ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

マルクス・アウレリウス論 小林稔個人詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月29日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

エセー
「自己への配慮」と詩人像(四)
小林 稔


13 主体の移動と神との本性の共有

 後期ストア派のもう一人の重要人物、マルクス・アウレリウスの考察を始めるまえに、デカルト以降の真理に対するかかわりの相違、他者および自己の救済と、前章で取り上げたセネカの思想を要約してみよう。そうすることによってマルクスの独自性が鮮明になると思えるからである。
 プラトン以来、真理の到達にいかなる代価を私は支払うことになるかという問題が提示されたとフーコーはいう。主体そのものには真理を受け入れる能力がない。したがって「操作、変容、修正」を自らに課し実践することで真理を獲得することができる。立ち返り(コンベルシオン)が問題になるのである。つまり「存在様式を変えなければ真理に到達することはできない」ということである。真理の概念において、「真理に到達するということは存在そのものに到達することであり、到達した存在そのものが同時に、その反作用として、それに到達した者の変容の動因となるような到達」であると考えることができる。このことをフーコーは、プラトン的な循環、あるいは新プラトン主義的な循環と呼んでいる。しかし、デカルトやカントによって、「明証性の糸を常に辿りつつこれをけっして手放さず真っ直ぐに考えさえすれば真理を受け入れることができる。主体が自らを変容させなくてはならないのではないと考えるようになった」とフーコーはいう。主体が認識において真理に到達できるという確信である。このようにして「真理への到達のための霊性という条件が一掃された」と述べ
ている。デカルト的なタイプの認識、つまり対象の認識という概念が真理への到達という概念に置き換えられてしまったのである。
 プラトンの、思春期における自己への配慮の主張が、老いるための自己への配慮に変わった結果、自己への配慮の目的や目標が問われるようになった。「どのような点で私たちは救われるのか」という問題提示が始まり、「医術と自己の実践の関係」が、自らの救済につながるとフーコーはいう。本来、万人に向けられた哲学者たちの呼びかけであったが、実際には少数の者にしか実現しえない呼び
かけであったのである。それは階級的な分割ではなく、自己を受け入れる能力のある者とない者との分割であるという。この呼びかけの普遍と救済の希少を持つ形式は、自己の陶冶を生み出し、紀元一、二世紀に大きな広がりをみせたという。もはや自己の実践は教育と距離を置くようになり、人生と一体になる。ここで見られる救済という概念は、後にキリスト教に引き継がれる宗教的な思考でなく、「他者に対する関係の問題」であるという。プラトンにおいて自己へ配慮するのは他者たちの面倒を見る必要があるからであった、つまり、「都市の救済の方が個人の救済を、その帰結として包含していた」のである。しかし、ヘレニズム、ローマ期においては、自己のために自己の救済をしなければならず、他者たちの救済は付随する報いのようなものだという。フーコーは、エピクロス派の友愛、エピクテロスの自己と他者の関係を論じて興味深いが、先を急ぐためにここでは割愛しよう。
 さて、セネカに戻る。セネカは職業哲学者であった。プラトンの場合のように知恵に到達してしまっている師としてではなく、セネカにおいては「自己の実践が社会的な実践と結び合うようになった」という。ネロの家庭教師をしたとも言われている。政治的活動にも多く関与している。セネカが忠告を与えた人は、彼と党友関係にあった人である。エピクテトスなどの哲学教師とは異なっていたようである。セネカには、「退く主体、世界の最高峰まで、世界の頂点まで退く主体の形象」が表れているとフーコーは指摘する。世界の頂点から世界を俯瞰するのである。「自然のもっとも内密の秘密にまで分け入らせ、同時に彼が存在している空間のわずかな一点、彼が存在している時間のわずかな一瞬を見る。まず自分自身から離脱しなければならない。悪徳や欠点から引き離す。闇の地上から光のやって来る天上へ哲学が導いてくれる。「主体自身の運動」である。自分自身からの逃亡、つまり労働の報酬にまつわる価値からの解放、自分自身に対する隷属から自由になることを述べ、自然研究がそれを保証するという。前の章で取り上げたが、哲学の形式の一つに「神を見る」ことがある。人間に関する哲学と神々に関する哲学のうちの後者であるは、光がやって来る地点で「神との本性の共有」へと至る。そして「神が世界に対してなしていることを、人間理性は人間に対してなさなければならないということになる。神の理性を授かった私たちは、そのとき初めて地上に目を向けることができるのである。そのとき「現実の生存を正確に測る」ことができ、自己を観照することができるとセネカは考える。セネカにおいては、天上への自己の後退と神々から理性を与えられ「徳ある魂」を持つ霊的な運動を条件とし、視線は自分自身や私たちの住む世界からそらされることはなく、自由が得られるということであるとフーコーはいう。

