贈られた同人雑誌から(3)
大羽 節「コンテナ」詩誌『へにあすま』41号2011年10月20日発行
コンテナ
コンテナの長い列が星空の線路をいく
まい夜窓の下の線路をとおっていく
―それがどうした―
えんえんえんえん 行列をつくって
何をのせているのかわからない
遠くから
黒い影をひいてやってくる
365日
一日中憶測だけだった言葉はとびちり
くずれてがらんとなった部屋の窓の下を
とおっていく
―それがどうした―
庭のしその葉が
無花果の葉くらい
に おおきくなった
と ご近所の声がきこえてくる
街はずれのよそものにシソの葉を見せに行った
カレは杖で夜空をゆびさした
最後列のコンテナの影に
もう一台コンテナの影がついていく と
これが大羽節氏の「コンテナ」という詩の全編である。
黒く四角い物体がものすごい勢いで夜の線路を駆け抜けて
いく。それだけで不気味な影像が脳裡に描かれよう。コン
テナは荷を積んでいるに決まっているのに、そういう憶測
の言葉を壊して、この世の果てからやってきて、この世の
夜を突き抜けてどこへ行こうとするのかを考えさせる。
「-それがどうした-」とは詩人の内部の声である。己を
鼓舞するような、さらに詩を開示させようとする合いの手
である。読み手をもまた、詩人の内部へ切り込んでいかせ
ようとする手管であろう。コンテナの動きと対照的に庭で
ささやかれる人間の日常的な営みが描かれていていっそう
コンテナの異様な形態が浮かび上がる。「最後列のコンテ
ナの影にもう一台のコンテナの影がついていく」とあるが、
私たちの関知できないところで不吉な何かが続行している
ことを想像させる。人間の運命を阻止できない大きな力が
働いているようだが、私たちには気づいていない何かを暗
示させているようだ。一度それを脳裡に刻んだ者は影を追
う影の様相を忘れることができないであろう。
(『へにあすま』は私も同人として参加している詩誌である。)
贈られた同人雑誌から(2)
二宮清隆「王冠」、中尾敏康「義眼」・詩誌『晨』第四号2011年12月10日発行
二宮清隆「王冠」
私が住んでいる埼玉県で発行されている詩誌である。清楚な表紙と美しい
編集が目に付く。今回の四号では、私と同世代の詩人であろう二人の詩に心
を惹かれた。
二宮清隆氏の「王冠」
蛇口から一滴の水が
汲み置き水に落ち
残映が
瓶の栓の王冠のように撥ねた
「王冠」第一連
詩のタイトルともなっている「王冠」は何を意味しているのか。七十年安
保運動に参加したものの、「破壊的な学園紛争派」とは一線を引き、「私」
は政治闘争から脱落していったという。「闘争心が腐乱していく夏 / 私は
ただ 抜けた」と二連の最終行に書かれている。浅間山荘事件から今年で
四十年が過ぎた。七十年安保に学生であった世代が受けた傷は、その後の人
生にさまざまな形で傷跡を残し老年期を迎えようとする現在でも消えること
はないであろう。学生運動が内ゲバという悲惨な結末をみせたことを報道で
知った後の四十年間、我われはそれぞれどのような道程を辿ったのか。
犬の声が遠くでする浜辺
湘南の太陽が溶けていく海に入ると
荒ぶる土用波に攫われ
小石で ただ 肘や膝を傷つけた
「王冠」第四連
その時すでに文学に熱狂していたのであれば、政治と文学の葛藤、あるい
は連動に苦悩していたはずだ。そのときの文学観は今も直線状につづいてい
るか。転向はあったのか。私個人としては、これまでの人生を振り返り、七
十年当時の、現在に及ぼす意味を問わずにはいられないのである。
夜明け前
気の荒い祭の男衆と神輿を担いで
古い路地を練り歩き 朝方
誘導する警察官たちと烈しく揉み合い
憚ることなく
粉砕粉砕と唸り
神輿ごと海に突っ込み
ただ ざんぶと深く落ちて
一瞬だけの王冠となった
「王冠」最終連
挫折後に湘南の海で自分を責めたという設定になっている。祭の光景が描
かれそこに参加した「私」は警察官とぶつかり合う様子が書かれているが、
詩人の脳裡には、かつての学生運動と機動隊との衝突が二重写しになる。海
に落ちた神輿が消えた後に、詩人は王冠の形象をそこに見たのであった。
「青春の蹉跌」として捉えるのは感傷的である。しかし、「王冠」は青春の
特権を象徴しているようでもある。残されたこれからの人生において、私た
ちは文学行為を駆使し執筆をいかにつづけるかにすべてがかかっているので
ある。
もう一つの作品に移ろう。
中尾敏康「義眼」
この作品も海を背景にした詩である。彼方の海から陸地に押し寄せる波は、
東日本大震災の津波を思わせずにはおれない。
海の底
微醜をおびた主が
午後のはやい時刻
溟いみどりの水を吐き
ねむろうとしたそのとき
なにか光るものが眼にはいり
おもわずてのひらを翳した
「義眼」4~10行目
「光るもの」とは、詩人には「あの人の/ 義眼のような気がしてならない」
とあるが、「あのひと」とはだれであるかを最後まで明かさない。
海におちる入射角が
曇った眼の光る一瞬に似て
空気が痙攣し
脊髄がこまかく顫え
