今回は、京都は伏見にある天皇陵をいくつか探訪してみようという事で、まずは、JR桃山駅の近くにある光明天皇・崇光天皇の大光明寺陵に行ってみることにした。
JR奈良線桃山駅、ここから光明・崇光天皇陵までは、歩いて10分ほどである。
駅舎を出て、南へ歩き、どん突きを東へ、住宅街の中、線路沿いを歩いていくと、進行方向の右手に、陵墓への参道があった。
緩やかな石段を少し登った後、平らな道を歩いていくと拝所が見える。
制札を見ると光明天皇大光明寺陵、崇光天皇大光明寺陵ともう一方、後伏見天皇玄孫治仁王墓とある。調べてみると、崇光天皇の孫で、伏見宮の二代目の当主にあたる人のようだ。ということは、現在の天皇家の直接のご先祖にあたる。
制札に崇光天皇の孫と書いた方がわかりやすい気もするが、崇光天皇は北朝の天皇であり、正式な皇統譜には名前がないため、後伏見天皇の玄孫という表記になっているのであろう。
光明天皇、崇光天皇という天皇についても、あまりなじみのない天皇で、歴代天皇には名前がないので、あれっと思う方もおられると思うが、いわゆる南北朝時代の北朝の第2代と第3代の天皇にあたる。
光明天皇、崇光天皇について、少し述べると。共に南北朝時代の人物である。
まず、光明天皇についてである。父は、後伏見天皇で、兄の光厳天皇が北朝の第1代目とされている。1336年、足利尊氏に擁立され践祚。同じ時期に後醍醐天皇が吉野に移ったため、南北朝の王朝の対立が始まる。
その後1348年に光厳天皇の第1皇子である崇光天皇に譲位する。1351年正平の一統に伴い、落髪し、翌年には、南朝方に光厳上皇、崇光天皇、皇太子直仁親王とともに捉えられ、大和賀名生や河内金剛寺などに幽閉される。後に解放され、その後は各地を仏道修行として遍歴し、1380年大和長谷寺にて崩御。
この地にあった大光明寺で火葬され、埋葬されたという。
また、崇光天皇は、父は光厳天皇。1348年、光明天皇の譲位により即位するも、1351年正平の一統により、南朝の後村上天皇により廃され、翌年には、光厳、光明、崇光、直仁親王とともに捕らえられ、大和の賀名生や河内の金剛寺などに監禁された。その間、再び足利尊氏と南朝方が対立し、光厳天皇の皇子である後光厳天皇が擁立された。
その後、南朝の力が弱まると解放され、京へ帰京したとされる。1398年に伏見殿で崩御。大光明寺で火葬され、光明天皇同様に同寺に埋葬されたとされる。崇光天皇の子孫は、伏見宮を代々継承し、玄孫である後花園天皇が皇統を継ぎ、現在に至っている。
ちなみに、陵墓と定められている場所は森となっているだけで、大光明寺の跡を示すものは何もない。
どうも、大光明寺は、その後荒廃し、豊臣秀吉の伏見城築城のため、この地から移転させられたため、陵所もわからなくなってしまったようであり、長慶天皇陵と同様に擬陵というものなんだろう。
この地のすぐそばから秀吉の伏見城(指月城)跡が見つかっている。
そのため、明治22年にこの地を陵として治定している。ちなみに一時は、箕面の勝尾寺で光明天皇が亡くなったという伝承をもとに同地に陵が定められたという事もあったようだ。
陵のある場所は、閑静な住宅街の中にあり、訪れる人もなく、ひっそりとした静かな空間であった。
歴史の荒波に翻弄された天皇たちが眠るには相応しい場所のような気がした。
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