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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

朔太郎論「光ある芸術の真髄」小林稔個人詩誌「ヒーメロス32号」より

2016年02月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

光ある芸術の真髄

 白秋宛ての朔太郎の書簡に、「私は絶大なる恐怖と驚愕と羞恥と困惑との間に板ばさみとなって煩悶して居ります。私は恐るべき犯罪(心霊上の)を行なったために天帝から刑罰されて居るのです」という言葉がある。河村政敏氏(『月に吠える』)によれば、天帝よりの刑罰とはエレナという人妻との密通と関連し、白秋の「ソフィーと呼んでいた人妻との事件」と重ねられ、その衝撃と罪の意識が「浄罪詩篇」製作の動機となり、「一旦浄罪が始められれば、それは逃げられない刑罰として実感され、自虐的神経に作用されていよいよ深められ、ついには人間の原罪的な思念にまで進んでゆく」。ついには懺悔者のイメージに発展するという。しかし佐藤氏は、「病者の歪みとして、罪として問い、告発せざるを得なかったところにこそ、彼のいう「浄罪」に真義はあったのではないか」と問い、「その人の全存在本能が傾注されて場合に」始めて、「光ある芸術ができる」(大正四年四月二七日)とは、朔太郎の詩観の本髄をなすものでもあったと論じている。つまり、「疾患」が詩作の進化への起因になっているということを言いたいのであろう。佐藤氏は、「疾患」を詩法として「すべて見えざるものを」をも見る「見者」たることと、「疾患」をその歪みと罪のゆえに、これを浄め、正し給えと祈らざるをえないこと、ここに「霊と肉」との祈りと詩の、一元的な把握があると佐藤氏は主張する。「疾患」を否定的に受け止める「浄罪」があり、肯定的に受け止めれば、信仰の発見によって、キリストに救われることによって「素人詩人」から免れる、まさしく信仰と詩は一元として捉えられているのだという。

 私の唯一、敬慕する詩人である鷲巣繁男氏は、朔太郎の「天上縊死」に触れ、ダンディズムであろうと抒情としての懺悔であろうとも、「祈りの形を天上の縊死者として感得した」のであり、後期の作品『氷島』の「感情の荒くれ」に照応して見えるという。詩人を貫く希求、「文学というおぞましい存在」との苦悩となるかどうかは、彼の全生涯と全作品を注視しなければならないと述べている。(『クロノスの深み』)先述した歌集『ソライロノハナ』で朔太郎が言う「ロマンチィックの幻影」が消えた後の「本物の世界…醜い怖ろしいあるもの」、(それゆえに短歌から詩に転向することになったのであろう)、「信仰を発見しなければ『素人詩人』に終わるに違いない」と危惧させた、「文学のおぞましさ」を詩の出発点に立った若い朔太郎はそのとき直覚したのであろう。

  詩誌「ヒーメロス32号」2016年2月4日発行から一部掲載。


「真の生と生存の美学 小林稔評論「自己への配慮と詩人像」(十五)より

2016年01月26日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十五)

小林 稔

 

43 自己への配慮において結びつく、真の生と生存の美学 

  「真理の勇気」という問題

 ソクラテスの創始した真理陳述のパレーシア様式は、他の三つの真理陳述の様式、つまり預言の様式、知恵の様式、教育、テクネーとその伝達の様式とははっきり区別された。『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』というソクラテスのパレーシアをめぐる三部作に、原則や規則の識別特徴がはっきり現われていたとフーコーはいう。フーコーは他のプラトンの対話篇にも見出されるソクラテス的真理陳述のなかでも『ラケス』を取り上げようとするが、その四つの理由を挙げて説明する。以下、フーコーの説明の要約である。

一、『ラケス』にはパレーシア協定が対話の冒頭で明白に述べられていて、ソクラテスが、パレーシアを用いる権利を有する者として対話者たちに認められているということと、ソクラテスの真理陳述の特徴としてエクセタシス(吟味の原則)があり、エピメレイアという概念(配慮という概念)があるということがその理由である。ソクラテスこそが若者たちへ配慮すべき者として現われ、親たちはソクラテスに頼み、子供たちに配慮してもらおうとし、子供たちもまた自分自身に配慮しなければならなくなるようにしてもらおうとすることになる。つまりパレーシア、エクセタシス、エピメレイアが結合して登場するということである。

二、この対話篇が政治的舞台を維持していることが理由でもある。若者たちへの教育についての議論は特異なことではないが、この対話篇でソクラテスが対話している直接の相手は成人たちである。その成人たちは政治的な役目を果すことのできる人々、例えば、あるいは都市国家で重要な役割を果している政治家であり、シケリア遠征の指揮官を務め、シケリアで戦死した実在した人物である。ラケスは軍隊の指揮官で、ポ

ティダイアの戦いで戦死した、重要な役割を果した人物である。彼らに問いかけるソクラテスの姿が描かれている。このように政治的活動に直接接続しながらも、政治的な形式を持たない一つのゲーム、つまりパレーシアをソクラテスは提案し、政治家たちを巻き込んでいくという興味深い点が、この対話篇を取り上げる二番目の理由である。

三、この対話篇が、勇気とは何かというテーマに貫かれているということもその理由になる。対話者たちが政治や軍隊に関わっている人物であるということ、つまり戦場で身体的勇気を示した人物であるという特異な点である。『ラケス』では、「真に勇気あるこれらの人物にとって、勇気の真理とはいったい何だろうというか」という問いをめぐって展開される。つまり、真理の勇気に関する問題が、真理の問題および勇気の真理の問題に立ち向かう勇気を持つ人々によって提起されているということである。この「真理の勇気」(このフーコーの講義録の題でもある。)は、西洋哲学全体においてもたいへん稀なテクストである。勇気と真理のあいだに横たわる倫理的関係。一人の主体に対し、真理に接近すること、真理を語ることを可能にする道徳的諸条件に関する問題は、この対話篇の中心に置かれているといえる。西洋的反省の最も大きな表面を占めてきたものは、「主体の純化」の問題における、真理をめぐる問題であった。「ピュタゴラス主義以来、近代西欧哲学に至るまで、真理をめぐる浄化の一式を見出すことができる」。つまり、「真理に接近するためには、主体が、感性界、過ちの世界、利害と快楽の世界対し、真理の純粋さと永遠性に対して不純なものの場を構成する世界全体に対し、ある種の拒絶を保ちつつ自らを構成しなければならない」という考えである。「不純なものから純粋なものへ、曇ったものから澄んだものへ、かりそめのものや儚いものから永遠なるものへの移行」、こそが「主体が自らを真理の可能な主体として構成することができるようになるための道徳的経路であるという考えである。こうした浄化の全体は、ピュタゴラス派以来見出され、近代哲学にも見出される。デカルトの手続きも浄化のそれである。それは、「いかなる条件のもとで、主体は自らを純粋な視線として構成し、個別の利害と関係を断って、浄化された真理の把握のなかで普遍性を得ることができるのか」ということであった。しかし、浄化は真理をめぐる倫理の一つの側面に過ぎない。もう一つの側面、それが「真理の勇気」なのだとフーコーは主張する。真理の到達のために不可欠な、「いかなるタイプの決意、いかなるタイプの意志、いかなるタイプの犠牲さらには闘い身を投じることができるだろうか」という問いがある。この闘いは浄化とは別のものである。真理のための浄化の分析ではなく、真理への意志に関する分析になるであろうとフーコーはいう。『ラケス』にはそうした分析の出発点のうちの一つが見出される。それが三番目の理由である。

四、最後の理由として、『ラケス』のうちに、西洋哲学の発達におけるいくつかの道筋のうちの一つの出発点がしるしづけられているということである。それは『ラケス』と『アルキビアデス』の両者に共通する問題、近親者あるいは保護者が施すことができなかったためにいっそう必要とされる若者の教育の問題がある。『アルキビアデス』では、「教育すること、なおざりにすること、配慮すること」からなる、古典的な一つの問題、すなわち、「専念すべきは魂である」という問題に導かれる。それでは「魂とは何か、魂の本性はいかなるものであるか」。魂に専念すること、それは、「魂にとって、自分自身を見つめることであり、「そのことによって真理を見ることを可能にする神的要素を識別することである」。そうして最後には魂の神性というテーマへと到達する。これに対して『ラケス』では、何に専念するのかは問われず、自分たち自身に専念するような若者たちに教えなければならないというテーマがある。何に専念すべきか、魂ではなく、生(ビオス)、すなわち「生き方」である。生存の方式、この生存の実践であるとフーコーは指摘する。

 パレーシア協定

『ラケス』と『アルキビアデス』を比較検討すれば、哲学の反省と実践の発達における二つの道筋の出発点が見出せる。一方には、魂の認識のしるしのもとに置かれるべき哲学、他方には、生の試練、ビオスの試練としての哲学があり、プラトンにおいて結びついているものであるとフーコーは指摘する。彼はチェコの哲学者パトチカの『プラトンとヨーロッパ』というテクストに言及し、エピメレイア(配慮)に重要な場所を与えている唯一の書物としながらも、エピメレイアを、自己への配慮としてではなく、魂の配慮と考察しているので、生の試練、生の問題化、生の吟味、せいの検証としての自己への配慮という概念は消え去っていると指摘する。配慮の対象としてのビオス(生)のテーマは、後のキュニコス主義の哲学の出発点として、『ラケス』から読み取ることができるのである。つまり、「『ラケス』は、生の試練としての自己への配慮の問題の出発点である」とフーコーは明言する。その対話篇の構成を分析しテーマを明確にするため、フーコーは三つの契機を挙げている。

 一つ目の契機は、冒頭部の対話の準備が整えられる箇所(『ラケス』178‐180)である。まず、『ラケス』の訳者、生島幹三氏(岩波書店「プラトン全集7」)の解説を頼りに要約してみよう。対話がなされた場所は、アテナイのとある体育場であり、銃武装して戦う術をそれぞれの息子に学ばせることを勧められた二人の老人、リュシマコスとメレシアスがいる。二人とも子供の教育に心を悩ませている。相談する相手は、ニキアスとラケスである。先述したように、ニキアスは、ペロポネソス戦争でのアテナイの将軍で、保守貴族派を代表する政治家であり、ラケスは、ペロポネソス戦争中、アテナイがシケリアに派遣した船隊の司令官であった人である。要するに軍隊を指揮したことで著名な人たちである。息子の教育について相談する前に、二人を体育場に連れてきて見物させようと目論んでいた。そこにはそれぞれの息子とソクラテスも連れてきていた。対話篇の冒頭でリュシマコスの長い話が始まる。話の内容を要約すると次のようになる。リュシマコスは、メレシアスと自分の祖父の名を揚げ、前者の息子は祖父の名をもらってツゥキディデス(同名の歴史家とは別人)といい、後者つまり自分の息子はやはり祖父の名をもらってアリスティデスと命名したという。祖父、つまりリュシマコスやメレシアスの父親はそれぞれ政界で名をなした人たちであり、息子に語ることができるが、彼らは、自分自身のしたことは何も語ることがなく、世に知られるようなことは何もしてこなかったので、息子たちには語ることが何もないのだという。それは父親が、子供たちの教育をせずに、他人のことばかりに精を出していたからだと父親をとがめたりもすると告白する。子供たちが、私たちのいうことを聞かず自分自身に対する心がけを怠るようであれば名もない人間になるであろうが、その心がけを忘れなければ、名をもらった祖父のように立派な人間になり、その名に恥じない人間になるのだ。つまり、リュシマコスのいいたいことは、自分の父親が公務に忙しいあまり子供たちの教育をしなかったこと、そのように育てられた自分がその子供たちに、自分たちのようにならないためにも、祖父のように立派な人間になるためにも、父親としてどのような教育をしたらよいのかを相談しようとするのである。(フーコーの講義録『真理の勇気』の草稿には次のような記述が見られると、訳者、慎改康之氏は註に加えている。それによると、「政治的形態における他者への配慮と、自己および他者に対する倫理的配慮とのあいだの」緊張、つまり「自己および他者に対する倫理的配慮を非常に困難にするように思われる政治的配慮とのあいだの緊張が古代道徳のなかに見出されると書かれている。」

 この対話篇の冒頭でフーコーが注意を喚起しようとするのが「率直さ(パレーシア)の協定」と呼ぶものである。パレーシア(率直な語り)と配慮の概念が結び合わされているとフーコーは指摘する。なぜニキアスとラケスをこの体育場に連れてきたのかを打ち明ける場面である。

 

 ニキアスとラケス。あの男が銃武装してわたりあっているところを、ご覧になったわけですが、何のために私と、

このメレシアスが、いっしょに見てくださるようにお願いしたのかということは、さきほどいいませんでしたが、

いま申しましょう。皆さんには何でもお話すべきだと、私たちは考えていますので。といいますのは、このよう

なことを馬鹿にしている人たちがあり、それにまた、人が相談しても、自分の考えていることをすこしもいわず

に、相手の考えをおしはかって自分の心にもないことをいう人がありますのでね。しかし、みなさんは、すぐれ

た判断力をおもちになっているばかりでなく、判断したうえで、考えることをそのままいってくださるだろうと

思いまして、それで、これからご相談しようとする問題について、ご意見をうかがうためにお呼びしたわけです。

(『ラケス』178)

 

 引用にある「あの男」とは武闘術の教師ステシレオスであり、フーコーによれば自分にできることを言葉で説明するだけでは満足できずに、他の対話篇で現われるある種のソフィスト、すべて実行に移すことが困難なことを言葉で説明し、それだけで満足せず実行に移す。ステシレオスは実際に自分ができるかということを示す。それによってリュシマコス、メレシアス、ラケス、ニキアスは自分の目で判断できる。言葉による提示とは別次元の、視覚的で直接的な試練の次元であるとフーコーはいう。ここで大切なことは、リュシマコスの語りのなかで表現される、「みなさんに何でもお話すべきだと」考えていることを述べ、相手にもそれを求めているということである。自分たちが父親のなおざりで何も教えられず、「月並みな生を送ってしまい」、名をなす人間にならなかったことという恥ずべきことも率直に語っているのである。さらにニキアスと

ラケスに体育場でのステシレオスの実演を理由も告げずにつれてきたことにどんな意味があるのか。フーコ

ーは、ラケスとニキアスが軍事的責任を果してきた人であり、この方面に通暁していること、もう一つは自

分の考えを隠さずにはなす人であると思っていたからであるという。つまり、〈真なることを語ること〉を語る場所の保証から、言説にあって人を欺くかもしれないものを払拭しておく必要があったということを指摘する。そしてそれらは、「子供たちに与えるべき気配りであり、子供たちに専念するやり方に関する問い」にとって重要事であるということを意味するとフーコーはいう。リュシマコスはラケスとニキアスに尋ねる。あなた方に子供がいたらどのように専念するか。「自分の息子たちを、その試練と訓練を私たちが直接見たばかりのあの戦闘術の教師に託すことが、本当に必要であろうか。息子たちが彼から授かることのできる教え、彼が息子たちに与えることのできる教えは、はたして受ける価値のあるものだろう、と。」なぜそのような質問をするかということは先述したように、自分たちは息子に対して模範例とされるべきものではない、父親たちは他の人々の事柄に専念し、多忙であったのだとリュシマコスはいう。