海月みたいにながくながく放尿するのだが
それは儀式にすぎず
やがて廃疾にいたる
世界を
朝夕私は怖れつづけた
「義眼」27~35行最終部分
海に沈んでいく太陽の描写がすばらしい。太陽と海面の間近くに陽炎のよ
うに空気が振動している。海が我われの生存領域を侵食し、人間を含めた自
然界の滅びに向かわせる眼に見えない恐怖を、奇怪な「海月」の排尿のイメ
ージと生殖のイメージを表出させながら、惹きつけられていく詩人がいる。
不可思議な自然を比喩を使い想像して描かれる世界。震災以後、自然界が与
える恐怖に私たちは怯えている。しかし人間は昔からそのような自然を畏怖
し闘い、生き延びてきたのであろう。海の底にいる「主」と太陽。自然の力
の大きさに対して、人間の矮小さをあらためて感じさせる詩であった。
安易に比喩されるものを明かさないイメージ中心に描写された作品である
が、そのイメージが我われの意識の深部にまで届き、何かを浮上させるかど
うか。私はもう少し読み返してみたい。
贈られてきた同人雑誌より(1)
斉藤征義「三陸鉄道北リアス線」、橋本征子「柘榴」
詩誌『極光』第17号20012年1月31日発行
長年詩を書きついてきたであろう、北海道に在住する実力のある16名の同人が、
それぞれ一家をなすような詩作品を掲載している。今回特に心に残ったのが、去
年の3・11の東北大震災に訴えかける斉藤征義氏の「三陸鉄道北リアス線」と、橋
本征子氏の「柘榴」であった。まず前者は関東地方にまで放射線を運んできて下
水処理場を汚染した出来事を描いている。
3月15日の雨が 北西方向へ泥の帯をくねらせ
だれがそんなに急がせたのか
だれの眼にも見えない胞子を吐き
紺青色キラキラ青く
だれの眼にも逆さまに映った
モササウルスの骨にからまり
ねらいどおりに
都市をねらったのだ
「三陸鉄道北リアス線」第二連
モササウルス(海の王者とも言われる白亜紀に生存した大型動物)の形状を借
りて雲を表現している。都市まで運ばれた雲(放射線ブルーム)に降る雨が放射
線を撒き散らした。実際、3月15日に関東地方を襲った事件であった。
ブドリよ
でてこい
ねらいどおりに
トーキョーをふるえあがらせたぞ
「同」第四連
ブドリとは、宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」のブドリであろう。地
熱発電を開発した科学者で、フクシマ原発と科学者のあるべき姿を重ねて呼びか
けているのだろうか。もう一度この童話を読んでみようと思った。その後の連で
は震災で破壊された鉄路が描写されている。
このさざなみの重さ
重く 重く ふるえる青い光の重量が
わたしをわたし自身であろうとする根拠を
ぐらぐらさせる
「同」第六連最終行
ここから詩人の心情の吐露が始まっている。今回の震災と原発事故で日本人の
多くが自分自身の根拠を危くさせられたのではないか。
ここまできたら もう滅びることはかいまみえているのに
「同」第七連の部分
なんという絶望感だ。わたしたちはついにここまできてしまった。深く沈んだ
沿岸を思うにつれ、どうすればいいかなど想をえることなど愚かしくさえなるの
だ。わたしたち皆が持ってしまった無力感であろう。
見えない敵に引張られて
もう ファンタジーは何も救ってはくれない
線量計の数字が
ふるえている
「同」最終連
このような現況から今後、文学は詩は何を語ることができるのか。一人ひとり
の自己がいかに生きていくべきか、自分に問いただす創作行為に向かうだろうと
私は思えてならない。斉藤氏の「三陸鉄道北リアス線」という作品は、無駄のな
い言葉で創造力を駆使して私たちに今一度、今回の震災の意味を脳裡に焼き付け
てくれる秀作であった。
もう一つの作品。橋本征子「柘榴」は、果実の存在感を周囲にまつわる人間と
その事象を置きながら鮮やかに描き出している。現在時から始まり、過去時にさ
かのぼるが。その境界はいっそう不分別になっていく。二連目はルアンダの少年
から渡された柘榴を裂き、食む行為を描いているのであろう。そうしているうち
に、次の連ではルアンダの内戦の追憶の場面で、赤ん坊に乳をあげる少女の乳房
の形状に柘榴を見ている。つまりここでは柘榴を主役に立てながら、人事を(そ
れは刻々と移りゆく!)、背景に印象深く映像のように流しながら、いつも変わ
らない柘榴の姿を私たちの眼前に克明に描写しているように思う。
喰らいつく 甘くて酸っぱい血のに凝り
強く吸いとった果汁が粘つくように わ
たしの喉を通る がりがりと噛んだ種子
舌を刺激し 苦さを残す 吐き出され
た種子の累積 固く紅い果皮の不規則な
炸裂 食いちぎられた皿の上の柘榴は空
気に触れて 赤黒く変色し 小動物の臓
物にも見える 柘榴がフランス語で榴弾
を意味することを知ったのは何時の頃だ
ったろうか
「柘榴」第二連後半部
これらに作品のほかにも、巻頭の、岩木誠一郎氏の『遠い空』や、原子修氏の
『叙事詩「原郷創造」第一楽章 祖霊巡歴 水の祖霊、天津波』の連作を興味深
く読んだ。