山口健一「十一月の飛べない鳥たち」。詩誌『龍』2012年4月20日発行
小林 稔
ちっちゃな子供たちの遠足
かわいいアヒルの行進のように
心地良いざわめきが通り過ぎる
「十一月の飛べない鳥たち」冒頭の3行
私たちは良い市民になることが最大の幸せであるといわんばかりに、子供たちを調教する。
子供たちの翼は親たちによってもぎ取られ、豊かな生活を送るように親たちは子供たちの教
育に力を注ぎ、子供たちは「夢の空を飛べない鳥」にさせられてしまう。
こんなになってしまったのは
度々手を上げる父親と
深爪を心配し未だに
ひとりでは切らせてくれない母親のせいです
「同」10行から14行
会社人間になって子供のことを母親に委ねてしまう父親と、密着しすぎる過剰な愛情で子
供を自立させない母親のもとでの、「水面に歪み映る姿に嫌悪を催する目に余る言動を大人
たちは鋭いまなざしで戒め」るのだ。やがて子供たちは、オーデンセの即興詩人、ハンスク
リスチャンの悲しい「原案の筋書き」を現実生活の中で知らされてしまうと山口氏は書く。
それでもやがて立ち上がり
それぞれの幸福を探そうと羽ばたきはじめる
あの闇に隠れた湖に光が射し
緑色透明の水面に生命の飛沫が迸り輝く
いつか見た光景と希望の未来とが
寂莫とした薄暮に量なる
「同」最終部6行
「量なる」は「重なる」の意味だろうか。一体どのような希望があるのだろうか。この詩を
読んだとき、私は私の考える詩人像を思い描いてしまった。大人たちに反抗の牙を向ける子
供たちだ。やがて反抗は世界への反抗に向けられるだろう。ボードレールの唱える詩人とい
う存在や、「生の変革」を叫ぶランボーの熱狂を私は思い起こす。
今日、私たちの詩は自己から遠ざけられた表現で書かれるようになってしまった。例えば
この詩を書く山口氏は、今どのような境涯に立たされ苦悩しているかを書かない。言葉は一
般的なことを書く、客観的に書くことには適応しやすいものだが、詩人自身の個別な思いを
表現するには適応しにくいという特質をもつ。言葉のもつ普遍性を自分のものにするには、
自己の激しい感情や体験が必要である。ほとんどの詩人はその不可能性を避けようとする。
それは現代において詩が消滅する危機と感じられる一因ではないだろうか。
鈴木東海子「朗読の人」詩誌『櫻尺』39号2012年2月28日発行
小林 稔
イギリス文学に目を馳せるとき、イギリスの美しい自然の風景が瞼に浮かび上がってくる。
エリオットの現代詩「荒地」にいたるまで、イギリスの詩と自然の光景は切り離せないもの
であろう。鈴木東海子氏の「朗読の人」は、朗読をこよなく愛する詩人ならではの詩である
と思った。彼女が実際にイギリスを訪れて書いたのかどうかは判然としないが、心は完全に
イギリスに降り立っている。
四月が旅のはじめにちがいなくいつも四月がわたしをせきたてた。
「朗読の人」第三連の部分
四季の始まりである四月。「旅のはじまり」とは人生の始まりと重ねあわされる。四月に
命の花を咲かせ、夏に繁栄期を迎え、秋は実りと収穫期であり、厳しい冬は死に支配される。
そしてそこから命をよみがえらせる春。この自然の循環のなかで、私たち人間は自然の草花
や樹木と違い、「知」からもたらされる言葉を繁らせ実らせようとする。次世代へと引き継
がれていくために。詩人、鈴木氏は女性であり、前世代の女性の「歩いてきた道のり」を振
り返る。チョーサーの「カンタベリー物語」の一節を引用して、さらに彼女の脳裡にその詩
を読むシルビア・プラスという詩人の声が聞こえてくる。そして「わたし」の詩の朗読は始
まる。
物語はどこからでも変えることができる。省略すること
もできるのであったがカンタベリーへの道のりは省略す
ることができなかったように今日ここにいるために昨日
を省略するわけにはいかなかった。
「同」第七連の部分
とつぜん詩人は女詩人吉原幸子を思い起こす。「傷口が開くように血が流れ出す日本の詩
人」と詩の中で表現している。「プラスと同年に生まれ詩人」であり、「プラスの倍を生き
て沈黙した。十年の沈黙を車椅子のうえで。」
裏切りは完膚なきまでにわたしたちを切り裂いた。