 子供たちへの配慮について、リュシマコスとメレシアスはまず「自分自身の配慮に関する説明を行なうために、自分自身の恥辱、自分自身の気詰まりを克服しなければならない。」それはパレーシアによってなされることになる。「子供たちに対してなすべきエピメレイア(配慮)のテーマと、パレーシアのテーマが結びついている」、つまり「子供たちに対する気配りの問題を提起するために、パレーシアに、真なることを語る自分たちの勇気に訴えなければならない」ことをフーコーは指摘している。

 政治的モデルから技術的モデルへの移行

 二つ目の契機は、それまで聞いているだけであったソクラテスが対話する場面である。依頼されたニキアスとラケスはステシレオスという武闘術の教師の実演についてそれぞれ対立する見解を述べる。ニキアスとラケスの二人の意見の対立が、政治的形態をとることにフーコーは注目する。「二人の相手が連続的な一つの言説のなかで自分自身の意見を交互に展開することになる場所としての民会のアナルゴンがある」。ニキアスは武闘術の教師による授業が有用であると考えている。なぜならそれは、「武闘術は戦略に関するすべてを学ばせてくれるからである。」さらに祖国をやがて守ることになる勇気および大胆さという精神的資質を与えてくれるからであるとフーコーはいう。ラケスの言説は反対に訓練を批判したものになった。理由は二つにまとめることができる。一、どんな術でも知っておくことはよいことである。武闘術(翻訳では「重甲術」)が一つの術であれば学ばなければならない。しかし重大なものでなければ学ぶ必要がない。もし価値あるものであるとするなら、ラケダイモン(スパルタ)の人々が気づかないはずはなく、むしろ重武装して戦う人はラケダイモンに出向いて行くべきである。つまり、「彼ら武闘術の教師たちが、本当に鍛え抜かれた兵士がほとんどいない都市国家のなかでしか、自分たちの能力を示さない」というフーコーの説明がこれである。第二の理由は、ラケスは実際、戦闘の場面でステシレオスの本当の腕前を見てしまっていたのである。原文のテクストからの引用は割愛するが、フーコーの要約を引用すると、「自分(ステシレオス)がたいした勇気を持ってはいないことを示すと同時に、とりわけ非常に不器用であることを示した。つまり彼は自らの教えを自分では実行できず、それを見た兵士たちが腹を抱えてわらいころげるほどだった」とラケスは述べた。先述したように、ステシレオスは一種のソフィストであるというフーコーの考えが浮かび上がる。このような二つの意見の対立を解決すべくソクラテスに対し、助けが求められることになる。

 ソクラテスの介入によってもたらされる三つの変容をフーコーは指摘する。一つ目は議論が政治的モデルから技術的なモデルへと移行したことである。意見の不一致がある。ソクラテスはどちらの意見に一票を投じるか迫られる。ソクラテスは直ちに拒否する。ソクラテスの言説は次のようになる。ここでは一体何が問題になっているのか、それはテクネーであり、多数派による支持ではなく技術なのである。多数の意見ではなく、「すぐれた体育科のもとで教育をつんだようなひとのいうことに従う」ことを選ぶであろう。したがってそのような人、つまり体育に関して最も技術をもっている人をどのようにして選ぶのか。ソクラテスはいう。「その人は、まさにそのことに関するよい先生であった人について、そのことがらを学びそれについていつも従事していた人ではありませんか。」(『ラケス』185B)さらに「われわれの中の誰が技術者であるか、そして当の問題に関して先生を持っていたか、また誰がそうではないか、ということを審議していながら、いったい何の問題を審議しているのかという点を、最初にわれわれのあいだで同意しておかなかったように私には思えるのです。」(185C)

ソクラテス 人が或るもの―つまりそのためを考えてやっていた当のもののほう―についてなされるのであって、その何かのほう―つまり、他のもののためにもとめられていたもののほう―についてではありませんね。

 ニキアス まったくそうです。

 ソクラテス ところでいまわれわれは、若者たちの魂のための学びごと(術)について、調べているのだ、といったものでしょうか。

 ニキアス ええ。

 ソクラテス そうしますと、われわれの中に誰か、魂の世話に関して誰が技術をもち、りっぱにそれの世話ることのできるひとがいるかどうか、そして誰がよい先生についたことがあるか、このことを考えなければなりません。(185E)

 テクネーに関して力量のある人かどうかを判断する基準は何かを考えるとき、ソクラテスは、その人がどのような教師について学んだのか、さらにその教師がよい教師でありよい生徒を育成したかがわかるときであると考える。また、よい教師を持っていただけでなく何か価値あることをなすことができたのかという二つの基準を必要とする。もちろん教師なしで何か価値あることをなしえることも可能であるとソクラテスはいう。

 

 ソクラテス では我々もまた、ラケスとニキアス、―リュシマコスとメレシアスは、この二人の息子さんたちの

魂ができるだけすぐれた)よき)ものになることを願って、この人たちのことでわれわれを相談に及びになった

のですから、―このかたがたにわれわれの先生たちを見せるべきです。もし見せることができるというのであれ

ば――つまり、自らがよき人であって、数多くの若者たちの魂の世話をしたのちに、われわれをも教えてくれた、

――ということがあきらかに認められている先生たちとは誰々であるか、ということを示さなければなりません。

(186)

 

 フーコーは、ここには政治タイプの真理陳述から技術的真理陳述への移行を指摘する。前回の考察で四つに分けた真理陳述の、技術の真理陳述のことで、教育の真理陳述も含まれる。それは、教師から弟子へ伝達され、作品によって表明されるような「本質的に一つの知の伝統性に依拠していること」であるという。

 第二の変容は、魂に関する技術が問題となるところで、ソクラテスの教師像とはどのような人をいうのか、その人の作品とはどのようなものかを問われるところでソクラテスは身を引く。なぜであろうか。ソクラテスはいう。「私個人は一度も教師に教わったことはない」。教師に謝礼を払うほど裕福な家ではなかったからであり、「かといって自分でその術を見つけ出すことは、いまなお、できないでいます。」(186C)つまり、私には他の人々に教えることができないとソクラテスはいっているのである。ニキアスとラケスは教師に教わるほど裕福な家庭であったので若者たちに教えることができるだろうとソクラテスはいう。ソクラテスはニキアスとラケスに尋ねる。あなた方の教師は誰だったのか、また彼らと同じ技を持つ人をいってください、謝礼をして面倒を見てもらうようにという。ソクラテスの言葉を受けてリュシマコスは、ニキアスとラケスにソクラテスの質問を投げ返す。

 第三の変容はフーコーによると、ソクラテス的パレーシアの出現の端緒になるという。二人の話し相手を技術の領域に引き入れ、教師による知の伝達において彼らの役割や働きがいかなるものであるのかを尋ねる。しかし、ソクラテスは別のことをたくらんでいるのだとフーコーはいう。それは政治的ゲームでもなく、技術に関するゲームでもなく、パレーシアと倫理のゲーム、つまりエートスの問題へと向けられるパレーシアのゲームであるとフーコーは指摘する。

 パレーシアと倫理ゲーム

 これまでのソクラテスが発言をしたことで起こる変容を整理しよう。まず、政治的真理陳述から技術的真理陳述に移行したことがある。技術的真理陳述は一つの知の伝統に依拠していることを明らかにする。つまり、誰に教わったのか、教師は誰であどのような作品を残したのかが問われる。それは、魂の「治療法」というよりもむしろ]魂への気配りの技術者)(フーコー)を求めていることを意味しているのだ。このように述べてソクラテスは身を引く。なぜならソクラテスには教師がいなかったので他の人々に教えることはできないとソクラテス自身によって語られる。それ以後は、ラケスとニキアスという世に認められた立派な二人の人物に対して、彼らの教師は誰でありどのような人であったのかを問う展開になる。ニキアスは以前からソクラテスとの対話に加わったことがあり、ソクラテスの対話法を知っている。彼は次のようにいう。「誰でもあまり近づいて話をしていますと、はじめは何か他のことから話し出したとしましても、彼の言葉にずっとひっぱりまわされて、しまいにはかならず話がその人自身のことになり、現在どのような生き方をしているか、またいままでどのように生きてきたか、をいわせられるはめになるのです。さていったんそうなると、その人のいったことを何もかもきちんと吟味してしまうまで、ソクラテスは話してくれないでしょう。」

この言説から理解されるように、「エートスの問題へと方向づけられたパレーシアのゲーム」(フーコー)にさらに移行する。先述したようにフーコーは、ソクラテスの言説には別のたくらみ、政治的ゲームでもなく、技術的ゲームでもなく、倫理のゲームの場を用意しようとするたくらみである。それは何より作者プラトンの作品構成の手腕である。さらにもう一人の人物、ラケスを用意する。ラケスはソクラテスと対話したことがないが、前四二四年のデリオン戦でソクラテスと従軍していたことが知られている(訳注)。

 

 ラケス ……ところでソクラテスはというと、私は彼の話(言葉)のほうを経験したことがありませんが、さき

に行為のほうを経験したようです。そして、行為のほうで私が知った彼は、どんな美しい言葉(話)をどんなに

遠慮なく言っても、それにふさわしい人でした。したがって、もし言葉のほうもりっぱにできるとすれば、彼こ

そ私の望みにぴったりの人です。このような人にであれば、喜んで吟味されましょう。いやがらずに学びたいと

思います。私も、ほんの一つだけ付け加えますが、ソロンの言うことに賛成です。つまり、「年をとっていくと

ともに、多くにことをー―ただすぐれた人たちからだけ――教えられ」たいのです。……(中略)……あなたが

私と危難をともにし、あなた自身の徳を、まさに人の模範とすべき仕方で、証明して見せたあの日以来、私はあ

なたに対してそのような気持ちでいるのですよ。(189)

 

 右の引用からわかることは、ラケスはソクラテスという人の言動と行為がぴたり一致していることを実際に見て知っていることである。フーコーは、ソクラテスのゲームが対話の中でどのように提示されるかを次のように指摘する。まず相手からどのように受け入れられるのか。ソクラテスの方法がソクラテス自身によって前もって提示され素描され定義される。ゲームの相手がそれに抵抗することもあるが、『ラケス』では一人(ニキアス)がソクラテスの方法を熟知していること、もう一人(ラケス)はソクラテスの方法を知らないがそれを受け入れようとすることに特徴がある。先述したようにここにはパレーシア協定が成立しているということがわかる。「私の年齢のことなど気にせずに、気がねなく話してください」とラケスはソクラテスにいう。(訳注によると、ソクラテスは四十五歳、ラケスやニキアスは五十歳前であり、ほぼ同じ壮年である。)先述したように、ニキアスの言葉からわかること、それはフーコーの説明によれば、「ソクラテスは、彼の話し相手が導かれて、自分自身について説明するまで離さない。自分自身について説明するということは、彼自身とロゴス(理)とのあいだにどのような関係があるかを示すことであるとフーコーはいう。ここまできると、教師でもなくその作品でもない。問題は人が生きるやり方である、つまり、あなたは今をどのように生きており、過去の生をどのように生きたか、であるとフーコーは指摘する。

 生のトポス、生のスタイル

 フーコーによれば、『ラケス』で問題になっているのは、試金石と呼ばれるものに自分の生を委ねることであるという。つまり、生存のなかでなされたよき行いと悪しき行いとの区別を可能にする試練に自分の生を委ねることであるという。ラケスはその言説で、ソロンの生涯を通して学ばなければならないという言葉を述べる。技術的力量はいったん獲得すれば後はそれを使うことに費やすが、ソクラテスの試練は生涯にわたって身を委ねるべきものである、つまり「生存の全体にわたる生の試練とその吟味を支えるある種の関係を設立することが問題となる」とフーコーは指摘している。それではソクラテスがそうした倫理的パレーシアの役割を果すことの正当性は何によって認められるのかとフーコーは問う。

 一般的には右に引用した言説にあるように、ラケスはソクラテスがデーリオンの闘いで勇気を示したことを実際に見ているので、言葉と行為を一致させている人であると理解している。従って自分を吟味してくだ

さいとソクラテスに申し出たと考えられているが、フーコーは異論を唱える。テクストの動きに注意をはらうならば、まだ勇気は問題にされていないのであり、この段階では子供たちにステシレオスに彼らを託すべ

きかどうかを問題にしているだけである。勇気を示す言葉(andoreia)が出てくるのはテクスト190Dからである。ここではアレテー(徳)について語っているのである。それではラケスは何を語っているのか。語り手が語っていることと、語り手がそうであるところのものとのあいだの調和であるとフーコーは指摘する。語り手の生が見事に調律されたものであるとき、ある人物の言説と彼がそうであるところのものとのあいだに協和(シンフォニー)があるとき、そのとき私は受け入れ、ピロロゴス(言説の友)となるのだということであるとフーコーは注意を促す。ソクラテスが語る内容、語り方、彼の生き方のあいだに、協和があり、調和があるから、ラケスはソクラテスに吟味されることを受け入れたとフーコーは読み解くのである。

 この対話で大切なのは、フーコーによると、第一にエピメレイアとソクラテス的言説のある種の方式とが結びついていること、第二に、ソクラテス的パレーシアは生存の様式、生の様式について語るものであり、それを試練にかけて、生の様式の中でも良いものとして認められるものは何かを定めようと試みるものであるとフーコーはいう。まさしくこれが倫理的パレーシアと呼びうるものである。

 ニキアスとラケスに、彼らの教師は誰でどんない人であったのかというソクラテスの質問は方向を変え、結局は同じことになり、そのほうが根本的に考えることになるというソクラテスの庭園を受け入れることになる。「どのようにすれば、徳が息子さんたちの魂に生じて、魂をまえよりよきものすることになるだろうか」という相談に、われわれを呼んだのではなかったのか」(190B)とソクラテスはいい、徳とは何かを知らずに、人の助言者になることはできないのであるから、われわれはそれを知っていると認めていることを確認する。徳といっても範囲が広いので、ここでは重武装術が問題になっているので、勇気とは何かを考えてみようとするソクラテスの提案にラケスも同意する。ソクラテスはラケスに尋ねる。勇気とは何か。「戦列にふみとどまって敵を防ぎ、逃げようとしないとすると、その人は勇気のある人である」というラケスの答えにソクラテスは、「逃げながら、敵と戦う人のばあいはどうか」と神話や歴史上の人物の例を挙げて尋ねる。騎兵はそういう戦い方をするが、重甲兵は逃げずに戦うのだとラケスはいう。ソクラテスは個別のことではなく、すべての人々、例えば病に対して、貧乏に対して、政治上の事件に対して、欲望や快楽に対してなど、それらの人々を含めて、勇気と臆病について訊きたいのだとソクラテスはいう。ラケスはソクラテスのいおうとすることがわかりかねている。〈迅速〉とは何か、という別の例を挙げ、「短い時間に多くのことを仕上げる能力」であるという答えを求めていることになるように、勇気とは何かをいってみてください」とソクラテスは問いかける。すると「魂の一種の忍耐づよさ」とラケスは答えた。忍耐心のすべてが勇気であるということはできない。なぜなら〈勇気〉とは非常に美しい(りっぱな)ものの一つであるからである。「思慮をともなった忍耐心」は美しいものではないかというソクラテスの問いかけにラケスは同意する。「思慮のある忍耐心が勇気である」と二人は認め合うことになったが、何に関して思慮ある忍耐心といえるのかを検討する。しかし思慮深い行為とそうでない行為の境界が明確ではないことがわかる。ソクラテスはニキアスに救いの手を求めることになる。「勇者がよき人であるとすればあきらかにその人は知者である」とニキアスはいう。それに対してラケスは反論する。知と勇気は別々のものである。例えば医者は病気の恐ろしさを知ってはいるが、医者を勇者とは呼ぶことができない。また「勇気とは、恐ろしいものと恐ろしくないものとの知識である」と主張するニキアスに、「ライオンや豹などの獣たちは恐れを知って勇敢であるのではない。無知のために何も恐れない小さな子供たちを勇気ある者とはいえないと反論する。ここではラケスもニキアスも勇気とは何かについて説明することができなかったのである。フーコーによれば、ラケスは、勇気のある人物でありながら、自分自身の行動様式について説明することができなかったし、ニキアスは、勇気を単に知、能力、力量、エピステメーという観点からのみ説明しようとしたので失敗に終わったのだという。つまり、現実に勇気のある二人が勇気を語ることができなかったことをフーコーは指摘する。

