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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

白髪山古墳(清寧天皇陵)

2014-08-10 21:08:28 | 史跡を歩く
 野中ボケ山古墳から、羽曳野市立図書館を挟んで反対側、間に峰塚古墳の南側に、白髪山古墳がある。現在は、宮内庁によって、清寧天皇河内坂門原陵として管理されている。先に書いた野中ボケ山古墳、軽里大塚古墳、峰塚古墳などと一緒に古市古墳群の南支群を構成している。
 清寧天皇については、稲荷山古墳の鉄剣銘で知られる雄略天皇の一子であり、雄略天皇の後に皇位についたとされる人物である。生まれた時から白髪であったため、白髪皇子と呼ばれたと言われる。清寧天皇に子どもがなかったため、前回のブログで書いた弘計(ヲケ)王と億計(おけ)王の物語が記紀に採録されている。

 白髪山古墳については、後円部の近くを外環状線が走っており、周濠のぎりぎりまで住宅や駐車場が迫っている。写真は、南側にある駐車場から墳丘を写したものである。

 

 あんまり、よくわからないですね。

 また、外環状線に接してある葬儀場の駐車場から写したのが、下記の写真。陵墓名を書いた石標が周濠の堤の上に建てられている。比較的この場所から見る方が、後円部だけだが、墳丘の観察はしやすそうだ。

 

 少しこの古墳についてのデータを記載してみよう。
 墳長112m、前方部121m、後円部60m、前方部高11m、後円部9mとなっている。前方部がかなり開いた形になっており、6世紀の中ごろに築造されたのではないかと言われている。後期の前方後円墳の特徴として前方部の発達が著しく、前方部の幅が後円部径の約2倍になっている。
 この古墳では、たぶん僕が中学生ぐらいの時に、護岸工事の事前調査を目的として、考古学者を中心に限定公開が行われた。この種の公開の先駆けとなった古墳である。このことを大々的に新聞が報じていたのを覚えている。

 この古墳の東側に、外環状線を挟んで小白髪山古墳があり、白髪山古墳の陪冢扱いになっている。

 

 全長は46メートル。前方後円墳である。宮内庁の管理のため詳細はわからない。

 

 写真を見てお分かりのように、フェンスが、墳形の沿って囲ってあるので、前方後円形であることが、すぐわかる。

 江戸時代からずっと古墳名である白髪山と呼ばれていたようで、清寧天皇の名である白髪皇子とつながることから清寧天皇陵とされたようである。ただ、築造は6世紀の中ごろと考えられており。野中ボケ山古墳より少し新しいと思われる。

 



 
 

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