14 マルクス=フロント往復書簡から知れること

 プラトンの『アルキビアデス』に見られる自己への配慮の主題がヘレニズム・ローマ期には自己の陶冶に拡大されていったとき、いくつかの顕著な点が確認できる。まず大きな転換は、自己の実践が教育上の問題ではなくなったことである。プラトンのテキストでは、教育は恋愛的な師弟関係で実践されたが、この時期には少年愛は影を薄める。自己への配慮すべき時期が、思春期の終わりから、人生全般になったことと関係する。また他者を統治するために自己への配慮があったが、まず自己自身
のために自己へ配慮することが重要になる。したがって「自己に立ち返る」という表現が多く現れるようになったのである。そのことに関連して、政治的な活動との関係は打ち切られることになる。
セネカのときにも述べたが、たんに今ある自己に戻るのではなく、一度自己を退却すべきであるこ
とが言われ、セネカの場合は天上にまで昇りつめ、神性を共有し、視線を地上の自己に向けるが、これから述べるマルクス・アウレリウスの場合も自己からの退却が問題になる。しかし退却の形式は異なっている。詳しくは後ほど述べることにして、フーコーの言うように、マルクスは自己の自己への関係において、その最高権力の行使の法と原理とを見出す。一方、フロントという人物とマルクス・アウレリウスの往復書簡というものがあり、そこから知れることは、先述した内容に反し、師弟間の恋愛感情が見られるので、マルクスの場合はむしろ例外と考えるべきである。
マルクス・アウレリウスの生涯については、彼の著書『自省録』岩波文庫本の翻訳者、神谷美恵子氏の解説が最後に載っているので詳細は省略する。神谷氏も言うように、マルクス・アウレリウスは、プラトンが理想とした哲学者にして政治家であり、歴史上ただ一度限りのことであった。小説『ハドリアヌス帝の回想』の書き出しは、「いとしいマルクよ」という呼びかけで始まる。このマルクとはマルクス・アウレリウスのことであり、ハドリアヌス帝がマルクスに語る形式をとって書かれた、マルグリット・ユルスナール女史の、史実と虚構をちりばめた歴史小説でも知られている。
この論考に関係する範囲で彼の人となりを書き加えてみよう。マルクスは西暦一二一年の生まれで、皇帝ハドリアヌスから少年時代に寵愛を受けていたという。祖父がローマ総督の職についていたことや、マルクス自身、優れた資質を持っていたことが皇帝の目をひいたようである。八歳のとき父が死んだ。当時の社会で隆盛だったストア派の哲学に傾倒し生涯を自己の実践に励んだ。彼が十七歳のときハドリアヌス帝は死に、アントニヌスが皇帝の遺志で皇帝に即位したが、これも皇帝ハドリアヌスの遺志でマルクスとルキウスの二人を養子に迎え、マルクスにカエサルの称号を与えた。アントニヌスの死後、元老院はマルクスを皇帝に迎えようとしたが、マルクスは義弟のルキウスの二人で位に着くことを望んだ。怠惰で享楽好きのルキウスであったが、マルクスとの友情は続いた。後にルキウスは病に倒れ死ぬ。マルクスが十八歳から二十歳の間、雄弁術教師で、マルクスの先生、彼より少し年長のフロント(岩波文庫本ではフロントーとなっている。その他の人名表記もフーコーのコレージュ・ド・フランスの講義『主体の解釈学』の廣瀬浩司/原和之氏訳に準ずる)という人物との交流の様子が、二人の往復書簡集にうかがい知ることができるとフーコーはいう。フロントは哲学の師ではない。手紙の中でも言葉の表現について指摘していることからもわかるという。フーコーは、実際はこの書簡は愛情関係が支えになっていると指摘する。「私は自分の健康や身体的快適を犠牲にしてでも、今以上にさらに恋い焦がれ、そしていらっしゃらないのを残念に思いたいと思います。お元気で、親愛なるフロントよ。我が愛にして我が歓びたる君よ。お慕い申し上げます」。(マルクスからフロントに宛てた手紙の一部)。別れ別れになって相手がいないことを悲しみ、口づけを送りあっているが、性的関係にあったと考えるべきではないとフーコーは明言する。師との愛情の関係のもとにあるそれらの内容を検討すると、目覚めから就寝にいたる、たんに一日の細々した出来事を物語るものであるということがわかる。
 『自省録』の訳者、神谷氏によると、マルクスは読書と瞑想に耽ることがなにより好きな内向的な人であった。また、アテーナイの、修辞学や哲学の講座に奨励金を与えたり、新たにプラトン学派、アリストテレス学派、ストア学派、エピクロス学派を創設したという。手紙から知れる事柄をフーコーは解釈する。「これは結局、一日の物語をとおして語られた、自己の物語」なのだという。「うちに戻って、横向きになって寝る前に、私は自分の務めを思い返して、一緒におられないのが残念な私の先生に説明申し上げました」。(マルクスからフロントに宛てた手紙の一部)セネカは『怒りについて』という文章で述べる内容に近いとフーコーは指摘する。「毎晩明かりを消し、妻が口を噤むと、私は瞑想にはいり一日を確認します」。「残念ながら私は昨夜この出典を見つけることができませんでしたが、たいしたことではありません」。(『怒りについて』から抜粋)セネカは自分の生活と過去の時間の巻物を、目の前にときおり広げてみる必要性を述べているのだが、それこそがマルクスが行なっていたことであるとフーコーは指摘する。「過ぎ去った一日を顧みることにより、するべきであった事柄、おこなった事柄、およびその然るべきやり方と実際に行なったやり方の比較を総括することができ、それを先生に手紙の中で説明するのだとフーコーはいう。このような誰かに一日を説明するとい
う自己実践が社会でよく行われるようになったということ、これは言語や言説一般のというより、他者との言語的な関係の新しい倫理、パレーシア(率直)という概念であるとフーコーは語る。パレーシアにつては後に詳しく述べることにする。