 私たちはロゴスという教師を必要とする

 このように進行した対話が中断されようとするテクストの末尾で何かが起こったのだ、それを対話の中に見出される三つの結論の重ね合わせのなかに探し求められなければならないとフーコーはいう。

 第一の結論。「あなたはまだダモンのもとへ赴いて教えを受ける必要がありそうだ」と、ラケスはニキアスを揶揄していう。ダモンはニキアスが師事されている音楽教師である。つまり、「テクネーの世界、一つの知が教師から弟子に伝達される伝統的な教育の世界へ送り返されることである」とフーコーはいう。

 第二の結論。ニキアスとラケスが退場するとき、ラケスはリュシマコスに助言を与える。「あなたの子供たちをソクラテスに託すべきである」。彼(ソクラテス)が彼ら(子供たち)に専念してくれるようにするためであり、彼が彼らをより優れた人物にしてくれるようにするためだ」と説明する。ニキアスも同意見である。しかし、ソクラテスは断る。なぜなら勇気とは何かをわれわれは見けられなかったのである以上、私をこの仕事に呼び出すのは正しくないであろうからという理由であった。しかし、「われわれ自身のためにも、つぎにはまた、この若者たちのために、金銭も他の何ものも惜しまずに、できるだけすぐれた先生を探さなければならない、……中略……誰かが何かを言おうとするならほうっといて、われわれ自身ととこの若者たちとの面倒を、いっしょに見ることにしましょう。」(201)とソクラテスはいう。フーコーは、技術的教育と伝統性に戻ろうと提案しているようであるが、そこにはソクラテスのアイロニカルな結論でしかないという。出費を控えないようにしよう(金銭も他の何も惜しまずに)、新しい教師の元へ戻ろう、というソクラテスの言葉にフーコーは注意を喚起している。「教師とはダモンやステシレオスのような、報酬を支払うべき教師のことでは」なく、「誰一人として勇気の定義に到達できなかった以上、全員が教えを請うべき教師、それはもちろん、ロゴスそのものであり、真理に道を開いてくれる言説である」とフーコーは主張する。『ソクラテスの弁明』のなかで、神々によって与えられたソクラテスの使命とは、市民や道ゆくすべての人々に専念し、彼らがより優れた人物になるようにすることであるという言説を思い起こさせるとフーコーはいう。「人ができるだけすぐれた人間になろうとしているときに、加勢しようとしないのであれば、それこそ恐ろしいことでしょうからね」とソクラテスは結局はリュシマコスの子供たちの教育を引き受けることになる。

第三の結論。「私はあなたと同様、完全に無知なのだ、私たち全員が一人の教師を必要としているのだとソクラテスが語ったとき、リュシマコスは別の言葉をそこに聞いたのだとフーコーは指摘する。それは「本当の教師のもとへ導いてくれる教師は、ソクラテスであり、ソクラテスだけである」という言葉であるとフーコーは指摘する。もちろん、本当の教師とはロゴスである。リュシマコスは息子たちだけでなく自分自身も、自らの生存、自らの生存のスタイルを絶えず試金石に委ね、「自己に配慮しロゴスに耳を傾ける道へと先導」してもらうためにソクラテスを家に招こうとする。ソクラテスは、「もしそれを神がお望みなのであれば」と承諾するのであった。この平凡な儀礼的な言い回しに、プラトンは二つのレヴェルの言葉を込めた、それは実際、「神がそれを望んだ」こと、つまり「神がソクラテスに対し、人々のもとに赴いて彼らに自分たちの生き方を説明させること、自分自身に専念するよう人々に教えることを命じた」ことを想起させるためであるとフーコーは指摘している。真の教師は学校教師でロゴスであり、ソクラテスも他の人々同様にロゴスに耳を傾けなければならない。ソクラテスはこの時点で他の人々と同等である。そして自分自身に専念し、他の人々に専念しなければならない。フーコーによれば、ロゴスに耳を傾けることに関してそれを先導する者、自分自身に耳を傾けなければならない、そのためにロゴスに耳を傾けなければならない、と絶えず口にする者としてのソクラテスはやはり特権的な立場にあるという。ソクラテスが教師であることを拒絶したのは、テクネーの教師の役割であり、誰もが自分自身に専念し、他の人々に専念すべきであるという、ソクラテス的共同体における同等性が見られるものの、他の人々を自分自身への気配りへと、あるいは他の人々への気配りへと先導する者として、他の人々とは異なるとフーコーは主張するのである。

 西洋哲学を通じて辿る二つの大きな道筋

 ソクラテス的実践によって道を拓いた倫理的パレーシアは都市国家の政治と救済の必要性から出現したものであるが、政治的パレーシアとは異質のものになった。フーコーは『ラケス』において、その倫理的パレーシアの実例を明らかにしようとしたと述べ、その実例が注目すべき二つの点を挙げる。一、真理を語る勇気というテーマが、勇気の真理というテーマに結び付けられていること。二、もう一つの結び付き、パレーシアの使用と、自己自身に専念すべし、自己に配慮すべしという原則とのあいだの結び付きであるという。フーコーの意図は、ソクラテス的真理陳述の特徴が『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』の三部作に見られるソクラテスのパレーシアに明確に示されているのを確認した後で、『ラケス』にそのパレーシアが行使されている実例を見ようとすることにある。さらにフーコーが主張しようとすることは、『アルキビアデ

ス』と『ラケス』を比較対象することで見えてくる二つの流れ、「プシュケーへと赴きつつ、可能な形而上学的言説の場所を指し示すもの」と「生存としてのビオス(生)へと向かう自己自身の説明、自分自身に関して理を示すこと」がある。前者は魂の形而上学、後者は生存のスタイル論へと向かう。『アルキビアデス』ででは、「魂を発見することが問題になるときの〈真なることを語るときの勇気〉があり、『ラケス』では、生に形式とスタイルを与えることが問題になるときの、〈真なることを語るときの勇気〉がある。〈真なることを語るときの勇気〉を考えるとき、われわれが注視すべきことは、フーコーがいうように「いかなる代償が必要かを語るリスクである。「身体とは別の魂なる現実を置くという形而上学的リスクではない」とフーコーはいう。「西洋哲学を通じてソクラテス的真理陳述の発達が辿る二つの大きな道筋の出発点」が『アルキビアデス』と『ラケス』にはあるとフーコーは重要な指摘をしている。ソクラテス的パレーシアが追及しているのは、これらの両義性、つまり「魂の存在」と「生存のスタイル」は「魂の存在を見出しそれを語ること」ともまた「生存にスタイルを与える任務」であるとも理解されうるのであるが、西洋哲学において、この二元性が深く刻まれていくことになった。いま『アルキビアデス』と『ラケス』を比較検討することによって、プラトン哲学における両義性と、その後の西洋哲学に見られる二元性を考察できるのではないだろうか。

 フーコーがこの講義録で浮彫りにしようとするのは、「生存の美学」と呼びうるようなものの歴史を見出すことであるが、フーコー自身もいうように、生存の技法を単に研究することではなく、「ソクラテス的パレーシアの出現とその創設によって、生存が、ギリシャ思想のなかで、どのようにして一つの美学的対象として構成されたのか」ということなのである。さらにはもう一方の「魂の形而上学の歴史研究」の必要性も述べている。フーコーによれば、「生を一つの美学的形式の対象として構成するものとしての主体性に関する歴史研究が、魂の存在論が創設され打ち立てられたやり方に関する歴史研究によって覆い隠されてきた」し、「美学的形式に関する研究の特権化によっても覆い隠されてきた」という。フーコーが何より強調したいのは、「人間が存在し行動するそのやり方、人間の生存が他の人々の目および自分自身の目に対して出現させる様相、さらには人間の生存が死後に他の人々の記憶のなかに残すことができるであろう痕跡といったものは、人間にとって、美学的な気遣いの対象であった」し、「それらは人間に対し、美しさ、輝かしさ、完璧さへの配慮をかき立てたのであり、少なくともその同じ人間が神々や神殿や歌に形式を与えるための絶えず刷新される継続的な作業を生じさせた」ということであろう。「美しい生存への配慮がすでにホメロスやピンダロスにおいて完全に支配的なテーマとして現われていた」といい、美しい生存、輝かしい生存、記憶されるべき生存への配慮と、〈真なることを語ること〉への気遣いとのあいだに、ある種の関係が打ち立てられた契機である」とフーコーはいう。つまり、「〈真なることを語ること〉が、西洋哲学の始まりにおいて、ソクラテスとともに現われる倫理的方式のもとで、可能な限り完璧にこしらえるべき作品としての生存という原則と混交したのはどのようにしてか」ということである。生存の技法と真なる言説、美しい生存と真の生との関係、真理のための生というものを把握したかったとフーコーは告白する。

〈真なることを語ること〉の要請と生存の美学の原則が自己への配慮のうちで結び合わされた契機をソクラテスのうちに見出そうとしたし、そこを出発点として、「魂の形而上学の発達と生の美学の発達という二つの発達がどのように現れることができたのか示そうとした」ともフーコーは述べる。例えば、四、五世紀のキリスト教修徳主義のスタイルは、形而上学は恒常的であるのに、大きく異なり、また、ストア主義は、ローマ時代から十七世紀に至るまでほとんど不変である生存のスタイルを定義したし、ストア主義はキリスト教と結びついたりしたとフーコーは指摘する。フーコーはこの後の講義で、キュニコス主義にかなりの時間を費やしている。理由は、キュニコス主義に実践において、一つの生の形式が、〈真なることを語ること〉の原則にしっかりと連接されていることであるとフーコー自身がいう。キュニコス主義的実践にも理論的枠組みがある。しかし、プラトン主義やストア主義、エピクロス主義の理論的枠組みと比べれば、重要性においては限りなく劣るが、キュニコス主義は、生の様式と〈真なることを語ること〉とが無媒介的に結びついた哲学の一形態であるとフーコーは解釈する。ヘレニズム時代やローマ時代の古い形態のキュニコス主義、つまりディオゲネス・ラエルティオス、ディオン・クリュソストモス、エピクテトスに認められるキュニコス主義、ルキアノスあるいはユリアヌスによって書かれたテクストに見られるキュニコス派が、パレーシアの人、〈真なることを語る〉人として特徴づけられているとフーコーは指摘する。

 (次回はキュニコス主義について考察します。)参考文献・M・フーコー『真理の勇気』(筑摩書房)二〇十二年二月刊


『ソクラテスの弁明』とパレーシア 小林稔個人誌「ヒーメロス」より掲載

2016年01月06日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

エセー「自己への配慮と詩人像」(六)その2、『ヒーメロス』14号2010年6月

小林稔

34 『ソクラテスの弁明』とパレーシア

 弁論術批判
 告訴人たちの告訴状が述べられたと思われる直後、それに対するソクラテスの弁明から始まる。冒頭から弁論術に否定的なソクラテスが描き出される。告訴はわれを忘れるほどの説得力がみられた、しかし本当のことは何もなかったとソクラテスは述べる。ソクラテスは、自分は弁論家のように美辞麗句を使わないし、下手な言い方をするかもしれないが、私から真実を聞かれるだろうと五百人のアテナイ市民に語るのだ。ソクラテスを告訴している人たちには二通りいる。永い時間をかけてソクラテスを中傷してきた人たちが以前からいて、最も信じやすい十代の少年たちに噂を吹聴し信じ込ませているとソクラテスは言うのだ。

 諸君の大多数を、子供のうちから、手中にまるめこんで、ソクラテスというやつがいるけれども、これは空中のことを思索したり、地下のいっさいをしらべあげたり、弱い議論を強弁したりする、一種妙な知恵を持っているやつなのだという、何ひとつ本当のこともない話を、しきりに聞かせて、わたしのことを讒訴していたからなのです。(『ソクラテスの弁明』18B)

 中傷され信じ込まされてきたものを取り除かなければならないとソクラテスは考えるが、法廷の場で短時間にそうするのは難しいことだと述べる。もう一通りの告訴人たちは最近ソクラテスを訴えた人たちであり、最初に述べた告訴人たちから吹聴された人たちである。ソクラテスは、まず以前からの告訴人たちに弁明をする。ソクラテスは他の人たちから何らかの知恵を持っていると思われていることは確かなことであろうと考える。
 ところで、『賢者と羊飼い』で中山元氏は、「ソクラテスの演説の背景にプラトンはそのさまざまな対話編において、ソフィストたちの弁論術に絶えず批判を展開していたという。例えば『パイドロス』では、弁論術を教える教師たちは「真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見抜いた人たち」であるとソクラテスは述べ、さらにパイドロスの口を借りて弁論術を次のように批判している。

 将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しいことがらではなく、群衆にー―彼らこそ裁き手となる人たちなのですがー―その群衆の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われるであろうような事柄を学ばなければならぬ。なぜなら、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから、ということです。(『パイドロス』200)

 当時のソフィストたちによって教育されていた弁論術の一端をこのような文面から知ることができるのである。一方、パレーシアは率直に語ることを意味しているが、パレーシアがそのまま真実なのではない。『真理とディスクール』でフーコーは、「パレーシアにおいては、語り手は発言する主体であると同時に、発言されたことの主体でもある」ので、「わたしはこう考える者である」という形になる。「パレーシアでは、語られたことに対する語り手の姿勢は、特定の社会的な状況に、語り手と聞き手の地位の違いに結びついている」と分析している。このことからパレーシアには語り手にとっての危険が絶えず存在することになる。「パレーシアテース(パレーシアをする人)は「あることが真理であることを知っているために真理を語る人である」とフーコーはいう。ギリシアではデカルトが考えるような明証性という経験によってではなく、「パレーシアという発言する行動そのものによって」考えることが真理になると考えら
れる。真理の獲得が問題にならないのは、「語る主体がある道徳的な特質をそなえていれば、真理を所有
していることが保証されたから」であるとフーコーは述べる。道徳的な特質をそなえていることがパレーシアの前提条件なのである。さらに勇気がパレーシアテースの証になる。多数と意見が異なることを語るのはリスクを引き受けることになるからである。したがって王や僭主はパレーシアを行使できないことになる。『ソクラテスの弁明』のソクラテスのように、生命の危険を賭けてするパレーシアでは、自分を偽って生きることではなく、真理を語る者であることを他者との関係で選んだといえるのだ。したがって、フーコーはパレーシアは真理を語る者と真理を聞く者との「ゲーム」として捉えているのである。語り手は聞き手より低い身分にあること、また批判する機能をもっていること、そして真理を語ることがパレーシアに求められていたのである。弁論術がプラトン‐ソクラテスの伝統において、いかに批判の的になっていたかは先に述べたが、パレーシアにとっても対立概念であることに変わりはない。プラトンの書物で問題になったレトリック(弁論術)とパレーシアの対立は、その後数世紀にわたって、哲学の伝統に受け継がれることになったとフーコーは指摘する。(このエセーではすでに考察を始めているが、時代的にはヘレニズム・ローマ期から古代ギリシアに戻ってパレーシアの発生と変遷を考えている。)