「同」第九連の部分
ここまで読みついてくると、詩人が何をこの詩で伝えたかったのかが見えてくる。「四月
は一番残酷な季節」と書いたエリオットの「荒地」の冒頭から暗示される、豊かな自然と人
間の精神の不毛に、ただ嘆き酔いしれている男(=私)ではいられなくなるというものだ。
野を歩く女達は
母であったかもしれない
少女であったかもしれない
沈黙することは
全部であったかもしれない
朗読するように
歩くのであった。
「同」最終連の最後の七行
言葉において自己表現をする女性に必ず内在するであろう、男性社会による「女性蔑視の
歴史」を見つめる眼差し。私たちは歴史を操ってきた権力というものから目をそらさずに、
理性というものを形成してきた西洋の思考を解読していかなければならないだろう。最後の
一行に詩人の決意を読み取ることができる。そのようなことを私に考えさせた一編であった。
贈られてきた同人雑誌から
「木立ち」第111号
北条裕子氏の「無告」を取り上げて見よう。
夕暮れて 歩いていたら
いつのまにか
見知らぬ原っぱに出た
「ここが世界の端っこです」 と書かれた
立て札がたててある
「無告」第一連
「世界の端っこ」とはこの現実世界が冥界に譲り渡す境界であろうか。
詩人は「供養のために 靴を 樹の枝にかける」が、傍らに咲く百合に
気づく。百合は死者たちの化身である。
夢のようなものを追い求め 夢のような気分で生きてきたつけがまわってきて
雨風のなかを追い立てられ 奥歯を噛みしめ ひたすら逃げている
「同」第四連の部分
詩人は日々、現実世界に暮らしているが何一つ確実なものが求められ
ず、このまま「痛痒も感じない」まま生きてきたことを知る。
この世は地獄に似ている
もしかしたら 天国の方が もっとずっと似ているかもしれない
「同」第六連
この世に天国と地獄の両面を見ている詩人がいる。
しかし、書くという行為、言葉を頼みの綱にして己の存在を明かそう
とする者は、一つの閾を往来する存在に違いないだろう。
物語に 心を奪われて 肉の手触りを手放して 久しい そのうち ばたんと扉
を閉められた もうここからは入ってこないでということなのか
「同」第七連の部分
エクリチュールの領域も言葉で表現される以上、非現実に突入せざる
をえないのである。対概念としての冥界があってはじめて現実がその輪
郭を浮彫りにするのだろう。「いま、この時、この現実」を解き明かす
には「古代」への強烈な吸引、憧憬が要求される。かつてのボードレー
ルが「移りいくもの」に現代性を見たのは、「古代」の永遠をこの世界
に連れ戻そうとしたが絶望し、現代の事象と二重写しに見ていたからで
ある。さて、嘆いて騒ぎ立てているだけでは現実からの抑圧に対してガ
ス抜きをしているにすぎないだろう。詩人は生きる道を、「生存の技法」
を示すべきである。フーコーはボードレールという詩人をそのように
見ていた。言葉によって先の時間を作り出していく存在としての詩人の
姿である。我われの現代詩にとっての課題なのではないか。
詩誌「木立ち」の発行者である川上明日夫氏は、後記で「人生の向こ
う側がふっと垣間みえる時があるように、いつだって文学は哀愁なので
ある」と書いているが、私にとって文学は哀愁ではなく反抗である。
三井喬子「地の音が」、個人誌『部分』48号2012年3月12日発行。
前回、清水正吾氏の「怒り」をコメントした後半の現代詩への私の主張は、清水氏に向けられたものではなく、一般論として書いたものであることを注記しておきます。清水氏の詩には詩人の主体がはっきり示されていますが、生き方をもう一歩踏み込んでもよかったとも思います。他の同人、山本愉美子氏の「ハリストス正教会(白河にて)」は緊張感のある魅力的な詩句で表現されているものの、主体(詩人としての筆者)の生き様が見えてこないことが不満でした。生意気なことを言って申し訳ありません。
さて、今回は三井喬子氏の三つの詩から、「地の音が」を取り上げてみます。
殷々と響いてくる
視覚を不要とする知覚世界に
殷々と
伝わってくるのです 夜の声が
「地の声が」第一連