15 マルクス・アウレリウス(その一) 精神に現れる想念の対象をつねに定義し、記述すること 

「大ローマ帝国の皇帝という位置にあって多端な公務を忠実に果たしながら彼の心はつねに内に向かって沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた」と翻訳者、神谷氏は翻訳書の序で述べる。
皇帝であることを忘れ、普通の人間として振る舞うという条件でのみ皇帝の務めを果たすように書かれている、つまり君主としてのよき行いが、普通の人たちのよい振る舞いであるということであるとフーコーはいう。「心の底まで『皇帝』になってしまい、それに染まりきることのないように心せよ」(フーコーの引用)という文が『自省録』に見られるのである。
マルクス・アウレリウスにも霊的な知の形象が見られるが、セネカと異なり、「主体のある種の運動を規定するような形象」であり、事物を内部まで調べつくそうとする「微分的な視覚」であるとフーコーはいう。マルクスの著書『自省録』の第三章に、「すでに挙げた数々の教えに、なお別の一項目が付け加わる」とある。すでに挙げた数々の教えとは何か。フーコーは三つに要約する。一つ目は、善とは主体にとって何か。二つ目は、私たちはいつでも好きなように意見を作る自由がある。三番目は、主体にとって存在する現実の審級は一つしかない、それは瞬間である。「現在を構成する無限に小さい瞬間、その前には何ものももはや存在せず、そのあとにはすべてが不確定である。
これらの教えに付け加えるべき一項目とは何か。それは、前記の三項目を統合する霊的な「訓練のプログラム」であるとフーコーはいう。どのような訓練をマルクスが述べているのかをフーコーは解き明かしている。第一の契機にあたるのは、「精神に現れる想念の対象をつねに定義し、記述することである」(『自省録』第三章十一)。この部分の神谷氏の翻訳では、「念頭に浮かぶ対象についてかならず定義または描写を行なってみること」となっている。このような考え方はストア派によく見られる主題であり、精神に自発的に現れる思考、あるいは知覚野に落ちかかってくるかもしれないものすべて、人が送っている人生、さまざまな出会い、目に入ってくるものなど、こうしたすべてのことを機会に与えられるような表象を、与えられるがままの姿でとらえることである、つまり、「表象の無意志的な流れに意志的な注意を向けることであり、この表象の客観的な内容を決定すること」であるとフーコーは解説する。
 デカルトが知的方法を駆使して自分と区別し排除しようとしていたものがこうしたことであり、ストア派から派生し、キリスト教において実践するようになった霊的な訓練であるとフーコーはいう。マルクスは、精神が想念に現れるような対象を定義し、記述することによって、その対象を判明に「その本質において、裸の姿において、全体的に、あらゆる側面から見ること、そしてまた、対象が分解されるような諸要素の名称を自分に言うことが必要だと記述している。まず観照すること、次に全体的に把握すること、構成要素を区別することをマルクスは述べているのだ。自分に言うこととは「事物や事物の構成要素を精神に固定させるためにも、またこれらの名称から価値体系全体を再活性化するためにもきわめて重要」であるとフーコーは指摘する。
次にその名称を記憶する訓練がある。その記憶化の訓練は視線の訓練と直接に接合し、同時に行われなければならない。つまり「視線と記憶は精神の一つの運動の中でたがいに結びついていなければならないのである。精神の運動は一方では事物に視線を向け、他方ではこれらの事物の名称を記憶の中で再活性化しなければならないという。いわばこの二重の訓練で、事物の本質が全体的に繰り広げられるのである。また対象が名によって構成されているかということだけでなく、どのような条件の下で解体され、崩壊されるのかを見ることができる。
 まず定義し、記述すること、次に記憶することを考察したが、「霊的訓練」の第二段階は価値を測ることである。「人生において現れる対象のひとつひとつを、方法と真理に則って同一化できること、
また、その対象がどうような種類の宇宙に効用をもたらしうるのか、また全体と関係でどのような価値を持つのか、そして、人間との関係では、国家の中でももっとも優れた国家、他の国家はその家にすぎないような国家の市民として、それがどのような価値を持つのかを考えるために対象のひとつひとつを吟味すること、そのこと以上に魂を偉大にしてくれるものはないのだ」とマルクスは記述する。フーコーによれば、魂を偉大にするとは、束縛や隷属から解放することであり、魂の本性を知り世界の一般的理性に対する適合性をしることができ、この魂の自由は事物への無関心や心の平静さを獲得することができることであるという。
 
16 マルクス・アウレリウス(その二) 個体性の解体(事物の核心に降りていくこと)