 デルポイの証言
 ソクラテスは自分が人間教育をして金銭をもらい受けているという噂を法廷できっぱり否定し、もしほんとうに人間教育というものが可能ならそれは結構なことであると述べる。ここでソクラテスは何人かのソフィストたちの名を挙げ、自分にそういう知識があったならするところだが、自分にはそういう知識がないので人間教育なるものはしていないと明言する。それでは「君が仕事としているのは、何なのだ」という質問に直接答えることなく、デルポイで受けた神託の話をすることになる。

 わたしに、もし何か知恵があるのだとするならば、そのわたしの知恵について、それがまたどういう種類のものであるかということについて、わたしはデルポイの神(アポロン)の証言を諸君に提出するでしょう。というのは、カレイポンを、たぶん、諸君はごぞんじであろう。あれはわたしの、若い時からの友人で、あなたがたの多数とも、同じ仲間に属し、先年はあなたがたといっしょに、国外に亡命し、またいっしょに帰国しました。そしてまた、カレイポンがどういう性質のものだったかということも、諸君はごぞんじだ。あれは何をやりだしても、熱中するたちだったのです。それでこの場合も、いつだったか、デルポイへ出かけて行って、こういうことで神託を受けることをあえてしたのです。それで、そのことをこれからお話しするわけなのですが、どうか諸君、そのことで騒がないようにしていてください。それはつまり、わたしよりも誰か知恵のある者がいるか、どうかということを、たずねたのです。すると、そこの巫女は、より知恵のある者は誰もいないと答えたのです。(『ソクラテスの弁明』21)

 ソクラテスには神の言おうとすることが謎であった。自分は知恵のある者と思ったことはないが、神が嘘をつくことも考えられないからである。その後、ソクラテスはどのような行動をしたか。彼は世間で知恵のある人と思われている人を一人ひとり訪ねたのである。しかしソクラテスには彼らが知恵のある人たちとは思えなかった。彼らにそのことを伝えるので、彼らから憎まれることになったのだとソクラテスは考えたのである。

この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているがわたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。だから、つまりちょっとしたことで、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。(中略)……名前のいちばんよく聞こえている人が、神命によってしらべてみると、思慮の点では、まあ九分九厘までは、かえって最も多く欠けていると、わたしには思えたのです。これに反して、つまらない身分の人が、その点むしろ立派に思えたのです。(『ソクラテスの弁明』21~22)
 
次の部分で興味深い話が語られる。自分より知恵があると思い、作家(詩人)を訪ねていったが、彼らの作品が何を言おうとしているのかをソクラテスが尋ねると、作家よりもその場にいた他の人たちのほうがよくその意味を語ることができたのであった。「かれらがその作品を作るのは、自分の知恵によるのではなくて、何か生まれつきのままのものによるのであり、神がかりにかかるからなのであって、それは神の啓示を取りつぎ、神託を伝える人たちと同じようなものだということです」とソクラテスは語るのである。作家は自分が知恵のある者であるということを、他の事柄についても信じ込んでいることに気がついたのであった。最後に訪れたのが手工者たちのところである。技術上の仕上げが上手にできるからといってそれ以外の大切な事柄についても知恵ある者と勘違いしていたとソクラテスは語るのだ。彼らのもっている知恵を自分はもっていないが、彼らの無知ももっていない。このままでよいのか、それとも彼らの知恵と無知を両方もっていたほうがよいのかソクラテスは考え、そのままにしておくのがよいと考えたのである。神だけがほんとうの知者であり、人間の知恵はまるで価値のないものだということを、あのデルポイの神託は伝えようとしているのかもしれないとソクラテスは考えた。つまり人間の知恵は実際には何の
値打ちもないものだと知った者=ソクラテスが知恵ある者と神は伝えたかったのだと悟ったのである。人間は無知である。ソクラテスは自分が無知であることを知っている。ソクラテスを語るとき、「無知の知」として引き合いに出されることで有名である。中山元氏は『賢者と羊飼い』で、ソクラテスは政治と芸術と技術の三つの分野において真の意味での賢者は存在しないことを確認したのだと指摘する。それぞれの分野の知恵あると思われている人々を調べ上げて反感をもたれ、中傷され、噂が広まったのだとソクラテスは語るのであった。
 
 告訴状の論議
ソクラテスを法廷に立たせたメレトスの訴状は、「青年を腐敗させ、国々の認める神々を認めず、別の新しい鬼神(ダイモーン)のたぐいを祭るがゆえにという訴え」であった。これらのことにソクラテスは弁明をする。青年たちを善い方向へ導くのは誰かをソクラテスはメレトスに尋ねる。メレトスは答えられないでいる。メレトスがこのことに関心を持っていなかったことを明かしているではないかとソクラテスは述べる。苦し紛れに法律とメレトスは答えるが、法律を最初に直接知るのは誰かとソクラテスが聞き返すと、裁判委員とメレトスは答える。すべての裁判官がそうするのかという質問にそうだとメレトスは答える。ここにいる傍聴人もそうするのかという質問にそうだと答える。自分を除くすべての人が青年たちを善い方向に導くということに結論する。例えば馬について言えば、誰か一人を除いて善くするといえるか。実際は多くの人は悪くし例外的に馬事に明るい少数者だけが善くすることができる。同じように青年たちをただ一人の人だけが悪くし、他の多くの人が利益を与えることになる。事実はそうではない。実際は馬事に明るい一人、あるいは少数の人が善くし、大部分の人は悪くするのではないか。青年に対しても同様で、一人が害を与え、他の皆が利益を与えるなら、とても幸福なことだ。したがってメレトスは青年のことなど一度も心配したことがないことを示しているとソクラテスは訴える。また「自分といっしょにいる者から利益を受けるよりも、むしろ害を受けることを欲する者がいるだろうか。」とソクラテスが尋ねると、メレトスは「いない」と答えた。ソクラテスは若者たちを故意に悪くしているのかという質問にメレトスはそうだと断言する。いっしょにいる誰かを悪くすればその者から何か悪いことを受け取る危険がある。しかし彼らの誰もわたしを訴える者がいない。だから害を与え腐敗させていないことになるか、もし悪化させたとしても本位ではないかのどちらかであるから、メレトスはどちらにも嘘をついていることになる。不本意の誤りであれば、法廷ではなく個人的に諭すべきだとソクラテスは述べる。
 メレトスの訴状には「国家の認める神々を認めるなといってほかの新しい鬼神(ダイモーン)のたぐいをおしえているからだ」という訴えがある。日輪は石、月輪は土だと主張しているといってソクラテスを訴えているが、それはアナクサゴラスの間違いであることをソクラテスは明かす。鬼神を認めていることは間違いない。鬼神は傍系の子供である神の子の存在は信じて神を信じないということはありえないことだと反駁する。したがって罪を犯したものではないことをソクラテスは主張し、自分に罪を負わせようとするのは多くの人々の中傷と嫉妬であると述べる。

もし君が、少しでも人のためになる人物なら、いやしくもことを行なうに当たって考えなければならないのは、それが正しい行いとなるか、不正の行いとなるか、すぐれた善き人のなすことであるか、あしき人のなすことであるかという、ただそれだけのことではなくて、生きるか、死ぬかの危険も勘定に入れなればならないなどと思っているのだとしたらね。(中略)……知を探し求める生き方をして行かなければならないことになっているのに、その場において、死を恐れるとか、何か他のものを恐れるとかして、命ぜられた持ち場を放棄するとしたら、とんでもない所業になるでしょう。そしてその時こそ、神々の存在を認めない者として、わたしを裁判所へ引っぱり出すのが、真実の正当性をもつことになるでしょう。(『ソクラテスの弁明』28B~29)

知を愛し求めることを放棄すれば許すというのなら断る。自分が命に従うのは、むしろ神に対してである。ソクラテスは、たましいができるだけすぐれたよいものにする(自己への配慮)ことを人々に説いて廻ることをやめないのは神の命令であるからだと語る。
 なぜソクラテスは公の場で国家社会に提案しないのかという問題が残る。それに対してソクラテスは、鬼神(ダイモーン)からの合図があり行為を止めようとするのだという。この話はプラトンの対話編によく現れる。鬼神がソクラテスに現われるときは否定的な声となって行為に反対するのである。ダイーモンが反対する理由をソクラテスが考えてみると、正義のために身を滅ぼしても闘うのは私人としてあることが必要であることであった。そこでソクラテスはかつての政務審議会の議員になったときの経験を語る。ある裁判の議決でソクラテスだけが反対し、死刑を恐れて賛成するよりは、法律と正義に与して危険を冒さなければならないと考えたのである。事実危ういところで殺されそうになったのである。「公の仕事に従事するとして、善き人にふさわしい仕方でこれに従事し、正義に助勢して、当然またそうであるように、このことを一番大切にしたとするならば、わたしはこの年まで生きのびることができただろうと、そもそ
も諸君は考えられるでしょうか。」とアテナイ人に問いかける。正義に反することは何事においても譲歩したことがない。また誰かの師になったこともないと述べる。それにもかかわらず、ソクラテスの周りに集まり長い時間を過そうとする人たちがいるのはなぜか。彼らは知恵をもっていると思っている人が、調べられ、そうでないことを明かされるのが面白いからであるとソクラテスはいう。私がしているのは神から命じられたことであると語る。もし青年たちを腐敗させたというなら、年月が過ぎて、若いときに悪いことを勧められたことがあるのに気がつくであろう。当人からも家族からも仕返しをしようとする者はいないのである。この法廷に証人としてきている人たちはソクラテスを助けようとしている。メレトスが訴える、青年たちを腐敗させたという主張は虚偽であるとソクラテスは述べた後、有罪か無罪かの投票がなされたが、わずかの差で有罪と票決した。さて刑量を決めることになる。メレトスは死刑を求刑している。利益を得ず自己への配慮を人々に説いただけの貧しい私にどのような刑が至当なのかとソクラテスは問う。禁固刑や罰金支払いや国外追放や沈黙などを挙げるが、どれ一つ受け入れられるものはない。おとなしく沈黙を守ることは神への不服従になるので不可能だとソクラテスは考えたのである。したがってソクラテス自身の口から自分を死刑にするしかないと告げられる。「わたしを死刑にしないでおくことはできない」と。

自己を配慮しないソクラテス
ソクラテスは陪審員である五百人のアテナイ市民に向かっていう、わたしを死刑にすることは、私の損害であることよりも、あなた方自身の損害になるほうが大きいと。わたしの弁明はわたし自身のためではなくアテナイの市民たちのためなのである。「有罪の評決をして、せっかく神から授けられた贈り物について、あやまちを犯すことのないようにというためなのです。」と述べる。次に述べられる「あぶ」の比喩は有名である。神はソクラテスをあぶのようなものとして付着させた。どこへでも人の後を追いかけ、説得することをやめない。「眠りかけているところを起こされる人たちのように腹を立てて」有罪にし、ソクラテスを殺してしまえば、これからの一生眠り続けるだろうと述べる。フーコーは『主体の解釈学』において自己への配慮の三つの注意事項を述べている。一つは自己への配慮を人々に説いて廻るのは先にも触れたように、神によって彼に委ねられたものであったことである。二つ目はソクラテスが他人のことを気づかうのは、あきらかに彼が自分のことを気づかわず、利益の上がる、有利な、他の一連の活動をないがしろにしてのことであるということ。三つ目は、同胞の目を覚まさせる者の役割を演じているということである。そして自己への配慮の問題はキリスト教の始まりまで引き継がれているとフーコーは指摘している。テクストの中で、ソクラテスは「自分自身のことはいっさいかえりみることをせず」と述べている。報酬を受け取ることもせず要求もせず貧乏であることが神に遣わされたことの証明であるというのである。
 
 わたしはどういう了見によるにもせよ、その生活はじっと静かにしているようなものではなかったからというので、何の刑を受け、何を支払ったら、至当だということになるのでしょうか。わたしはしかし、大多数の人たちとは異なり、金銭を儲けるとか、家業をみるとか、あるいは軍隊の四季や民衆への呼びかけに活動するとか、その他にも、国家の要職につくとか、また徒党を組んで、騒動を起こすとかいう、いまの国家社会に行なわれていることには、関心をもたなかったのですが、それはそういうことにはいって行って、身を全うするのには、自分は本当のところ、まともすぎると考えていたからです。それで、そこにはいって行っても、あなたがたのためにも、わたし自信のためにも、なんの利益もあるはずのないようなところへは、わたしは行かないで、最大の親切とわたしが自負するところのものを、そこへ行って、各人に個人的につくすことになるような、そういうところへ赴いたのです。つまりあなたがたの一人一人をつかまえて、自分自身に気をつけて、できるだけすぐれた善い者となり、思慮ある者となるようにつとめ、自分にとってはただ付属物となるだけのものを、決して自分自身に優先して気づかうようなことをしてはならないし、また国家社会のことも、それに附属するだけのものを、そのもの自体よりも先にすることなく、その他のことも、これと同じ仕方で、気づかうようにと、説得することを試みていたのです。すると、このようなことをしてきたわたしは、何を受け取るのが至当でしょうか。何かよいことをでなければなりません。アテナイ人諸君、もしも本当に、至当の申し出をなすべきだとすればです。(『ソクラテスの弁明』36B~D)

 「自己に専念せよ」というソクラテスの、自分を犠牲にすることで、つまり自己を配慮せず行動することで生じる矛盾を考えなければならない。『ソクラテスの弁明』のテクストには解決の糸口が描かれていない。フーコーは『主体の解釈学』で、師の占めるべき位置であることを示唆するだけである。自己への配慮の問題はヘレニズム・ローマ期や初期キリスト教へと引き継がれていくが、プラトン‐ソクラテスのテーマは、哲学者の生のあり方とエロス論において解決されるであろう。(このエセーでは章を改めて論述する。)

