相違、他者および自己の救済と、前章で取り上げたセネカの思想を要約してみよう。そうすることによってマルクスの独自性が鮮明になると思えるからである。
プラトン以来、真理の到達にいかなる代価を私は支払うことになるかという問題が提示されたとフーコーはいう。主体そのものには真理を受け入れる能力がない。したがって「操作、変容、修正」を自らに課し実践することで真理を獲得することができる。立ち返り(コンベルシオン)が問題になるのである。つまり「存在様式を変えなければ真理に到達することはできない」ということである。真理の概念において、「真理に到達するということは存在そのものに到達することであり、到達した存在そのものが同時に、その反作用として、それに到達した者の変容の動因となるような到達」であると考えることができる。このことをフーコーは、プラトン的な循環、あるいは新プラトン主義的な循環と呼んでいる。しかし、デカルトやカントによって、「明証性の糸を常に辿りつつこれをけっして手放さず真っ直ぐに考えさえすれば真理を受け入れることができる。主体が自らを変容させなくてはならないのではないと考えるようになった」とフーコーはいう。主体が認識において真理に到達できるという確信である。このようにして「真理への到達のための霊性という条件が一掃された」と述べ
ている。デカルト的なタイプの認識、つまり対象の認識という概念が真理への到達という概念に置き換えられてしまったのである。
プラトンの、思春期における自己への配慮の主張が、老いるための自己への配慮に変わった結果、自己への配慮の目的や目標が問われるようになった。「どのような点で私たちは救われるのか」という問題提示が始まり、「医術と自己の実践の関係」が、自らの救済につながるとフーコーはいう。本来、万人に向けられた哲学者たちの呼びかけであったが、実際には少数の者にしか実現しえない呼び
かけであったのである。それは階級的な分割ではなく、自己を受け入れる能力のある者とない者との分割であるという。この呼びかけの普遍と救済の希少を持つ形式は、自己の陶冶を生み出し、紀元一、二世紀に大きな広がりをみせたという。もはや自己の実践は教育と距離を置くようになり、人生と一体になる。ここで見られる救済という概念は、後にキリスト教に引き継がれる宗教的な思考でなく、「他者に対する関係の問題」であるという。プラトンにおいて自己へ配慮するのは他者たちの面倒を見る必要があるからであった、つまり、「都市の救済の方が個人の救済を、その帰結として包含していた」のである。しかし、ヘレニズム、ローマ期においては、自己のために自己の救済をしなければならず、他者たちの救済は付随する報いのようなものだという。フーコーは、エピクロス派の友愛、エピクテロスの自己と他者の関係を論じて興味深いが、先を急ぐためにここでは割愛しよう。
さて、セネカに戻る。セネカは職業哲学者であった。プラトンの場合のように知恵に到達してしまっている師としてではなく、セネカにおいては「自己の実践が社会的な実践と結び合うようになった」という。ネロの家庭教師をしたとも言われている。政治的活動にも多く関与している。セネカが忠告を与えた人は、彼と党友関係にあった人である。エピクテトスなどの哲学教師とは異なっていたようである。セネカには、「退く主体、世界の最高峰まで、世界の頂点まで退く主体の形象」が表れているとフーコーは指摘する。世界の頂点から世界を俯瞰するのである。「自然のもっとも内密の秘密にまで分け入らせ、同時に彼が存在している空間のわずかな一点、彼が存在している時間のわずかな一瞬を見る。まず自分自身から離脱しなければならない。悪徳や欠点から引き離す。闇の地上から光のやって来る天上へ哲学が導いてくれる。「主体自身の運動」である。自分自身からの逃亡、つまり労働の報酬にまつわる価値からの解放、自分自身に対する隷属から自由になることを述べ、自然研究がそれを保証するという。前の章で取り上げたが、哲学の形式の一つに「神を見る」ことがある。人間に関する哲学と神々に関する哲学のうちの後者であるは、光がやって来る地点で「神との本性の共有」へと至る。そして「神が世界に対してなしていることを、人間理性は人間に対してなさなければならないということになる。神の理性を授かった私たちは、そのとき初めて地上に目を向けることができるのである。そのとき「現実の生存を正確に測る」ことができ、自己を観照することができるとセネカは考える。セネカにおいては、天上への自己の後退と神々から理性を与えられ「徳ある魂」を持つ霊的な運動を条件とし、視線は自分自身や私たちの住む世界からそらされることはなく、自由が得られるということであるとフーコーはいう。
14 マルクス=フロント往復書簡から知れること
プラトンの『アルキビアデス』に見られる自己への配慮の主題がヘレニズム・ローマ期には自己の陶冶に拡大されていったとき、いくつかの顕著な点が確認できる。まず大きな転換は、自己の実践が教育上の問題ではなくなったことである。プラトンのテキストでは、教育は恋愛的な師弟関係で実践されたが、この時期には少年愛は影を薄める。自己への配慮すべき時期が、思春期の終わりから、人生全般になったことと関係する。また他者を統治するために自己への配慮があったが、まず自己自身
のために自己へ配慮することが重要になる。したがって「自己に立ち返る」という表現が多く現れるようになったのである。そのことに関連して、政治的な活動との関係は打ち切られることになる。
セネカのときにも述べたが、たんに今ある自己に戻るのではなく、一度自己を退却すべきであるこ
とが言われ、セネカの場合は天上にまで昇りつめ、神性を共有し、視線を地上の自己に向けるが、これから述べるマルクス・アウレリウスの場合も自己からの退却が問題になる。しかし退却の形式は異なっている。詳しくは後ほど述べることにして、フーコーの言うように、マルクスは自己の自己への関係において、その最高権力の行使の法と原理とを見出す。一方、フロントという人物とマルクス・アウレリウスの往復書簡というものがあり、そこから知れることは、先述した内容に反し、師弟間の恋愛感情が見られるので、マルクスの場合はむしろ例外と考えるべきである。
マルクス・アウレリウスの生涯については、彼の著書『自省録』岩波文庫本の翻訳者、神谷美恵子氏の解説が最後に載っているので詳細は省略する。神谷氏も言うように、マルクス・アウレリウスは、プラトンが理想とした哲学者にして政治家であり、歴史上ただ一度限りのことであった。小説『ハドリアヌス帝の回想』の書き出しは、「いとしいマルクよ」という呼びかけで始まる。このマルクとはマルクス・アウレリウスのことであり、ハドリアヌス帝がマルクスに語る形式をとって書かれた、マルグリット・ユルスナール女史の、史実と虚構をちりばめた歴史小説でも知られている。
この論考に関係する範囲で彼の人となりを書き加えてみよう。マルクスは西暦一二一年の生まれで、皇帝ハドリアヌスから少年時代に寵愛を受けていたという。祖父がローマ総督の職についていたことや、マルクス自身、優れた資質を持っていたことが皇帝の目をひいたようである。八歳のとき父が死んだ。当時の社会で隆盛だったストア派の哲学に傾倒し生涯を自己の実践に励んだ。彼が十七歳のときハドリアヌス帝は死に、アントニヌスが皇帝の遺志で皇帝に即位したが、これも皇帝ハドリアヌスの遺志でマルクスとルキウスの二人を養子に迎え、マルクスにカエサルの称号を与えた。アントニヌスの死後、元老院はマルクスを皇帝に迎えようとしたが、マルクスは義弟のルキウスの二人で位に着くことを望んだ。怠惰で享楽好きのルキウスであったが、マルクスとの友情は続いた。後にルキウスは病に倒れ死ぬ。マルクスが十八歳から二十歳の間、雄弁術教師で、マルクスの先生、彼より少し年長のフロント(岩波文庫本ではフロントーとなっている。その他の人名表記もフーコーのコレージュ・ド・フランスの講義『主体の解釈学』の廣瀬浩司/原和之氏訳に準ずる)という人物との交流の様子が、二人の往復書簡集にうかがい知ることができるとフーコーはいう。フロントは哲学の師ではない。手紙の中でも言葉の表現について指摘していることからもわかるという。フーコーは、実際はこの書簡は愛情関係が支えになっていると指摘する。「私は自分の健康や身体的快適を犠牲にしてでも、今以上にさらに恋い焦がれ、そしていらっしゃらないのを残念に思いたいと思います。お元気で、親愛なるフロントよ。我が愛にして我が歓びたる君よ。お慕い申し上げます」。(マルクスからフロントに宛てた手紙の一部)。別れ別れになって相手がいないことを悲しみ、口づけを送りあっているが、性的関係にあったと考えるべきではないとフーコーは明言する。師との愛情の関係のもとにあるそれらの内容を検討すると、目覚めから就寝にいたる、たんに一日の細々した出来事を物語るものであるということがわかる。
『自省録』の訳者、神谷氏によると、マルクスは読書と瞑想に耽ることがなにより好きな内向的な人であった。また、アテーナイの、修辞学や哲学の講座に奨励金を与えたり、新たにプラトン学派、アリストテレス学派、ストア学派、エピクロス学派を創設したという。手紙から知れる事柄をフーコーは解釈する。「これは結局、一日の物語をとおして語られた、自己の物語」なのだという。「うちに戻って、横向きになって寝る前に、私は自分の務めを思い返して、一緒におられないのが残念な私の先生に説明申し上げました」。(マルクスからフロントに宛てた手紙の一部)セネカは『怒りについて』という文章で述べる内容に近いとフーコーは指摘する。「毎晩明かりを消し、妻が口を噤むと、私は瞑想にはいり一日を確認します」。「残念ながら私は昨夜この出典を見つけることができませんでしたが、たいしたことではありません」。(『怒りについて』から抜粋)セネカは自分の生活と過去の時間の巻物を、目の前にときおり広げてみる必要性を述べているのだが、それこそがマルクスが行なっていたことであるとフーコーは指摘する。「過ぎ去った一日を顧みることにより、するべきであった事柄、おこなった事柄、およびその然るべきやり方と実際に行なったやり方の比較を総括することができ、それを先生に手紙の中で説明するのだとフーコーはいう。このような誰かに一日を説明するとい
う自己実践が社会でよく行われるようになったということ、これは言語や言説一般のというより、他者との言語的な関係の新しい倫理、パレーシア(率直)という概念であるとフーコーは語る。パレーシアにつては後に詳しく述べることにする。
15 マルクス・アウレリウス(その一) 精神に現れる想念の対象をつねに定義し、記述すること
「大ローマ帝国の皇帝という位置にあって多端な公務を忠実に果たしながら彼の心はつねに内に向かって沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた」と翻訳者、神谷氏は翻訳書の序で述べる。
皇帝であることを忘れ、普通の人間として振る舞うという条件でのみ皇帝の務めを果たすように書かれている、つまり君主としてのよき行いが、普通の人たちのよい振る舞いであるということであるとフーコーはいう。「心の底まで『皇帝』になってしまい、それに染まりきることのないように心せよ」(フーコーの引用)という文が『自省録』に見られるのである。
マルクス・アウレリウスにも霊的な知の形象が見られるが、セネカと異なり、「主体のある種の運動を規定するような形象」であり、事物を内部まで調べつくそうとする「微分的な視覚」であるとフーコーはいう。マルクスの著書『自省録』の第三章に、「すでに挙げた数々の教えに、なお別の一項目が付け加わる」とある。すでに挙げた数々の教えとは何か。フーコーは三つに要約する。一つ目は、善とは主体にとって何か。二つ目は、私たちはいつでも好きなように意見を作る自由がある。三番目は、主体にとって存在する現実の審級は一つしかない、それは瞬間である。「現在を構成する無限に小さい瞬間、その前には何ものももはや存在せず、そのあとにはすべてが不確定である。
これらの教えに付け加えるべき一項目とは何か。それは、前記の三項目を統合する霊的な「訓練のプログラム」であるとフーコーはいう。どのような訓練をマルクスが述べているのかをフーコーは解き明かしている。第一の契機にあたるのは、「精神に現れる想念の対象をつねに定義し、記述することである」(『自省録』第三章十一)。この部分の神谷氏の翻訳では、「念頭に浮かぶ対象についてかならず定義または描写を行なってみること」となっている。このような考え方はストア派によく見られる主題であり、精神に自発的に現れる思考、あるいは知覚野に落ちかかってくるかもしれないものすべて、人が送っている人生、さまざまな出会い、目に入ってくるものなど、こうしたすべてのことを機会に与えられるような表象を、与えられるがままの姿でとらえることである、つまり、「表象の無意志的な流れに意志的な注意を向けることであり、この表象の客観的な内容を決定すること」であるとフーコーは解説する。
デカルトが知的方法を駆使して自分と区別し排除しようとしていたものがこうしたことであり、ストア派から派生し、キリスト教において実践するようになった霊的な訓練であるとフーコーはいう。マルクスは、精神が想念に現れるような対象を定義し、記述することによって、その対象を判明に「その本質において、裸の姿において、全体的に、あらゆる側面から見ること、そしてまた、対象が分解されるような諸要素の名称を自分に言うことが必要だと記述している。まず観照すること、次に全体的に把握すること、構成要素を区別することをマルクスは述べているのだ。自分に言うこととは「事物や事物の構成要素を精神に固定させるためにも、またこれらの名称から価値体系全体を再活性化するためにもきわめて重要」であるとフーコーは指摘する。
次にその名称を記憶する訓練がある。その記憶化の訓練は視線の訓練と直接に接合し、同時に行われなければならない。つまり「視線と記憶は精神の一つの運動の中でたがいに結びついていなければならないのである。精神の運動は一方では事物に視線を向け、他方ではこれらの事物の名称を記憶の中で再活性化しなければならないという。いわばこの二重の訓練で、事物の本質が全体的に繰り広げられるのである。また対象が名によって構成されているかということだけでなく、どのような条件の下で解体され、崩壊されるのかを見ることができる。
まず定義し、記述すること、次に記憶することを考察したが、「霊的訓練」の第二段階は価値を測ることである。「人生において現れる対象のひとつひとつを、方法と真理に則って同一化できること、
また、その対象がどうような種類の宇宙に効用をもたらしうるのか、また全体と関係でどのような価値を持つのか、そして、人間との関係では、国家の中でももっとも優れた国家、他の国家はその家にすぎないような国家の市民として、それがどのような価値を持つのかを考えるために対象のひとつひとつを吟味すること、そのこと以上に魂を偉大にしてくれるものはないのだ」とマルクスは記述する。フーコーによれば、魂を偉大にするとは、束縛や隷属から解放することであり、魂の本性を知り世界の一般的理性に対する適合性をしることができ、この魂の自由は事物への無関心や心の平静さを獲得することができることであるという。
16 マルクス・アウレリウス(その二) 個体性の解体(事物の核心に降りていくこと)
精神は運動しているものであり、各瞬間に新たな対象が現れ、新たなイマージュが与えられるが、
それらの表象を監視し、価値を吟味したり評価したりしなければならないということである。この
ような訓練がどのように適応されているかをフーコーはさらに分析するため、三つの訓練に分類している。第一は、対象を時間において分解するという訓練。第二は、対象を構成要素に分解する訓練。第三は、価値を低下させる縮減という主題の訓練である。フーコーが引用している第一の訓練を見てみよう。
「音楽やメロディを持った歌やうっとりさせるような歌を聴くとき、そして優雅なダンスやパンクラティオン(舞踊的な体操)の動きを見るとき、それらを全体として見ないで、できるだけ非連続的で分析的な注意を向けるようにしてみたまえ。あなたの知覚において、それぞれの音がたがいに区別され、それぞれの運動がたがいに区別されてしまうほどまでに注意を向けるのだ。」(『自省録』から抜粋)とあり、その冒頭には「うっとりするような音楽、舞踊、パンクラティオンをあなたはけいべつするだろう」(フーコーの引用した文)と書かれ、末尾には「このように事物の諸部分まで到達することを忘れてはいけない。そして分析によって、それらを軽蔑するようにすることも忘れてはいけない」というエクリチュールがなされている。これらの意味するところをフーコーに導かれながらまとめてみよう。
舞踊の美しさやメロディの魅力に心を奪われないようにしなさいということである。そのためには全体として連続的に見ないで、瞬間ごとに分解することが大切だと言っている。現在という瞬間に与えられるものだけが、主体にとって実在的だということ、ひとつひとつの音や運動は、その実在性において現れ、実在が示すことは、音は音以上ではなく、運動は運動以上のものではないということになり、何もよいものはないので、音楽から自己の統御と支配を手に入れることになるとフーコーは読み解いている。これは音楽や運動に限らず、人生全体のことに応用できるのだ。他の章に書かれている事柄にもこのことは適用されるとフーコーはいう。第六章の十五に、
ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来たったものも部分的にはもう消えうせてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく更新する。この流れの中にあって、我々の傍らを走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍らを飛んで過ぎ行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう鹿の外に行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは各瞬間にしていることだがー―昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。(神谷氏訳)
これは物質の還元に関することで、マルクスが言いたいことは現代の私たちには唐突に感じられることだが簡単なことである。私たちは呼吸するたびに同じ気息を放出したり吸い込んだりしているのではないということである。このことを人生に適用することが大切だと主張しているのであろう。
「私たちが私たちのアイデンティティと思っているもの、あるいはそれを適用したり求めたりしなければならないと思い込んでいるものは、私たちの連続性を保証してくれない」ことに気づくのだとフ
ーコーは述べる。事物の細部を分析し、それらは非連続的なものであることを知り軽蔑しなさいとマ
ルクスは自分を戒めているのである。(ちなみに『自省録』の題名は『TA EIS HEAUTON(自分
自身に)』であり、初めて印刷された一五五八年から踏襲されたという)。私たちがアイデンティティを見出すたった一つここと、それは徳である。「徳は分解できない」というストア派の教説であるとフーコーはいう。もう一つ、魂は時間から自由であるという教説である。つまり分解、分割できない凝集と瞬間を永遠にする魂の凝集において私たちはみずからのアイデンティティを見いだすことができるということなのだとフーコーは解読する。時間の瞬間性と非連続性から見た、実在的なものの解体の訓練の一つを、これまで引用してきたことは表わしているのである。
次に第二の訓練は対象を構成要素に分解するという訓練だ。第六巻の十三で考えてみよう。
肉の料理やその他の食物については、これは魚の死体であるとか、これは鳥または豚の死体であるとか、パレルノスは葡萄の房の汁であるとか、紫のふちどりをした衣は貝の血に浸した羊の毛であるとか、また交合については、これは内部の摩擦といくらかの痙攣を伴う粘液の分泌であるなどという観念を我々はいだく。このような観念は物自体に到達し、その中核を貫き、それが一体何であるかを目に見えるように判然とさせるが、ちょうどそのように君も一生を通じて行動すべきである。すなわち物事があまりにも信頼すべく見えるときにはこれを赤裸々の姿にしてとるに足らぬことを見きわめ、その〔賞賛されぬ所以のもの〕を剥ぎ取ってしまうべきである。何故ならば自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事しているつもりになり切っているときこそこれにもっともたぶらかされているのである。(神谷氏訳)