精神は運動しているものであり、各瞬間に新たな対象が現れ、新たなイマージュが与えられるが、
それらの表象を監視し、価値を吟味したり評価したりしなければならないということである。この
ような訓練がどのように適応されているかをフーコーはさらに分析するため、三つの訓練に分類している。第一は、対象を時間において分解するという訓練。第二は、対象を構成要素に分解する訓練。第三は、価値を低下させる縮減という主題の訓練である。フーコーが引用している第一の訓練を見てみよう。
「音楽やメロディを持った歌やうっとりさせるような歌を聴くとき、そして優雅なダンスやパンクラティオン(舞踊的な体操)の動きを見るとき、それらを全体として見ないで、できるだけ非連続的で分析的な注意を向けるようにしてみたまえ。あなたの知覚において、それぞれの音がたがいに区別され、それぞれの運動がたがいに区別されてしまうほどまでに注意を向けるのだ。」(『自省録』から抜粋)とあり、その冒頭には「うっとりするような音楽、舞踊、パンクラティオンをあなたはけいべつするだろう」(フーコーの引用した文)と書かれ、末尾には「このように事物の諸部分まで到達することを忘れてはいけない。そして分析によって、それらを軽蔑するようにすることも忘れてはいけない」というエクリチュールがなされている。これらの意味するところをフーコーに導かれながらまとめてみよう。
 舞踊の美しさやメロディの魅力に心を奪われないようにしなさいということである。そのためには全体として連続的に見ないで、瞬間ごとに分解することが大切だと言っている。現在という瞬間に与えられるものだけが、主体にとって実在的だということ、ひとつひとつの音や運動は、その実在性において現れ、実在が示すことは、音は音以上ではなく、運動は運動以上のものではないということになり、何もよいものはないので、音楽から自己の統御と支配を手に入れることになるとフーコーは読み解いている。これは音楽や運動に限らず、人生全体のことに応用できるのだ。他の章に書かれている事柄にもこのことは適用されるとフーコーはいう。第六章の十五に、

  ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来たったものも部分的にはもう消えうせてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく更新する。この流れの中にあって、我々の傍らを走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍らを飛んで過ぎ行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう鹿の外に行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは各瞬間にしていることだがー―昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。(神谷氏訳)

 これは物質の還元に関することで、マルクスが言いたいことは現代の私たちには唐突に感じられることだが簡単なことである。私たちは呼吸するたびに同じ気息を放出したり吸い込んだりしているのではないということである。このことを人生に適用することが大切だと主張しているのであろう。
「私たちが私たちのアイデンティティと思っているもの、あるいはそれを適用したり求めたりしなければならないと思い込んでいるものは、私たちの連続性を保証してくれない」ことに気づくのだとフ
ーコーは述べる。事物の細部を分析し、それらは非連続的なものであることを知り軽蔑しなさいとマ
ルクスは自分を戒めているのである。(ちなみに『自省録』の題名は『TA EIS HEAUTON(自分
自身に)』であり、初めて印刷された一五五八年から踏襲されたという)。私たちがアイデンティティを見出すたった一つここと、それは徳である。「徳は分解できない」というストア派の教説であるとフーコーはいう。もう一つ、魂は時間から自由であるという教説である。つまり分解、分割できない凝集と瞬間を永遠にする魂の凝集において私たちはみずからのアイデンティティを見いだすことができるということなのだとフーコーは解読する。時間の瞬間性と非連続性から見た、実在的なものの解体の訓練の一つを、これまで引用してきたことは表わしているのである。
 次に第二の訓練は対象を構成要素に分解するという訓練だ。第六巻の十三で考えてみよう。

  肉の料理やその他の食物については、これは魚の死体であるとか、これは鳥または豚の死体であるとか、パレルノスは葡萄の房の汁であるとか、紫のふちどりをした衣は貝の血に浸した羊の毛であるとか、また交合については、これは内部の摩擦といくらかの痙攣を伴う粘液の分泌であるなどという観念を我々はいだく。このような観念は物自体に到達し、その中核を貫き、それが一体何であるかを目に見えるように判然とさせるが、ちょうどそのように君も一生を通じて行動すべきである。すなわち物事があまりにも信頼すべく見えるときにはこれを赤裸々の姿にしてとるに足らぬことを見きわめ、その〔賞賛されぬ所以のもの〕を剥ぎ取ってしまうべきである。何故ならば自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事しているつもりになり切っているときこそこれにもっともたぶらかされているのである。(神谷氏訳)