死への旅立ち
 ソクラテスが有罪になり死刑になるのは、法廷での弁明が失敗したからと思われるだろうが、そうではない。他の人ならするであろう泣き喚くことはわたしにふさわしくないことであり、卑しい行いだとソク
ラテスは考える。「裁判の場合にしても、戦争の場合でも、わたしにかぎらず、他の誰でも、死をまぬかれるためには、何でもやるというような、そうゆう工夫は、なすべきものではない」とソクラテスは語る。死をまぬかれるより、悪化(堕落)をまぬかれるほうがずっとむずかしいという。そしてソクラテスは自分を有罪の投票をした聴衆に向かって言う、「人を殺すことによって、人が諸君の行き方を間違っていると非難するのをやめさせようと思っているのなら、その考えは間違っている。…(中略)むしろ他人を押さえつけるよりも、自分自身を、できるだけ善いひとになるようにするほうが、はるかに立派で、ずっと容易なやり方なのです。」と述べ、無罪の投票をした聴衆には、「死ぬことが災悪だと思っているのなら、そういうわれわれすべての考えは、どうしてもまちがいでなければなりません。なぜなら、例の神の合図(ダイモーン)が、わたしに反対しなかったということは、わたしのまさにしようとしていたことが、何かのために善いものでなかったら、どんなにしても、起こりえないことだったのです」と語るのである。
さらに死は無と同じで何も感じないことなのか、それとも、たましいが別の場所へ移動することなのか。前者であれば、夢を見ないほど熟睡した夜と、全生涯の昼と夜を比較し、この夜よりもっとよく、楽しい昼と夜がどれほどあったかを考えたら、多くの人は数えるほどしかないであろう。したがって死が眠りのようなものであるとしたら、生涯の全時間はこの一夜より長いようには思われないから、儲けものであるとソクラテスはいう。後者であるなら、旅に出るようなもので、ハデスに行き着けば、自称裁判官から解放され、言い伝えにある本物の裁判官が見られるのなら、すばらしい暮らしになるであろう。不正の判決で殺された昔の人たち出会えるのだからである。そこの人たちを、誰が彼らの中の知者と思っているがそうではなかと調べ暮らすことは最大の楽しみである。オデュッセウスやシシュポスなどと親交を結び、吟味することは計り知れない幸福であり、そこでは、もう死ぬことはないとソクラテスは語るのであった。
 ソクラテスは「デルポイの証言」を確かめるために、政治家、芸術家、技術者のもとを訪れ、彼らは自分を知恵ある者と信じていることを否定した。中山元氏によると、これらの行為は政治的なパレーシアではなく、道徳的なパレーシアであり、「神が語る真理でもなく、書物に書かれた真理でもなく、教師から伝授される真理でもなく、生きたソクラテスとの対話のうちで、自分についての真理を自覚するようになっていたのである」と述べている。青年たちとの会話でソクラテスはいつも、「無知であること」を聞き手に気づかせる。『アルキビアデス1』においても例外ではなかった。むしろ自己への配慮を相手に求めるための前提であったのである。デルポイの神託として神殿の敷居に刻まれていたという「汝自身を知れ」の銘は「自己自身に配慮せよ」とつがいのように古代ギリシアでは考えられていたとフーコーが指摘していることは、このエセーの初めに述べたことである。

35 プラトン対話編『ラケス』における道徳的パレーシア

真実の言説を獲得するには、主体と真理の間に強い結びつきがなければならず、保存し必要なときいつでも語ることができるようにすることが求められたが、ヘレニズム・ローマ期では、師から弟子に伝えるという点で技術的かつ倫理的な問題が生じてきたとフーコーは指摘する。両者に要請されるものは異なるのである。弟子に課せられるのは沈黙であり、師には何をどのように語るべきかが要請される。ここでパレーシアが師に求められているのである。ソクラテス‐プラトンの伝統では、パレーシアとレトリックは対立するものであったことは先に述べた。話し手が一人で長時間話すレトリックの装置に対して、ソクラテスは対話という技術を使っている。プラトン以後も数世紀にわたってこの対立は受け継がれたとフーコーは述べている。

プラトンの対話編『ラケス』におけるソクラテスのパレーシアを見てみよう。息子の教育をしてくれる者を探している二人の人物、アテナイ名家の出身のリュシマコスとメレシアスがまず登場する。彼らはラケスとニキアスという別の二人の市民に息子の教育者のことで相談する。リュシマコスとメレシアスは社会的に何も貢献しなかった人物たちである。名門の出でありながらなぜ重要な役割を果たさなかったかを自問したとき、教育が欠けていたことに気づいたのである。この時代にはソフィストと自称し若者に教育を施そうとする多くの人々がいた。彼らが教えるのは弁論術である。政治的な制度と決定について真理を語ることのできるパレーシアテースが政治的な分野で求められていたので、教育の分野でも真理を語る教師が求められていた。相談役の一人、ニキアスは重要な政治指導者で、戦場で勝利を収めることのある将軍である。もう一人の相談役のラケスは有名な将軍ではあるが政治的に重要な役割についていない。リュシマコスとメレシアスはステシレオスという甲冑技の教師は息子たちの教師として相応しいかを相談する。相談されたニキアスは、戦闘の技術が上手いのでステシレオスという教師を褒めるのだが、ラケスは、ステシレオスは戦闘で実際に勝利を収めた経験がないという理由で反対する。彼らは教師を誰にするか決
定できずにいたが、ソクラテスに考えを聞こうという考えに全員が合意したのであった。
 ソクラテスは当然、教育は魂に関わる事柄であることを指摘し、教育は技術の習得ではな意ことを指摘する。息子の教育者を探していたリュシマコスとメレシアスは自分たちに欠けていた教育を息子に与えようとしていたのであったが、その教育とは軍事上、政治上の技術の習得であった。魂の教育を主張するソクラテスとは合うはずがない。しかし、自己への配慮なしによい政治家になることはできないというプラトンの主張をもって、この対話編は技術の教育から魂の教育へと転回していくのである。相談役のニキアスにはソクラテスと対話した経験が以前にあり、彼の語る言葉からパレーシアスとしてのソクラテス像がうかがえるとフーコーはいう。

ニキアス「誰でもソクラテスのすぐ近くにあって、そして近づいて彼と話をするなら、その人は、そのなんですよ、たとえ何か他のことについてその前に話を始めたにしても、彼によって言論を以って引き回されて、遂には自分自身について、どんな仕方で現在生きているのか、またどんな仕方で過去の生活を生きてきたか、それらを説明することにならぬうちは、やめて貰えない、しかし陥ったら最後、ソクラテスはそれらをことごとく十分にそして立派に試験してみるまでは、その前にその人を手放しはしないということをね。……(中略)……もしひとが、そんな目にあわされることを避けず、むしろソロンの言葉に従ってそれを喜んで、生きているかぎり学ぶことを善いことと認めるなら、そして人は将来の生活のために、もっと心を用いるところがなくてはなりません。……(中略)……さっきから承知していたのです。ソクラテスが傍らにいるなら、話はわれわれの若者たちについてではなく、われわれ自身についてされることのなるだろうことをですね。だからこれは私の言ったことですが、私のほうとしては、ソクラテスの欲する仕方で、彼との話に時を過すことに差し支えはありません。」(プラトン『ラケス』山本光雄訳) 

 このように、ソクラテスのパレーシアの特徴の第一は、一対一で面と向かってする個人的な関係でなされるという点にある。第二に聞き手はソクラテスに導かれ、自分自身についてどんな仕方で生きているか過去はどうであったかなど、自己についてのロゴスを語る営みを始めることであると、フーコーは指摘する。ソクラテスは相手に自分の生を語ることを求めるが、自分の生涯に起きた歴史的な出来事を語るのではなく、自分の語ることのできる理性的な物語(ロゴス)と、自分の生き方の間に、ある種の関係が構築されていることを示せるかどうかが重要であるとフーコーはいう。つまりロゴスと生き方が調和しているかどうかである。ソクラテスの役割は、このテクストでは「試金石」という言葉で描かれていて、生き方とロゴスが調和しているかどうかを調べる視点から、ソクラテスとのパレーシアを描き出しているとフーコーは分析する。ラケスはニキアスと違ってソクラテスの対話の経験はなく哲学的な議論を嫌う実践的な人物として描かれている。しかしラケスはかつて自らが指揮した軍でのソクラテスの勇気ある行動を目撃しているので、理論と実践が調和しているソクラテスを知っていた。したがって、ソクラテスとの対話をする用意ができていることを語る。ソクラテスが生の試金石であることを決定できるのは、ロゴスと実践の調和している人物であるとラケスが認めたからである。
 対話編『ラケス』の眼目は、副題にあるような「勇気について」の定義を考察するものではなく、つまりロゴスに関わる定義を求めるのではなく、生における道徳的な生き方と自己を配慮する気遣いこそが重要であることを明らかにすることにあると、中山元氏は指摘する。
 これまで「自己に配慮せよ」と人々に機会あるごとに伝えていたソクラテスの使命は、人が自己に配慮することを気づかせることであった。ソクラテス自身は自己に配慮しているのかという疑問があったが、『ラケス』で描かれるソクラテスでは十分に自己に配慮している姿がうかがえるといえよう。生とロゴスが調和していると認めたからこそ、ラケスはソクラテスとの対話を受け入れ、生に吟味をしようとしたのである。ソクラテスと比べることで試験されるのだ。しかし中山元氏は、『ラケス』に描かれたソクラテスは、どこか「神の賜物」として行動している印象があり、自己の配慮を薦めるソクラテス自身の自己の配慮がされていない、つまり自己の配慮を無にしているように見えると指摘している。一方、ソクラテスはエロースの道、相互的な友愛の関係において、それは解決しているのではないかとする。中山氏は、プラトンは友愛とエロースの関係性のなかで道徳的なパレーシアを展開しているとして『賢者と羊飼い』の「エロースの弁証法」で、プラトンの対話編『饗宴』と『パイドロス』に見られる二つの異なるエロス論を進めている。自己への配慮を説くソクラテス自身が自己の配慮を無にしているという「パレーシアの逆説」は、友愛とエロースの関係における道徳的パレーシアのあり方に解消していると中山氏は主張する。このプラトンの二つの対話編は、私にとって青年期から生の里程標となっていたものである。再度読み直し、パレーシアという視点から考察を進めてみたいと思う。

参考文献
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(二〇〇四年筑摩書房)・ミシェル・フーコー『真理とディスクール』(二〇〇二年筑摩書房)
中山元『賢者と羊飼い フーコーとパレーシア』(二〇〇八年筑摩書房)・マルクス『エピクロスの哲学』(一九七五年大月書店)
プラトン『ソクラテスの弁明』・『ラケス』・『パイドロス』(プラトン全集一九八六年岩波書店)


[フーコーの変貌と真理ゲームという概念 小林稔「自己への配慮と詩人像」より掲載

2016年01月01日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(六)  『ヒーメロス』14号2010年6月10日発行
小林 稔

30 フーコーの変貌と「真理ゲーム」という概念

 プラトンを中心とする古代ギリシアの哲学は、紀元前一世紀から紀元一、二世紀のヘレニズム・ローマ期に継承され、真実の言説を主体化する技法や実践が重んじられたが、それがどのようなものであったかをフーコーに導かれながら考察してきた。第一段階は聴くこと、読むこと、書くことについてフーコーの分析に沿って辿ってみた。聴くこと、つまり聴覚はロゴスを主体が摂取するときの重要な関心事であった。プラトンの『国家』では、音楽と詩を一括りにして危険視される、いわゆる詩人追放論なるものを考えてみた。すべての感覚のうちで聴覚は最も受動的であるがゆえに、欠点と利点の両方を備えているのである。グレコ・ローマン期の哲学者によって、聴覚は強く魂を魅惑させるものであることから、理性に対する敵対とロゴスへの覚醒の両義性が説かれた。聴覚はセネカによっても尊重されたが、やはりある種の技法が必要であると主張された。また書くことと読むことにおいてもさまざまな技法がストア派の哲学者たちによって考察された。キリスト教との比較において論述を展開してきた。(キリスト教については次回以降、独立して詳しく論じる予定である。)
 主体は、真理の主体になるため、まず真実の言説を師から聴くことを求められた。導かれる者は沈黙を強いられ、師の言説には真理が求められたのである。弟子において主体化される真実の言説の方法論を考えるとき、そこに見えてくるものがパレーシアという概念であった。パレーシアとは語る主体に要求される道徳的資質であるとフーコーは述べる。ここまでが前回の概略である。今回はパレーシアについてさらに考察してみたい。(前回に論じたプラトンの「詩人追放論」は聴覚の受動性に関連して挿入した論考であり、パレーシアとは直接の関連性はないことをお断りしておく。)

 フーコーの書物あるいは講義録にパレーシアという概念が表れたのは最晩年のことである。より詳しく
は、この論考が準拠する『主体の解釈学』(一九八二年の講義)の後半部分から表れ、『真理とディスクー
ル』(二〇〇二年筑摩書房刊)は、パレーシアについての一九八三年カルフォルニア大学のバークレー校の講義を書物にしたものであるが、そこではパレーシアが中心テーマになっている。この書物の訳の巻末で、中山元氏によるフーコー哲学の転向が解説されている。パレーシアを論述する前に、パレーシアという概念がフーコーに訪れた推移を辿ることは、私が書き進めているこのエセーを理解するためにも必要なことなのでここで紹介しておくことは無駄ではないだろう。
 中山氏によると、フーコーは初め考古学的見地から真理の問題を考えていた。それはカントから示唆されたものである。カントは理性の考古学を考えることで、人間の思考の前提条件となっているものを探求しようとした。それに対して、フーコーは真理が可能となる前提条件を考察することを構想した。ある命題が「真理」と判断されるためには、どのような歴史的条件が必要とされるかを考えたのである。中山氏は進化論の例を挙げ、「進化論の命題が真理として認識されるためには、生物についての概念がアリストテレス的な伝統から一新される必要があった」「そのためには、古代や中世のエピステメーから、近代のエピステメーへと、知の枠組みが変動する必要があった」ように、永遠不動の真理などはなく、それぞれの時代の知の前提条件での真理に過ぎないということであろうと述べている。『言葉と物』の基本的なコンセプトはここにあると思われる。
 しかし、そこに留まらずフーコーは、「真理を語ることがいかに権力を生むか、他者の語る真理に服することで、どのような権力的な場におかれるか」を重要と考えるようになったと『真理とパレーシア』の巻末の解説で中山氏は述べている。今度はニーチェの系譜学から示唆されたのである。真理の考古学から真理の系譜学へと移行した。「ニーチェが示した系譜学という概念は、ではなく、という観点から、真理の問題を考察するものである」と中山氏は指摘する。ここでも真理は相対化される。「誰がどのような意図で語るかを考えなければならないし、現実世界での役割を考えなければならない」、「真理を権力との関係で分析するという視点を貫こうと」したと中山氏は述べる。『狂気の歴史』や『監獄の誕生』などの書物の基本テーゼであろう。
 フーコーの転向はここで終わらなかった。さらに「一九七〇年代末から一九八〇年代はじめに」、「真理を語る主体という側面から考察する必要がある」と考え出したのである。「真理を語る主体の変貌」を語り始めるようになったのである。それはまたフーコー自身の哲学の変貌でもあったのであろう。(私は、パリ滞在を含むヨーロッパ、アジア、アフリカ放浪から帰ってきたばかりで(一九七六年十二月三十一日)、次の年からアテネフランセに一日中立てこもり、フランス語の学習はもとより、ギリシア語、ラテン語、フランス文学、フーコーの哲学をフランス語で行なわれる授業を受講していたころである。『オイディプス王』『アエネーイス』『オーレリア』『性の歴史』『狂気の歴史』などを学んでいた。『性の歴史』の授業では、フーコーが第一巻『知への意志』を刊行したまま(一九七六年のフランスで刊行、日本語訳は一九八六年刊行新潮社)、八年間の沈黙の時期を迎えていた。「知への意志」を原書で読みながらオードブラン夫人(アテネフランセの教師)の配布するフーコーの最新インタビュー記事などを読んでいた。)今になってみれば、『主体の解釈学』の巻末に、この書物の校閲者であるフレデリック・グロの詳細な解説やその後のフーコーへのインタビュー、講義録などによって、沈黙の八年間にフーコーに何が起こっていたのかが知れるのである。
 例えば「講義の位置づけ」で引用されているフーコーの『快楽の用法と自己の技法』(一九八三年)を書き出してみよう。「哲学が思考自身への思考の批判的作業でないとしたら、今日、哲学とはいったい何であろう。もし、また哲学の本領が、自分の知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であるか」。この発言をグロは、一九七六年から一九八四年の間の変化を知る意味で重要であるという。そしてまた、この私のエセーの骨格とする『主体の解釈学』にまとめられた、一九八二年のコレージュ・ド・フランスの講義は決定的に重要であるとグロは指摘する。