私たちの食べているものとは動物の死体である。紫の縁取りをした衣は貝の血に浸した羊毛、つまり染料と羊毛である。交合(性交)とは、摩擦と痙攣を伴った分泌である。事物を裸にし、価値の少なさを見下ろしことを述べている。このような訓練は魅惑を剥奪することであり、見下すことで主体の自由を打ち立てることであるとフーコーは解読する。ここでも事物に対する無価値性だけでなく、人生に、私たち自身に適用せよと記述しているのだ。このことと関連してフーコーは他の章の記述を挙げている。例えば、第二章の二には次のように書かれている。「私とは何だろう、私とは何だろう。私とは肉や息なのではないか。そして、私は合理的な原理なのではないか。肉として私は何なのか。私は泥と血と骨と神経と静脈と動脈だ。息として私は各瞬間に自分の息の一部分を放出し、別の部分を吸い込む。そして合理的な原理、指導原理とは、残りのものであり、それこそ解放しなければならない。」肉、つまり物質を分解すると、泥と血と水と神経などになる。息は時間的分析によって非連続性を指摘できる。そのように分解していき最後に残るものは合理的な原理、つまり理性だけであるということを述べている。そこに私たちはアイデンティティを見出すことになる。
第三の訓練は記述的な縮減、あるいは価値を低下させるための記述という訓練である。事物を取り巻く見かけや装飾、誘惑や恐怖を縮減するような表象を正確に記述することであるとフーコーは述べ、次のような例を挙げる。強力で傲慢な男が目の前に現れ、自分の優位を誇示し恐れさせようとしたら、その男の他のことをする時間を想像する。食事をしたり寝たりすることを。またこの男がどんな主人にさっきまで仕えていたか、そしてこれから同じ主人の下に仕えることを書くことによって事物の価値を縮減させてしまう訓練である。
フーコーはセネカとマルクスの訓練を次のように比較する。両者とも上から下への視線があるが、セネカは、世界の頂点からなされるのに対して、マルクスは私たちが存在している場所を起点とする。セネカの問題は私たちの下に世界が展開するのを見て、自分自身を微小な大きさで知覚することであったが、マルクスの問題は価値をおとしめるような視線、縮減的でアイロニカルな視点を持つことであるという。マルクスの場合は、事物の核心を貫通し、最も特異な要素をすべて把握することによって、こうした事物に対する私たちの自由を示してくれるのである。それと同時に、このような視線は、私たち自身のアイデンティティは実はばらばらの要素で構成されているのだということを、つまり私たちの連続性は偽の統一性であるということをフーコーは解読している。私たちが理性的な主体である限りにおいて保証される統一性やアイデンティティに他ならない。私たちは世界全体を支配する理性であるような何かの一部にすぎないことに気づくのである。フーコーは、マルクスの霊的訓練は一
種の個体性の解体であると結論する。
17 ファウストの嘆き――「世界を一番深いところで束ねているものは何か」
「数々の夜明け……山間の洞窟のほとりをめぐり霊たちとともに漂い、緑の野にありてそなたのおぼろなる光のうちをさまよい、およそまやかしの一切から逃れて、そなたの露に身をひたして健やかにいのち甦りうるものならば!」(ゲーテ『ファウスト』第一部「夜」柴田翔訳)
セネカやマルクスの「自分自身に視線を向ける」という教えは、世界についての知と対峙するかたちではないとフーコーは注意を促してる。問題になっているのは知の様態化であると言い、その四つの特徴を挙げている。第一に、セネカの場合のように主体は宇宙の頂点に昇り、あるいはマルクスの場合のように事物の核心にまで下降することである。主体の運動が霊的な知にとって不可欠であると
いうことである。第二に、主体の移動によって、事物の実在性と価値を同時に把握できる可能性があるということである。価値とは世界のおける位置、と関係と固有な大きさのことであり、また自由な主体としての人間主体に対する関係や重要性や実在的な力のことであるという。第三に、主体はこ
の霊的な知で自分の現実の姿を捉えることができなければならない。主体は自分の存在の真理において、自分を見なければならないということである。第四に、主体はこうした知でみずからの自由を発見するだけでなく、幸福と可能な限りでの完璧さという存在様式を見出し、知の効果を確実にすることができるということである。主体の移動、コスモスにおける実在性によって事物を価値評価するこ
と、主体が自分自身を見る可能性、知の効果による主体の存在様式の変容、これらの条件を含む知こそが霊的な知を構成しているのではないかとフーコーは提言する。このような霊的知がやがて十六世紀から十七世紀に認識的な知に変貌していき、デカルト、パスカル、スピノザを検討すればその変容を確認できるだろうとフーコーは述べる。十六世紀から十八世紀の間の認識的な知と霊的な知の関係を問題のありかたを示す人物として、フーコーは、ファウストという人物像を挙げている。クリストファー・マーロウやレッシング、ゲーテとそれぞれの見方でファウストを捉えているが、ゲーテの『ファウスト』の第一部の冒頭にある独白を読むとき、そこに書かれているのは、「啓蒙の出現とともに消える霊的な知に対する郷愁の最後の表明であり、認識的な知の誕生へのもの悲しい挨拶なのだ」とフーコーはいう。フーコーは、セネカやマルクスの自己への回帰と世界についての知をマテーシスという観点から述べた後、アスケース(自己の自己に対する訓練としての修練)とはどのような実践なのかを展開する。マテーシスとはギリシア語で学び習得することを意味する言葉であり、アスケーシスとは実践の教義を意味する言葉である。ピュタゴラスやプラトンにも見られる古い概念である。
18 霊性の格闘家としての賢者
ムソニウス・ルフスというローマのストア哲学者に「アスケースについて」という作品がある。その中で、徳を医術の知識や音楽の知識を得るように手に入れるにはどうすればよいかを論じている。徳の獲得には二つの前提があるという。一つは観照的な知であり、二つ目は実践的な知である。実践的な知は訓練によってのみ得られると考える。先ほど述べたように古いテクストにすでに見られるが、紀元一、二世紀には自己陶冶や自己実践が大きな規模と豊かな形式を持つようになったとフーコーは
いう。
フーコーが注意を喚起しているのは、アスケーシスは法への従属の結果ではなく、主体を真理に結びつける真実の実践だということである。「私たちは主体と認識の関係の問題を、客観化は可能か名度というかたちで立ててしまう」が、ヘレニズムと古代ローマ時代はそのようなことはく、主体と世界認識の関係で問題になるのは、「世界を主体的に霊的に様態化すること」であるとフーコーはいう。つまり世界についての知が、主体の経験や救済に霊的な形式や価値を持つということである。
現代の私たちの思考範疇では、実践の次元における主体の問題は、法への関係で考えてしまいがち
であるが、古代ギリシアやヘレニズム・ローマ時代にはそれからはなれて考えられたとフーコーはいう。「認識の領域において主体を客観化することができるか」と近代人が考えるところを、古代ギリシア・ローマ人は、「主体の霊的な経験としての世界知の構成」を考えてしまうのだとフーコーは説明する。フーコーがここでいう「法への従属」の法は広い意味で、いかに客観的に認識すべきかという範疇で使っているのであろう。「真を語り、実践し、行使する限りにおいて、主体があるべきようにあることはできるか」とフーコーは私たちに説明するが、義務と考えれば法につながって考えてしまうのが現代の私たちの思考である。霊的な経験というとき、「あるべきように」とは、神性を取り込んだ理想という概念が含まれているように私には思われる。近代人が失ってしまった思考である。
ギリシア語のアスケースと語源を同じくするであろうフランス語の禁欲を意味するascèse(アセ―ズ)という言葉がある。この言葉は私たちには現世の放棄を連想させてしまい、究極的には自己放棄という概念を思い浮かべるだろうとフーコーはいう。これは後のキリスト教がストア派のアスケースを取り入れた結果なのである。しかし古代の修練は放棄ではない。逆に自己に到達するために何かを獲得することであり、その身につけるべきものをギリシア語ではパラスケウエーと呼ばれている。
パラスケウエーとは人生の出来事に対して個人が準備することである。「修練とは、個人が未来に対して準備させること」である。「自己凌駕」という概念があるが、自己や他者を超えることではなく、起きるかもしれないことより強くなることをストア派では意味するとフーコーはいう。つまり人生で起こるかもしれないことより強くする実践をパラスケウエーと言うのである。マルクス・アウエリウスは格闘家を舞踊家に比して述べている。舞踊家は理想に到達するため、他人と自分自身を凌駕しようとするが、格闘家は出会うかもしれない攻撃、状況や他者によって加えられるかもしれない攻撃よりも、弱くなって転倒させられないようにすることが挌闘家の術に求められると、フーコーは解読する。犬儒派のデメトリオスの文章にも見られ、可能性のすべてを展開するのではなく、私たちが出会うものだけ、遭遇する出来事に対してだけ準備することをよい格闘家にも賢者にも求められているのだと、フーコーは紹介している。つまり外界から現れるすべての出来事と格闘するという。自分自身の中にある、罪、堕落した本性、悪魔の誘惑などと闘うキリスト教的格闘家、自分自身と闘う格闘家ともフーコーは比較している。
19 行為の主体となるロゴス
人生の起こり得ることすべてに備えることの必要性をストア派は主張するが、備えは何よって構成されているかといえば、ロゴイによって構成されているとフーコーはいう。ロゴイという言葉はロゴスの複数形で、論理、言説、談話という意味である。たんに命題や原理や公理項といったものを身につけることではなく、「物質的に存在する言表としての言説を考えなければならない」のである。自分のために書きつけた文や、師の教えであったり、聞いたり言ったりした文を、精神に刻み込んだ文のことである。しかしそれは当然ながら理性に基づいた命題でなければならない。「物質的に存在するロゴスとは、言説的で合理的な要素を持つ文」であり、行為の原型として主体の中に実際に書き込まれている神経や筋肉の一部であるような文であろう。
また、パラスケウエーすなわち備えは「恒常的に現存していることが必要」であり、必要であれば助けてくれるロゴスであることが条件である。ロゴスは、前にも航海の比喩で表わされることを指摘したが船上の操舵者であったり、戦争の比喩では要塞や城壁であったり、医術では治療薬であったりする。しかも手許になくてはならないものなのである。「苦悩や悲しみや不運に見舞われたとき、死が迫ったり病気なったり苦しんでいるとき、このロゴスという備えが、魂を守り、攻撃を防いでくれ、平静をたもさせてくれるとフーコーはテキストから読み取る。記憶という範疇の中にあり、命題(文)を想起し、実際に口に出すことによってロゴスを蘇らせる訓練も必要とされていたのである。「ロゴ
スは主体そのものにならなければならない」とフーコーは結論する。アスケーシスとは〈真実を語ること〉を主体の存在様態にするものであるが、キリスト教における〈真実を語ること〉とは、啓示や
聖書や信仰に規定され、修練では自分自身を放棄するような犠牲を要求するものであるとフーコーはいう。
自己への立ち返りという原則の効用を、セネカとマルクス・アウレリウスを例とし、マテーシス、つまり認識の次元で分析した後に、アスケーシス、つまり自己の実践をフーコーに導かれながら論じてきた。ヘレニズム・ローマ期の自己の実践の修練は、キリスト教的な自己放棄の修練とはまったく相違しているということをフーコーはくり返し主張している。また、哲学者の修練とは何かを身につけること、人生の出来事を防御するための装備であるとフーコーは述べる。そしてこの修練は個人を真理に結合させることであり、個人を法に従属させるものではないということを確認してきた。これらのことを獲得させるのがロゴスの言説であり、修練の意味や機能は「真実の言説の主体化」である。そうであるなら、重要なことは、「聞くことや読み書きや語りに関するあらゆる技法や実践である」と、フーコーはこの時代の「自己への配慮」の独自性を解読している。
次回は「真の主体化としての修練的実践」についてさらに詳しく見ていく予定であり、
プラトンが『国家』において、詩人という存在を非難している議論の内実にも触れる。
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(二十)
小林 稔
47 来るべき詩への視座
アルチュール・ランボーにおける詩人像(一)
情熱と実践
小林秀雄の『様々なる意匠』という初期の批評文に、印象批評としての「ボオドレエルの文芸批評を前にして、舟が波に掬われるように、繊鋭な解析と溌剌たる感受性の運動に、私が浚われてしまうという事である」といい、批評の方法とはいかなるものかを述べている。文芸批評に「嗜好」や「尺度」を持ち込むことを戒め、精密な論理を駆使し、つまり主観的な批評ではなく客観的なそれを求めるべきであるという世間の要請に応えたものであろうと思われる。「彼(ボオドレエル)の魔術に憑かれつつも、私が正しく眺めるものは、嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ」という。少し先の方で、「芸術家のどんな純粋な仕事でも、科学者が純粋な水と呼ぶ意味で純粋なものはない」という一文がある。私には自明のことのように思われるが、科学領域での新しいH2〇という形式に対して、芸術の形式での水はどのようなのかをいうのはたやすいことではないだろう。
私が小林秀雄の『様々なる意匠』を再読しようと思ったのは、北川透氏の個人誌「KYO(峡)」の五号の記事、「第二章〈神の死〉以後の真昼の歌――思想詩人の誕生(上)」で吉本隆明を論じた箇所、「科学と詩の遭遇」を目にしたからである。吉本の「詩と科学との問題」と「ランボー若しくはカール・マルクスの方法に就いての諸註」という初期の論考を引用し、吉本と小林秀雄の相違を引き出していた。要約していえば、「科学への不信に悩んでいた吉本に遠山啓なる人物の大学の講義を聞き、純粋科学の領域に〈直感〉と〈思惟〉が導入されていることを知り、科学と詩の共通の場を見出した。科学は自然を変革せず、自然を模倣しているに過ぎない。「科学が無限に多くの自然現象を新たな現象を獲得することは可能なのだが、それが且て自然が試みた現象以外の現象を得ることが出来ないということは不思議なことではあるまいか」と吉本はいう。「人間生活の簡便化」は自然の変革ではないし、「人間の進歩」ではない。「原子エネルギーの応用によって巨大な破壊力を獲得したなどという奴隷科学者の自負など下らぬことである」。一方では、量子物理学の論理的階程の否定」という〈非因果律的な〉作用概念の確立があり、他方では言葉の科学性を同一次元で考えようとしたのであるが、あくまで一般的な科学の概念に過ぎず、量子物理学は類推の夢として切り捨てたことになろう。詩の科学性は言葉の科学性に通じ、言葉の科学性とは意識の科学性の謂いに他ならないというのだ。自然現象という不安定な言葉の状態を固定化し意識化する操作を詩的行為というなら、自然現象のように瞬間的に変わり得る精神の状態を恒久化するのが詩作行為であり、「言葉のこのような構造の曇りない解析を通して、人間存在の本質に思い到る道を行くことではないか」という。このような詩と科学のアナロジーにはどこか納得のいかないところがある。結論として当時の吉本の考えていたことは、「詩が言葉を創造し或いは変革してゆくという考えは、あたかも科学が自然を変革するという考えと同じく空しい惑わしに過ぎない」ということであった。よって、「果たして書くに値することが書かれているか」という訴えになる。
北川透氏は、「詩人は常に新しい形を作らねばならない。だが《彼に重要なのはあたらしい形ではなく、あたらしい形を創る過程であるが、この過程は各人の秘密の暗黒である》という小林秀雄の言葉を引用し、サンボリズムやダダやシュルレアリスムを現代が欲した理由を吉本は考察せずにいたと指摘している。「一つの情熱が一つの情熱を追放した問題」としたという小林秀雄の記述は、政治的価値と芸術的価値のどちらを重んじるかという二者択一の問題である。そうでなければ俗なる嫉妬に過ぎない。「『資本論』を書くという一つの情熱が、マルクスの全存在を引攫ったように、『地獄の季節』への情熱は、ランボーの全存在を引攫った」と小林秀雄は考え、「交換不可能な宿命」と考えたのだ。「芸術はその固有な形態で芸術家の意識の裡に存在していなければならない(「アシルと亀の子Ⅱ」)と考えていたのである。
プラトンは対話篇『国家』(共和国)で詩人を追放したが、詩は追放しなかった。パトスが陥りやすい非理性と怠惰に警告を発したのだ。現在も通用することである。『パイドロス』などで語られるミュートスは詩の真髄に抵触する。プラトンは叙事詩からの文学の伝統と、世界や自然の探求である、「ソクラテス以前の哲学者たち」と批判的に対決したのである。つまり文学と科学的思考を内在させながら、人間の生き方、すなわち哲学を政治との漸近線上に確立していった。
吉本隆明は、「あらゆる芸術は常に個人の個性的思想によって、個的な苦悩によって、単純な個的な手段の媒介によって闘われてきた」と述べている。吉本の中に、ランボーという詩人とマルクスという思想家が吉本の中で共存できたのは、マルクスの目指したのは「真理」の理論体系だが、ランボーの目指した「地獄の季節」は「非真理」であって、どちらかがどちらかを放逐することはないからであると北川氏はいい、マルクスの方法とランボーの詩が〈逆立〉する定式を指摘する。そこには言語の二通りの使い方がある。「真理」を課題とする「非詩」の言語(社会的交通の所産)と、「詩」(実在たる言語)の相違があるがゆえに〈逆立〉が可能なのだ。自らの表現を問う〈他者〉からの視線がマルクスであるなら、ランボーの〈地獄〉への親和は、自己〈資源〉の起源に帰されることになり、拒否と神話の相関関係を吉本は結んでいることになると北川氏はいう。私には、吉本が詩を社会的交通なる政治言語で可能にさせる逆説、あるいは戦略としてとらえていたと見えてしまうのだ。様々な対立概念は弁証法的に一方は他方の惹きつける力をもつことで存在可能だ。その緊張関係が双方を成立せしめるのだと私は信じる。
「文芸の道は人が一生を賭して余りある豊富な真実な道の一つだ」(「マルクスの悟達」)という小林秀雄の言葉は現在でも、私にとっては情熱を湧出させうる表現である。「芸術の固有の形態」は詩人の意識に存在しなければならない。小林秀雄はそれを詩人の宿命に見ようとした。「芸術家にとっての目的意識とは、彼の創造の理論に外ならない。創造の理論とは彼の宿命の理論以外の何ものでもない。」「芸術とは感動の対象でもなければ思索の対象でもない、実践である。作品とは、彼にとって、己のたてた里程標に過ぎない、彼に重要なのは歩くことである」という小林秀雄に絶大な信頼を傾けることができるのは、個人的なことで恐縮するが、ランボーの詩との遭遇を一つの事件とした彼の経験と、ランボーの詩に遭遇して詩に駆り立てられた私自身の経験が交錯しているからである。さて私は私に内在するランボーを語らなければならない時がすでに来たようだ。
ランボーは闘っていた。己の危機と世界のそれを二重映しにし、いわばプロメテウス的使命を詩人の使命と感じながら世界の矛盾と闘っていたのだ。彼の背後に近代ヨーロッパの宿命が追いかけている。彼が手放さなかった原初の世界、キリスト教以前の無垢な世界をもって、精神の堕落を救済しようとする。彼は己が享受するしかなかった、そのような血筋と闘っていた、それゆえ自分自身と闘っていたと言えよう。
