ヒーメロス通信


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長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十九)その1小林稔・詩誌「ヒーメロス」27号掲載

2014年09月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十九)

小林 稔

 

 

 

47 来るべき詩への視座

 

  

ボードレールにおける詩人像(二)

 

 ボードレールの強度

ロマン派の第一世代のジェラール・ド・ネルヴァルからボードレールに引き継がれたもの、そして時を隔て二十世紀初頭にプルーストによって、さらに探求されたものが見えてくるのだが、そのものとは集約していえば、ポエジーの正体(本質)と呼ぶべきものではないかと私は思う。小説と詩の形式の違いを超えて、あるいは異常接近して行われた文学現象であるそれは、ヴァルター・ベンヤミンの批評の根底を形成する「アウラ」の概念と交錯する点であろう。

 

アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な表れである。安らかな夏の午後、地平に連なる山並みを、あるいは安らかにしている者に影を落としている木枝を、目で追うこと――これが、山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである。(ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』一九三六年)

 

ネット批評、道籏泰三『ベンヤミンにおける「アウラ」の展開』(一九九一年京都大学紀要)によると、アウラには否定的なものと肯定的なものがある。前者の近代科学文明によって弱体化した経験(すなわち「アウラ」)は、科学技術の進展による新しい知覚において「悪しきアウラ」を生み出し、ファシズムに与するほどに変貌したが、人間から「アウラ」を締め出すことは不可能である。過去の遺物から何かを経験することはやめて、「アレゴリー」の概念で「アウラ」を「廃墟」に導き、そこから立ち上がる「アウラ」をベンヤミンは求めていったのだという。本来、アウラは芸術のすべてにつきまとう属性のようなものである。否定的な側面を持つアウラは、「集団ないし伝統の圏域にあって何らかの事物、事象が人間を強烈な力でもって集団的に呪縛する場合」に成立するものであり、肯定的な側面を持つアウラは、「個人としての人間が今というこの一瞬の時点において、自らの存在の内側から何らかの事物、事象と強い結びつき持ち始める場合」に成立するものであるという。そしてベンヤミンの志向の根底にあったのは、後者のアウラによって前者の「フェティッシュとしてのアウラ」を紛糾しようとすることであったと道籏氏は分析する。そして後者の「流動するアウラ」で前者の「フェティツシュとしての神話的アウラ」を脱構築するものがベンヤミンにとって、「破壊と創出の同時的生起を生命とするアレゴリーであった」と主張する。アウラとは私にとってポエジーと代置できる概念であり、私の「来るべき詩学」を構成する場合の重要なテーゼとして深く考慮すべきものであるが、それだけで別の論考を必要とするので、取りあえずここではベンヤミンのボードレール論の領域に限定して述べておこう。

 

さて先回に引き続き、ゴーチェとボードレールの差異はどこにあるかを明確にしなければならない。ロマン派の第二世代であるゴーチェの提唱した「芸術のための芸術」にボードレールが共鳴し、『ゴーチェ論』(一八五九年)において、文学の世界に「ディレッタンティシズム」(趣味性)が現れたと主張した事実がある。しかし、もしもボードレールの詩の行為が「ディレッタンティシズム」に終わっていたら、後世に残した遺産はわずかであったであろう。

 書かれたものはエクリチュールとしていかようにも読まれうるものであるが、作者の一義的に意図されたものを考えたとき、文学と主体との関わりはずいぶん違ったものに見えてくる。今問題になる「ディレッタンティシズム」を趣味性の範疇におく限り、『悪の花』はその埒外にあると考えられる。『美』は『真』や『善』と、かつてはプラトンの著作において強く結びつけられた哲学的思考であったが、ロマンティシズムにおいては、内面性の探求は『美』への憧憬のみに牽引されていたのである。プラトン哲学は絶えず政治と隣接していたように、真のロマンティシズムを自称するボードレールの詩学は、「芸術のための芸術」と深く関与しながらも、政治と社会現実から視線をそらさずにいた。「進歩のための芸術」を唱えるユゴーを、ボードレールが『ユゴーの「レ・ミゼラブル」書評』で、ユゴーを隣人愛のモラリストと呼んで遠ざけた。ゴーチェのようにディレッタンティストでもなく、ユゴーのように社会派でもないことを自覚していたボードレールは、詩作が己の生存と深く関わっていた。詩を政治と芸術から切り離し、詩人としての実存的立場から現実に向かって衝撃を与えていったと言えるであろう。

 あらゆるエクリチュールは、自分の、あるいは他者の生存に影響を及ぼす可能性はある。しかし強度において、ネルヴァル、ボードレール、プルーストには、同時代のほかの作家と比べて、文学と人生の時間との、のっぴきならない挌闘が歴然としている。ポエジーを獲得するためにあらゆる代価を厭わない激しさがある。言い換えるなら、彼らにとって元来、文学が自己変革のためにあるのだと思わせるものがあるということだ。ランボーには「私とは他者である」と言い切れるまでに徹底的に追求した「生の変革」というべき「見者の詩法」があった。読み物に堕した文学、「商品」として扱われる文学を否定したものであったとさえ思われる。そうした行為を貫徹させたものとは、ポエジーへの全幅の信頼にあったのではないだろうか。