 私たちの食べているものとは動物の死体である。紫の縁取りをした衣は貝の血に浸した羊毛、つまり染料と羊毛である。交合(性交)とは、摩擦と痙攣を伴った分泌である。事物を裸にし、価値の少なさを見下ろしことを述べている。このような訓練は魅惑を剥奪することであり、見下すことで主体の自由を打ち立てることであるとフーコーは解読する。ここでも事物に対する無価値性だけでなく、人生に、私たち自身に適用せよと記述しているのだ。このことと関連してフーコーは他の章の記述を挙げている。例えば、第二章の二には次のように書かれている。「私とは何だろう、私とは何だろう。私とは肉や息なのではないか。そして、私は合理的な原理なのではないか。肉として私は何なのか。私は泥と血と骨と神経と静脈と動脈だ。息として私は各瞬間に自分の息の一部分を放出し、別の部分を吸い込む。そして合理的な原理、指導原理とは、残りのものであり、それこそ解放しなければならない。」肉、つまり物質を分解すると、泥と血と水と神経などになる。息は時間的分析によって非連続性を指摘できる。そのように分解していき最後に残るものは合理的な原理、つまり理性だけであるということを述べている。そこに私たちはアイデンティティを見出すことになる。
 第三の訓練は記述的な縮減、あるいは価値を低下させるための記述という訓練である。事物を取り巻く見かけや装飾、誘惑や恐怖を縮減するような表象を正確に記述することであるとフーコーは述べ、次のような例を挙げる。強力で傲慢な男が目の前に現れ、自分の優位を誇示し恐れさせようとしたら、その男の他のことをする時間を想像する。食事をしたり寝たりすることを。またこの男がどんな主人にさっきまで仕えていたか、そしてこれから同じ主人の下に仕えることを書くことによって事物の価値を縮減させてしまう訓練である。
 フーコーはセネカとマルクスの訓練を次のように比較する。両者とも上から下への視線があるが、セネカは、世界の頂点からなされるのに対して、マルクスは私たちが存在している場所を起点とする。セネカの問題は私たちの下に世界が展開するのを見て、自分自身を微小な大きさで知覚することであったが、マルクスの問題は価値をおとしめるような視線、縮減的でアイロニカルな視点を持つことであるという。マルクスの場合は、事物の核心を貫通し、最も特異な要素をすべて把握することによって、こうした事物に対する私たちの自由を示してくれるのである。それと同時に、このような視線は、私たち自身のアイデンティティは実はばらばらの要素で構成されているのだということを、つまり私たちの連続性は偽の統一性であるということをフーコーは解読している。私たちが理性的な主体である限りにおいて保証される統一性やアイデンティティに他ならない。私たちは世界全体を支配する理性であるような何かの一部にすぎないことに気づくのである。フーコーは、マルクスの霊的訓練は一
種の個体性の解体であると結論する。
 
17 ファウストの嘆き――「世界を一番深いところで束ねているものは何か」

「数々の夜明け……山間の洞窟のほとりをめぐり霊たちとともに漂い、緑の野にありてそなたのおぼろなる光のうちをさまよい、およそまやかしの一切から逃れて、そなたの露に身をひたして健やかにいのち甦りうるものならば!」(ゲーテ『ファウスト』第一部「夜」柴田翔訳)