人間には二通りの生き方がある。待っている人と行為する人であり、その違いは明白である。強い内的要請がないかぎり、人は立ち上がることができない。それを促すのは己の存在の危機的状況である。今日、詩が矮小化されたのは七十年代中盤からの保守的精神である。人々から闘争心は消え、保全に身を置き優しい生活を望んでいる。それに合わせるようにして、詩人もまた、本来は創造者であるべき精神を喪失してしまった。思想は実践し続けた人の足跡から立ち上がるものである。かつて新体詩において詩に思想性の必要性が叫ばれたが、いまだほんとうには実現に至っていない。地球存続が危ぶまれ始める現在、詩人は闘うことを止めてしまった。したがって真実は見えなくなった。個人的な精神の危機と時代の危機を絶えず重ねながら、詩で打破しようとするランボーの詩人像をここで少し明らかにしてみたいと思う。
詩人と幼年期
事物は、愛によって呼び出されるとき、魂をもっているかのように見える。(イヴ・ボヌフォア『ランボー』)
ランボーが闘ったのは「近代」であった。それは偶然が必然と受け止めなければならない彼の宿命であった。おそらく「近代」とは宿命の力を自覚し、そこからの脱出を問われた時代だったのだ。その記録の一つがランボーの『地獄の季節』という文学の決算報告書であった。自分に背負わされた「宿命」を冷酷に見つめながら、次第に新しい方法論が見えてくる。それは「イリュミナシオン」の詩句のことだ。『イリュミナシオン』から見えてくるのはボードレールがついに脱出できなかった、ランボーの発見した「現代」である。「近代」の宿命との挌闘の
最中にわずかに垣間見た希望と跳躍こそが「現代」を解き明かすものだった。この論考で少しずつ明確にしていきたい。「心なし」と自分を名づけた彼は、それを「客観詩」と呼んだのでる。ここでいう客観詩とは、たんに自我を抑制し、より広い客観的な見方をものにし、言葉に表現することではない。我を忘れるほどの激しい経験であることは注意しなければならない。
とうぜんのことだが、人はいつどこで生を始めるかは選択の余地がない。偶然であるに過ぎない。そこが人の宿命とする起点である。自分をもたらした肉体という物質と精神の制約の中で未来という時間を生きなければならい。両親から受け継がれた精神は起源を遡る。血筋というものだ。これら偶然まもたらすものを必然と享受することから、「自己との闘争」が始まる。もしそこから目を伏せ逃亡するなら、己の存在を否定するしかなくなる。母親は自分の身から生まれた子を子宮にいつまでも留めておきたいという不可能な願望をもつであろうが、新しい生命は「世界」を所有しようとするだろう。つまり「自由」を勝ち取ろうとする。いくつもの偶然がやがて必然になり「宿命」が形成されていくことは生きるものの運命である。後に彼は
『地獄の季節』で、ヨーロッパの近代と己に布置された宿命との闘いを書くことになる。
ランボーが生まれた、十九世紀後半期、フランスという国の政治と商業の中心パリから少し離れた近郊都市シャルルヴィルである。産業革命の後に資本家と労働者の関係が確立し始め、マルクスが『資本論』を世に出した時代であり、プロレタリア階級が登場する。ランボーの出生地となる田舎の暮らしがどのように彼の目に映ったのかは、十六歳から書き始めたフランス語詩の「最初の聖体拝受」、「音楽につれて」などの初期詩篇から類推することは難しくない。また冷酷な母親ヴィタリーの人となりは「孤児たちのお年玉」、「七歳の詩人たち」などから窺える。自分は孤児と思い至る。「なんて胸くそ悪い退屈だ!」と十六歳のランボーの手紙に書かせた田舎の暮らしはどのようなものだったのだろう。ボヌフォアは評論集『ランボー』で次のようにいう。「一方にあるものは、孤独と土壌、どっかり腰をすえて無言のうちに持続する自然の諸要素、その中で押し黙って生きることのできる一つの実質世界」があり他方では「固定してまるですきまのない社会生活、沈黙を台無しにしてしまう、貧困化された言葉」、それぞれが他人に絶えずそそぐ視線の中で、「精神が速やかに堕落してゆく」、「せせこましい共同体特有の、独善主義」がある。それらを観察しているランボーは、愛も希望もなく過ぎてゆく時間の中で反抗の芽が育ち始める。しかしボヌフォアは、ランボーを創造的な欲求に駆り立てたプラス面を指摘している。絶対は絶対を生み出すものであり、最大の疎外は許されることがあるなら、最高度の詩へと導かれるものだと指摘する。「有用性がのりこえられてしまった状態の奇妙さの中に、がらりと変わった新しい可能性、人間と存在するもの自体との新しい関係を、開き見せてくれる」という。それに加えて、ランボーは母親の「専制帝国」に住んでいたことを指摘する。母親から愛されていないと案じたランボーは、自分を罪ある者と結論し、自分の無垢で母親に手荒く立ち向かったのだという。そこから自分に孤独を強いた社会を変革させることが詩の希望であり、社会への反逆であると思い至ったとボヌフォアは指摘する。母親が絶え間なく監視し世話をやくことは、愛に違いないが、ランボーには「冷淡さと義務以外の何ものでもない」「ただの形式」として感じられてしまう。そうなれば愛の成就の証が敵対視すべきものとなり、グロテスクで汚いもの、糞便的なものが力強く表現されることになる。ボヌフォアは、「愛とは、感覚世界の超越を、流刑からの赦免を、「真の生活」への参加を可能ならしめる因子とするような愛の形而上学は、われわれの実存を存在の中へと刻み込むところのものを反映している」として、プラトン哲学の教えにさかのぼる必要があると主張している。
幼年期の最初のころに解放的で、ごく《詩的》な感覚、日常の世界の彼方にあるもう一つの世界への感覚がみられ、それが『イリュミナシオン』に多く見られるとボヌフォアは指摘する。しかし現実社会は自然のままの無垢をもちえていない。「人間は生まれながらの透明な状態から堕落したのだとランボーは感じたとボヌフォアはいう。さらにマルクス的方法やフロイト的方法の他に、「犠牲者」を詩人に転換する作用を可能にする必然を発見しなければならないとボヌフォアはいい、ある種の逆説を唱える。つまり、詩が存在の堕落そのもの、道徳化された状況や社会の状態への堕落というものが、ランボーのような例外的な人間によって引き受けられねばならなかった。歴史からの挑発にウイかノンか、つまり服従か、挑発に反抗し可能性を実現させるか選択を突きつけられる時がきて、後者を選べば「因果的分析の挫折と詩の始まりが同時に起こる」とボヌフォアはいう。不可能を試みることは、自然的必然性の閉ざされた世界においては存在への目覚めた感覚であり、死への、光明を与える直観であるからだという。「詩の天職」というものは、闘いの反射運動に過ぎないが、多くの場合、平凡な日常の悪しき眠りによってむなしいものにされてしまっているのだとボヌフォアは指摘する。つまり、「よみがえらせる詩は死の真近(まじか)で生まれる」とボヌフォアは主張する。
橋本一明は遺稿集『アルチュール・ランボー』で、ランボーの背後にヨーロッパの宿命が潜んでいて、彼は進んでこの苦悩を身に引き受けたのだという。橋本は、このランボー論をフランスの政治史、経済史から始めた。十三世紀から十六世紀の農奴解放を経てフランス革命を終え成立してゆく封建的構造に、口火を切ったのは貨幣流通に伴って台頭した商人たちであった。《利潤》を得ながら封建的土地所有の基盤を崩し、ヨーロッパ産業資本が形成されていく。やがて産業革命を経て十九世紀半ばには資本主義が完成する。このような社会史、経済史と平行して精神史がある。人間解放が中世の教会の権威から解放や自我の独立を意味したのであった。デカルトからカントまでに確立された自我が、ヘーゲルが完結した体系によって絶対にまで普遍化された。しかし、十九世紀に出現したプロレタリアで近代社会は一つの矛盾を感じ始める。一八四八年、マルクスは『共産党宣言』を著し、「プロレタリア―トによる社会革命に赴き、近代の市民社会を罵倒したのであった。また「聖書の教える神に復帰すべき」と問う、ケェルケゴールを忘れてはならないが、「自我の概念と交錯する否定の精神」においては両者ともに共通していると橋本氏いう。「ヨーロッパは、本来有限な自我の神格化という自ら作った虚偽の前で苦悶する」ことになったのであり、ロマン派以後のフランス文学はこの苦悩を知らずして理解することができないであろうと橋本氏は主張する。さらにボードレールにとっては、「自我を支えるものこそ必要だった」のであり、「自我とは絶望的に暗黒の海上に浮遊する夜光虫のように、虚無に浮かんだものとして映じていた」という。さらにボードレールには創造者の問題をはらんでいたとしてランボーの「見者」の手法を呼び起こしたのであったと解いた。
見者の方法論
一八七〇年に書いたと言われるランボーの詩、「感覚」、「わが放浪」などには、ランボーの身体に触れたような感触を感じさせるものがある。ボヌフォアによれば、「感覚をいつも油断なく目覚めさせておき、言語が与えてくれないものをやがて征服に出かけるように精神を準備することである」という。己を孤児と捉えたランボーは物を名づけることで希望を引き出そうとしているのだ。ボヌフォアはいう、この希望は「影を追って獲物を手放す行為」ではないかと。無双の歓びを知るだろうが、現実からますます遠ざかることになる。しかし、「日常の使用によってめくらにされた言語というものから逃れるすべを与えてくれ」、破滅から救うかもしれない。初期の彼の詩の多くは主観的な夢想で書かれ、世の多くの詩人たちはここに立ち止まっている。「試練にかけられることのない希望の力だ」とボヌフォアはいう。だがランボーはそこを越えてしまうのだ。それがやがて見者の手法に発展していくことになる。つまり希望を言葉にするだけでは現実には何も得られない。自分自身を変えようとするなら言葉以外のものが必要だという自覚が生まれる。第二帝政、ルイ一六世の敗北が伝えられ、革命の意欲が芽生えてくる。『鍛冶屋』という詩にその様子が描かれている。ボヌフォアは、「彼の目的は、社会的革新を遥かに超えたところにある」。それは「原初の光明が回復されることなのだ」という。しかしながら後に「現実の転換的変革のためのより徹底的な手段が手に入りそうに思えると、政治的な事柄を忘れるだろう」が、「第二帝政の崩壊に立ち会うため」パリに行こうとした。イザンパールという教師の影響があるのだが、パリ行の一回目は乗車券をもたず監獄に送られ、つぎはイザンパールの姉妹の家まで歩いていく。その途中で詩を書いていたという。その家からも母親によって送り返された。その後、シャルルヴィルの図書館で多くの本を読むことになると伝記では伝えられる。ボードレールの『悪の花』はすでに出版されていて、彼は手紙で書くだろう、ボードレールこそ真の神だと。一八七一年の一時期、ランボーが神秘思想を読書から知った。交際のあったブルターニュ、エリファス・レヴィ、バランシュと言った典型説やカバラから知った知識は、ランボーに事物の実質を与えられたおかげで事物の実質そのものを握っていた言語は、今日なお、鍵であることを止めない。一人の詩人、精神の英雄が現れて、普遍的な言語回復させるだろう」といった、バランシュの思想に神秘的な力をランボーが神秘的な力を認めたとしても不思議なことではいとボヌフォアはいう。しかしランボーにとってそれらは詩の概念のアナロジー以外に興味の対象にはならなかった。『地獄の季節』でそれらは否定されている。詩の領域というものが普遍性を入れるに足る大きな器であることを多くの詩作を通してランボーは確信していたに違いない。「人間はみずから《見者》となり、後天的に社会秩序を否定し、神の理法への直観によって、神に諸事物に属する深いリズムを再び見出さなければならない」というレヴィの言葉に詩からの要請を感じたが、それらと引き換えに要求される苦しみの代価を払わなければならないことを知ったであろうとボヌフォアはいう。また彼によれば、ランボーの生活上にある事件が起こったという。『盗まれた心臓』を書いたランボーに危機が訪れたのである。その詩に描かれたあさましい状態と、精神の英雄が払わなければならない代価とが同一物であるという一挙に見極めたことだとボヌフォアはいう。日本におけるランボー研究の第一人者、粟津則雄氏は、資料が存在しないのであくまで想像であるが、「詩の外にある何かとの苦い対話によって、解体を強いられながらも、同時に、なおもこの対話を続けることを強いられている何かである」と『アルチュール・ランボー』で述べている。そのようにランボーを追い込んだ事件とは、三回目のパリ出奔で年上の義勇兵たちとの接触で性的対象にされたことではないかと粟津氏は推測している。「巨大な負荷量をうかがわせる」というランボーの危機と、見者の手紙に見る、「いま私は別人だ」という他者の思想との関連を示唆している。ボヌフォアのいう「あさましい状態」はこのことを指しているのだ。その直後にイザンパールとドメニーに、「見者の手紙」二通をしたためることになる。
詩人たらんとする人間の第一の仕事は、おのれ自身を認識することです。それも全体的にね。彼はおのれの魂を探求し、点検し、試み、自覚するんです。魂というやつがわかったら、すぐにそれを育て上げなければなりません。……(中略)……見者にならねばならぬ、おのれを見者にしなければならぬ、とぼくは言うんですよ。詩人はあらゆる感覚の、長い、途方もない、理論的な乱用によって、おのれを見者に作りあげるのです。あらゆる形の愛と苦悩と狂気とでね。自分自身を探求し、自分の中で一切の毒を汲み尽くし、その精髄だけを残しておくのです。……
一八七一年五月一五日、ドムニー宛ての「見者の手紙」の抜粋。粟津則雄訳
橋本一明は『アルチュール・ランボー』で二通の「見者の手紙に共通する内容を列挙している。まず、ランボーは詩人であることを強く望んでいること。(Je veux etre poète.)詩人にならねばならぬ。(Il faut être un poéte.)プロメテウスの《火を盗む者》としての使命をランボーは義務として選択したことを意味する。次に詩人になることは自らを見る者(voyant)にすること。あらゆる感覚の錯乱という方法によって未知のものに到達することを目的とする。見者における自我と他者の関係=我は他者である。(Je est un autre.)ランボーは自分がなるべき「詩人像」を明確にすべき時がついに来たのである。
「未知なるものに到達する」というテーゼは、ボードレールの「旅」、「未知の底に新しいものを見出すために」という詩句の強い影響であろう。「最も真実なる現実は他処にさがすべきではなくおのおのの物の中に、照明を放つそれらの有限性のうちに、それらの死のうちにそれらを捉えることによってさがさなければならない」というボードレールの希望をランボーは理解できたであろうかと、ボヌフォアはいう。見者の手紙で、ボードレールこそ最初の見者であり「真の神」と称えたランボーであったが、ボードレールのあまりにも芸術的な形式も「けちなもの」として批判する。「探索の旅という神話をわがものとし、ほかならぬ此処にもう一つの出口がある」とランボーは信じ、「精神を深い色彩のけたたましい奔流の中へと投げ込むであろう運動を「酔いどれ船」で描いたとボヌフォアはいう。そして接近への懐疑がやがて現れてくる。またプロメテウス的詩人の使命では、詩人のもたらす「火」は、人々に与える、「真の生」への希望や勇気や自由を意味するのだろうと私は思う。極めて個人的な苦悩が普遍的な慈愛に到達することになる。結果的に彼の闘いはヨーロッパ文明の宿命との闘いであったと言えよう。
主観的な詩と客観的な詩
結局、先生は、何ひとつしようと思わなかったために何ひとつしない、いい気な男になってしまわれるでしょうね。先生の主観的な詩が、相も変わらずおそろしく味気ないだろうとは別にしても。ぼくは希望しているのですが――それの他の多くの者たちも同じことを希望しているのです――、いつかは先生の原理のなかに、客観的な詩を見たいものです。(一八七一年五月十三日イザンバール宛ての手紙。粟津則雄訳)
右記に引用したのは、先に引用したドメニー宛の手紙の二日前に、イザンバール宛ての手紙の部分である。ここで主観的な詩と客観的な詩の違いを述べているが、ランボーは何を言いたかったのかを考えてみよう。
「主観的な詩とは、まさしく理念の、《芸術家的》唯美主義の、そして遊びの域を出ることのない詩、要するに、人間を存在するものの晦(くら)さへと開くことなく、その因襲的な性(さが)のなかにとじこめるような詩」とボヌフォアはランボーの主張を類推している。ランボーはそれまでの初期詩編と呼ばれる「孤児たちのお年玉」や「太陽と肉体」などは、「充実した生活への夢想が、ごく安易に、ひとつの不動な実存の一部となっている」と言って自ら否定したであろうという。ボヌフォアは、ランボーの考える客観的詩というのは、「我々の感覚は部分的に物を見ることでしかなく感官sens(意味)のたくさんの可能なやり方の一つに過ぎぬ、感覚を「未知のもの」の実在する炎の中で焼き払ってしまうこと」であると主張する。さらに「ランボーは、自分の感情生活の崩壊、自分の傷つけられたおそろしい魂に、意味と価値を与えて、その精神的な根拠づけを行ったのだ」と指摘する。具体的には、「vision「ヴィジョン」への意欲の莫大なエネルギーを注ぎ込むである。「ヴィジョン」の中に、来るべき「生気」と、根拠のある生活と、ひとつの知とを、同時に確認する」のだとボヌフォアは分析する。
ここで、ランボーの「他者の思想」と客観的な詩とのつながりを示唆する、橋本一明の論考を指摘しておきたい。芸術家=創造家(詩人)は官能性の具体性によって時間の中に住む。自らの意志では自由にならない偶然的過去を背負っている。人間の生の秩序は、完了しつつあり同時に生起しつつある時の中に住む。生起しないことは、可能的な予見を許さない暗黒である。だから人は生の瞬間において自己の存在の歴史的事実性をなす完了性の規定内で、可能的な未来に対する決意の自由をもつ。未来は無であるが、過去は自由をほどこすことはない。したがって自我の全的自由を望む人間は、過去を敵とし、苦しめられることになる。ボードレールにとっては、「過去は取り返しのつかぬもの」であるが、ランボーは未来に対して決然と立ち、過去に対して自由であった、と橋本氏はいう。ランボーの言葉、「苦悩は大変なものですが、しかし強くあらねばなりません」という言葉から窺えるという。
未来が可能であるのは存在内の秩序においてのみであることをは橋本氏は指摘する。詩人は官能的な人間として、「二重にもの(、、)と遭遇し、もの(、、)は歴史的存在に対して非歴史的存在であり、したがって歴史的存在が芸術家であるかぎりは、まったく偶然的でなければならないからである」という。未来が可能的であるためには、すべての秩序を排除しなければならない。「他者を排除する時、もはや芸術は存在しない」し、「自我の自由を有すかぎり、一切の表現を拒み、死さえ自らその所有に帰せようとする」という。しかしランボーは『地獄の季節』の後に『イリュミナシオン』を書いた。すなわち「偶然性に担われた他者との遭遇の中にあったのだ」と指摘する。「芸術家は自らの意志で作品を完成できない」ということと、「美的素材はもの(、、)である」ことに橋本氏は注意を促している。どういうことか。作品は偶然によって、つまり霊感によって完成される。「素材は生ある体験との関係においてみられる時、象徴としての意義を獲得する」という。芸術の観点から言えば、「素材が象徴であるためには、素材がもの(、、)としての独立の秩序を持ち、それが自らの秩序の外なる秩序――生ある現実――を担うのである。象徴は、絶対的に対立する二つの秩序――芸術においては芸術家主体と他者たる美的素材-―を前提として成立する」という。つまり「芸術家はもの(、、)と出会うとき、始めて創造を完成する」ともいう。「ものの自由になり、ものに担われる。それ故、自我と、ものとの出会いの瞬間に、彼(芸術家)は自我の秩序を他者に貸す」ということになる。ボードレールはそこに苦痛を感じるが、ランボーは自我がものと一体になり、ものに担われているのだと橋本氏は指摘する。
Enfin,ô bonheur,ô raison,j́ecartai du ciel ĺazur,qui est du noir,et je vécus,étincelle d́or de la lumière nature.