 最近(二〇〇八年筑摩書房刊)出版された『賢者と羊飼い・フーコーとパレ-シア』という書物で、著者の中山元氏は、「哲学者の語る真理そのものよりも、真理を語る哲学者に注目することで、ヘーゲルとはまったく異なる哲学史を試みた」ものとして、カール・マルクスの若き時代の学位論文『デモクリトスの自然科学とエピクロスの自然哲学の差異』を取り上げ、晩年のフーコーの哲学的行為との類似性を指摘している。マルクスはヘーゲルのように哲学の思想の真理性に注目するのではなく、真理がどのように語られるかという視点から、真理を語る賢者の像を重視しようとしたと中山氏は指摘する。マルクスは「賢者が真の学問の現実の姿として示される」ことに関心をもち、真理を語る個人の歴史という観点からギリシア哲学を描き出そうとしたのである。七賢人とされる初期の賢者、ソクラテス、ストア派とエピクロスの賢者に分けられる。「神が賢者の口を借りて真理を語る。アテナイの人倫のうちに、生身の身体をもってごく自然に生きている」のが初期の賢者の姿であり、そこから「この人倫が神の境地から独立してくる」ようにな
り「生ける芸術品として登場する」と中山氏は述べる。マルクスは『エピクロスの哲学』(大月書店刊)において「民衆はみずからのうちから、それが彫塑的な偉大さで登場するのを見る。最初の賢者たちの場合と同じように、彼らの活動が普遍的なものを形成するところでは、彼らの発言は現実に適用する実体、つまり法律となる」と述べる。しかし、ソクラテスにおいてこのような関係は破綻した。「ソクラテスはアテナイの人倫ではなく、みずからの魂に聞こえてくる声、ダイモーンに従ったからである」。つまり、ソクラテスは「神の言葉でもなく、アテナイのポリスの人倫の真理でもない。」実体をもたぬ主観性なのである。彼は人々の足を止め、みずからの魂の配慮について説教を続ける賢者なのであると、中山氏はマルクスの考えを要約する。次の三番目の賢者は、ストア派とエピクロスである。彼らはプラトンとアリストテレスを継承する賢者である。「エピクロスはデモクリトスの自然哲学を作り替えることで、心の平静を保ち神について観想するソフォスとなりえたか」をマルクスは述べているという。ソクラテスには語るべき真理はなく、ひたすら魂の配慮を求め、実質的な内容は語られず、無知の知が打ち出されるだけである。プラトンの描くソクラテスはイデアの理論を説く人物として存在するが、ソフォスとしてのソクラテスはそのような人物である。中山氏は、マルクスは「真理を生きる者である賢者の変身の経過が、ギリシアの哲学の進展を象徴し、それを動かしていくと考えた。この生き方の系譜と語られる真理の系譜には深い絆がある」と指摘する。このようなマルクスの視点とフーコー晩年の視点の類似性は興味深いことである。転向後のフーコーは病に倒れるまで、「真理を語る主体の系譜学」とも呼ぶべき学を展開していった。

 先に述べたように、「真理を語ることでどのような主体が構成されるか」という視点から、真理のゲームという概念が誕生したのは、カント、ニーチェと示唆されてきたフーコーが、次はウィトゲンシュタインの言語ゲームという概念に示唆されたからであると中山氏は指摘する。ウィトゲンシュタインの言語ゲームの理論では「言語とはなにかという問いを拒む。語の定義というものは、語によって語ることができない」、「これは自己言及的な悪循環に陥るからである。」「語を語によって定義するのではなく、実際に使われる方法によって認識する必要がある」という主張であると中山氏は述べる。フーコーに引き寄せて考えれば、「真理の本質について語るのではなく、現実の世界という力関係の場において、どのようにして真理が語られるかを考察することが重要になった」(中山氏)のである。パレーシアとは現実世界で真理を語ることであるが、「言語ゲームと同じように」「真理を語る主体にとって、真理を語るという行為がなにを意味するのかが問われ」、「さらに言語行為の理論と同じように、真理が語られることによって他者のもとに生み出されるさまざまな影響を考察する」。つまり「真理を語る主体と真理を告げられる他者との関係に焦点をあてようとする」ことであると中山氏は解説している。
 『主体の解釈学』の訳者、廣瀬浩司氏の巻末の解説によると、権力は変更可能で流動的な諸関係の総体として分析されるべきだという「監獄の誕生」以来の定義をあらためて確認したうえで、このような「権力の戦略的領野」としての「統治性」の分析においては、自己との関係の分析が不可欠であることを強調し、そしてこの関係においてしか、政治的権力に対する「抵抗点」はないかもしれないとフーコーは付け加えていることを指摘する。「戦略の根拠を、権力側からではなく、いわば内側から組織し直すものであるとも言える」といい、「主体への移行はといえるような、個人的で主体的な経験の図式が規定され始めたのは、十九世紀以降である」というフーコーの記述から、「抵抗の可能性」という問題の立て方を、より広い射程で考え直そうとしているように思えると廣瀬氏は述べる。「真理を語る主体」についての考察においてパレーシアという主題が重要になってくるのだという。ここまで確認した上で、パレーシアについてフーコーの語ることに耳を傾けてみよう。

31 エウリピデスの悲劇に見られるパレーシア  

 フーコーは『真理とディスクール』の冒頭で、パレーシアという語の定義をしている。語の意味は「率直に語る」ことであるが、それだけではまったく十分ではない。そこにはさまざまなパレーシアのゲームがあるのだ。最も早くこの言葉がギリシア文学に登場するのはエウリピデスの悲劇であるとフーコーは述べる。紀元四世紀末と五世紀を通してキリスト教の文献にも表れ、パレーシアを行使する人をパレーシアステースと呼ぶ。真実を語る人という意味である。しかし先述したように、フーコーはそこで語られる真理とは何かということに関心を寄せているのではなく、真理を語る主体に、真理を語ることが何を意味するのかを分析しようとしている。真理を語る主体とそれを受け止める他者との関係を考察するのである。十七世紀のデカルト以降の哲学では、明証性が導き出されるまで真理と見なされることはない。それに対して、古典古代のテクストでは、語る主体が道徳的な特質をもつ人であれば真理を所有していることが保証されたのである。このように時代により前提条件が異なれば真理とされるものが異なる。先述した「真
理のゲーム」とフーコーの呼ぶ所以である。紀元前五世紀から初期キリスト教の時代のパレーシアをフーコーは分析しようとしているのだが、当然ながらパレーシアには変遷が見られ、フーコーは、弁論術、政治、哲学との関係から詳細に論じている。
『真理とディスクール』の第二章第一節(p32~p112)において、フーコーはエウリピデスの六つの悲劇を取り上げ、さまざまなパレーシアの特性を指摘している。手短に挙げてみよう。
 『フェニキアの女たち』では、オイディプスの息子たち、兄エテオクレスと弟プリュネイケスの争いがテーマである。遺産を「鋭い剣で分けあうがよい」という父親の呪いの言葉を回避するため、一年ごとにテーバイを交互に支配すると取り決め、まず兄が統治するが、一年後に兄は弟に王座を譲らなかった。弟は兄から王座を奪いテーバイを占領するため軍を進める。それを知ったイオカステ、つまりオイディプスの妻にして母親、しかも彼らの母親である彼女は、争いを回避するため話し合いを提案する。イオカステは兄ポリュネイケスにテーバイを追われて苦しかったかを尋ねる。ポリュネイケスは答える。「何よりもまず、自由にものが言えぬこと」が辛いと打ち明ける。「自由にものが言えぬ」とは「パレーシアができないことを意味する」のである。「それは奴隷と同じことですね」とイオカステは声をかける。つまりパレーシアの権利を失っていることはいかなる権利も行使できない「奴隷の境遇」にあることであるし、また支配者に対して批判できず、支配者の権利に制限を与えるものがなくなるということであり、パレーシアとは支配者を批判し支配者の権力に制限を加える権利であるということがわかるとフーコーは述べる。
 『ヒッポリュトス』は、義理の息子ヒッポリュトスを愛するファイドラの物語である。ファイドラは相手の名を明かさずに乳母にこの恋を打ち明けるが、その直後に、身分の高い女性が夫以外の男と密通し夫や子供に恥をかかせる例を語り、母親を誇りに思っている息子にパレーシアの権利を行使して欲しいと願う。男性は家族の不名誉を意識すると奴隷になってしまうとファイドラはいう。つまり、市民の地位にあるものに与えられるパレーシアは、市民であるだけでなく社会的な資格と道徳的な資格が必要であることを示しているとフーコーは指摘する。
 次に『バッコスの信女』では、キタイロンの住む王の羊飼い、王の伝令である男が、バッコスの信女たちが山で混乱と無秩序を引き起こしているので王に報告する。ギリシアでは喜ばしい報せをもたらす使者は報われ、悪い知らせを伝える使者は罰せられる伝統があるので、王に、「パレーシアを行使し、知るかぎりのことを伝えてもよいか」と尋ねると、王はほんとうのことであれば罰しないことを約束する。ここでは、パレーシアテースになるのは自由人だけでなく召使にも許されているが、正直に話さない限り、パレーシアの権利を行使できない。もし王が立腹すれば真理を認識できない悪しき支配者になることになる。いうなれば「パレーシア契約」というものを認めることであるとフーコーは指摘する。これには制度的な裏づけはないので王の道徳的な義務に過ぎず、羊飼いにとっては真実を語ることでリスクを負うという理由から、契約はそれを減らすことを目指していると指摘する。
 『エレクトラ』は、娘を神の犠牲に捧げられた母親の怒りと姦通が重なって悲劇的な結末をもたらしたアガメムノン家の伝説を物語る悲劇である。僭主でありクリュタイメストラの愛人であるアイギストスの二人がアガメムノンを殺したので、息子のオレステスが父の仇討ちをした。その直後にパレーシアが行使される。オレステスは死骸を隠しておいたので、母親のクリュタイメストラはアイギストスが殺害されたことを知らず、娘エレクトラに会う。エレクトラは奴隷のような地位にいる。母親とエレクトラは対決する。母親は、夫を殺したのは娘イフィネゲイアを神の犠牲にしたからであることを語る。「さあ、言い分があるなら言ってごらん。何でも言いたいことを言って、答弁するがいい、お前の父親の死が不当であることをね。」「なんでも言いたいことを言う」がパレーシアという言葉で述べられている。エレクトラは言いたいことを述べた後で殺されることを恐れるが、パレーシアを行使する。母親のクリュタイメストラは女王であるのでパレーシアはしない。パレーシアはクライの下の者が上の者に真実を伝えるときに使うものだからからである。すぐ後で息子オレステスと娘エレクトラは母親を殺すことになる。ここでも「パレーシアの契約」が取り交わされたが、パレーシアの権利を認めた者(母親)が、パレーシアを懇願した下の位の者(エレクトラ)によって殺されることになる。『バッコスの信女』とは逆転している、いわば「逆向きの罠」であるとフーコーは述べる。

32 神の沈黙をテーマとする『イオン』

 エウリピデスの悲劇のいくつかを取り上げてきたが、『イオン』と『オレステス』についてはフーコーは詳細な解説を試みている。序幕(プロロゴス)で劇の背景をヘルメスが語る構成を取る。それによると、アテナイの初代の王エレクテウスにはクレウサ、ケクロプス、オレイチュイア、プロクリスなどの子供たちがいた。娘クレウサだけが生き残り、アテナイの王家を継ぐ。ある日、崖の下で花を摘んでいたクレウ
サをアポロンは強姦する。クレウサはやがて男の子を産む。父のエレクテウスにはこのことを知られたく
ないので、子供を置き去りにする。アポロンはヘルメスに子供をデルポイ神殿に運ぶよう命じる。やがてこの子は神殿で育てられ、神の僕(しもべ)になる。この子がイオンである。アポロン以外にはこの子がどこから来たかは知らない。母クレウサはこの子のことはどうなっているかわからず、死んでしまったと思っている。クレウサは異邦人のクストスという人と結婚する。クストスは異邦人なので、アテナイで暮らすにはさまざまな問題が起こる。それを変えるには子供をもうけることが重要になるが、子供を授からないでいた。そこで彼らはデルポイに行き子供が生まれるかどうかを聞きにいく。クストスは子供が生まれるかどうかを尋ねるが、クレウサはアポロンとの間にできた子供はどうなったのかを尋ねたのである。
 アポロンの僕イオンは神殿の戸口で出会う。しかし母親と息子であることは互いに知らないのである。母と子が互いを知らないことは『オイディプス王』と同様の設定になっている。しかし『オイディプス王』では最初から真理を語るアポロンに対して『イオン』ではアポロンは最後まで沈黙を貫くのである。前者では人間は神の語る真理を回避しようと努力するが、後者では真理の解明に励むのは人間のほうである。「むりやりに利益を求め、またかりにそれを手に入れたとて、何になりましょうか、神々が進んで与え給うものこそ、私たちを益するのです。」とイオンは語る。劇の最後ですべてのことが明かされるが、アポロンは最後まで現われず、アテナ女神がアポロンの伝言を携え登場することになる。「かのアポロンは、過ぎし日への咎めが表沙汰にされぬよう、そなたらの面前に現われるのをはばかって、わらわをさし遣わし、かく言伝し給うー―」と語り、イオンに向かって「そなたを生んだのはこれなる女、父はアポロンである、してそなたをかのクストスに授けたのは、産みの父なるゆえにではなく、そなたがいとも高貴なる館の世継ぎとして、認められんがためである。しかし事の秘密が洩れたために、そなた母の策略により、また母はそなたの手にかかって、あやうく死なんとするところを、御神が然るべき手段もて救い給うたのだ。神の御意図では、一応そのことは伏せておいて、アテナイに返ってから、はじめてこの女がそなたをわが子と認め、またそなたも、自分が彼女とポイボスとの間に生まれた子であることを知るように、事を運ぶ手筈であった」と説明する。この悲劇では沈黙と罪は神の側にある。神の沈黙に抗しながら人間がなんとか真理を発見し、真理を求め闘うことに中心のテーマがあるとフーコーは指摘する。アポロンは「反パレーシアステース」であり、イオンとクレウサがパレーシアを行使する者であるという。神はクストスに神殿を出て最初に会うのが息子だと告げるが、それは嘘で神殿の戸口で待ち構えるのはイオンだったからである。つまりアポロンは真理を語る者ではなく嘘つきなのだとフーコーはいう。クストスは自分の息子だと信じて喜び抱擁するがイオンは突き放す。二人の質疑応答が始まる。父親が異邦人であれば子供はアテナイの市民と認められないという不安がイオンの脳裏を掠める。エウリピデスはこの場面でアテナイの政治生活や王政の政治生活を批判しているとフーコーは指摘している。イオンは一方ではエレクテウスを継ぐ第二代の王家の後継者を望んでいる。最後の場面にならなければ真理は明かされないので、この時点では私生児と見られることを心配するが、最初はイオンを客人として迎え、息子であることは隠しておき、しかるべきときに息子として後継ぎにしようというクストスの提案をイオンは受け入れるのである。イオンは母親がアテナイの女性であることを望むが、それはパレーシアの権利を享受しようとするからである。民主制と王政をイオンが批判的に語るのは、イオンがパレーシアテース的な人物であるからだとフーコーは指摘する。母親が不明ではパレステースの権利はない。イオンにそうさせているのはアポロンが反パレーシアステースだからである。母クレウサが真理を語ることで息子がパレーシアステースになれる。したがって母クレウサもパレーシアテース的な人物であるとフーコーはいう。
 クレウサの方からパレーシアを分析してみよう。イオンによる政治的パレーシアとはまったく異なり、アポロンの過ちを公の場で糾弾しようとする。アポロンが自分にした強姦という行為、息子を奪い、クレウサの問いに答えないこと、クレトスに息子を与えたことに憤怒し、真実を語ることを決断する。『オイディプス王』では、アポロンの語る真理が信じがたいものだったので、人間はアポロンの神託を受け入れなかった。それに対して、『イオン』では、アポロンは嘘をつき沈黙するので、人間が真理に導かれていくのである。クレウサはアポロンの嘘でイオンがクストスの実の息子だと信じている。クレウサの糾弾がパレーシアであるのは、自分よりも強い権利を持っているからである。クレウサの批判は長い詩行で書かれているが、その特徴を挙げると次のようになる。公的な場での非難であること、光り輝くアポロンの姿と、洞窟の暗がりで若い娘を強姦するレトの子という姿の対比、竪琴を弾く音楽の神アポロンと泣き叫ぶクレウサ。彼女のパレーシアは自己告発、自分自身についての真実を告発するものである。イオンとクレウサのそれぞれ違ったパレーシアを並列することで、最後に真実が明かされるとフーコーは指摘する。イオンがクレトスの実の子供だと信じるクレウサは、イオンを殺そうとし、それに気づいたイオンは逆にクレウサを殺そうとする。これはオイディプスの状況を逆転させたものであるとフーコーは主張する。
 この悲劇で、真理が開示される場がデルポイからアテナイに移動し、アテナイ市民のパレーシアによって、神々が人間に語るものではなく人間が人間に語るものとなったことをエウリピデスは伝えたかったのだとフーコーは指摘している。
 