セネカやマルクスの「自分自身に視線を向ける」という教えは、世界についての知と対峙するかたちではないとフーコーは注意を促してる。問題になっているのは知の様態化であると言い、その四つの特徴を挙げている。第一に、セネカの場合のように主体は宇宙の頂点に昇り、あるいはマルクスの場合のように事物の核心にまで下降することである。主体の運動が霊的な知にとって不可欠であると
いうことである。第二に、主体の移動によって、事物の実在性と価値を同時に把握できる可能性があるということである。価値とは世界のおける位置、と関係と固有な大きさのことであり、また自由な主体としての人間主体に対する関係や重要性や実在的な力のことであるという。第三に、主体はこ
の霊的な知で自分の現実の姿を捉えることができなければならない。主体は自分の存在の真理において、自分を見なければならないということである。第四に、主体はこうした知でみずからの自由を発見するだけでなく、幸福と可能な限りでの完璧さという存在様式を見出し、知の効果を確実にすることができるということである。主体の移動、コスモスにおける実在性によって事物を価値評価するこ
と、主体が自分自身を見る可能性、知の効果による主体の存在様式の変容、これらの条件を含む知こそが霊的な知を構成しているのではないかとフーコーは提言する。このような霊的知がやがて十六世紀から十七世紀に認識的な知に変貌していき、デカルト、パスカル、スピノザを検討すればその変容を確認できるだろうとフーコーは述べる。十六世紀から十八世紀の間の認識的な知と霊的な知の関係を問題のありかたを示す人物として、フーコーは、ファウストという人物像を挙げている。クリストファー・マーロウやレッシング、ゲーテとそれぞれの見方でファウストを捉えているが、ゲーテの『ファウスト』の第一部の冒頭にある独白を読むとき、そこに書かれているのは、「啓蒙の出現とともに消える霊的な知に対する郷愁の最後の表明であり、認識的な知の誕生へのもの悲しい挨拶なのだ」とフーコーはいう。フーコーは、セネカやマルクスの自己への回帰と世界についての知をマテーシスという観点から述べた後、アスケース(自己の自己に対する訓練としての修練)とはどのような実践なのかを展開する。マテーシスとはギリシア語で学び習得することを意味する言葉であり、アスケーシスとは実践の教義を意味する言葉である。ピュタゴラスやプラトンにも見られる古い概念である。

18 霊性の格闘家としての賢者

ムソニウス・ルフスというローマのストア哲学者に「アスケースについて」という作品がある。その中で、徳を医術の知識や音楽の知識を得るように手に入れるにはどうすればよいかを論じている。徳の獲得には二つの前提があるという。一つは観照的な知であり、二つ目は実践的な知である。実践的な知は訓練によってのみ得られると考える。先ほど述べたように古いテクストにすでに見られるが、紀元一、二世紀には自己陶冶や自己実践が大きな規模と豊かな形式を持つようになったとフーコーは
いう。
