
泉涌寺の大門を出て、左へ歩いていくと、道の両側に陵墓がある。右手には、守脩親王、淑子内親王、朝彦親王と名前の書かれた制札が建っている。
広大な敷地に、石塔ではなく、土盛りがされた墳丘が三つある。 一番左が、たぶん守脩親王墓で、真ん中が淑子内親王墓、右が朝彦親王墓だと思う。
【守脩親王墓】
【淑子内親王墓】
【朝彦親王墓】
いずれも幕末から明治にかけての人物である。特に朝彦親王については、幕末、孝明天皇側にいて、公武合体派として、皇室と幕府をつなぐ役割を果たした人物である。中川宮という名前の方がよく知られているのかもしれない。明治になって、久邇宮家を興し、そのくにのみやけから賀陽宮家がわかれている。
守脩親王は、朝彦親王の叔父にあたり人物で、同じ伏見宮家の出身である。梨本宮家の祖にあたる。
淑子内親王は、仁孝天皇の第三皇女、著名な和宮親子内親王は妹にあたる。桂宮を継ぐも、内親王の死去で桂宮家は断絶している。
なるほどなあ、それぞれつながりがあるのだなあ。
道を挟んで向かいには、久邇宮、賀陽宮家の墓がある。これまた、広い敷地の中にポツンとそれぞれの墓がある。
久邇宮家、賀陽宮家は、戦後皇室を離脱している。ちなみに現在の天皇家には、母系として久邇宮家の血が入っている。
ここもお墓は、墳丘になっているのだなあ。
ここから徐々に道が細くなっていく、ただ京都一周トレイルの道標があるので、それに従った歩いていく。途中、昨年の夏の甲子園、京都府大会準優勝校、京都国際高校の前を通る。ここいら辺りは住宅街なのだが、小さい川を割ったあたりで、急に山道になる。
だが、10分も経たないうちに住宅街へ。そして、住宅街の中に、仲恭天皇陵の石畳の参道があった。
途中、崇徳天皇皇后藤原聖子月輪南陵がある。皇嘉門院という方がこれまたわかりやすいかもしれない。皇嘉門院に使えた女性が、皇嘉門院別当という名前で百人一首に選ばれている。
ここに陵墓があるのは、たぶん、九条兼実の姉である関係であろう。
ここからさらに丘を登っていくことになる。
この辺りからは、京都市内を一望でき、ところどころに桜の花も咲いていて、春らしい光景である。
丘を登り切ったところに仲恭天皇陵がある。
仲恭天皇については、あまり歴史上知られていない天皇の一人ではないだろうか。承久の乱の際に、後鳥羽上皇方についた父、順徳天皇から位を譲り受け、天皇となったが、上皇方が、鎌倉方に敗れたため、乱後、在位2か月余りで廃位され、後堀河天皇が即位した。廃位された後は、九条廃帝などと呼ばれ、17歳で崩御した。こういった経歴のため、明治時代まで歴代天皇には数えられていなかった。
歴史に波に翻弄された人物であったと言えそうである。
ちなみに、この仲恭天皇陵も、実際に天皇を埋葬した場所であったかは定かではない。天皇が廃位後、九条家で生活をし、この場所に九条家の屋敷があったと考えられることから、ここを天皇陵として定めたものである。俗にいう「擬陵」というものである。
また、この仲恭天皇陵の前には、戊辰戦争で犠牲者となった長州藩士の墓が並んでいる。
仲恭天皇陵から降りる途中に、皇嘉門院陵の横に何かあるのに気づいたので写真だけとっておいた。
小さな塚が二つある。なんじゃろなということで少し調べてみると、もともと市内の岡崎公園内にあった鵺塚陵墓参考地と秘塚陵墓参考地から出土したものを埋葬した場所ということである。その後、この二つの陵墓参考地は指定解除されている。埋納物については、どんなものであったのかよくわからない。
ちなみに、鵺塚には、後高倉院が、秘塚には、後高倉院の皇女利子内親王を想定していたようだ。もしかしたら、古墳であったのかもしれない。しかし、都市計画による開発によって指定解除されることもあるんだ。
陵墓のある丘から住宅街の中を横切って、東福寺の横をかすめるように歩いていくと伏見街道に出る。伏見街道を、京阪東福寺駅に向かって歩いていく途中に東山本町陵墓参考地がある。
東山本町陵墓参考地が想定しているのは、仲恭天皇である。奥の方に墳丘が見える。
この墳丘については、古墳ではないかと言われている。
この東山本町陵墓参考地の向かいに酒屋さんがあり、そこで「栄勲」という地酒を買った。試飲ができて、ご主人が非常に気さくな方であったので思わず一本買いました。(楽しみです。)
最後は駅前の大黒ラーメンを食べる。懐かしい京都のラーメン。まだまだ、こういうラーメンが残っているのだなあ。
清々しい気分のまま、京阪電車に乗って家路についた。
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