おそらくこのような詩を私は書くことはないだろうが、詩はさまざまな欲望から書かれていくのであり、テーマの優先順位は違っていても大きな器として詩作を考えてもよいと私は考えています。何かのコメントを書こうとするとき、いつもより深く読み取ろうとする意識が働き、私なりにではあるが意外な発見があります。自然を目前にして自然の声、夜の声に耳を澄ます詩人がいる。「(ゆき ゆき ゆきゆき みず)」というフレーズが何度も繰り返されている。これが詩人が自然の声を人間の言葉に翻訳した声であろう。「殷々と」とあれば勢いのある盛んな音であることを示唆している。人の気配であるエンジン音をここに響かせれば山は震えおののき沈黙してしまう。詩人は「これは 卑劣な暴力」であるという。
対岸の暗がりで
手を振っているものがある誰だろう
何かを叫びながら急斜面から水に滑り込む
たぶん いつか溺れた人だろう
おそらく あの伝説の少女だろう
湖が そっとそれを包み隠す
雪 降りしきり
しぼりだされた夜の声が
それは地の音ですよ と言う
敗れた者は 眠ったままでおいでなさい
水の一族の哀しみは
遥かに遠く浸みわたるでしょう
「地の音」最終連
自然と対比して見れば人間は「敗れた者」であろうが、それは人間は自然を破壊してきたからであろう。自然はその恵みを惜しげもなく我われに与えるが、時に残忍な姿を現しもする。「水の一族の哀しみ」という含みのある詩句が、自然と人との関わりに警告を与えているようだ。我われもまた自然の一部であり、自然と四季をともにし、交感して生きていくことの大切さを教えているようである。しかし、少しも教条的なところはなく、想像力を駆使して言葉を遊ばせ、詩人の自然と戯れている様子がうかがわれる心地よい詩である。
贈られてきた同人雑誌から(4)
柳生じゅん子「城内一丁目」詩誌「タルタ」20号2012年2月28日発行
もうここには来られないかもしれない
早朝の城跡を訪ねると
降りたったばかりの陽ざしが
足もとをはずませている
(第一連)
作品の冒頭四行はとてもわかりやすいのだが、読み進めていくうちに読み手を立ち止まらせる詩句に出会う。
手を前にふるたびに
濁った血の流れの渕に潜んでいた
魑魅魍魎たちが
次々と抜け出していく心地がする
もっと腕を突き出せば
こんがらがってきた神経叢に
失われた時間が ともるのだろうか
(第二連)
手を腕を突き出すとは、世界に自己(内面世界)をさらしていく行為と読み取れるように思う。つまり世界と自己との対立がある。詩人は内面を探求する者であるから、現象的な世界とは齟齬を生じさせてしまう。第三連では松の木々の健やかな生長を描きながら、「私」の内面の鬱屈を吐露しているのであろう。
けれど わたしの言葉の地平は
歪み 崩れやすくなってきた
紡いできた物語は一夜にして転がっていく
(第三連後半)
「言葉の地平」という詩句を表出することで、詩人は現在感知する心の状態を言葉で捉えようとしていることがわかる。この特異な心の移り変わりを、個別性を表すには本来向いていない言葉というもの、(言葉は概念であり、普遍性に向かう特質をもたされている)を駆使して書きとめようとする。表現の技法が要求されるが、一般的な描写の作業を越えて、言葉の領域からの呼びかけに応えようとする。そこで詩人は自己を導いていく詩句を探っているのではないだろうか。自己を反響させながらも言葉を先立たせていこうとする、まるで自ら発した言葉が「私」にとって啓示であるかのように。これはエクリチュールに身を委ねた行為であるといえるだろう。詩人は書き上げた一編の後にさらに未知なる自分を生成しつづけようと書くことをやめないだろう。
「深いまなざしのなかにいる後ろめたさ 気恥ずかしさ」と詩人は記しているが、詩人とはこのように世界から孤立しなければ己を確立できない存在である。なぜなら言葉の深みから到来する詩(ポエジー)を、ひとりの個別的な生の舞台で受け留めようとするからであろう。さらに言葉との格闘を通して「生の変革」を求める詩人もいる。柳生氏はそうすることに躊躇しているようである。
今回取り上げた柳生氏の「城内一丁目」には魅力ある詩句があふれていて心惹かれた。