ついに、おお、幸福よ、おお、理性よ、空からおれは青を、もとある暗黒の青を引き離した。そしておれは生きた、「自然」の光の金の火花になって生きたのだ。(『地獄の季節』錯乱Ⅱより拙訳)
橋本氏は、「金の火花」が主語の補語であることに注意を促し、「自我とものが一体になり、ものに担われている」と説明している。また、「見る者としての詩人が必ず他者との関係に立つべきである」と論じた橋本氏は、他者は必ずしも、ものであることを要しないという。つまり、他者とは、非歴史的存在であるものの存在と、自分とは他である人間、歴史的存在を含んでいることを指摘する。
これまたランボーの研究書を持つ湯浅博雄は、『応答する呼びかけ』において、私が他者(人間)〈の心〉を志向すること、他者〈の心〉に関することにおいて、言語的=しるし的なもの力や作用を深く探求している。「他なる事物としての他者」と「他なる人である他者」にかかわる、文学的次元での「私」を考察する。そのことを説明する前に、「常識的な伝統的な言語観」と「文学における言語観を区別する。前者は、いわば記号媒体としてあり、言葉は存在するものを名づけるために派生的に生じたと考えられている。そこでは〈もの〉的な次元にあるなにか、非媒体的なものの次元をなすなにかは忘れられていると湯浅氏はいう。後者においては、言葉は発生状態の〈しるし〉を回復するような仕方でかかわる、つまり発生状態の〈しるし〉の媒介の力と作用を取り戻すような仕方で書かれるという。さらに〈名づけ〉をかわして逃げ去る何かを遠ざけ、不在化させ、消えゆくもののしるし〈痕跡〉として現存することを止めないのだという。通常の言語観ではこのような意味は隠され、忘れられているというのだ。マラルメの言語意識を知る人には特記すべきことではない。井筒俊彦の東洋哲学でいえば、深層意識領域に降り立つ意識とかかわっている。しかし、ここでは詩人として単独である「私」が生きる経験に固有ななにかを、特異ななにかという〈真実〉を証言したいとするとき、それが深い〈真実〉のリアリティーを秘めており、普遍化することの可能性を明かし立てようとする状況を考えてみる。〈名づけをかわして逃げ去るなにか、〈私〉にとって、〈経験されないままに経験されたこと〉に結ばれていると湯浅氏はいう。私が語る言葉によって絶対的に他なるものを含んでいるものとして生きられたなにかにつながれている。作品を書こうとするとき、このように他なるものであり続ける密かな呼びかけに応答しようとするが、書き手がすべきことは、言葉のもつ本質的な力、〈始原〉的な力を取り戻すようにする回復の努力をすべきであると湯浅氏は主張する。このような言語観において、「他なる人間としての他者」を「私とは他者である」というランボーの意味するところを考えてみよう。
他者が事物、事象である場合には、橋本氏の解釈をすでに述べたが、湯浅氏の考慮する、「言葉が事物たちを不在化させ、不在したまま現存させる」という考察がなされていない。さらに他者が人である場合には、事物との比較の上でもう少し突き詰める必要がある。湯浅氏のテクストをしばらく追ってみよう。他なる人は私と同様に自我を持っている。それぞれに特有の生活、実存を生きている。他なる人が知覚すること、感受することを私が同じように思考、認識できるだろうか。通常の社会では、客観的に捉え、認識する。しかし、私が捉えた〈他者の呼びかけ〉からは、ある本質的な部分が抜け落ちてしまう。〈他者が生きる経験に固有なもの、独特ななにか〉に気づかないのではないかという。一方、他なる事物の場合にも、事象と知覚との間に常にずれがあり、知覚の作用は完了することはない。しかし、ア・プリオリには開かれている。根源的には私へと現われる可能性があると思われるが、他なる人間の場合は、知覚の完了の可能性は絶対的にないと湯浅氏はいう。「私が現在として生きる経験に真には現れることのできないようななにかが潜んでいる」と言い切るのである。他なる事物は私の外部にあり、それ自体として私と分離している。私の客体として、私の主観によって存在していることになる。先述したように、他なる事物も私の意識の外にあるゆえに、〈他なるもの〉であり続ける。しかし私の〈志向性〉へと現われ現前できるものと思われる。「言葉は、事物を不在化させること、不在のまま現前させるようになることを忘れているからである。だが他なる人間の場合は、他なる人間は私の客体となることもあるが、他なる人間は私にとって一つの自我であり、主観である。「相互間の主観性に基づいている世界」である。他なる人は私とは異なる仕方や見方で世界や事物に意味を与え、構成していることを尊重しなければならない。他者の生きた経験を、独自な経験として理解しなければならないのだが、他者に固有のもの、その独特さに私へと現前するという様態で経験することができるのだろうかと湯浅氏は問う。そうした志向性は、間接的な仕方で、近似的、疑似的な提示の積み重ねと繰り返しを無限に続けていくしかないと結論する。
湯浅氏のこうした考察は、『応答する呼びかけ』の第一章、ボードレール論に始まり、第二章へは、ランボー論に展開されている。ここで要約して確認しておこう。
ボードレールはモデルニテという言葉で、現代的な美を古典的な美と比べ、後者は永遠に不滅な、万人とって永久に美しい普遍性をもったものと定義する。前者を、「逃げ去りゆく美、うつろいやすいもの」とし、その個別性と単独性、その者の独得な美しさと定義する。これまでの文学は後者に向けられていたが、ボードレールは真に存在するのは「むしろ移ろいゆくことにある」と異議を唱えた。「唯一の、かけがいのない現実とは、これこれの事象、しかしかの存在である」こと」になる。ボードレールがこのように考えることに至ったのは、パリ大改造における故郷喪失の思いが起因している。「いま、ここで、ある特有な状況に老いて生きる経験の独特さ」が大切になる。ボードレールは大きな展望から見れば、西洋の芸術、思想の伝統である、プラトン主義的、キリスト教的見方への異議提起であると湯浅氏はいう。ここから真の現代芸術が始まったと言えるほどの事件であった。ただちに文学は「移ろいやすいもの」への愛をいかに実行すべきかという問いに変わる。文学は自らを問わなければなくなリ、自らを変容していくことになる。具体的に言うなら、ボードレールはどのような表現をしたのか。湯浅氏は、「撞着語法」という、独特な言葉遣いを挙げる。「明るさと暗さ」、「喜びと悲しみ」。「快楽と苦痛」、「死刑執行人と犠牲者」どの矛盾するものを同時に肯定し、ある種の中間性を浮かび上がらせる語法を指摘する。さらにもう一つは、「他なるものに向かって語りかける」ことを指摘する。ここから湯浅氏の考察は『応答する呼びかけ』という書物全体を貫くテーマへと発展していったのであろう。「他者が発する言葉に応えるには受け止め、解釈し、自分の言葉で語ろうとしなければならない。この時、「私」の行う言語は変わらざるをえないと湯浅氏は主張する。
本能的リズムで、ある日、すべての感覚に接近できる詩的言語を発明しようと思い込んでいた。……最初は習作だった。おれは沈黙を、夜を書いた。言い表しがたいものを書き留めた。さまざまな眩暈を定着した。(ランボー「地獄の季節」錯乱Ⅱ)
ランボーにおいてはさらに言葉と事物との関係が問われるようになる。言葉の働きと対象と
の関係が深く問われるようになったと湯浅氏はいう。近代ヨーロッパ文明の宿命を背負ったランボーについてはすでに説明したが、湯浅氏によれば、ランボーは近代ヨーロッパ人であることから抜け出し、「太陽の息子という、一種の始原状態にできる限り近づこうとする試み」を行ったのであり、「「白人」的な理性と〈科学〉の世界、キリスト教的な〈道徳〉と、それを引き継ぐ西欧近代社会の〈法〉に律せられた生活・人生・実存のなかで失われ、不可能になっているなにかを、「生を変える」ことで取り戻そうとする試み、……(中略)……言葉的―理性的=知的な秩序から抜け出す試み、「本能のリズム」を復権させる試みを実践していた」と指摘している。
ランボーのこのような経験は、〈脱自的な瞬間の経験〉であり、「私」はまったくの私であると言えなくなるという経験であるという。「私とは他者である」というランボーの言葉そのものである。このような経験には〈過剰な部分〉が秘められ、〈私を超え出る〉出来事という側面を生きていることであると指摘する。ここでは言葉に対する不信の念を絶えず抱くことになる。なぜなら、このような経験は、通常の言語で意味づけることができないものであり、単独な人間の独自な出来事に固有なものは、一般的な概念で語ることが不可能であるからだという。しかしどうしても語りえないものを語りたいという欲望は消えない。したがって「沈黙にのみふさわしいもの」、つまり「夜の領域」に向かうようになると湯浅氏はいうのである。
ランボーのいう客観的な詩とは、できるだけ主観的な見方を抑制し書く詩という意味ではなく、主観的な能力が届くことのありえない、超越するなにか、空白のようななにかであると湯浅氏は述べる。バタイユが(〈非知〉についての講演)で語ったという、言葉は〈至高な瞬間〉の経験を表わすには不十分であるが、「だが少なくともその不適合は言われ、語られねばならない」という意味では、『地獄の季節』を書くランボーも同様であったに違いない。
「書くことの経験は経験し終わることがなく」、通念的な言語の能力を、疑い、問い直し、変えようとすることが求められると湯浅氏は指摘する。
ボードレールのモデルニテの定義から、以後の詩人たち、ランボー、マラルメ、プルーストらに引き継がれた詩的経験、フロイト、ユングの心理学的考察、ソシュール以後の言語学的考察などからも顧みられ、ラカンやデリダの現代哲学まで影響を与えているとみることができるだろう。特にデリダにおいては西洋哲学の解体まで発展した。ここにおいて、「本質」否定を出発とする東洋哲学の現代的活用が求められていると私は考える。西洋文明から脱出しようとしたランボーの試みは、十分に考察する必要があろう。『地獄の季節』で「文学は愚行だ」と否定しながらも、『イリュミナシオン』のいくつかの詩に垣間見える「客観詩」は詩の未来を示唆するものがある。
(次回は、『地獄の季節』におけるランボーの詩的経験と、『イリュミナシオン』の詩的行為を具体的に検討していこうと考えている。)
長期連載エセー『自己への配慮」と詩人像』(十九)その2、小林稔・詩誌「ヒーメロス」27号掲載
47来るべき詩への視座
ボードレールにおける詩人像(二)後編
パサージュ、遊民、パリ大改造
いかなる詩人とはいえ、彼の生きた時代や社会とは深い関係で結ばれていることが真実であるなら、ボードレールの眼に映し出されたパリは、どのような様相を呈していたのであろうか。
ベンヤミンは、一八五二年出版されたあるパリ案内記を引用してパサージュなるものを説明している。「産業によって贅沢の生んだ新しい発明であるこれらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはられている。建物の所有者たちは、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。光を天井から受けているこした通路の両側には、華麗な店がいくつも並んでおり、このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている。」「パリ――十九世紀の首都〔フランス語草稿〕)それは街路と室内の中間物であり、遊民(遊歩者(フラヌール))と呼ばれた、そこを居場所とする散歩者たちには、馬車が往来するオスマンパリ改造前のパリは安全ではなかったとベンヤミンはいう。パリのパサージュの多くは一八二二年から十五年間に作られたもので、パサージュの生まれてくる第一の条件は、繊維商業界の好景気があるとベンヤミンは指摘する。デパートの前身である、流行品店が出現し、旅行者たちをも惹きつけた。第二の条件は鉄を使用した建築の始まりとガラスの大量使用があるというのである。
ベンヤミンはファンタスマゴリーという言葉で、「パサージュ」や「遊歩者」、「パリ改造」を説明しようとする。ファンタマゴリーとは元々、十九世紀に流行した幻灯(劇)を示し、夢幻、幻影、幻想を意味する言葉である。「物のかたちに凝固した事実の無限の連鎖として世界の経過を構成する視点に照応する」という歴史観においては、「文明の宝物殿の中に収蔵された財宝の数々は、以後はいつでも身元を保証されるが、文明のこの物体化的な表象によって前世期から受け継いだ新しい生活の諸形態や経済的技術的基盤に立つ新しい創造」がファンタスマゴリーとして顕在化するという。鉄骨建築の活用であり、店舗をしつらえた都市を遊歩するための「パサージュ」や、娯楽産業との結びつきである「万国博覧会」もそのようにして現れる。「延々とつながる道路が、広い展望の開かれるところに突き当たる」という、オスマン大改造の変貌に顕在化した表現を見せていると指摘する。「万国博覧会は、商品の交換価値を理想化し、商品の使用価値が二次的な位置に退くような枠組みを創り出す。万国博覧会は、消費から力づくで遠ざけられていた群衆が、商品の交換価値と一体化するほどまで、交換価値に確信を持つようになる学校なのだ。こうして万国博覧会は、ひとびとが気晴らしのために中に入ることのできる現像(ファンタス)空間(マゴリー)への道を開く」とベンヤミンはいう。
アレゴリーの詩学
ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』が、救済史的歴史観の崩壊によって事物が死んだ瓦礫と化す事態の「根源」を、ドイツ十七世紀の強烈なアレゴリー志向のうちにとらえようとする試みだとするなら、『パサージュ論』は、この陰鬱な事態のより具体的かつ破局的な後史としての展開、すなわち、これらの死物がエンブレームならぬ商品に姿を変えて大規模に狂乱する現代の産業資本主義の「根源」、十九世紀前半のパリのパサージュの叙述のうちに明らかにしようとする試みである。
道籏泰三『ベンヤミン解読』(白水社)
一七世紀のアレゴリーとしてのエンブレーム(寓意画)が、一九世紀の「商品」をエンブレームの回帰形態として、ベンヤミンは捉えていたと道籏氏は指摘する。つまり、閉塞したバロック世界に新しいエンブレームが次々に作られたことと、一九世紀の「大量生産商品の作り出す欲望と失望の空虚な反復のリズム」とベンヤミンの目にはだぶって見えたということである。「交換価値の支配のもとに本来の使用価値とは無縁なかたちで飾りたてられたフェティッシュとしての商品として大量生産される」一九世紀の産業資本主義が重ねあわされたのである。
道籏氏によると、ベンヤミンが『言語一般および人間の言語』で述べた、事物が人間の主観的世界のなかに暴力的に取り込まれ、「悲しみゆえに黙して語らなくなった」という事態は、人間の楽園追放とバベルの言語混乱に起源を有し、いっさいの救済の希望を断ち切られ本格化するのは、中世と宗教改革時代の後、つまり一七世紀バロック時代である。死んだ事物がアレゴリー化して気晴らし的意味を散乱させる事態の幕開けとなるが、一時期、市民階級の興隆でシンボル(象徴)として内在性のうちに仮初の世俗的浄化(古典主義のシンボル概念)を経験するが、その後の産業資本主義の勃興と市民階級の頽廃にともない仮初の浄化さえ失い、商品アレゴリーとして虚ろな輝きをまとわされ、もはや逃れようのない絶望的な悲しみを背負わされ、現代の商品地獄へとつづいているという。
ベンヤミンは、バロック悲劇の作者たちが最後にその虚しさに気づき、絢爛たる建造物がアレゴリーの墓場に過ぎないと悟り、真理と遮断されている己の精神の詩と孤立を痛感し、己自身をいったん滅ぼし、亡霊となって甦り、死んだ廃物としての無限の積み上げのなかから立ち上ってくるメッセージを、謎めいた霊界の言葉でつぶやき始める。こうしたバロックのアレゴリー詩人たちの姿をボードレールの姿に重ね合わせると道籏氏はいう。つまり遊歩者ボードレールは、商品経済に身をどっぷりつかりながら同時に拒絶し、はじき出され、あてもなくパサージュをぶらつく、パサージュの人ごみに出没する亡霊としての位置にあったと道籏氏は述べる。「もしかしたらボードレールは、市場にふさわしい独創性なる観念を抱懐した最初の者かもしれない。この独創性は、まさしく市場にふさわしいゆえにこそ、当時、他のいかなる独創性にもまして独創性なものであった。」「世の流れを中断すること――それがボードレールのもっとも深い意志であった……この意志は、彼の暴力ざた、焦り、そして怒りの温床であった。そしてまたこの意志から、世界の心臓を突き刺そうとする試み、もしくは世界を詩によって眠らせようというたえざる試みが繰り返された。この意志から彼は、自らの作品に死を持ち込み、それによって自らを励まそうとしたのだ。」(ベンヤミン『セントラル・パーク』)
アンドロマケー、私はあなたを想う! この小さな河、
それは哀れにも悲しい鏡、かつて、寡婦であるあなたの、
あなたの数々の苦悩に対して大いなる尊厳を映した鏡、
あなたの涙で嵩を増した、それは偽りのシモイス河。
突然、豊かな記憶が実を結んだのは
私が新しいかルーセル門を横切っていたときだ。
古いパリはもう、ない。(都市の形態は
すばやく変わる、ああ、人のこころよりも!)