33 『オレステス』に見られる政治的パレーシア

 エウリピデスの悲劇『オレストス』は、貶めた意味でパレーシアが使われているエウリピデス唯一で最後の劇であるとフーコーは語る。オレステスはエレクトラとともに母クリュタイメストラを殺したために裁判にかけられている。まずフーコーは『真理とディスクール』において、『オレステス』884~931の長い引用をしてアテナイの刑事裁判の手続きを解説する。市民のすべてが集められ、伝令が事の次第を読み上げた後、「発言を求めるものはいないか」と尋ねる。平等な発言の権利を示すものであり、イセ―ゴリアと名づけられたものである。最初に発言を求めたものはタルチュビオスとディオメデスであった。前者は、ホメロスの世界から借りてきた神話の英雄であり、アガメムノンがトロイア攻略の際、使者の役を果した者であり、権力者に依存する自由人とは言いがたい人物である。したがって率直に話すことのできない男である。母クリュタイメストラとその愛人アイギストスを殺したオレステスを有罪とすると主張する。後者は比類ない勇敢さと雄弁において広く知られていた英雄である。前者とは異なり自立した人物であり、穏健な解決策、殺人に対する伝統的なポリスからの追放という処罰を提案する。両者の意見に市民たちの意見も分かれるのであった。次に登場する二入の人物は神話上の英雄ではないので名前は伏せられている。フーコーによると、二つの「社会的な類型」を表している。一人は悪しき発言者の類型であり、民主制にとって悪しき発言者の代表者の類型で、先ほどの英雄タルチュビオスに相当するという。「おしゃべり」が特徴である。フーコーは古代ギリシアの文学から、「おしゃべり」がいかに恥ずべきものと考えていたかを論じているが長くなるのでここでは省略しよう。つまり、パレーシアステースらしからぬ人物である、あるいは貶めた意味でのパレーシアを行使する人と市民に思われていたのである。語るべきことと、語らざるべきことを区別できることが、肯定的なパレーシアである。この三人目の登場人物のもう一つの特徴は「厚かましさ」であるとフーコーは指摘する。さらに、「アルゴス生まれでないのにアルゴスの人間になっている」ということと、「がなりたてる」ことである。「自分の発言に筋道をたてることに自信をもっているのではなく、大きな騒がしい声で、聴衆のうちに情緒的な反応を引き起こすことに自信をもっている」人物であるとフーコーは分析する。最後の特徴は、「下品にしゃべりまくる」ことである。教養や知恵が欠けていることを意味する。「すぐれた教育と、知的で道徳的な教養に基づいて」政治的なパレーシアが行使されなければならないことを示すものであるとフーコーは語る。最後の発言者(四番目にあたる発言者)は、「見かけは立派ではありませんが、勇気ある方」と裁判の報告で使者が語る人である。市場にはまれにしか姿を見せない人とも語られる。それはアゴラと呼ばれる市場での集まりで時間を費やす職業的な政治家ではなく、また民会に参加して報酬を得ようとする貧民でもないことを意味していると、フーコーは説く。参加するのは重要な問題が生じたときだけである。それは自作農である。エウリピデスが自作農の政治的な能力の高さを強調していることをフーコーは指摘する。このような自作農の特徴は、ポリスを守るために優れた戦士になる用意があること、よい提案のために言葉を使うことができること、つまりよい識者であるということである(数名の召使や奴隷を従えているので)。最後に道徳に優れた人物であることをフーコーは挙げている。この四番目の発言者はオレステスを無罪にすべきだと主張する。それだけでなく「その功績により、冠を授くべきだ」とさえこの自作農は主張したのである。
これほどまでに、この自作農がオレステスを讃えるのはなぜか。フーコーによると、自作農の無罪の主張は平和の意志を尊重するものである。アテナイはスパルタとペロポネソス戦争のただなかにあったことを考えるべきであるとフーコーはいう。アテナイは紀元前四一三年敗北をした後、『オレステス』が初演された紀元前四〇八年には海軍の再建が少しあったものの、まだ不安定な時期であり、戦争か平和かを選択する議論が沸き起こっているころであった。民主派は戦争支持であり平和共存を望む保守派は和平案を支持していた。民主派の指導者はクレオフォンで第三の発言者の否定的なパレーシアの特徴を備えた人物である。保守派の指導者はテラメネスという人物で、市民としての主要な権利と政治的な権利を持つのは自作農だけと考えている人物であり、好ましいパレーシアテースの特徴をもつ四番目の発言者にあてはまるとフーコーは指摘する。ギリシアの劇はいつも市民を啓蒙する意図があるので、オレステス裁判をテーマとするこの悲劇にもそれが見られるのである。
『オレステス』でパレーシアはいかなる問題を提起しているのかを要約してみよう。フーコーは、肯定的なパレーシアと否定的なパレーシアの対立が見られ、『イオン』で見たような神との関係でなく人間の役割のうちだけでパレーシアが発生していると分析する。つまりパレーシアの危機が描かれているというこ
とである。パレーシアの権利を行使できるのは誰か。市民のすべてがもちえたパレーシアの権利を、社会的な地位や個人的な徳を基準にだけ与えるべきではないか。法の下の市民の平等であるイソノミア、すべての人に与えられる発言の権利セーゴリアと異なり、パレーシアには制度的な用語としての明確な定義はなかったとフーコーは指摘し、「真理を語る人物に、いかにして法的な形式を与えることができるかという問題」が生まれていたという。パレーシアの危機の二番目の側面はパレーシアと真理の関係である。率直さや勇気だけではパレーシアは成立せず、教育や個人的な訓練の必要性を問い始めたのである。「民主主義そのものには、真理を語るために必要な特質や、真理を語る権利を手にするために必要な特質をもっているのは誰かを、決定する力」はなく、「言語活動としてのパレーシアは、真理を開示するための十分な条件」ではなく、いまや「自由、権力、民主主義、教育、真理の関係が、政治的な制度の間に重要なとして登場してきた」、つまり「発言の自由に緊張が生まれ、危機として受けとめられた」とフーコーは語る。

 


哲学と霊性「汝自身を知れ」 小林稔連載エセー「自己への配慮と詩人像」より掲載

2015年12月30日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

「自己への配慮」と詩人像(二)
小林 稔




3 ソクラテス=プラトン的契機

 このテキスト(プラトン『アルキビアデス1』)では「汝自身を知れ」というデルポイの神託を三度引用して、自己への配慮がいかに重要であるかを説いている。一度目は慎重であれ、と教えるものであり、自己を配慮しなければならないことに気づかせるためのものである。二度目は、配慮しなければならない自己とは何かを考えさせるものであり、三度目は、自己に配慮するとは何をすることなのかを考えさせるときに提出されたものである。その答えとして、自己への配慮とは正義を配慮することであると結論づけられたのであった。すでに「2 眼の比喩」で詳細は論じた。
フーコーによれば、プラトンによる独自性とは、自己への配慮という主題が初めて哲学的主題に登場したことにあるということである。それ以前とプラトン以後の分岐点をソクラテス=プラトン契機と呼んでいる。
もとより神殿の石に刻まれていた「汝自身を知れ」それ自体は、プラトンの著作に初めて持ち上がった言葉ではなく、当時の世界に知れ渡っていたものであった。一九〇一年のロシャーなる人物の論文によると、「あまり多くの事柄を尋ねることなかれ、有用なことだけを尋ねよ」「守れないようなことは約束するなかれ」というものであったという。一九五四年、ドゥフラダスの論文によれば、「中庸を得よ。また振る舞いにおいても過剰であってはならない」というものであった。もともと「汝自身を知れ」という銘は、「ひとが結局のところ死すべき者であり、従ってあまり自分の力を買いかぶって神の力と対決したりしてはならないこと、これを絶えず覚えておかなければならないという原則であった」とフーコーは説く。また、「汝自身を知れ」は、「汝自身に配慮せよ」という原則の範囲内で語られてきたという。『ソクラテスの弁明』では、「汝自身に配慮せよ」と市民たちに説くことを、神によってゆだねられた使命とするソクラテス像が描かれている。一方、スパルタでは、「自分自身に専念しなくてはならない」という古い格言があった。スパルタ人は広大な土地を自分では耕さず、農奴たちにゆだね、自己に専念できるようにしている、それは貴族たちの、政治的や経済的な特権と結びついていたとフーコーはいう。つまり、「汝自身を知れ」というプラトン的解釈には下地となるべき伝統があったということを示している。
 フーコーがいうソクラテス=プラトン契機とはいかなることを示唆するのかを要約してみよう。
まず、哲学的な思索における自己への配慮という問題。アルキビアデスを登場させているアルキビアデスは他の青年とは違うものを持っているということ、つまり気高い出自をもっていること、ペリクレスのような保護者がいること、それゆえにアルキビアデスは多くの求愛者をはねつける傲慢さを持っていること、容貌の美しさを持っていたことなどがソクラテスの興味を引きつけたのであった。さらに、アルキビアデスには政治的野心があること、彼の美しさがなくなる(求愛者の対象となる年齢ではなくなる)ときに、彼が他者の統治へと向かおうとしていることにソクラテスは注目する。「身分上の特権、身分上の優位を他者の統治に転化させる」人物は私を置いてほかにないとソクラテスは確信するからである。付属物である身体の美は盛りを過ぎようとしているが、これからはアルキビアデス自身の開花期にとって一歩を踏み出すにふさわしい年齢であるということに関心を寄せる。
 アルキビアデス自身の開花期と述べたが、われわれ自身とは何かという命題に、ソクラテスは、われわれの心(たましい)という答に導いていく。心が身体を支配するものだからである。つまり「人間は心にほかならないという帰結」になる。すでに私はこの論考の1と2で論じたところである。
「汝自身を知れ」という銘はこの段階では、「心を知れ」という意味に解釈された。「自己に専念する」という、現代では否定的な意味で受け取られる考えが、古代では肯定的な意味を持っていたこと、そこから紀元前の数世紀から紀元後の初めの時代の厳格な道徳が構成されていったことをフーコーは述べ、その道徳から生み出された峻厳な規則は、「(自己放棄という)キリスト教道徳にも(他者に対する義務という)非キリスト教的な近代の道徳にも登場してくることになる」と主張し、「汝自身を知れ」が喚起する自己認識と自己への配慮に対して前者のみが取りざたされ、それが後者が闇に消えてしまった、とフーコーは考える。この瞬間を「デカルト的契機」と呼んでいる。デカルト(十七世紀)以降、「汝自身を知れ」は自己認識の手段として考えられていった。つまり「私という存在の不可疑性というかたちで」「存在への到達の根源に主体の固有の生存が持つ明証性を置いたことで、真理に到達する根本的な手段になった」とフーコーは論じている。詳しくは後に取り上げていくことにする。

4 哲学と霊性

 哲学が物事の真偽を問うだけでなく、真や偽をあるようにしているものについて問う思考形式であるといえるなら、「主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを霊性と呼ぶことができるように思われる」とフーコーは述べる。「霊性とは真理への道を開くために支払われるべき代価」であり、「主体は自らを修正し、自分自身と別のものにならなければならない。主体はそのままでは真理を受け入れることができないからである」という。主体の変形や立ち返りなくして真理はありえない。「現在置かれている条件から引き離す運動」によって真理が主体に訪れる。この運動はエロスの運動であるという。霊性にとってはたんなる認識行為では真理への道を導いていくことはない。唯一の例外として知られているグノーシス派においては、「認識そのものなかに
霊的体験の形式と効果を置き換え移転するものだった」という。しかし一般的には古典古代では、アリストテレスのような例外を除いて、哲学的問題と霊性の実践は強く結びついていた。 
「主体が真理に到達するための条件として認識だけがあると認めた日を近代に入った日といえる」とフーコーはいう。「デカルト的契機」のことである。しかし、フーコーも何度も繰り返しているように、デカルトがコギトを発見したときにとつぜん始まったのではなく、それ以前から動向はあった。それは科学ではなく神学(聖トマスに、スコラ学)にあるという。「普遍的な射程を持つ信仰を基礎づける合理的な思索として自らを規定することで、同時に一般的な認識する主体を基礎づけた」のである。「すべてを知る神と、知るという能力をあまねく賦与されている主体の照応」を要因として、西洋の哲学的思考は霊性から引き離されたという。「デカルト的契機」があった十七世紀さえ霊性と哲学が問題になったことがある。スピノザの存在である。「スピノザにおいては真理への到達の道が主体の存在そのものにかかわる一連の要請と強く結びつけられていて」、至高善を与えてくれる真理への到達が「知性改造の主題は、認識の哲学と、主体が自ら行うその存在の変容の霊性との間に残されたつながりに特徴的なものであった」という。
 フーコーの言わんとすることは、認識と霊性が神学によって分離し、デカルトによってさらに哲学から霊性が「たぶん決定的に断ち切られた」と思われるが、その過程で霊性の問題がたびたび問題になり衝突を重ねていたし、十九世紀の哲学においても認識の行為においても主体の存在と変容に結びついて、消滅せず底流に存在し、ことあるごとに「自己への配慮」が真理への到達の道の条件として霊性の問題を出現させているということであろう。
 先回りして言えば、さらに私は、哲学と霊性を、詩とポエジーに置き換え、詩人という主体のあり方を考えてみたいのである。私は、詩学は哲学と神学に対してアナロジーの関係にあると長い間考えてきた。この二千年以上に及ぶ思想史を横断した後で詩人と主体のあり方を考察したい。主体を持たない詩が現代詩的と考えられている風潮のなかで、ポストモダンをのりきる方途としての、主体とポエジーの内的体験を論じたいと考えている。この長い論考の最終部で論じたいと考えている。