 

 扇動者の形而上学

 ベンヤミンは、マルクスの『新ライン新聞政治経済評論』(一八五〇年)に記された陰謀家たちの相貌に、ボードレールのそれとの類似性を見るという。マルクスによれば、プロレタリア秘密組織の形成にともない、ふだんの仕事の片手間に陰謀にかかわる臨時の陰謀家とプロフェッショナルな陰謀家に分類されているが、不安定な生活を送り不規則で、安酒場が陰謀家たちの密会の場所になっていて、いろいろないかがわしい人たち(マルクスがいう「フランス人がラ・ボエームと呼んでいる曖昧な、ばらばらな、浮き草のような大衆ばかり」)ボヘミアンたちとの交流を持たざるを得ない生活環境に組み込まれていったという。ナポレオン自身がそのような環境から成り上がった人で、秘密主義、突然の攻撃などが第二帝政の国是をなしていたとベンヤミンは、『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』で述べている。「一八四六年のサロン」という美術批評を「ブルジョワに捧げる」と記したかと思えば、後にはボヘミアンの口調で罵倒する。また芸術の有効性を述べた数年後には、純粋芸術(芸術のための芸術)を主張したりしたと指摘する。

「ぼくが革命ばんざい!というのは、破壊ばんざい! 懲罰ばんざい! 死ばんざい!と仮にいうのと、同じことなのだ。---(中略)---ぼくたちはみな、骨のなかに梅毒菌をもつように、血のなかに共和精神をもっている。ぼくたちはデモクラシーと梅毒に感染しているのだ。」(ベルギーについての草稿メモ)ベンヤミンはこのような考えを、扇動家の形而上学と呼べるかも知れず、「ボードレールのなかには、マルクスが陰謀家たちに見いだしているテロリスト的な願望夢にさえ、対応するものがある。」と述べている。また、「以前に幾度かもったことのある緊張感とエネルギーを、再発見することがあるとしたら、恐怖をひきおこす書物を書いて、ぼくの怒りを発散させることでしょう。ぼくは人類の全体を敵にまわしたい。それはぼくには、いっさいを埋め合わせてくれるほどの快楽となるでしょう。」と書かれた、一八六互年一二月二三日の母宛の手紙をベンヤミンは引用し、『悪の花』の最後におかれるはずだった断片、「砦にまで高くそびえたつ魔術的な舗石」から「陰謀家運動の原点であるバリケード」を思い起こし、この「魔術的」なパトスは、ブランキシズムに負うものかもしれないと述べている。マルクスが、「革命的共産主義者」と称揚したルイ・オーギュスト・ブランキは武装した秘密結社「季節協会」を結成。一八四八年に二月革命に参加して国会に乱入し逮捕された。「レーニン以前には、誰も、プロレタリアートのなかに、ブランキ以上に明確な相貌を残したひとはいない」とベンヤミンはいう。

 ボードレールは、しかしながらたんなる革命家ではなくテロリストでもなく、精神の革命家というべき詩人なのである。政治を変え世界を変えるには、先ず自分を変革しなければならない。

 

 至高なる力の命じるところによって

 「詩人」がこの陰鬱なる世に現れたとき

 母親は不安に慄き、呪詛の言葉を胸に留め、

 憐れみを与えたまう神に向かって、拳を握りしめる。

 

 ――「ああ! まったく、なぜ私は蝮らの一塊を産み落とさなかったのか、

 こんな嘲笑の種を養い育てることになるくらいなら!

 夜よ、呪われてあれ! 仮初の快楽に

 私の胎内に呼気を宿したあの夜。

(『悪の花』の「憂鬱と理想」の冒頭の詩「祝福」の、最初の一、二連の筆者の拙訳。)

 

詩人が疎まれるのはいつの世も同じである。第二連以降、「詩人」を宿して、「陰鬱なる」この世に生を誕生させた母親の嘆きがつづく。ボードレールの詩人像が色濃く反映した詩と言えよう。

プラトンの対話篇『パイドロス』に描かれたように、人間はかつて神々の住む天上界にいて、神々の行進に従っていたが、「欲望」の馬と「理性」の馬の二頭立ての馬車の操縦を誤り、地上に落ちたとされるダイモーンの種族であり、この地上にて「美」を目の当たりにするとき、「エロース」の情動に捥がれた羽根の付け根である肩甲骨が疼くのを感じ望郷の念に駆られるゆえ、「詩人」とはそれを強く意識し、その末裔であるという思いをメタファーに持つ人間ではないだろうか。