(『悪の花』「パリ情景」の中の「白鳥」の第一連拙訳)
移ろいゆく近代都市にボードレールの視線は向けられる。湯浅博雄『応答する呼びかけ』(未来社)によると、「古典的な美」とは永遠なるものへの憧憬であるが、「ボードレールは近代的・現代的美を、永遠性の要素と偶然性の要素が二重化している美として定義していく」というのだ。
この詩の冒頭で呼びかけられるアンドロマケーとは、アキレウスに夫を殺され敵将ピュロスの国に連れてこられ、ピュロスの妾にされ捨てられ、別の男に与えられた女であり、故郷のシモイス(シナイス)河に見立てた小川の辺で亡き夫ヘクトールの墓を建て喪に服し、哀悼をつづける女である。(『応答する呼びかけ』参照)新設されたカルーセル門を横切ったとき、詩人は突然神話のアンドロマケーを思い起こし呼びかけるのだ。湯浅氏は、ひとは深い悲しみと苦しみに耐えている女に対して共感と憐れみを感じ、気づかわずにいられないのは本質的に脆さや弱さを秘めているからであり、またそれが詩人の内面における深い喪失感とも通底しているからだという。オスマンによるパリ大改造によって、自分が生きた過去が壊されたことと同じである。詩人は最愛の土地を追われ流浪している者であり、失われた過去や記憶のに服している者であると自ら感じていると湯浅氏はいう。
檻から逃げた一羽の白鳥が
水かきのついた足で乾いた敷石を引っ掻きながら、
でこぼこの地面のうえ、水のない排水溝の側で
嘴を開け、白い羽を曳き摺っている。
(「白鳥」第五連の拙訳)
「かつて、動物の見世物小屋がかかっていた」(「白鳥」第四連)とあることから、檻から逃げた白鳥であることがわかる。本来生息すべき自然から都会に連れてこられ生き場を追われた白鳥に、詩人自らの生を重ねているだけではない。湯浅氏は、ボードレールはあるやり方で彼らが無言のうちに訴えかける言葉に耳を傾け、聴き取り、応答しようとしているのであり、これまでの詩・文学の伝統から離れるやり方で「独特なものとしての実存」、つまり今「ここに生きていることの独得さ」へと向かおうとしたのだという。「唯一の、かけがえのない現実(レアリテ)とは、これこれの事象、しかじかの存在である」というイヴ・ボヌフォアの言葉を引用し、それこそ文学が絶えず気づかうべきものであり、発見し直さなければならないものだと指摘する。さらに現代文学の使命は独特さとしての実存の特異性、唯一性に触れるべきであり、プラトン主義的、キリスト教的味方と志向様式への異議提起と主張する。しかし、この私の論考でフーコーの「哲学と霊性」やパレーシアを追ってきた者には、ニーチェを代表とするプラトン批判に異論がある。プラトン哲学の普遍的リアリティーを重視するという特徴があるが、そこに至る精神の葛藤を描いていること、そしてイデアに上昇した者が現実世界へ帰還する道を示していることを考えなければならない。個別的リアリティーを十分に考えられた哲学である。ここでもボードレールの永遠性への憧憬が個別的リアリティーに現れたものと考えていることを無視すべきではない。このことはボードレールが唱える近代性(モデルニテ)(現代性)とつながるものと言えよう。
私は想う、誰であれ、決して二度と
再び見いだされえないものをすでに失ったすべての人たちを、
涙に濡れ、喉を潤そうと、やさしい雌狼の乳を飲むように
「苦痛」を飲む人たちを! 花々のように萎れてゆく痩せた孤児たちを!
このように、私の精神が遁れ行く森の中
息を大きく吸い込んで、年老いた「追憶」が角笛を吹き鳴らす!
……さらに他の多くの者たちを!
(「白鳥」最終二連拙訳)
ベンヤミンは「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」という論考で、『悪の花』数篇に見られる「近代と古典古代との相互浸透」について述べている。生物学的には「黒人女(第十一連)と白鳥」、歴史的には「ヘクトールの未亡人にしてヘレノスの妻」、アンドロマケーを登場させ、「過去への哀悼と未来への絶望を描いて、それらの数篇では「白鳥」がぬきんでているという。近代を内奥から古典古代に結ぶきずなは、このかよわさであると指摘する。またボードレールはシャルル・メリヨンのエッチングを情熱的に賛美していたという。パリ大改造の数年前に完成させたエッチングで、近代と古典古代が二重映しになった、近代のもつ古典的相貌に熱中したという。メリヨンの伝記を書いたジェフロワという人の「それらは、生きているものを直接かたどって製作されているのに、生き終えたものの印象、死んだか、あるいは近く死ぬものの印象を呼びおこす」という言葉をベンヤミンは引用している。「未修復の廃墟が、新市街と一体のものとして現出する「ピラネージの描いた風景画」の影響で、ボードレールにはローマが身近であったという。しかし、ローマという都市の古代の遺跡の散在はいわばオブジェのように扱われ、現代生活とのアマルガムの魅力をもつものであるが、伝統が現代生活に引き継がれ生きている印象を与えるパリにこそ、『悪の花』の詩篇は似つかわしいのである。風土的なものとそこで生きる人々の感受性と深く関係していると私は思う。
ボードレールのモデルニテ
ボードレール美術批評の前半ではドラクロアを中心として、内面性と精神性を重視し、普遍的なものに対する愛と自己の創造的魂の融合を主張していたが、後半の美術批評『現代生活の画家』では、風俗のクロッキー画家Gについて論じていくようになる。正確にいえば芸術家ではなくむしろ世界人、世界を理解し世界のあらゆる慣用の不可思議で正当な理由を理解する人とボードレールが表現するGとは、コンスタンタン・ギースと呼ばれる画家である。「好奇心こそ彼の天才の出発点」とし、「すべてを新しさのうちに見る」子供と天才を比較する。子供にあっては全存在を感受性が占めているが、天才をもつ大人の神経は頑丈で、理性が相当な場所を占める。したがって、「天才とは、意のままに再び見出された幼年期、今や己を実現するために成年の諸器官をもつようになり、無意志的に集積された材料の総体に秩序をつけることを可能にしてくれる分析的精神をもつようになった、幼年期に他ならない」というボードレールの記述はよく知られているものである。「活発な想像力に恵まれ、つねに人間たちの大砂漠を過って旅する孤独な人」とギースを捉え、「彼の崇めるある何ものかを、現代性と名づける」と言い、現代性とは、「流行が歴史的なものの裡に含みえる詩的なるものを、流行の中から取り出すこと、一時的なものから永遠なものを抽出すること」であるという。ボードレールとは全く別のコンテクストにおいて、私は松尾芭蕉の「不易流行」という概念を想起する。「永遠なるもの」を「普遍的本質」とするなら、「個物の個的実在性」を見ようとした芭蕉は、井筒俊彦氏の『意識と本質』の説明によると、事物の普遍的「本質」(芭蕉はそれを本情と呼んだ)は、表層意識では触れることができず、「私意を離れた」瞬間にその「本質」がちらっと光る。それを「物の見えたる光」というのだという。「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである」とボードレールは定義したのであったが、このような考えは前の世代からどのような影響を受け形成されたのであろうか。
ネット批評、白銀敏枝『ボードレールにおける「モデルニテ」(「現代性」)の誕生について』(広島修大論文集第四十三巻第二号、2002年)によると、十八世紀のディドロやスタンダールの美術批評や、同時代のゴーチェからの影響が見られるという。『現代生活の画家』(一八六三年)以前、『一八四六年のサロン』を執筆していた当時、ボードレールはギースを知らなかった。ギースを知ったのは一八五九年である。十八世紀にはデッサンの評価が高まっていて、ディドロの「画家には一瞬しかない」という言葉や、「イメージに変貌する瞬間の世界」(スタロバンスキー)にボードレールは魅了されていたのである。「現代生活の英雄性について」の論考では、現代の表現法をもつことが時代の芸術家に課せられているという、スタンダールの『イタリア絵画史』からの影響が見られると白銀氏は指摘する。「あらゆる世紀あらゆる民族はそれぞれの美をもったのであるからして、われわれも不可避的にわれわれの美をもつ」とボードレールは記述している。
あらゆる美は、世にあり得るすべての現象と同じく、永遠なる何ものかと一時的な何ものか、――絶対的な何ものかと個別の何ものかを含む。絶対的で永遠の美というものは存在しない、というかむしろそれは、多様な美もろもろの全般的な表面より掬い取られた一個の対象物でしかない。
ボードレール『一八四六年のサロン』「現代生活の英雄性について」
白銀氏によると、「ここにはギリシャ・ローマの美の観念から解放され、時代精神と民族性を主張するロマン派的情熱とは異質なものがあるという。ロマン派は、芸術・文学における正統な領域(美学)と民衆的領域(民族的情熱)を分けているが、ボードレールには、「現代性」において、これらを統合している」と指摘する。「現代性」modernité(モデルニテ)は、「現代的」や「近代的」moderne(モデルン)からのボードレールの造語と思う人が多いが、実はゴーチェの『バルザック論』からのもので用法も全く同じであるという。また、一八四六年から一八六三年におけるフランス社会の様相と大いに関係があると指摘する。さらに白銀氏は、ボードレールのモデルニテには当時の歴史画家と風俗画家という階級における価値転換が見られるという。英雄のもつ性格の偉大さや運命の担う至福や悲劇性は客観的価値をもつものとして描いた画家が歴史画家であるが、風俗画家が捉えようとしたのは日常空間に生きる個人的な動作なのだ。しかもそれは決定的な瞬間ではなく、それ以上の感動的瞬間があると思わせる瞬間として描くのが風俗画である。また風俗画にはモード(流行)が重要視される。ボードレールは、ギースの作品が「古典美に対抗する美を表現していることを」賛辞し批評しているのではなく、「相対的」な「偶成的」なものより成り立つ美が、その時代の美として必要であることを強調しているという。二月革命を経て第二帝政期に、パリのオスマン改造計画、人々の物質的幸福への願望、服飾の好みの多様さとその追求へのエネルギーの高まりという時代の相を前に、刻々と変ってゆく流れの中に身を置くことのある種の快感を、ボードレールは何らかの言葉で表現せざるを得なかったのではないか、そしてそれは『悪の花』「パリ風景」や散文詩集『パリの憂鬱』と引き継がれていったと白銀氏は指摘している。
ベンヤミンのモデルニテ批判
近代芸術論は、近代についてのボードレールの見解のなかでもっとも弱い点である。近代論では近代的モティーフが明示されている。近代芸術論のほうのなすべきことはおそらく、古典芸術論との対決だったろう。これをボードレールはけっして試みなかった。
(ベンヤミン『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』(岩波文庫)
ボードレールが試みなかったとベンヤミンのいう古典芸術論とはいかなるものか。ネット批評、富田雄一郎『ベンヤミンと現代性、或いは〈ボードレール以後〉のワグネリズム』によれば、ベンヤミンは、ボードレールの主張する現代性は詩作品においては十分実践されているものの、批評においては不十分であるのは、アレゴリー的思考が欠如しているからだと述べている。『ドイツ悲劇の根源』(法政大学出版局)において、ベンヤミンは「百年以上も前から芸術哲学は、ロマン派の騒動に乗じて権力を簒奪した概念にうっとうしく支配されている」とし、象徴概念を敵視していたことを指摘する。ベンヤミンはアレゴリーの復権を呼びかけることで、象徴主義にどっぷりつかった近代の思考回路をアレゴリー志向に転換させようとしたのだと富田氏は指摘する。ベンヤミンには象徴主義の何が問題であったのか。「象徴主義が言語の多様性と〈万物照応〉という一種の文学的神秘理論を原理とした〈アウラ〉芸術の最たるものだったからだ」と富田氏は指摘する。富田氏によると、十九世紀の科学万能主義に反発する形で芸術のための芸術、デカダンス、象徴主義は発生したのであり、科学的理性によって探知しえない霧に包まれた超越空間に〈純粋芸術〉のありかを探索する傾向が、芸術フィールド全般に見られるようになる。このような事態をベンヤミンは「芸術の神学」あるいは「否定神学」と呼ぶようになり、その最初の人がマラルメであったという。「観念の交響楽」はボードレールの「万物照応」理論を発展させたものであり、言語の神秘主義というべきアウラ性に依拠し、美を従来の神に変わる絶対的存在として崇拝する礼拝芸術の形式をとるようになったと富田氏は指摘している。さらに象徴主義のアウラ性は、ファシズムを容認してしまう危険性を秘めているというのだ。しかしこれらはボードレール以後の問題、ボードレールの詩が与えた影響である。おそらく、戦後の詩の、芸術性(アウラ)から遠のいたというよりむしろ否定した、日常生活重視の詩に価値を置く詩人たちの矮小性と深く関連しているのかもしれない。この論考においても、「詩は可能なのか」「詩は終わってしまっているのか」という問題としていずれ取り上げなければならないだろう。
ボードレールとワーグナー
ネット批評、富田雄一郎『〈鏡像〉のテクスト、或いはボードレールと〈ワーグナー以後〉』、『ベンヤミンと現代性、或いは〈ボードレール以後〉のワグネリズム』という二つの論考によると、ボードレールがワーグナーの管弦楽コンサートに初めて臨席し、衝撃を受けたのは一八六〇年である。直ちにワーグナーに手紙を出すが、その内容をもとにボードレールは「ワーグナー論」をしたためるのであった。さらにその後の「第二ワーグナー論」というべき批評をものするが、「批評」は「手紙」の拡大・進展であるという。
手紙でボードレールが主張したものは三つに分類できると富田氏は指摘する。まず第一は、己の詩学との類似性である。「私はこの音楽を知っているという気がしました。」「後にその幻覚(ミラージュ)がどこから来るものなのか理解しました。」mirage(ミラージュ)という言葉はmirer(ミレ・鏡に映す)を語源とするので「鏡像(イマージュ)」とも無縁ではない。ポオを発見したときと同じ「自己投影行為」であり、ボードレールの他者理解の基本パターンと言える。したがってワーグナー讃歌論は自己確認・自己肯定の作業を裡に含み、逆投射的にボードレールという芸術家の輪郭を顕わすことになると富田氏は述べている。このようないわば「鏡像化」はポオの場合は自己形成の契機として機能したが、自己確立が済んだワーグナー経験の後では、自らの限界を意識させられ、その先の模索、常に「新しきもの」の希求に向けて脅迫観念に運命づけられたボードレールのような詩人には、分身を見つけた「快」は同時に自己存立の不安、つまり「不快」を引き起こしたであろうと富田氏は類推する。ワーグナーの衝撃は自己の再確認と微調整を要請したという。やがて来るボードレールの詩学に多大な影響を与えたのであった。
「自己同一化」につづいて「大きさ」(grandeur)である。「絶対的に大」である対象に感じる動揺の感覚を「数学的崇高」、圧倒的な威力を伴う畏怖の念を「力学的崇高」と分類したカントの『判断力批判』に倣い、「自然の大きな音や大きな相貌のもつ荘厳」や「人間の大きな情熱のもつ荘厳」は量的に巨大ゆえに数学的崇高と見なせるだろうと富田氏はいう。また「空気のなかを上昇したり海の上を浮き流れたりする逸楽」の激しい運動エネルギーに翻弄される心的動揺は力学的崇高の体験であり「強烈さ」の詩学とも呼びうるだろうという。(カッコ内はすべて手紙から引用)。つまり「大きさ」と「強烈さ」の二種類の崇高という主題系である。このような「自己同一性」「大きさ」「強烈さ」の三要素には、第一に「崇高」、第二に聖俗二面性の「二元論」世界、第三に「共感覚」現象があり、それらを統一する「自己同一性」が手紙の構成要素として挙げられると富田氏は分析する。富田氏はそれぞれの要素に、『悪の花』の詩句を引用して解いているが、ここでは割愛しよう。しかし「ワーグナーによって開示された〈音楽〉という現象の圧倒的な威力が、自らの抒情詩を超える何かを予感させたはずである」という富田氏の指摘は重要であろう。
その何かを富田氏とともに具体的に追ってみよう。「手紙」と「批評」を重ね合わせ読み直すことで拡大されたものと付加されたものが浮かび上がってくる。〈鏡像〉の限界の外にボードレールが模索したものを知る手がかりはその差異にあるという。ボードレールの書いた「批評」にその結果が現れる。富田氏は、「継承」「拡大」「付加」という観点から具体的に考察している。
富田氏の細かい指摘はここでは省略するが、印象の精密化と正当化が「継承」されているという。例えば、至福、精神と肉体の二元構造、崇高としての無限の大きさと強烈さ、光の知覚、孤独を喚起する広大な空間の知覚などの表現である。次に、第一の「拡大」として詩篇「万物照応」からの引用を活用することによって宇宙理論へ拡大され、ワーグナーの象徴主義に接点を見出す。つまり『悪の花』ではたんに一篇でしかなかった「万物照応」が象徴主義理論として拡大されたことである。しかしボードレール自体は「真の音楽は異なった脳髄のなかに類似の観念を暗示するものであることを証明するため」であり、象徴主義の宣言ではないことに注意を促している。ボードレールは、「音楽書簡」の詳細な分析を通じたワーグナー理論の解明と、オペラ・テクストの分析を付加することによって「手紙」を補完したと富田氏は指摘する。『タンホイダー』の主題は「肉体と精神との、地獄と天国との、魔王と神との闘争を表徴する」「ワーグナーを「詩人であると同時に批評家」と規定し、「批評家が詩人になったりすることがあれば、芸術の歴史におけるまったく新しい出来事であろうし、あらゆる心的法則の顚倒、一個の奇形であるだろう。これに反して、あらゆる大詩人は、自然的に、宿命的に、批評家となるものだ」を「批評」は提示する。(カギかっこ内はボードレールによる)