 フーコーが注意を喚起しているのは、アスケーシスは法への従属の結果ではなく、主体を真理に結びつける真実の実践だということである。「私たちは主体と認識の関係の問題を、客観化は可能か名度というかたちで立ててしまう」が、ヘレニズムと古代ローマ時代はそのようなことはく、主体と世界認識の関係で問題になるのは、「世界を主体的に霊的に様態化すること」であるとフーコーはいう。つまり世界についての知が、主体の経験や救済に霊的な形式や価値を持つということである。

 現代の私たちの思考範疇では、実践の次元における主体の問題は、法への関係で考えてしまいがち
であるが、古代ギリシアやヘレニズム・ローマ時代にはそれからはなれて考えられたとフーコーはいう。「認識の領域において主体を客観化することができるか」と近代人が考えるところを、古代ギリシア・ローマ人は、「主体の霊的な経験としての世界知の構成」を考えてしまうのだとフーコーは説明する。フーコーがここでいう「法への従属」の法は広い意味で、いかに客観的に認識すべきかという範疇で使っているのであろう。「真を語り、実践し、行使する限りにおいて、主体があるべきようにあることはできるか」とフーコーは私たちに説明するが、義務と考えれば法につながって考えてしまうのが現代の私たちの思考である。霊的な経験というとき、「あるべきように」とは、神性を取り込んだ理想という概念が含まれているように私には思われる。近代人が失ってしまった思考である。
ギリシア語のアスケースと語源を同じくするであろうフランス語の禁欲を意味するascèse(アセ―ズ)という言葉がある。この言葉は私たちには現世の放棄を連想させてしまい、究極的には自己放棄という概念を思い浮かべるだろうとフーコーはいう。これは後のキリスト教がストア派のアスケースを取り入れた結果なのである。しかし古代の修練は放棄ではない。逆に自己に到達するために何かを獲得することであり、その身につけるべきものをギリシア語ではパラスケウエーと呼ばれている。
パラスケウエーとは人生の出来事に対して個人が準備することである。「修練とは、個人が未来に対して準備させること」である。「自己凌駕」という概念があるが、自己や他者を超えることではなく、起きるかもしれないことより強くなることをストア派では意味するとフーコーはいう。つまり人生で起こるかもしれないことより強くする実践をパラスケウエーと言うのである。マルクス・アウエリウスは格闘家を舞踊家に比して述べている。舞踊家は理想に到達するため、他人と自分自身を凌駕しようとするが、格闘家は出会うかもしれない攻撃、状況や他者によって加えられるかもしれない攻撃よりも、弱くなって転倒させられないようにすることが挌闘家の術に求められると、フーコーは解読する。犬儒派のデメトリオスの文章にも見られ、可能性のすべてを展開するのではなく、私たちが出会うものだけ、遭遇する出来事に対してだけ準備することをよい格闘家にも賢者にも求められているのだと、フーコーは紹介している。つまり外界から現れるすべての出来事と格闘するという。自分自身の中にある、罪、堕落した本性、悪魔の誘惑などと闘うキリスト教的格闘家、自分自身と闘う格闘家ともフーコーは比較している。