5 プラトン主義の逆説

フーコーは、プラトンの『アルキビアデス1』におけるいくつかの特異な事柄が、どのようにして歴史的に引き継がれていったのかを論じる。特異な事柄とは、政治行動への関係、教導への関係、少年愛への関係である。政治行動への関係では、統治者に求められていた自己への配慮が、ヘレニズムおよびローマ時代の哲学では、政治的活動をする者だけでなく、すべての人に求められるようになる。しかし、自己へ配慮するためには、能力、時間、教養などがなくてはならないので、少数者に限定されるが、その制限を越えて一般化を権利として要求していくようになった。
次に、教導への関係では、自己への配慮に必要性は、プラトンでは思春期の終わりに始めるように説かれていたが、ヘレニズおよびローマ時代になると、生涯における自己への配慮の必要性、あるいは老年に備えるための壮年期にすべきものという考えに移行するのであった。
最後の少年愛への関係では、ヘレニズムおよびローマ時代にさまざまな変遷を経て、少年愛との関係で自己への配慮が説かれることは主要な要因ではなくなった。少年愛は自己の技術と自己の陶冶のなかに消えてしまったとグーコーはいう。ただし例外として、フロントとマルクス・アウレリウスの関係をフーコーは挙げている。総じていえることは、政治行動、教導、少年愛への関係は、プラトン以降、変遷をしながら弱体化していくがまったく消滅したとは言えないのである。
プラトン及びプラトン主義に見られる「自己への配慮」の特徴は、フーコーは「自己への配慮が、自己認識のなかにその形式ないし完成を見ているという点」にあり、それが真理へ進む道を開くということ、さらに真理への到達が神的なものを自己のうちに認めるということにあると述べている。これらの特徴から、「プラトン主義の逆説」としてフーコーはいくつかの事柄を論じている。「十七世紀にまで至るヨーロッパ思想史」において、プラトン主義がさまざまな霊的運動を生み出した理由は、「認識と真理への到達を、ただ自己認識から、自己自身における神的なものの再認であるような自己認識から出発してのみ考えていたからである」とフーコーはいう。真理への到達が自己としての神的なも
のへの関係と密接な関係にあった。しかし歴史的には、神的なものへの関係を取り去ったなかでの認識の運動が発展したのであった。フーコーは、「真理に到達するために必要な霊性の諸条件を、たえず繰り返し立てると同時に、霊性を認識の運動に、つまり自己、神的なもの、さまざまな本質の認識の運動に吸収することに」なったのだという含蓄のある言い方で述べている。

6 「老いるために生き」なければならない

 新プラトン主義へと辿る以前の、紀元一世紀から二世紀における時期は、「自己への配慮の歴史における真の黄金時代であった」とフーコーはいう。この時期からいきなり変貌したのではなく、プラトンの著作やプラトン以後のエピクロスなどに見られた要素が、次の時代に色濃く現れてきたのである。。つまりプラトンのテキストにすでに萌芽としてあったものが開花したとも言えるのである。
 紀元一世紀から二世紀はヘレニズム期、帝政ローマ期と呼ばれる時代である。先述したプラトンの自己への配慮がどのように変貌したのかを挙げてみよう。まず、自己への配慮をしなければならない人とは誰かということ。プラトンでは「権力を行使することになる若い貴族たち」であった。しかしこの時期には、「一般的な無条件の原則」となったということがある。次に、「自己への配慮に目的や正当性があるかということ。プラトンでは、「自分が持つことになる権力を、適切に、道理にかなった仕方で、高潔に行使することができるようにするためであったとフーコーはいう。それがこの時期では、自分自身のためであり、自己を目的としている」のであり、自己へ配慮するさいに常に念頭にある目的として現れてくる」ということ。最後に、プラトンでは自己への配慮は自己認識であったが、この時期には、自己認識という形式が弱まり、一つの全体、より広範な全体のなかに統合されのである。これらの変貌に深く関連して留意しなければならないのは、「自己へ配慮する」という表現が「認識という唯一の活動によって囲まれた領域を大きく超え出るものであったことである。「自らを鍛錬し訓練する」という意味に使われ、「活動の形式」を示すようになる。つまり、「自己の実践」が問題になり、個人の生にまで拡大し、生の技法へとなる。自己への配慮は生涯続かなくてはならない義務」になり、「哲学することと自分の魂を世話することが同一視されている」のであり、これらはプラトン以降、すでにエピクロスにおいて現れているとフーコーはいう。
 自己の実践が思春期の終わりから壮年期に移行したときの、プラトンでははっきりしていた身体の技法と魂の技法の区別が、ストア派では結びつき、身体も配慮すべき対象になるのである。つまり自己への配慮は、魂と身体に及ぶのであった。これらのことから「老年が新たな重要性を、価値を持つようになった」と言える。これらのことから帰結されることは、「自己への配慮の到達点、そのもっとも高度な形式、それが報いられるはずの時期が、まさに老年期となった」とフーコーは指摘する。老年期には、身体的な欲求から解かれ、政治への野心は棄てられ、さまざまな経験を経て、自分自身を支配し満足した状態を保つにふさわしい時期と解釈されていくのである。
 ギリシア、ローマの伝統としてある、幼年期、思春期、青年期、老年期に対する概念への批判でもある。ストアのセネカは、「属する年代によって生き方を変える人々には同意できない」のであり、「老年へと向かって行く連続的な運動の統一性」を説き、「追い立てられるように振る舞いなさい。急いで生きなさい。生涯を通して、あなたを追いかけているひと、敵がいるのを感じなさい。この敵とは、人生の偶発事であり、厄介事です。それはとりわけ、あなたは若者の、あるいは成年の時期にあって、まだ何かを望み、快楽に執着し、力やお金ほしがっている限り、そうした偶発事があなたに引き起こしうる感情や動揺のことです。これがあなたを追い立てる敵です。……あなたは逃げ出さなければなりません。あなたに安全な隠れ家を提供してくれる場所へ急いで行きなさい。その場所が老年なのです。」とフーコーはセネカのテキストを要約している。セネカのいう老年とは実際の年齢ではなく、「理念的な老年」であり、「自分の振る舞いやありようにたいして、すでに老年に達しその生涯を終えてしまったひとのような態度、行動、無頓着さ、覚悟を持たなければならないということであるとフーコーは指摘する。

7 主体の達成、記憶の師から操作媒体としての師への移行

 ヘレニズムおよびローマ時代や帝政初期における自己への実践の特徴は、生の技法と一体化され、老年を生存の特権的な瞬間と捉え、「主体の達成の理想的な点」と考えられてきたことであった。古典期に提示された「自己への配慮」が「自己への実践」と移行するにつれて、主体を達成させるためにはいかにすべきかが問われるようになった。
 プラトンの『アルキビアデス1』では、他者を統治するための自己への配慮だったものが、この時期においては、自己への配慮がそれ自身を目的にし、生存の形式の探求として捉えられた。身分や職業に関係がなく、すべての人に実践されるべき目的として開かれていたが、実際には一部の人にしか受け入れられなかったことはすでに述べた通りである。宗教集団を中心にした封鎖性と、「教養あふれる閑暇を実践する能力」、つまり「経済的、社会的」なものによる分離であり、生存の技法は、救済というテーマを導いていったとフーコーはいう。この時期には、他者との関係、師弟関係が表面化してくるのであった。
『アルキビアデス1』では、師(他者)は模範となるべき存在であった。師とは、かつての英雄や偉大なる年長者、愛人である。若者に無知を自覚させ、そこから脱出させる必要性から、若者の模範になる存在でなければならなかった。つまり無知と、物事を上手く行う知を記憶することが重要になり、これらのことから師はなくてはならない存在なのであった。
 ヘレニズムおよびローマ期においても、師は重要な役割を担うが、無知を自覚させる機能に、教育の欠陥や悪い習慣を認めさせる機能が付加するのである。矯正を担った師の存在が見られる。
「主体が向かうべきは、その無知に置き換わるような知」ではなく「師は個人を主体として改革し、形成する操作媒体」となるとフーコーはいう。自己の実践は、外部からくる迷妄から脱出することであり、このように外的な規定を避け、絶対的な意思で獲得すべきものは、自己をおいてほかにないのである。その操作媒体になるべきものが哲学者であったとフコーはいう。職業として哲学者が存在する基盤が社会にあったのである。エピクテトスのギリシア的な学校やデメトリスのような忠告者という形で顧客に対応する形もあった。

8 自己への回帰

『アルキビアデス1』には三つの「汝自身を知れ」という神託が扱われていることは前にも述べたが、後にこれらがどのように分離し受け継がれていったのかを考えることにしよう。『アルキビアデス1』のテキストには、政治的ないくつかの原理、規制を導入するものと、カタルシス的な操作に訴えるものが、「汝自身を知れ」に見られる。プラトンのその後の書物においても、前者は「ゴルギアス」に、後者は「ファイドン」に受け継がれていった。後代の新プラトン主義では、先述したように、自己への配慮が自己認識の形式へ吸収されていく。『アルキビアデス1』では、「他者たちへ配慮することができるようになるために、自分自身を配慮しなければならない」のであった。カタルシスの技法を実践するのは、政治的な主体になるためのものであったが、一、二世紀には自己への配慮は、自己にとっての最終目的となる。都市や他者から切り離されていき、生存の技法と自己の技法は同一になり、「真理をめぐる思考としての哲学の、主体による主体の存在様式たる霊性へ吸収」していくのである。そして、そこから回心というテーマが出現し、自己の変容が展開されていく。この時代以降、自己の陶冶とうテーマが展開されていく。フーコーは、陶冶は次のような条件のもとで可能だという。それは、最小限の上下関係、階層関係が成立している価値の体系があること、その価値は普遍的であるが一部の人々しか到達可能ではないもの、規定された振る舞いが必要であること、細かく定められた手続きや技術によって条件付けられていることである。自己の実践が教育の場を越えて生涯を貫く技法になる。師と弟子との間の恋愛的な関係もなくなるのである。自己のために自己に配慮することになる。自己の中心において自分の目標を定めるようになる。つまり、それは立ち返りであり、自己への回帰である。
 フーコーによると、自己への回帰は、この時代の特徴的なものではなく、プラトンにおいても重要な主題であったという。第一に、見かけから離れるということ。第二に、自分の無知に気づき、自己へ配慮し、自己に専念することで自己に回帰すること。第三に自己への回帰から出発して、本質の、真理の、存在の祖国へ帰還することである。プラトンでは、現世と来世の対立があり、魂を牢獄としての身体から解放し、引き離すという主題に支配されていた。自らを知ることは真実を知ることであり、真実を知ることは自らを解放することである。これらは想起という行為に結び付けられていた。
 ヘレニズムおよびローマの文化および自己実践では、現世と来世の対立概念はなくなり、世界への内在そのものにおいてなされることになる。つまり「主人たりえないものからの解放」であり、「自己の自己に対する適切な関係の定位」であるという。プラトンとの最大の相違点は、認識がプラトンにおけるほど根本的な役割を持たず、むしろ、訓練、実践、鍛錬が重要になるということである。
 一方、三世紀以降のキリスト教と比較すると、立ち返りは悔悛と呼ばれるものになり、「主体の存在様式を一撃のもとにひっくり返し、変容させてしまうような、特異な、突然の、歴史的であるとともにメタ歴史的であるような一つの出来事を必要」とするようになる。立ち返りが生じるのは、「主体の内部で断裂が生じる限りにおいてのみであり、「立ち返る自己とは、自分自身を放棄した自己なのである。以前の自己とは「何の関わりもないもう一つの自己に、新しい形式において再生すること」が根本要素といえるのである。今、問題になっているヘレニズムおよびローマ時代では、キリスト教に見られるような断裂はなく、自己の内部で起こるものではなくて自己を取り巻くものとの断裂である。この時代の立ち返りは、自己を「眼前に据える」ことを必要とするものであった。自己主体化、つまり、「いかにして、自己を目的として定めつつ、自己の自己に対する適切で十全な関係を打ち立てることができるのか」が問題になったとフーコーはいう。セネカの「自然研究」や書簡集では奴隷を解放するという比喩で語られている。「主人が自分の奴隷を解放するときに行なうような身振りを、哲学は主体に行わせる」というわけである。自己を眼前に据え、目標に向かうように自己へ回帰することが求めら、それは、「自己の自己に対する適切で十全な関係を打ち立てることができるのか」という「自己主体化」であるとフーコーは指摘するのだ。セネカとマルクスについては後の章で詳しく論じる。
フーコーが示唆されたというピエール・アドの書物には、西欧文化における二つの大きな立ち返りを論じられているという。エピストロフェーのモデルと、メタノイアのモデルである。エピストロフェーとは、「魂が自分の源へと回帰するということを合意する立ち返りの概念、体験」であり、アナムネーシス(想起)の様式を取る。「光を見出し光の源へと回帰することである。これは、プラトン=ピュタゴラスの概念である。一方、メタノイアは、「主体自身による主体の再・出産であり、その中心には自己および自己の自己による放棄の経験としての死と復活がある」ということである。これはキリスト教以降の概念である。この二つの対立は、西欧思想が引き継いでいったものであるとしながらも、フーコーは、エピクロス派、犬儒派、ストア派はどちらにも属さない、別のモデルを考えてきたと指摘する。彼らが「自己自身を見つめよ」という命法で伝えていることは、「他者たちから、世界の事象から視線を逸らせよ」ということであった。主題は、「自己と自己との間になお残るこの距離のゆえにこそ成立する、自己の、自己への現前、自己の自己への距離における自己の自己への現前」であり、到達しなければならないのは自己なのである」とフーコーは解読しているのである。

9 航海の比喩

 古代ギリシアやローマ人の考える自己への立ち返りには、「主体の自己への移動」と「自己の自己へ
の回帰」があり、「航海の比喩」を用いられることが多いことをフーコーは指摘する。何らかにおいて
オデュッセウス的であり、さまざまな苦難の末、辿るべき港は母港である。この航海が無事に行われるには技法が必要である。船をいかに操舵するかという知を必要とする。さらに細かく見れば、医術
と政治的な統治、自分自身の統治が操舵のイメージに結びついていることがわかる。フーコーは、これらは知と実践のあるタイプを切り出していると語る。「たとえば君主とは、他者を統治し、自分自身を統治し、都市の病、市民の病、そして自分自身の病を癒すべき人物」である。また医者は「個人の身体の病だけでなく、魂の病について所見を述べなければならない人物」として示される。つまり、船の操舵のイメージは、統治の運動と呼ばれる活動に結びついていて、「自己の実践では、自己は一つの目的として、不確実で、循環的であることもあるような航海の終着点として現われ、それは人生という危険に満ちた航海である」とフーコーはいう。しかしながら、キリスト教においては自己の放棄が原則になり、神との関係によって主体性を喪失する。「神に沈潜する自己」という主題が打ち出されて、自己への回帰の主題は敵対する主題であったというより、組み込まれ」たのだとフーコーはいう。また、「この自己への回帰という主題は、十六世紀以来の「近代」文化において絶えず回帰する主題であったが、断片的に現われてくるだけだった」と、モンテーニュを念頭において述べ、さらに十九世紀の思想史も考慮に入れる。「思想史のある一角全体を、自己の倫理と自己の美学を再構成しようという困難な試み、あるいは一連の試みとして読み直すことができる」とフーコーは主張し、シュティルナー、ショウペンハウアー、ニーチェ、ボードレール、無政府主義や無政府主義などを挙げる。「自己へ回帰すること」という表現は私たちになじみ深いものだが、「今日私たちは、自己の倫理を再構成しようと努力しているとはとても言えないような状態である」と言い、「自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である」と説いている。(次号に続く)