いかなる人間の裡にも、いかなる刻にも、二つの同時的な請願があって、一方は神に向かい、他方は〈魔王〉へ向かう。神への祈願、すなわち精神性は、昇進しようとする欲望だ。〈魔王〉への祈願、すなわち獣性は、下降することの歓びだ」(ボードレール『赤裸の心』)
聖と俗、精神と肉体、天国と地獄、神と魔王、認識と逸楽、理性と感性、古典主義的精神とロマン主義的精神、批評家と詩人という安定した二元構造は最終節で崩される。二元構造の『タンホイザー』と二元思考を原理とする詩人の邂逅があり、その触媒作用の中からワグネリズムとワグネリアン象徴主義が発動したのだと富田氏はいう。
前者の形式・統一を打ち破る後者の内的欲動、すなわちセミオティック(記号論的)な力の発現が優先され「逸楽的で狂宴的な部分」のエネルギッシュな表現力の優先的賞賛は結局は「悪」の崇拝に至ると富田氏は指摘する。それは『悪の花』の地上的美学・悪魔主義的なイデオロギーへのボードレールの読み替えに過ぎないのだが、自己と似つつも自己を超える「何かしら新しい物」とは神経的強烈さ・暴力的激烈さであるという確信は、「手紙」から一年を経るうちに内部で音楽の能力であるセミオティックな表現力への欲動が増大してきたことを意味すると、富田氏は指摘する。そしてそれは『悪の花』改定作業と、「モデルニテ」の問題、散文詩における新しい形式の試みへと飛び火したという。
富田氏によると、ワーグナー芸術はフランス象徴主義の詩的言語革命、内的独白や意識の流れの小説エクリチュールの革新、アドルノ、ベンヤミン、ハイデガーの思想、レヴィ=ストロースの構造主義神話学もワグネリズムの言説との交流のうちに形成されたという。またドイツ統一運動の精神的バックボーンとして機能し、ついにナチスのアーリア主義ファシズムと共犯関係を持つことになったという指摘。ワグネリズムから象徴主義が生まれ、モダニズム、現代のポストモダニズムに導かれるようになったと考えるなら、「近・現代文学はボードレールとワーグナーの詩学が結びついた瞬間に始まった」(ワイリー・サイファー『ロココからキュビズムへ 十八世紀~二十世紀における文学・美術の変貌』)と言えるだろうと富田氏は主張する。
ベンヤミン(『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』)によると、近代とは古典古代へと近づけてゆく力をも指す。ボードレールはユゴーにそれを認めたが、なんといってもワーグナーにこの力の無制限な奔出を見たという。古典が規範とするのは構成の面であり、作品に生気を吹き込むのはモデルニテ(現代性)であるというのがボードレールの考え方である。先述したように、ボードレールの現代芸術論でもっとも弱いとベンヤミンが指摘したのは、「古典芸術との対決」であるが、富田氏によるとアレゴリー的思考の欠如であった。象徴主義の何が問題であったのか。「それは象徴主義が言語の多義性と万物照応という一種の文学的理論を原理とした「アウラ」芸術の最たるものであったからだと富田氏は指摘する。十九世紀の科学万能主義の土壌から、科学的理性によっては探知できない超越空間に純粋芸術のあり方を探索しようとする傾向が芸術全般に見られるようになっていたと富田氏はいう。複製技術の発達は「アウラの衰退」を促し、一回性という側面によってアウラを温存していた芸術作品は本質的に変化する。ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』というテクストで「アウラの衰退」をこのように論じたのであるが、それは象徴主義のアウラ性はファシズムを容認してしまう危険性を秘めているからだと富田氏は指摘する。「アレゴリーはある対象をそれとは違う別のものに置き換えることで成立する修辞法である。したがって「異化作用」「脱構築」をその原理とする」と富田氏は述べる。ベンヤミンにとってアレゴリーとは、ファシズムの思想的基盤を形成している古典古代という過去の伝統的イデオロギーの正当性を破壊するための「近代の武装」だったのだと富田氏は解釈する。後の象徴主義を導いた機縁としてのボードレールがここでは問題となっているのであり、見方を変えればベンヤミン論を要求するものと言える。従って他のボードレール解釈も十分可能である。また、「アウラ」とポエジーの類似性、ベンヤミンのアレゴリー理論については、この論考の冒頭で記したように、私は別の論考で徹底して論じるつもりでいるが、ベンヤミンの「アウラ」に対する考えをある程度、ここで明証しておく必要があるだろう。なぜならこれまでの論考ではベンヤミンは「アウラ」を悪しきものとして全否定していると誤解しかねないからである。
流動するアウラの活用(付記)
道籏泰三氏は、ネット批評『ベンヤミンにおける「アウラ」の展開』で、ベンヤミンは「アウラを軸とした思考方法を根底に据えることによって、そこから自らの時代の現実に対処し、また時代に対する根本的な批判の目をやしなっていったのだ」と主張する。道籏氏は「流動するアウラ」と「フェティッシュとしての神話的アウラ」という二つの成立の仕方をするアウラを区別し、前者の内実をしっかり確認したうえで後者と対照させることによって後者を捉え直し、これら二つを橋渡しすることが重要であるという。そして前者のアウラを、認識、言語、経験の領域に分け検証し、そのうえでアレゴリーを軸として、後者とのかかわりを明らかにしようとしている。またベンヤミンが複製技術論や写真論で目指したものは、知覚そのものの変化とともに経験が空洞化し、アウラの感知能力の乏しくなった時代の人間を、写真や映画などの複製のもとで、アレゴリーの生命というべき流動的アウラに触れさせ、経験の空白の隙間に強力な力を持って侵入してくるフェティッシュとしての神話的なアウラを徹底的に粉砕することであったと指摘する。つまりそれは、「生涯アウラを求め続けた彼の哲学、芸術、言語その他の領域を大きく包括しながら、これらをはるかに超え出てゆくきわめて広範囲な射程を持ったものである」と道籏氏は主張している。その内実については別の論考で探求していきたいと私は考えている。
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長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十九)
小林 稔
47 来るべき詩への視座
ボードレールにおける詩人像(二)
ボードレールの強度
ロマン派の第一世代のジェラール・ド・ネルヴァルからボードレールに引き継がれたもの、そして時を隔て二十世紀初頭にプルーストによって、さらに探求されたものが見えてくるのだが、そのものとは集約していえば、ポエジーの正体(本質)と呼ぶべきものではないかと私は思う。小説と詩の形式の違いを超えて、あるいは異常接近して行われた文学現象であるそれは、ヴァルター・ベンヤミンの批評の根底を形成する「アウラ」の概念と交錯する点であろう。
アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な表れである。安らかな夏の午後、地平に連なる山並みを、あるいは安らかにしている者に影を落としている木枝を、目で追うこと――これが、山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである。(ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』一九三六年)
ネット批評、道籏泰三『ベンヤミンにおける「アウラ」の展開』(一九九一年京都大学紀要)によると、アウラには否定的なものと肯定的なものがある。前者の近代科学文明によって弱体化した経験(すなわち「アウラ」)は、科学技術の進展による新しい知覚において「悪しきアウラ」を生み出し、ファシズムに与するほどに変貌したが、人間から「アウラ」を締め出すことは不可能である。過去の遺物から何かを経験することはやめて、「アレゴリー」の概念で「アウラ」を「廃墟」に導き、そこから立ち上がる「アウラ」をベンヤミンは求めていったのだという。本来、アウラは芸術のすべてにつきまとう属性のようなものである。否定的な側面を持つアウラは、「集団ないし伝統の圏域にあって何らかの事物、事象が人間を強烈な力でもって集団的に呪縛する場合」に成立するものであり、肯定的な側面を持つアウラは、「個人としての人間が今というこの一瞬の時点において、自らの存在の内側から何らかの事物、事象と強い結びつき持ち始める場合」に成立するものであるという。そしてベンヤミンの志向の根底にあったのは、後者のアウラによって前者の「フェティッシュとしてのアウラ」を紛糾しようとすることであったと道籏氏は分析する。そして後者の「流動するアウラ」で前者の「フェティツシュとしての神話的アウラ」を脱構築するものがベンヤミンにとって、「破壊と創出の同時的生起を生命とするアレゴリーであった」と主張する。アウラとは私にとってポエジーと代置できる概念であり、私の「来るべき詩学」を構成する場合の重要なテーゼとして深く考慮すべきものであるが、それだけで別の論考を必要とするので、取りあえずここではベンヤミンのボードレール論の領域に限定して述べておこう。
さて先回に引き続き、ゴーチェとボードレールの差異はどこにあるかを明確にしなければならない。ロマン派の第二世代であるゴーチェの提唱した「芸術のための芸術」にボードレールが共鳴し、『ゴーチェ論』(一八五九年)において、文学の世界に「ディレッタンティシズム」(趣味性)が現れたと主張した事実がある。しかし、もしもボードレールの詩の行為が「ディレッタンティシズム」に終わっていたら、後世に残した遺産はわずかであったであろう。
書かれたものはエクリチュールとしていかようにも読まれうるものであるが、作者の一義的に意図されたものを考えたとき、文学と主体との関わりはずいぶん違ったものに見えてくる。今問題になる「ディレッタンティシズム」を趣味性の範疇におく限り、『悪の花』はその埒外にあると考えられる。『美』は『真』や『善』と、かつてはプラトンの著作において強く結びつけられた哲学的思考であったが、ロマンティシズムにおいては、内面性の探求は『美』への憧憬のみに牽引されていたのである。プラトン哲学は絶えず政治と隣接していたように、真のロマンティシズムを自称するボードレールの詩学は、「芸術のための芸術」と深く関与しながらも、政治と社会現実から視線をそらさずにいた。「進歩のための芸術」を唱えるユゴーを、ボードレールが『ユゴーの「レ・ミゼラブル」書評』で、ユゴーを隣人愛のモラリストと呼んで遠ざけた。ゴーチェのようにディレッタンティストでもなく、ユゴーのように社会派でもないことを自覚していたボードレールは、詩作が己の生存と深く関わっていた。詩を政治と芸術から切り離し、詩人としての実存的立場から現実に向かって衝撃を与えていったと言えるであろう。
あらゆるエクリチュールは、自分の、あるいは他者の生存に影響を及ぼす可能性はある。しかし強度において、ネルヴァル、ボードレール、プルーストには、同時代のほかの作家と比べて、文学と人生の時間との、のっぴきならない挌闘が歴然としている。ポエジーを獲得するためにあらゆる代価を厭わない激しさがある。言い換えるなら、彼らにとって元来、文学が自己変革のためにあるのだと思わせるものがあるということだ。ランボーには「私とは他者である」と言い切れるまでに徹底的に追求した「生の変革」というべき「見者の詩法」があった。読み物に堕した文学、「商品」として扱われる文学を否定したものであったとさえ思われる。そうした行為を貫徹させたものとは、ポエジーへの全幅の信頼にあったのではないだろうか。
扇動者の形而上学
ベンヤミンは、マルクスの『新ライン新聞政治経済評論』(一八五〇年)に記された陰謀家たちの相貌に、ボードレールのそれとの類似性を見るという。マルクスによれば、プロレタリア秘密組織の形成にともない、ふだんの仕事の片手間に陰謀にかかわる臨時の陰謀家とプロフェッショナルな陰謀家に分類されているが、不安定な生活を送り不規則で、安酒場が陰謀家たちの密会の場所になっていて、いろいろないかがわしい人たち(マルクスがいう「フランス人がラ・ボエームと呼んでいる曖昧な、ばらばらな、浮き草のような大衆ばかり」)ボヘミアンたちとの交流を持たざるを得ない生活環境に組み込まれていったという。ナポレオン自身がそのような環境から成り上がった人で、秘密主義、突然の攻撃などが第二帝政の国是をなしていたとベンヤミンは、『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』で述べている。「一八四六年のサロン」という美術批評を「ブルジョワに捧げる」と記したかと思えば、後にはボヘミアンの口調で罵倒する。また芸術の有効性を述べた数年後には、純粋芸術(芸術のための芸術)を主張したりしたと指摘する。
「ぼくが革命ばんざい!というのは、破壊ばんざい! 懲罰ばんざい! 死ばんざい!と仮にいうのと、同じことなのだ。---(中略)---ぼくたちはみな、骨のなかに梅毒菌をもつように、血のなかに共和精神をもっている。ぼくたちはデモクラシーと梅毒に感染しているのだ。」(ベルギーについての草稿メモ)ベンヤミンはこのような考えを、扇動家の形而上学と呼べるかも知れず、「ボードレールのなかには、マルクスが陰謀家たちに見いだしているテロリスト的な願望夢にさえ、対応するものがある。」と述べている。また、「以前に幾度かもったことのある緊張感とエネルギーを、再発見することがあるとしたら、恐怖をひきおこす書物を書いて、ぼくの怒りを発散させることでしょう。ぼくは人類の全体を敵にまわしたい。それはぼくには、いっさいを埋め合わせてくれるほどの快楽となるでしょう。」と書かれた、一八六互年一二月二三日の母宛の手紙をベンヤミンは引用し、『悪の花』の最後におかれるはずだった断片、「砦にまで高くそびえたつ魔術的な舗石」から「陰謀家運動の原点であるバリケード」を思い起こし、この「魔術的」なパトスは、ブランキシズムに負うものかもしれないと述べている。マルクスが、「革命的共産主義者」と称揚したルイ・オーギュスト・ブランキは武装した秘密結社「季節協会」を結成。一八四八年に二月革命に参加して国会に乱入し逮捕された。「レーニン以前には、誰も、プロレタリアートのなかに、ブランキ以上に明確な相貌を残したひとはいない」とベンヤミンはいう。
ボードレールは、しかしながらたんなる革命家ではなくテロリストでもなく、精神の革命家というべき詩人なのである。政治を変え世界を変えるには、先ず自分を変革しなければならない。
至高なる力の命じるところによって
「詩人」がこの陰鬱なる世に現れたとき
母親は不安に慄き、呪詛の言葉を胸に留め、
憐れみを与えたまう神に向かって、拳を握りしめる。
――「ああ! まったく、なぜ私は蝮らの一塊を産み落とさなかったのか、
こんな嘲笑の種を養い育てることになるくらいなら!
夜よ、呪われてあれ! 仮初の快楽に
私の胎内に呼気を宿したあの夜。
(『悪の花』の「憂鬱と理想」の冒頭の詩「祝福」の、最初の一、二連の筆者の拙訳。)
詩人が疎まれるのはいつの世も同じである。第二連以降、「詩人」を宿して、「陰鬱なる」この世に生を誕生させた母親の嘆きがつづく。ボードレールの詩人像が色濃く反映した詩と言えよう。
プラトンの対話篇『パイドロス』に描かれたように、人間はかつて神々の住む天上界にいて、神々の行進に従っていたが、「欲望」の馬と「理性」の馬の二頭立ての馬車の操縦を誤り、地上に落ちたとされるダイモーンの種族であり、この地上にて「美」を目の当たりにするとき、「エロース」の情動に捥がれた羽根の付け根である肩甲骨が疼くのを感じ望郷の念に駆られるゆえ、「詩人」とはそれを強く意識し、その末裔であるという思いをメタファーに持つ人間ではないだろうか。
ポエジーは、限りなく遠い彼方から、「私」のいる日常世界に、恩寵のように足許に降りてくる。この世に亀裂を与えるものとして到来するのは、一種のインスピレーションとして言葉を
獲得することから始まり、日常言語の分節を引き離して深層言語を見出さんためである。このように、詩はプラトンの描いて見せたイデア世界と深くつながれている。『悪の花』の最初の詩篇群にボードレールが「憂鬱とイデー(理想)」と命名したのは示唆的である。ボードレールは、後に彼の詩からインスパイアされ、純粋言語の世界に執着し現実世界に事物の本質を見なかったマラルメとは違い、この世の神性を奪われた事象にどっぷりと浸かり悪を振りかざしていくのだ。
なぜなら、主よ、それは真により良き証ゆえに、
われわれが自らの尊厳を自らに与えるという証。
時代は次々にめくり、われわれの熱烈なむせび泣きは
やがて死に絶えることになるという証、そなたの岸辺で!
(『悪の花』「灯台」最終連の拙訳)
ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家たちの描き出したのは人間の悪なのだ。「これらの讃歌(呪い、冒瀆、嘆き、法悦、叫び、涙)は千の迷宮を潜り抜けて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」と言い、人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」、「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。芸術家が描き出す人間の悪は「われわれが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺で」死すべき人間の証だと神にささやくのである。ここにはもう「エロース」の羽ばたきはなく、プラトン哲学を咀嚼したキリスト教の神学が、ダイモーンを祖とする「堕天使」の叫びが反響しているとみてよい。だが、ボードレールにはランボーのような、人間を救い出そうとするプロメテウス的使命はないだろう。
「祝福されてあれ、苦しみをお与え給いし私の神よ、
われらの穢れを癒す神聖なる薬のように、
そしてまた強き者たちを神聖なる逸楽に導く
より良き、より純粋なる神髄のように!