 ポエジーは、限りなく遠い彼方から、「私」のいる日常世界に、恩寵のように足許に降りてくる。この世に亀裂を与えるものとして到来するのは、一種のインスピレーションとして言葉を

獲得することから始まり、日常言語の分節を引き離して深層言語を見出さんためである。このように、詩はプラトンの描いて見せたイデア世界と深くつながれている。『悪の花』の最初の詩篇群にボードレールが「憂鬱とイデー(理想)」と命名したのは示唆的である。ボードレールは、後に彼の詩からインスパイアされ、純粋言語の世界に執着し現実世界に事物の本質を見なかったマラルメとは違い、この世の神性を奪われた事象にどっぷりと浸かり悪を振りかざしていくのだ。

 

 なぜなら、主よ、それは真により良き証ゆえに、

 われわれが自らの尊厳を自らに与えるという証。

 時代は次々にめくり、われわれの熱烈なむせび泣きは

 やがて死に絶えることになるという証、そなたの岸辺で!

                   (『悪の花』「灯台」最終連の拙訳)

 

 ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家たちの描き出したのは人間の悪なのだ。「これらの讃歌(呪い、冒瀆、嘆き、法悦、叫び、涙)は千の迷宮を潜り抜けて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」と言い、人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」、「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。芸術家が描き出す人間の悪は「われわれが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺で」死すべき人間の証だと神にささやくのである。ここにはもう「エロース」の羽ばたきはなく、プラトン哲学を咀嚼したキリスト教の神学が、ダイモーンを祖とする「堕天使」の叫びが反響しているとみてよい。だが、ボードレールにはランボーのような、人間を救い出そうとするプロメテウス的使命はないだろう。

 

 「祝福されてあれ、苦しみをお与え給いし私の神よ、

 われらの穢れを癒す神聖なる薬のように、

 そしてまた強き者たちを神聖なる逸楽に導く

 より良き、より純粋なる神髄のように!

 

 私は知っております、苦しみこそが高貴さであり

 この世も冥界も決してそれに噛みつくことができぬことを、

 すべての時代とすべての世界に代価を果たさねばならぬことを、

 私の神秘の王冠を編むために。

                         (『悪の花』「祝福」第十五連、十七連の拙訳)

 

 かくしてボードレールは、詩人としての使命を、passion(受難)の上におき、人類の悪を引き受けて十字架に磔になったキリストに自らをなぞらえるが、身の潔白を明かす者としてではなく、悪を具現することにより、自ら悪そのものになることによって浄化していこうとするかのように! ボードレールの悪に向かう激しさは、「照応」や他の詩篇、この「祝福」で時折見せる太古の無垢な精神の「健康」に一方で支えられているように思えてくる。また、この詩の「詩人」そのものが、ジャン・ジュネの存在を予告するものとも思える。「創造者は、彼の創造したものたちが冒す危険をとことんまで自分自身に引き受けるという恐ろしい冒険に身を投げ入れたのだ。(中略)創造者は彼の人物たちの罪の重さを自ら背負うだろう。イエスは人間となった。彼は贖罪する。神と同じく、彼は人間たちを創った後、彼らをその罪から解放するのである。―-―彼は鞭打たれ、顔に唾され、嘲弄され、釘づけにされる。」(ジャン・ジュネ『泥棒日記』)

 

右に引用した「祝福」第十七連とそれにつづく第十八連に出てくる「王冠」とは何の象徴なのであろうか。「私の神秘の王冠」、「眩いばかりに澄んだ美しい王冠」と形容されている。「すべての時代とすべての世界に代価(代償)を課せねばならぬこと」を「詩人」である私が知っているという「編まれる」べき「王冠」とは、「永遠なるもの」の徴(すなわちイデア界に到達しようとする仰望の形象化ではないだろうか。最終十九連では、「王冠」は「原初の光線の聖なる源から汲まれた、純粋な光でしか作られない」という。それは『悪の花』の詩篇「照応」で表された「象徴の森」に建つ、「香りと色と響き」が「応え合う」「神殿」と称える「自然」と、イデア界への憧憬から、ポエジーが舞い降りてきた根源へ遡行しようとする、ミューズの神々に吹き込まれた「詩人」の精神の羽ばたきが織りなす「詩の勝利」の謂いであろう。

 

 その想いは、雲雀のように、朝、天空に向かって

 自由な飛翔をとげる者たちに幸いあれ、

――人生の上を飛び、苦もなく解き明かす者たち

花々と黙り込んだ物たちの言葉を!

               (『悪の花』「高翔」の最終連の拙訳)

 

 だが、彼は天上の花々と対照をなすこの世(冥府)のそれらに身を引き裂かれ、トポス(場所)としての縦軸とクロノス(時間)としての横軸の交差する地点に居座り、「おおよ! 時は来た! 錨を挙げよう!」(『悪の花』「旅」)と叫びつづけている。

 

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