19 行為の主体となるロゴス

人生の起こり得ることすべてに備えることの必要性をストア派は主張するが、備えは何よって構成されているかといえば、ロゴイによって構成されているとフーコーはいう。ロゴイという言葉はロゴスの複数形で、論理、言説、談話という意味である。たんに命題や原理や公理項といったものを身につけることではなく、「物質的に存在する言表としての言説を考えなければならない」のである。自分のために書きつけた文や、師の教えであったり、聞いたり言ったりした文を、精神に刻み込んだ文のことである。しかしそれは当然ながら理性に基づいた命題でなければならない。「物質的に存在するロゴスとは、言説的で合理的な要素を持つ文」であり、行為の原型として主体の中に実際に書き込まれている神経や筋肉の一部であるような文であろう。
また、パラスケウエーすなわち備えは「恒常的に現存していることが必要」であり、必要であれば助けてくれるロゴスであることが条件である。ロゴスは、前にも航海の比喩で表わされることを指摘したが船上の操舵者であったり、戦争の比喩では要塞や城壁であったり、医術では治療薬であったりする。しかも手許になくてはならないものなのである。「苦悩や悲しみや不運に見舞われたとき、死が迫ったり病気なったり苦しんでいるとき、このロゴスという備えが、魂を守り、攻撃を防いでくれ、平静をたもさせてくれるとフーコーはテキストから読み取る。記憶という範疇の中にあり、命題(文)を想起し、実際に口に出すことによってロゴスを蘇らせる訓練も必要とされていたのである。「ロゴ
スは主体そのものにならなければならない」とフーコーは結論する。アスケーシスとは〈真実を語ること〉を主体の存在様態にするものであるが、キリスト教における〈真実を語ること〉とは、啓示や
聖書や信仰に規定され、修練では自分自身を放棄するような犠牲を要求するものであるとフーコーはいう。
自己への立ち返りという原則の効用を、セネカとマルクス・アウレリウスを例とし、マテーシス、つまり認識の次元で分析した後に、アスケーシス、つまり自己の実践をフーコーに導かれながら論じてきた。ヘレニズム・ローマ期の自己の実践の修練は、キリスト教的な自己放棄の修練とはまったく相違しているということをフーコーはくり返し主張している。また、哲学者の修練とは何かを身につけること、人生の出来事を防御するための装備であるとフーコーは述べる。そしてこの修練は個人を真理に結合させることであり、個人を法に従属させるものではないということを確認してきた。これらのことを獲得させるのがロゴスの言説であり、修練の意味や機能は「真実の言説の主体化」である。そうであるなら、重要なことは、「聞くことや読み書きや語りに関するあらゆる技法や実践である」と、フーコーはこの時代の「自己への配慮」の独自性を解読している。

次回は「真の主体化としての修練的実践」についてさらに詳しく見ていく予定であり、
プラトンが『国家』において、詩人という存在を非難している議論の内実にも触れる。





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