私は知っております、苦しみこそが高貴さであり
この世も冥界も決してそれに噛みつくことができぬことを、
すべての時代とすべての世界に代価を果たさねばならぬことを、
私の神秘の王冠を編むために。
(『悪の花』「祝福」第十五連、十七連の拙訳)
かくしてボードレールは、詩人としての使命を、passion(受難)の上におき、人類の悪を引き受けて十字架に磔になったキリストに自らをなぞらえるが、身の潔白を明かす者としてではなく、悪を具現することにより、自ら悪そのものになることによって浄化していこうとするかのように! ボードレールの悪に向かう激しさは、「照応」や他の詩篇、この「祝福」で時折見せる太古の無垢な精神の「健康」に一方で支えられているように思えてくる。また、この詩の「詩人」そのものが、ジャン・ジュネの存在を予告するものとも思える。「創造者は、彼の創造したものたちが冒す危険をとことんまで自分自身に引き受けるという恐ろしい冒険に身を投げ入れたのだ。(中略)創造者は彼の人物たちの罪の重さを自ら背負うだろう。イエスは人間となった。彼は贖罪する。神と同じく、彼は人間たちを創った後、彼らをその罪から解放するのである。―-―彼は鞭打たれ、顔に唾され、嘲弄され、釘づけにされる。」(ジャン・ジュネ『泥棒日記』)
右に引用した「祝福」第十七連とそれにつづく第十八連に出てくる「王冠」とは何の象徴なのであろうか。「私の神秘の王冠」、「眩いばかりに澄んだ美しい王冠」と形容されている。「すべての時代とすべての世界に代価(代償)を課せねばならぬこと」を「詩人」である私が知っているという「編まれる」べき「王冠」とは、「永遠なるもの」の徴(すなわちイデア界に到達しようとする仰望の形象化ではないだろうか。最終十九連では、「王冠」は「原初の光線の聖なる源から汲まれた、純粋な光でしか作られない」という。それは『悪の花』の詩篇「照応」で表された「象徴の森」に建つ、「香りと色と響き」が「応え合う」「神殿」と称える「自然」と、イデア界への憧憬から、ポエジーが舞い降りてきた根源へ遡行しようとする、ミューズの神々に吹き込まれた「詩人」の精神の羽ばたきが織りなす「詩の勝利」の謂いであろう。
その想いは、雲雀のように、朝、天空に向かって
自由な飛翔をとげる者たちに幸いあれ、
――人生の上を飛び、苦もなく解き明かす者たち
花々と黙り込んだ物たちの言葉を!
(『悪の花』「高翔」の最終連の拙訳)
だが、彼は天上の花々と対照をなすこの世(冥府)のそれらに身を引き裂かれ、トポス(場所)としての縦軸とクロノス(時間)としての横軸の交差する地点に居座り、「おおよ! 時は来た! 錨を挙げよう!」(『悪の花』「旅」)と叫びつづけている。
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長期連載エセー「自己への配慮」と詩人像(十八)
小林稔
47 来るべき詩への視座
ボードレールにおける詩人像(一)
詩の未来を論じようとするとき、現代詩はボードレールが提出した諸々の問題を継承することが今でも可能であろうか、あるいは現代詩においてそれは,すでに過去のことであり、まったく新しい視点で見るべきなのかと問うなら、私の立場は前者である。このエセーの前半に長々と論考してきた「自己への配慮」というテーゼは、ここに受け継ぐべき場を持つことになる。
私がこのように考える機縁は、ミシェル・フーコーの一九八二年度のコレージュ・ド・フランス講義『主体の解釈学』にあった。元来、この私の論考それ自体がこの講義録を起点としたものである。この書物にわずかに垣間見える、フーコーによるボードレールへの言及と、次に来るフーコーの講義録『自己と他者の統治』、さらに『真理の勇気』では、キュニコス派からの哲学的継承とする十八世紀、十九世紀の革命思想の流れに定位しようとするボードレールの位置への言及がある。フーコーにはまとまったボードレール論はないが、神学と哲学のアナロジーにおいて詩学を確立しようとする私の試みに、ボードレールは不可欠と言えるのである。(私は『悪の花』から現在まで二十編を稚拙ながらも訳出し、「ボードレールについて(一)」を書き、さらに続行する予定である)。ここで私は、先に述べたフーコーの晩年の哲学、「生存の美学」へと結集するプロセスを通して、詩人の実存的主体(詩人像)を論じていこうとする。
過去十七回にわたる私のこのエセーは、プラトンのエロース論やイデア論を迂回したために、原稿用紙で千枚を超える長々しいものになった。いよいよ後半に及んで、これまでの考察をまとめる必要性が生じているが、その一方では後半の「詩人像」を書きつづけていく必要性も生じている。前半がそうであったように、私の論考は書きつつ次第にその全貌が見えてくるという性格を持つものであるようだ。しかしながら、前半を書き終えた今、ボードレール以降の詩人を論じるにあたって、前半との最低限のつながりを、この時点で手短に要約しなければならないだろう。
先に述べたように、私が『主体の解釈学』を初めて紐どいたときにボードレールの名に出会ったのは、その書物の中ほどにおいて一度だけであった。
「自己の倫理と自己の美学を構成しようとする困難な試み、あるいは一連の試みとして読み直すことができるのです。たとえばシュティルナー、ショーペンハウアー、ニーチェ、ダンディズム、ボードレール、無政府主義や無政府思想など、実にさまざまな試みがありました、それらはおたがいに異なりますが、次のような問いに収斂していると思われます。自己の美学や自己の倫理を構成したり再構成したりすることは可能なのか。それは何を代価として、どのような条件においてなのか。」(ミシェル・フーコー『主体の解釈学』p293)
フーコーはこの講義録の冒頭で、「主体と真理」という問題を「いかなる歴史形態において、西欧ではこれら二つの要素の諸関係が取り結ばれてきたのか」を考えてみたいのだと述べ、「自己への配慮」という観念を取り上げることを宣言し、デルフォイの神託「汝自身を知れ」との関係を解く。哲学においてはプラトンの描くソクラテスのテクストが出発点になっている。フーコーの言い方を借りれば、「汝自身を知れ」は一般的な「自己への配慮」の枠内で現れてきたのである。「自己への配慮」とはどのようなことをいうのであろうか。『ソクラテスの弁明』ではソクラテスは、神からゆだねられた使命、つまり「自分自身への配慮」を人々に気づかせる任務を背負わされている人である。デカルトの『省察』の明証性においては、「汝自身を知れ」という命題は、真理に到達する自己認識という手段として扱われ、「自己への配慮」という観点は次第に重要性を減少させることになる。その結果、哲学からスピリチュアリテ(探求、実践、経験という意味での霊性)が弱められ、近代哲学においては自己は否定的に見られるようになり、自己への配慮は顧みられなくなってしまったのだ。しかし古典古代では、哲学的問題と霊性の問題は一度も分けられたことはなかったとフーコーはいう。
このように哲学からスピリチュアリテ(霊性)が消え、自己への配慮が顧みられなくなった時点を、フーコーは十分な留保つきで「デカルト的契機」と呼んだ。真実への到達を可能するのはただ認識だけであるとする時のことであり、そのことを認めた日を境に近代に入ったという。さらに、主体の真理への到達は認識の内部からであり、生存における個人的なものや主体の構造に関係がなくなり、学問的な合意、道徳的な条件、地位や身分にかかわる利害から離れた探求の規範など、客観的な条件が重視されていったとフーコーは説いている。それ以降、主体はそのままで真理を受け入れることができるが、真理は主体を救うことができなくなったとフーコーはいう。
しかし、「デカルト的契機」はデカルトがコギトを発見したときに始まったのではなく、それ以前の聖トマスとスコラ哲学において、認識する主体を神のうちに自らのモデルを求め、絶対的な到達点を同時に見出していたとフーコーは主張した。すべてを知る神と、知るという能力を賦与された主体の照応を要因とし、西欧の哲学的思はそれまでそれに随伴していた霊性を解離・分離したのだとフーコーは結論した。つまり科学が霊性を否定したのではなく神学との対立に求めるべきだというのだ。さらにデカルトと同時代の十七世紀に霊性と哲学の問題が、スピノザのうちに見られるということにフーコーは注意を喚起する。哲学が元来付随していた霊性が認識に席を譲る時代の流れの中で、主体と真理の関係に霊性を重視する流れが継承されていたとフーコーは言いたいのだ。分析知に属するようなかたちでラカンの精神分析は霊性にかかわる問題を提起しようとしたとフーコーは指摘している。真実を語るために支払う代価の問題と、主体が自身について真実を語り、真実を語ることが主体に及ぼす影響の問題をラカンは提起したということである。これまで私はこのエセーで十分論じてきたことであるが、哲学的思考の「霊性と自己への配慮」の結びつきは切り離しえないものであることを私はここで確認したい。
「自己への配慮」という概念を初めて哲学的テーマとして登場させたのはプラトンの対話編『アルキビアデスⅠ』であったことを、フーコーの指摘でこれまで何度も述べてきた。ソクラテスが「自己への配慮」を説く相手は思春期から成人に移行する政治家志望の青年であったが、後のローマ帝政期(紀元一、二世紀)になると「自己への配慮」のテーマは青年時代の一時期から生涯を通じたものになり、政治と距離を置いたものになった。主体は全生涯にわたって自己への配慮を気づかわねばならなくなった。いずれにしても「自己への配慮」には、自己に対しておこなう運動、「立ち返り」という観念が含まれてくことをフーコーは指摘する。自己を配慮するといっても、今ある自己を大切にすることとは全く異なり、あるべき自己への移動や回帰が重要視されるのである。「主体の自己への移動と、自己の自己への回帰」という主題を解明することがテーマになるとフーコーはいう。セネカとマルクス・アウレリウスにいて私はこれまでに論じてきたのでここでは繰り返さない。「自己への配慮」の概念が時代によって変遷があり、プラトン主義的モデル、ヘレニズム的モデル、キリスト教的モデルを区別してフーコーは論じていることは、このエセーでもすでに紹介した。
今日の私たちは、自己の倫理を再構成しようと努力しているとはとても言えないような状態にあることはおわかりでしょう。自己の倫理を再構成しようとする一連の努力は動きを止め、凝固してしまっています。この努力の中で、今日の私たちは絶えず自己の倫理を参照することを強いられているのですが、それにいかなる内容をも伝えることができない。私は、こうした動きの中に、自己の倫理の再構成が不可能であると感じさせるような何かを見て取らなければならないのではないかと思っています。しかし自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題なのです。(ミシェル・フーコー『主体の解釈学』p294)
フーコーの意図するところは、単なる歴史的研究ではなく、彼がおかれた現在からの考察であることは容易に見出される。彼の哲学は絶えず未知なるものへと導かれており、哲学それ自体への問いかけであり、絶えず変貌し続けたのであった。私がフーコーの書物から引き出そうとしたのは、「哲学と霊性」、それに伴う「自己への配慮」から、現代における詩人とはどのような存在であるべきか、つまりボードレールに見られる詩人像を浮上させたいのである。フーコーの言うように近代以降、「自己」というものを否定的に受け取られる傾向にあり、詩人においても例外ではない。「主体」を吐露することや「主体」を追求することは詩作においてはマイナスの要因として受け取られてきた。「自己への配慮」がフーコーの指摘するように、「自分自身に専念する」「自分の中に引きこもる」というような定式が流布し、肯定的に受け止められなくなっている。その結果、詩人とは特別の存在ではなくどこにでもいるごく普通の人であることになった。だが、ボードレールの詩から、ボードレールという一個人を超えた詩人像が浮き彫りにされる。一般に流布される「ダンディズム」を生きたのであったが、それは彼の生の表層であって、詩人としての生き方の本質が理解されなければならない。ボードレールの詩には「あるべき詩人像」があり、彼はそれに牽引された生を生き、詩を書いたと言えないだろうか。それは彼以後の詩人たちに継承され、シュルレアリズムの終わりとともに見えないものになった。作品の前に詩人は消えるべきだという批評の影響であろうか、詩人の主体は軽視されていく。わが国の詩は、現実の生活から詩を導き出し、現実を超えることのない詩か、始めから現実を超えたところで言葉を操る言語派にとどまる詩のどちらかになった。詩人の実存的主体から詩作が絶縁しつづけるなら現代詩は滅びると私は思う。個別性としての経験と詩とは何かを問う普遍性が必要なのである。ここではロマンティシズムとボードレールを分かつものは何かを考えなければならない。ランボーはボードレールを神と称え、そこから「生の変革」としての詩を夢見たのである。いわゆる「見者の詩法」では確固とした詩人像をランボーが描いていたことが理解される。哲学と詩の違いが問題にされなければならないであろう。フーコーが考えた哲学と「自己への配慮」の密接な関係を読み取り、そこから導き出される「生存の美学」と、フーコーには直接の言及は見られないが、詩作との関係を私は展開してみたいのである。また詩作が詩人の経験に深く根ざし、詩作品はそれを超越したものであるというエクリチュール論を、実践を通じて私は考えてみたいのである。つまり私が導こうとするのは「生の変革」から「生存の美学」への移行なのである。
ヴァレリー「ボードレールの位置」
「ボードレールは光栄の絶頂にあります」という書き出しで始まるヴァレリーのボードレール論はフランスの詩界ではいかにボードレールが例外的存在であったことを主張している。これがボードレールの『惡の華』初版(一八五七年)から約七十年ほどたった一九二四年に発表されたものである。例外的とする理由は、フランス以外のヨーロッパに翻訳され広がったことである。それまでは散文に理解を示した外国人も、詩に対してはフランス語の特殊性(厳格な韻律学、精神の抽象的傾向など)によって敬遠されてきたが、「ボードレールに至って、フランス詩歌はついにフランスの国境を出た」のであるとヴァレリーはいう。それだけでなく外国の詩人に与えるボードレールの影響を伝え、フランスにおいては彼以上に重要な詩人はいないとまで指摘した。ボードレール自身、「平均から遠い存在」であるにもかかわらず、その重要性の根拠は何か。まず最初に考えられるのが「批評的叡知と詩的効力を兼ね合わせ」ていたということがある。そのことから彼はエドガー・ポオの知的世界を発見するという幸運と巡り合ったことで、才能が変容され運命が一変されたとヴァレリーはいう。「明晰の魔、分析の天才、論理と想像、神秘性と計算の結合の発明者、芸術のあらゆる資源をきわめ利用する文学技師」とヴァレリーが称賛しているポオの精神とボードレールの精神の「魔術的接触」は運命的であったと彼はいう。
ボードレールを最も重要な詩人と考えるもう一つの理由に、ロマン主義に関する事情があるという。ロマン主義全盛期に青年時代を送ったボードレールは、先人たちの後裔に動かされ影響を受ける一方で、彼らへの否定や打倒への思いに駆られていた。「大詩人であること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」という思いが必然的にボードレールの裡にあったとヴァレリーはいい、「高名の詩人たちが久しい以前から詩的領域の百花繚乱たる諸州を分有してしまった。ゆえに私は別のことをしよう」(『惡の華』序文草案)を引用している。
「ボードレールは元来生まれはロマン派であり、のみならずその趣味性からもロマン派であるにかかわらず、時として一古典派の様相を呈する」とヴァレリーはいう。「己自身の裡に一人の批評家を擁し、これを己の仕事に緊密に協力させる作家は、古典派である」というのがヴァレリーの定義である。「あらゆる古典主義は先立つロマン主義を前提とする」。ヴァレリーによると、ロマン派の人々は、「抽象的熟慮と推理」、つまり分析を嫌い、「衝撃と衝動との対比の効果」だけを求め、「教養や大規模な思考」を浅薄であると決めつけたのであった。「科学が異常な発達を遂げようとする時期にあって、ロマン主義は反科学的精神状況」を呈していた」のだ。彼らにとって必要なのは、「情熱と霊感とは、自分自身よりほかには要らないと思い込む」ことである。このような時期にエドガー・ポオという人物が現われ、「精神の事象と、またその中で文学的制作を、詩的天分を授けられた頭脳のうちに存したこと」は彼以前にはなかったことだという。ここでヴァレリーは先にも述べたポオとボードレールの精神の出会いの重要性を強調している。しかし二人の作家が同様の文学を成就したのではなく、「価値を交換した」とヴァレリーはいう。「ポオはボードレールに斬新で深奥な思想の一体系をそっくり引き渡し」、ボードレールはそれを「啓発し、豊饒にし」たというのだ。そしてボードレールはポオを世に広めるために翻訳や序文を書いたというのである。それにしてもなんという変貌がボードレールに見られることだろう。『惡の華』のボードレールには、普遍的と思われるような詩人像がどっしりと腰を据えてある。
ヴァレリーの解釈をみてみよう。ポオは一詩篇の心理的条件を分析する。まずポオは一詩篇の大きさに依存する諸条件を考え、長さに異常なくらいの重要性を賦与する。そして論弁的あるいは経験的認識を、内奥存在の創造と感動の威力とに異様に結合させた。ボードレールの詩には、霊肉結合、荘重と熱気と苦渋、永遠性と親密性との混合、意志と諧調との合体があり、ロマン派と完全に区別されるという。ポオが詩について抱いていた観念はボードレールの芸術に変更を与え主要な要因として作用したのである。またヴァレリーは、ボードレールの詩にみられる「音色の充溢と独自の鮮明さ」を指摘し、散文調に反抗したボードレールが音楽に熱烈な興味を抱く最初のフランス作家であることに注目する。一方でまたボードレールが絵画批評家であることも
指摘する。しかしこのヴァレリーの論文「ボードレールの位置」においてとりわけ重要なのは、ボードレールの『惡の華』が影響を与え、大詩人たちを産み出したことであると主張する。
その大詩人とは、ヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーのことである。「ヴェルレーヌのうちに発展する、内奥の感覚及び、神秘的感動と官能的熱烈との力強く混濁した混合、ランボーの簡素で激越な作品を、あのように逞しく激烈にしている、出発の狂熱、宇宙によって掻き立てられる焦燥感、諸感覚とそれらの諧調的反響との深い意識、これらはボードレールのうちに明瞭に現存し、認められるものである」とヴァレリーは記した。そしてマラルメは、ポオの分析とボードレールの評論などによって、「形式的ならびに技術的探究の情熱を伝えられて、最も精妙な帰結のうちに追究した」と指摘する。「感情と感覚の秩序」においてヴェルレーヌとランボーはボードレールを継続し追求した」が、「マラルメは完璧と詩的純粋性の領域で、これを延長した」とヴァレリーはこの論文を締めくくっている。
私たちはその後の詩人たちの推移をすでに知っている。ダダイズムがあり、ランボーやロートレアモンを掲げたシュルレアリスムがあった。それ以降はボードレールの影響は影を薄くしたように私は思う。詩からも霊性が失われていったのである。
初期美術批評に見られるボードレールの詩学
ネットに公開された二つの『ボードレールの美術批評』があり、そこで論じられている論考を紹介し、私自身の考えを述べていきたいと思う。その一つは、片山昇『ボードレールの美術批評』(宝塚造形芸術大学紀要10・1‐22・1996₋03₋31)と、もう一つは、荻野哉『ボードレールの美術批評』(「美学、第51巻201号・2000年6月30日発行)である。
ボードレールは詩集『惡の華』以前に、美術批評を世に送り出していた。片山氏によると、ボードレールの初期の論文に、『一八四五年のサロン』、『一八四六年のサロン』があり、かつてのディドロの『一七五九年のサロン』に倣ったものように思われるという。「アカデミー」や「サロン」の歴史の詳細な歴史的背景は片山氏の論文に詳しく書かれているのでここでは割愛する。私が主張したいのは、ボードレールが『惡の華』に結晶するに至る、詩の概念がどのように成立していったのかを、彼の美術評論から考えてみたいのである。『一八四五年のサロン』で特筆すべきボードレールの主張は、ドラクロアを色彩の諧和家と呼んでいることであろう。緑色と赤の色彩は穏やかだが渋く深く、「血みどろな、恐るべきものである」という。右記に挙げた『一八四六年のサロン』と、『一八五五年の万国博覧会・美術』、『一八五九年のサロン』では、ボードレールが述べる、真のロマン主義とは何かを考察するとき、そこで問題になるのはドラクロアの芸術である。「彼(ボードレール)の美術・文学評論は「悪の華」の詩学の生成発展の里程標と考えるべきであろう」と片山氏はいう。先ほど上げたディドロのほかにスタンダールの『イタリア絵画史』から多く影響をボードレールが受けていたことがわかる。片山氏によると、「ディドロの努力によって生まれた美術批評はフランスにおける芸術的感受性の発展に貢献し」、「スタンダールは音楽・美術の愛好家として始めた『イタリア絵画史』の翻訳、研究を通して美術作品の分析・描写の文体を身につける。ディドロとスタンダールは美術批評を通して、芸術の中に魂を見ることを教えたのである。」後には同時代であるゴーチェの美術批評から受けるボードレールの影響が見られるようになるという。
荻野氏は、『一八四六年のサロン』でボードレールは、ドラクロアの評価をしながらロマン主義の概念を明らかにしていったという。ここでは、一貫して過去に目を向けるロマン主義はニセのロマン主義であることをボードレールは述べる。真のロマン主義とは、「美の最も新しい、最も現在的な表現」であり、「現世紀の道徳と類似した着想の中に存する」ものである。つまり現代的な芸術について論じることになるが、それは「内面性、精神性、色彩、無限への憧れ」という要素が表現されている芸術であったと荻野氏はいう。このような芸術の代表者にボードレルはドラクロアを想定していたのであるが、それは必然的にユゴーをロマン主義から除外することであるとボード―レールは述べている。荻野氏が指摘するように、ドラクロアの「色彩」は「調和家」としての、「色彩を調和的に配置し得る才能」をボードレールは認めていた。「内面性」と「精神性」においては、ボードレールはユゴーとの対比で述べている、「ユゴーが主題の皮をつかむに過ぎないのに対して、ドラクロアはその臓腑をもぎ取る」というように。主題への深い理解を述べているのである。それは主題と詩人(芸術家)の内面性の探求なくしてあり得ないだろう。ボードレールは画家アングルの「自然主義的なデッサン」に対して、ドラクロアの「想像されたデッサン」を挙げる。「一八四六年のサロン」で、ハインリヒ・ハイネの次のような文章を引用する。「芸術家は自然の中に自らの典型のすべてを見出すことはできないのであって、最も傑出した諸典型は、生得的な観念の生得的な象徴体系と同様、彼の魂の中に、それも同一の瞬間に啓示される。(…)芸術の典型は外的自然の中にいささかもなくて、まことに人間の魂の中にあったのだ」。ボードレールが指摘するように、ドラクロアはこの原則から出発したのである。この「超自然主義」がドラクロアの絵画にどのような様相を見せるのかは、ボードレールの次に続く二つのサロン批評と『惡の華』出版以降のボードレールの批評、『ウージェーヌ・ドラクロアの作品と生涯』を見ていかなければならない。
書簡と日記に見られるドラクロア
ドラクロアという芸術家の精神性(スピリチュアリテ)を一部分でも見届けるために、書簡や日記を参照してみよう。片山氏によると、「彼の近代芸術のための孤独な闘争の内面史は彼の日記と書簡の中に見出される。ボードレールはドラクロアの庇護のもとに『悪の華』の美学を形成した」という。片山氏の論考にはドラクロアの伝記的説明が詳しく書かれているが、ここでは割愛して、引用された書簡と日記だけを紹介することにしよう。
ぼくの孤独を想うとき、またぼくに愛情を寄せてくれた人々との出会いを想うとき、ぼくは涙をおさえられないのだ。ぼくは一人の友と一緒の時だけしか幸福ではない。友と一緒に過ごす時間はぼくの宝なのだ。その時間だけが記憶に残る。それはぼくの祝祭、ぼくの真の富なのだ。(一八一八年11月6日、ピエレ宛書簡)
どうしようもない、人は常に自分の心の中に、決して埋められることのない深淵を見る。人は決してやって来ない何かを追い求めるものだ。つねに空虚。充溢は永遠に来ない。ぼくは自分のやり方で、つまり、感情と心によって真に生きるために、絵画の中に歓びを求めなければ、いや奪い取らなければならない。ぼくは手探りで仕事をしている。ぼくがこれから辿るべき道に明るい光をまず最初に投げかける松明がない。描いては消し、やり直す、それでもまだ求めるものは見つからない。(一八二一年2月21日、スーリエ宛書簡)
画家の芸術はそれがより物質的に見えるだけ人の心により内面的に訴える。というのは人間においては、外的自然におけると同様、有限のものと無限のものとの役割ははっきりと分かれているからだ。無限のものとは即ち、感覚にのみ訴える対象の中にある、内面的に人の心を揺り動かすものだ。(一八二二年10月8日の日記)
私にとって最も現実的なもの、それは私が私の絵によって創造する幻想である。それ以外のものは流砂だ。(一八二四年2月27の日記)
孤独の中で生きながら多産な詩人は、我々が心中に抱いてはいるが、他人に心を許すとすぐ逃げて行くあの宝物をしっかりと享有している人だ。(…)しかし詩作するだけでなく、それを印刷しようとするあの熱望の目的は一体何だろう? 賞賛の幸福だけでなく、自分の魂を理解してくれるすべての魂に向かうことだ。すべての魂が絵の中で自分に再会するということが起こる。(…)画家は、それぞれ自己流に自然を見た魂たちに、更にもう一つの魂を加えることができる。これらの魂すべてが描いたものはそれ自体新しい。それをお前は更に新しく描くのだ。彼らは物を描くことによって彼らの魂を描いた。そしてお前の魂は自分の出番を要求している。(…)新しさは創造する精神の中にある。描かれた自然の中にはない。(一八二四年5月14日の日記)
ここに取り上げた書簡や日記は、ドラクロアの二十代前期から中期に書かれたものである。
何かを追い求める者にとって現実は絶えず空虚だ。親しい友と語り合うときに感じる幸福も一つ
に過ぎない。真の芸術家は「永遠」を求めているのだ。この世界とは別の世界ではなく、この世界に奪い取るためにカンバスに描き現在化しようとする。このドラクロアの内的葛藤をボードレールはその色彩に見る。「主題」に画家の魂は深く感応する。詩人と同様に自分の魂を理解してくれる他者の魂に出会うことを熱望する。このころドラクロアは「キオス島の虐殺」や「サルダナパールの死」をサロンに出品するが不評を買う。片山氏によると、一八三〇年の七月革命に共
鳴したドラクロアは「民衆を導く自由の女神」を描き、革命的理想主義の勝利を象徴的に描いたという。一八三〇年、モロッコと友好関係を結ぶためフランスは使節団を送ったのであるが、ドラクロアは一員として同行した。イスラム文化圏に触れた彼は、「夜と霧の世界の知的夢想家」ではなく、「古代の理想を、生きた現実の中で体験した」と片山氏はいう。
栄光はここでは無意味な言葉です。ここではすべてが甘美な無為に行きつきます。ここではこれがこの世で最も望ましい状態なのです。美は街路を走っています。絵画というより絵を描こうなどと考えるが愚かに見えます。ここではもっと単純でもっと原始的な何かがあります。(…)私は今はギリシャ人やローマ人を直接知っています。ギリシャの大理石は真実そのものです。しかしそれを読みとれなければなりません。哀れな現代人たちはそこに象形文字しか見なかったのです。(一八三二年6月4日批評、批評家ジャルへの書簡より)
モロッコ体験で得たそれらは「アルジェの女たち」などの絵画に反映される。ドラクロアは大変な読書家であったが、音楽的才能にもたけていたと片山氏は叙述している。
ドラクロア論から確立したボードレールの詩学
ボードレールは『ウージェーヌ・ドラクロアの作品と生涯』という論文を一八六三年に公表する。それまでの美術批評の総決算として、ドラクロアの死後に書かれたものであるが、以前の自分の批評をたびたび引用しながら論じている。そこからドラクロアから導き出された詩学を考えてみよう。まず「ドラクロアの役割と義務」とは何であったのかを問う。ルーベンス、ラファエロ、ヴェロネーゼ、ルブラン、ダヴィッドという錚々たる画家たちの系列にドラクロアを取り上げる。彼らに共通するものは、普遍的なものに対する愛であると指摘する。さらにほかの画家たちが不完全にしか表出しなかったものを、ドラクロアは表現したという。そしてそれは一個の犠牲を代価として獲得したものであるが、ほかの画家よりよく表出したものとは何か。それは熟練した画家の完璧さはもとより、ドラクロアには「文学者の厳格さ」、「情熱的な音楽家の雄弁」をもって表現したのだという。つまりそれぞれの芸術が相互に力を貸し与えて」「新たな力を獲得したのだという。実際、ドラクロアは熱心な読書家であり、音楽に深い造詣があったことは先述した通りである。過去に埋もれた詩的な感情と思念を記憶に呼び戻す画家だとボードレールは述べる。輪郭と色彩によって、「創造者の魂の状態」を表現することに成功し、画家たちより文学者たちに共感を呼び寄せたとボードレールはいう。芸術家たちの知的水準が低下した当代の芸術家の間に哲学者、詩人、学者を探し求めることは不当であると訴えている。ボードレールはドラクロアの、ゲーテにも匹敵する「あらゆる種類の才能」、つまり総合力を絶賛しているのである。ドラクロアは「教養の人だった」のであり、職人に過ぎないほかの当時の芸術家を非難している。
ボードレールはドラクロアの「果てしない情熱」を目に見える仕方をきわめて冷静に探し求めた画家だという。「恐るべき意志に裏打ちされた果てしのない情熱」を指摘した。ドラクロアにとって想像力は最も重要な能力」であったが、想像力の「性急な気まぐれ」を追っていく「迅速な技巧」を制御する能力を持っていたという。それらを表現する手段、色彩に関する絵の具の質の探求は科学に対する彼の好奇心をあおり、その点でレオナルド・ダヴィンチにも似ていたという。
私はかつて、ドラクロアのパレットほど細心に注意をもって精妙に準備されたものを、見たことがありません。それは、巧みな技をもって配合された花束に似ていました。(ボードレール『ウジューヌ・ドラクロアの作品と生涯』)
絵の具の質に対する絶え間ない探求は全体的調和という原則に対して必要であり、一定の距離から眺められたとき、自然に溶けあるものだとボードレールはいう。小林秀雄は『近代絵画』において、「近代絵画の運動とは、扱う主題の権威や強制から逃れて、いかにして絵画の自主性あるいは独立性を作り創り出そうかという烈しい工夫の歴史を言う」と述べている。それは文化的活動の形式と領域が分離する近代社会の反映であり、近代絵画だけでなく、近代詩でも同じだ。ボードレールは、当時の詩人、ユーゴーやラマルティーヌに人々は関心の目を向けていたが、漠然と詩について曖昧な関心しか寄せていなかったという。散文と詩の混合を平気で許しているが、詩とは本来何を目指して創られるべきかの根本的な明察が欠けているからだと考え、彼は詩の固有な魅力があるはずで、そのために言葉を極めようとしたと小林秀雄はいう。ドラクロアにとってはそれは色彩の調和であろう。目に見える世界は、想像力によって相対的な位置と価値を付与されるイマージュや記号に過ぎず、想像力が消化し変形する飼料なのであるが、人間の魂のあらゆる能力は想像力に従属させられなければならないとボードレールはいう。物をあるがままに表象するレアリストと自ら名乗る芸術家と、物たちを自分の精神で輝かせ、その反映を他の精神たちの上に投影させたいと願う想像力豊かな人がいると彼はいう。ドラクロアは後者の人で、彼の想像力は、霊柩台のまわりの燈明のように熱く燃え、情熱のうちにある苦痛のすべてが、彼を熱中させる、宗教の困難な高みによじ登ることさえ恐れないほどであると指摘する。
先述した小林秀雄によると、「このパレットの上の大理論家は、又、深い文学的教養を持ったペシミストであった、彼の思想は、人間の永久に変わる事のない残酷な野蛮な性質の上を絶えずさまよっていた様だ」というが、これはボードレールがドラクロアに感知したもので、ボードレール自身にも当てはまるものである。さらに小林秀雄は、「詩魂の光が、通念の約束によって形作られている、凡ての対象を破壊してしまう事が、先ず必要である、とボードレールは信じたと言える」という。ボードレールは、「ロマン派芸術が、芸術家の社会的孤立と反逆との上にしか咲かない花である事を、はっきり意識していた」と書き添えている。
ゴーチェとボードレール
片山氏の『ボードレールの美術批評』によると、ユゴー、ラマルチーヌのロマン派第一世代は詩の宗教や政治との合一を求め、ゴーチェの第二世代は美を宗教や政治と分離する芸術至上主義に傾いていったのだと指摘する。したがってゴーチェの美術批評には「美の絶対性」と「内的小宇宙」への信仰がある、と片山氏はいう。ゴーチェはボードレールよりも十歳年上で、ボードレールが文学に関心を寄せるころ、ゴーチェはすでに詩人批評家であり、ゴーチェを経由してボードレールは文学より絵画に、ユゴーよりドラクロアに心を奪われていたと、若き日の親友プラハロンは語る。片山氏によると、当時アングルのデッサン至上主義とドラクロアの色彩革命は論争を引き起こしていたが、ゴーチェは一方に与することなく、両者の立場を明快に解き明かしているという。一八五〇年にゴーチェは雑誌「芸術家」で、「芸術のための芸術」を展開する。「美」は精神のいくつかの道が到達する共通の頂点である。詩人は先と色と音の巧妙で調和のとれた複雑な組み合わせによって、情熱・思索・科学・幻想のすべての資源によって「美」を実現させねばならぬ」と述べている。一八五九年の。「芸術家」に掲載したボードレールの「テオフィル・ゴーチェ」では次のような文章が書かれている。文学の世界に「ディレッタンティズム」が現れた。「真」は科学の基礎と目的になるもので、純粋な知性が求められる。「善」は道徳的探求の基礎と目的をなし、「美」は「趣味」が唯一の野心であり、唯一の目的である。ボードレールはこの論文を出版しようと計画し、ユゴーに序文を頼む。ボードレールはユゴーから返事をもらい、それをもとにして序文にした。二年前にはボードレールは『悪の華』をゴーチェに捧げる。それは「完璧なる詩人、フランス文学の完全な魔術師、わが敬愛する師にして友、テオフィル・ゴーチェに、深甚なる謙遜の念をこめてこの病める花々を捧ぐ。C.B.」(片山氏訳)というものであった。ボードレールがユゴーやゴーチェの名声を自身を世に送り出すため方策としていたとしか私には考えられない。ボードレールの死後五十年に、アンドレ・ジイドは次のような文章を述べている。「溢れんばかり感動と音楽と思想を湛えたこの盃を、フランス文学が生み出した最も無味乾燥な、最も非音楽的な、最も無思想な職人にさし出すとは。」さらにジイドは、講演で「この無知、外界だけを見ようとするこの決心、というよりは外界以外のすべてのものに対するこの盲目性」とゴーチェに手厳しい批判を投げかけた。ゴーチェは生前、ボードレールよりずっと評価されていたが、のちの象徴派の詩人たちの間でボードレールの評価は高まるばかりであった。ゴーチェの「芸術のための芸術」の理論とボードレールの理論の間には越えられない深淵があったという、エルネスト・レイノオのような人も現れた。彼は、「ボードレールは見者である。物の形の下に彼はその意味と存在理由を探求する。彼は現象と永遠を結ぶ関連性を見る。彼は神秘な照応(correspondance)を発見するのだ。二人の資質は火と水のように相容れない」と指摘した。「ボードレールはゴーチェに対して真摯な称賛の念を抱いていた。ゴーチェは本当にボードレールに影響を与えた。ゴーチェもボードレールも造形的である。ボードレールの詩的位置は、造形が音楽と合体して、絵画と音楽との等距離のところに新しい言語、本質的な詩的言語を創造する地点にある」と指摘するアンリ・デリューという人もいた。片山氏は、「詩と絵画を通して、お互いに友情を育てた二人の傑出した詩人は、それぞれ違った方向に進み、ボードレールは師事し兄事した先輩のゴーチェを遥かに超えて、近代詩を代表する存在になった」という。ゴーチェの美術批評によってドラクロアの美学に開眼し、ゴーチェの「芸術の転移」の方法に学び批評家として育っていったと指摘する。ボードレールとゴーチェの差異はいかなるものか。芸術の深遠を超えて現実世界に帰還し変革する文学と、芸術に埋没しつづける文学との相違ではないだろうかと私は思う。文学と、本当の意味での哲学と交差する地点にまでボードレールは詩を称揚したのである。ミシェル・フーコーの指摘する「生存の技法」と、「キュニコス派」の十九世紀的継承と深く関連づけて考えることができるであろう。 (次回に続く)
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